
「カルタゴ:消えた商人の帝国(第11回)」服部伸六
Ⅵ フェニコ=カルタゴの世界
1 文芸にあらわれた古代商業
●「フェニキア人は商業を発明した」
●『オデュツセイアー』が語るフェニキア人
●喜劇になったカルタゴ商人
2 戦争嫌いな商人たち
●商人たちは裁き、裁かれる
●商人たちには「帝国」はなじまないのだが……
3 軍事大国へ向けて
●スペイン進出の意味するもの
●ハンニバルの夢
●怨念が噴き出す
●紀元前三世紀の国際情勢
VI フェニコ=カルタゴの世界
1 文芸にあらわれた古代商業
「フェニキア人は商業を発明した」(プリニウス)
今ここに、ひとりのカルタゴ人が、かつてのカルタゴがあったテュニジアのある街に生き返って、石灰で化粧した白一色の家並みの狭い小路にあらわれたとしたら、いったいどういう印象を抱くだろうか。そこに彼が見るものは、おそらくそれほど異様な風物ではないのではなかろうか。
薄茶色の粗い肌をした素焼きのアムフォーラや、銀や青銅の器具が所せましと並べ立てられたスーク(市場) から、ちょっと横道へそれると、そこには民衆の暮らしの匂いが鼻をついて流れている。腕白小僧どもが駆けまわっている舗装してない道には汚い水が流れている。低い塀の内側にはイチジクの太い幹が茂り、通用門にはジャスミンの白い花が強い香気を発散している。
そこは世界のどこにでもあるような、また北アフリカのアラブ社会のどこででも見られるような普通の風景である。フローベルが華麗な言葉を駆使して描いたような、野蛮であると同時に神秘な世界とはかなり趣を異にした、人間の住むところならどこででもお目にかかるような世俗の世界である。
2000年以上もまえのカルタゴの街も、おそらくこういう街であっただろう。商人や職人が日常の仕事に励む庶民の散文的な街であったにちがいない。
いま、仮に、あなたがスークの中の商店のひとつに入りこんで、絨緞の一枚も購[あがな]うとする。そして、今は金の持ち合せがないので後で送るから取りあえず品物を貫えないか、と交渉する。すると、それに答えてくれる店の主人の雄弁を、あなたは聞かねばならない。そして終いには主人の説得に負けて、相手のいいなりになってしまうかもしれない。また、相手の方もあなたの言い分を全面的に受け入れて、金は後払いでいいから品物を持って行けというかもしれない。そういう風に全面的信頼をあなたに見せるふりをしながら、店の主人は、おもむろに名刺を差し出す。その名刺には次のように肩書きが書いてある。
「テュニジア輸出絨緞商組合長」と。
むかしのカルタゴの商人も、人相なり態度なりをみて巧妙に商売する術にたけていたにちがいない。カルタゴ商人の伝統は、意外にも、アラブ人と称するマグレブの人びとの心の底に生き残っているのではないか、という気がする。
旧約のイザヤ書第23章には「ツロについての託宣」という詩が述べられている。ツロとは今日のツィールである。
「ツロはもろもろの国びとの商人であった」とあり、また「その貿易業者は地の尊い人々であった」と、イザヤの予言が語るように、フェニキア人とその後継者のカルタゴ人は、商業の発明者としての評価を得ていた。地中海の岸辺の到るところで、いやその外においても、まだ未開だった西ヨーロッパの河のほとりにおいてさえ、彼らの「ずる賢い商人」という評判は轟いていただろう。だが、それら辺境の人たちでさえ、フェニコ=カルタゴ人の商業サービスがなくては暮らせなくなっていたのだった。
次に、私はホメロスの『オデュッセイアー』にあらわれてくるフェニキア商人の話を語ることにする。
『オデュッセイアー』が語るフェニキア人
ギリシアが生んだ大詩人ホメロスについては今さら説明の要はないが、この詩人が残した叙事詩のなかに登場するフェニキア人の話を聞いてみることにする。
これはカルタゴ商人を直接に語るものではない。というのは、この叙事詩の成立が紀元前700年前後のことであるとすると、豚飼エマイオスが語るシドン人船乗りのエピソードは、それ以前の時代に求められねばならぬからである。だがそれでも、フェニキア人船乗り商人の評判と実情とについての情報が得られるので大いに参考にはなるものである。
『オデュッセイアー』の「第15書」のなかで、豚飼エマイオスが夜長のつれづれにオデュッセウスに向って、その経験談をひとくさり話す。
「折からそこへ、船をもちいて世に知られたポイニーキアの男たちが来た。強欲ないかさま師でな、小間物[こまもの]類を山ほど黒い船で運んで……」(呉茂一訳、岩波文庫)
と、エマイオスは話を切り出す。ポイニーキアというのは、フェニキアのギリシア名だが、この短かい描写で、フェニキア人が航海に巧みであったこと、そして欲張りでズル賢いとの評判をとっていたことが要約されている。
フェニキアのイカサマ商人が港に入ると、その港に豚飼いの父に当る人の家があって、そこにはフェニキア生れの女がいた。その女は「器量よしで背丈も高く、みごとな手先の技も十分心得ている」女である。「手先の技」というのは、たぶん、機[はた]織りとか刺繍のような女性の仕事のことだろう。若い女性が家に閉じ籠って機織りなどの手仕事をする姿は、今でも中東のこのあたりに行けば見ることができる。
この女をフェニキアのペテン師船乗りは誘惑して、うつろに刳[く]った船の陰に連れて行き情を通じる。「うつろに刳った」とあるから極く幼稚な丸木舟であったと想像されるが、ベイルートの博物館にあるブローンズ製の船の模型で大体その姿が想像できる。この船は丸木をくり抜いた部分を底辺にしてその上に板をしっかりと取りつけた構造船であったろうと見当はつくが、実物の大きさについては正確にはわからぬものの、古代日本の遣唐使が乗ったとされる二十人乗りの程度のものであろうか。
同国人、というよりむしろ同じ都市の出身というヨシミから仲良くなった女に船乗り兼商人は身上話を語らせる。女は、もとはシドン (今のレバノンのサイーダ港) の物持ちのアリュバスの娘だったが、海賊にさらわれて、売られてここへ連れてこられたのだという。すると船乗りは、娘の父のアリュバスは知り合いで、今でも元気で暮らしていると話すのである。このことは、当時のシドンの町は狭い市民社会で誰でもが顔見知りだったことを物語るものだろう。
そこで女は国元へ帰りたいから連れて行ってくれと船乗りに頼む。連れては行くが、商品を船倉にいっぱい積むまで待ってくれと言う。ところが、船倉を商品で満たすのに一年もかかったというから、当時の生産性がいかに低く、いかにのんびりしていたかが想像される。
船荷がいっぱいになったところで、その約束があまり当てにならないフェニキアの船乗りだが、それでも約束どおり一年ののち使いを女の家にやって逃亡の手はずを整えさせ、一方その家に自分たちも乗込んで奥さん方に首飾りなどの商品を売りつける振りをして、その隙を狙って女を逃がしてやるのである。
女は逃げるついでの駄賃だといわんばかりに、主人の家の金目[カネメ]のものを盗み出して船に乗りこむ。六日のあいだ船は順風に乗って安全な航海をするが、七日目の日に嵐に襲われる。その雨風のなか女が足をすべらせて船倉に落ちたところ、それを奇貨おくべしと男たちは女を海中に放り出す。むかしの地中海にも嵐が来ると海神の怒りだというので、その怒りを鎮めるため女性を犠牲にするという風習があったのだろう。
女はギリシアの港の主人の家を出るとき、養育をまかされていた主人の息子もいっしょに連れて来ていたが、この少年は女が死ぬと、イタケーの島の近くで売られてしまう。少年とは実は「こんな次第で、この土地を、私は自分の眼に見る仕儀になったものさ」と述懐する豚飼い本人の前身なのである。

ホメロスの『オデュッセイアー』のこの一節は、当時の地中海が海賊まがいの商船が横行していたこと、人身売買が日常茶飯事として行なわれていたことなどを語っている。それからまたフェニキア人のシドンでは金銀細工の工芸が盛んだったことも教えてくれる。ギリシアの物持ちの主婦たちが、船乗りどもの並べ立てる細工物の装身具のまえで気もそぞろに見ほれている姿が眼に浮ぶようだ。
以上が紀元前1000年代の初期の東地中海上の商業についての情報である。ところがそのあと、アッシリアの侵入をうけてレバノンの海岸の小王国がことごとく被害をうける時代になると、海上の覇者はカルタゴ人となる。ギリシアの史家が描くそのころのカルタゴ人商人は、もはやかつての悪賢い商人でも、ときには盗人に早変りする船乗りでもなく、立派な「水軍」となっている。おそらくそのころになると、かつての黒塗りの丸木舟は姿を消して、何段もの櫂をそなえた軍船になったことであろう。あまり帆を使わなかったのは、戦いになったとき小廻りがきいて戦闘に有利だったからだろう。漕ぎ手に回る人的資源にはこと欠くことはなかった。囚人も多く使われていたからである。
喜劇になったカルタゴ商人
ここで時計の針をすすめてみることにする。カルタゴが第二次ポエニ戦役で敗れて国際的な孤立のうちに苦しんでいた時代、ローマの民衆に人気のあったプラウトゥスという喜劇作家の『ポエヌルス』(カルタゴ人) という芝居に出てくるカルタゴ商人のプロフィールを素描してみよう。この作者は後年モリエールなどの手本にされた作家である。
舞台はギリシアの古代都市カリュドンである。親ゆずりの財産家の青年アゴラストクレスは、隣人で娼家の主人であるレノという男の家で養われている美人の姉妹の姉の方に、ぞっこん惚れこんでいる。金持ちの青年の奴隷にミルフィオという智恵者がいるが、この奴隷の入智恵で、隣人を計略にかけ罪に陥れて、姉娘を手に入れようと相談している会話から芝居ははじまる。そこヘカルタゴ人の老人が、これもアフリカ黒人の奴隷をお伴に連れて登場する。その場面を引用してみよう。
ミルフィオ ところで、あの下着だけで出て来た、あの鳥は、あれはいったい何ものかね。マントは浴場でだまし取られたにちげえねえ。
アゴラストクレス あれはてっきリカルタゴ人だぜ。
ミルフィオ 「ググワ」じゃな。あれまあ、あの連れの老いぼれ奴隷ときたら、まさに古道具というところだな。
アゴラストクレス どうしてお前にはそれがわかるんじゃ。
ミルフィオ 荷物を背負って、腰はひん曲っているのが見えないのかね。それに手には指がないとみえるよ。
アゴラストクレス どうしてだい。
ミルフィオ だって、指輪を耳につけてるもの。
こうして、風変りな服装のカルタゴ人が登場すると観客はドッと笑い出したという話が伝わっているということだ。このカルタゴ人の老人は、じつは美人姉妹の父親なのである。娘たちがまだ幼いころ、カルタゴで盗賊に拉致され行方不明となったので、老人は海を渡ってギリシアまで尋ねて来たというのが、この芝居の設定である。カリュドンというこの町は、おそらく、当時の国際都市で、かどわかされた娘たちの市場のようなものがあったのだろう。
老人には、もう一人の尋ね人がいる。七歳のとき同じくさらわれた老人の兄の息子だが、じつは、それが恋をしているこの芝居の主人公アゴラストクレスその人という次第。ギリシアに連れてこられて金満家のアゴラストクレスに養子として買いとられていたのである。
それにしても、何と人身売買の多いことだろう。哲学者のディオゲネスも奴隷だったというし、プラトンも一時奴隷になったことがあるということだ。
芝居では、娘たちについて来ている乳母の黒人の老女が父親ハンノを見覚えていて、この姉妹が、むかしさらわれたハンノの娘であることがわかって、親子の対面とあいなる。そしてさらに、姉娘に恋こがれるアゴラストクレスもハンノの兄の息子であることが判明する。そこで老ハンノは一同を引きつれて、罪に落された娼家の主人を尻目に、めでたくカルタゴヘ引揚げるというハッピーエンドで幕となる。
この芝居の作者プラウトゥスは第二次ポエニ戦役のころローマに住んでいた人で、この芝居は戦役が終ってカルタゴがローマの支配下で青息吐息の時代を背景としている。シチリアのマフィアは現代もアメリカでも活躍しているが、そのころマフィヤまがいのシチリアに住んでいたギリシア人などの悪党どもが、国際舞台で悪事を働いていたことがわかる。とくに力の弱ったカルタゴはこのシチリア人に狙われていたのであろう。ハンノの娘たちも、ギリシア人の金持ちに売られた青年もシチリアのマフィヤが連れ出したことにされている。しかし、この芝居には、そういう悪業を咎めるという調子は一切みられない。悪事が淡々とのべられているところをみると、こういう人さらいなど、日常茶飯事だったことを思わせる。
また、ローマ人のようにマントをまとった堂々たる様子はなく、短かい上着を着ているカルタゴ人の風体は、ローマ人から見るとおかしかったに違いない。たしかに、観客の笑いを誘っただろうし、作者が観客の笑いを誘おうとした意図も汲み取れる。だが、それだからといって、カルタゴ人一般を笑い飛ばして、それでローマ人の自尊心をくすぐろうというのが作者の意図のすべてだとも受けとれない。根っからの軽蔑すべき異人とは考えられていないのである。たしかに、「ググワじゃな」というセリフがあるが、これはカルタゴ人に対する「差別用語」といえるかも知れないものの、果してどれほどの蔑視を含んでいたのであろうか。この芝居を一読した限りでは、差別を含むトゲがあるとも思えないのである。というのは、この老ググワも、芝居の進行のなかでは、高貴な人格をもった人物として尊敬すべき人の親として描かれているからである。罵しられているのは、むしろ、ギリシア人の悪徳の娼家の主人だからである。
それくらい、当時の地中海世界は自由闊達な世界だったのだろう。芝居の最後の幕は、ハンノが現れたその日がちょうどアフロディテの祭日に当っていた日で、市[いち]が立ち着飾った女たちがお祭りから戻ってくる場面になっている。市では美人コンテストが行なわれ、その結果、美人は高値で買いとられて行ったらしいということが、会話のなかから汲みとれる。女性の共有、あるいは社会的所有が残存していた社会であったのだ。それがありのままに舞台で演ぜられているのである。祭が終り、一家の主人が市場で買った美女を引きつれて家に帰ると、家では宴会の仕度が調えられている。酒を飲んだ揚句、興いたれば遊女を呼び入れて各人は寝室へ消えるという風俗が会話から読みとれる。男性優位の古代社会がかなりのリアリズムをもって再現されているのである。
この芝居はもちろんノン・フィクションではない。喜劇作者がつくり上げた芝居であるから、現実そのままとは言い難いであろう。がしかし私たちはこの芝居を読んで、この時代の地中海世界が人種偏見の少ない自由なひろがりであったことを思い知らされるのである。
2、戦争嫌いな商人たち
商人たちは裁き、裁かれる
レバノン人のジャーナリストで歴史書も多数書いているジョゼフ・シャミは、その著『フェニキア』(Josseph Chami 《de la phénicie》Librairie du Liban, 1967) のなかで軍事問題についてこう書いている。
「古代世界でいちばん戦争が嫌いだった人たちと言えば、まずフェニキア人を上げることに反対する人はいないだろう。ところが、それにもかかわらず、最も打ち負かすことの難かしかったのはフェニキア人だった。」
じっさい、それはその通りだった。
バビロン王のナビュカドノゾル2世[ネブカドネザル2世の表記が一般的]は、当時、もっとも富んでいたティールを攻め落すのに13年もかかったし、陥落はさせたものの占領することはついに出来なかった。またその後アレクサンドル大王でさえもティールを攻め落すのに七カ月も要したのである。カルタゴに至っては、敗戦後の五十年の孤立のあとで全滅するまでに、三年間も籠城しながらもちこたえたのだった。
しかるにそのカルタゴさえも、自前の軍隊を持っていなかった。カルタゴ落城のときを除けば、備兵たちは市内に入ることも禁ぜられ、いつも隔離されていた。フローベルの『サランボオ』の初めに出てくるシチリア戦線から引き上げて来た傭兵団も、郊外のメガラに集結させられている。
しかし、こういうコントロールが、破綻しかねない事件がなかったわけではない。それはボミルカル将軍のクーデタ事件であり、のちにカルタゴが全力を挙げて鎮圧しなければならなかった「傭兵の乱」だった。「傭兵の乱」については、すでに書いたので、ここではボミルカルのクーデタ事件について書くことにする。
事件はとくに国際的である。さきに紀元前310年、シチリアの東にあるシラクーサの僣王アガトクレスはカルタゴ軍に追いつめられていたが、封鎖されていたシラクーサの港を脱出してアフリカに逆上陸を試み、虚をついて退勢の挽回を図ろうとした事件を書いておいた。そのとき、エジプトの傭兵隊長 [コンドチェリ]として働いていたアレクサンドル大王の元部下だったマケドニア生れのオフェラスという野心家の軍人がいて、キレナイカに陣どり、北アフリカを手中にしようと、カルタゴを睨んでいた。この男とシラクーサを脱出したアガトクレスが取引きしたのである。
もし、オフェラスが味方をしてカルタゴを落し、シチリア戦線で加勢をしてくれるなら、北アフリカは全部をオフェラスに明け渡そうという取り引きであった。北アフリカ全体にまたがる大帝国という夢に憑かれた傭兵隊長は、故国に戻って傭兵の募集をして、歩兵一万と騎兵6000を集めることができた。この陰謀を知ったカルタゴは急いで大使をアテネに送り、この企ての妨害を試みたが、すでに時遅くオフェラスは行動を起していた。
砂漠の行軍は渇きと蛇に悩まされたが、ようやくアガトクレスの待つテュニスまで辿りつくことが出来たものの、オフェラスを待っていたのはシラクーサの僣王の裏切りであった。雄弁家だったアガトクタレスは大演説をぶって、オフェラスが腹黒い人間であると攻撃し、直ちに打倒すべしと傭兵たちをけしかけた。そこでオフェラスは不意を打たれて生命を落すのだが、オフェラスが徴募して来た傭兵たちは、雇主が打たれても全く関心を示さなかったという。傭兵の忠誠心はあてに出来ないということだろう。
ところが、この敵軍の内紛を利用しようと待ち構えていたのがカルタゴの将軍であり、且つシュフェテス (国家代表) であったボミルカルであった。彼はカルタゴの民主的な体制を嫌っていて、この際、一挙に騒動を鎮圧してカルタゴを彼の独裁下の王国にしようと考えたのである。ある史家によると、彼はアガトクレスとも密約を結んでいたという。だがこれを知ったカルタゴ市民は傭兵たちを追い払い、僣王になろうとしたボミルカルを捕えて広場で磔刑にしてみせしめにしたというのである。十字架の上でボミルカルは、自分のような祖国防衛の戦士を死なせるカルタゴの民主主義を告発する悲痛な演説をぶったということだ。
しかし、この事件の背景には貧富の差が極端に激しかったカルタゴ社会の事情があった。金持ちの「ブルジョアジー」(こういう表現は当時はなかったが……) を憎む傭兵隊暴れものは、貧しい民衆の同情を得ていたに違いない。ボミルカルが臨終[いまわ]の際に叫んだ声は、こういう社会層の割れ目に向けて放たれたのかしれないが、空しく何の効き目もなかった。
その後、ほぼ100年たってから、ハンニバルは社会の不正義に対して改革を試みるが、中途にして逃亡しなければならなくなった。ローマの差し金もさることながら、彼の企図を瓦解させたのは、カルタゴの商人貴族のなかの保守的な勢力だった。ボミルカルの時に機能した民衆の声は、このときは発動しなかった、というよりも嫌気のさしたハンニバルは見切りをつけてさっさと国を捨てたのである。
アリストテレスが褒めたカルタゴの民主制も時代の嵐のまえで混乱し瓦解したといえるのであろうか。商人貴族と無産の民衆とのあいだには、社会崩壊につながる溝ができていたのである。
商人たちには「帝国」はなじまないのだが……
カルタゴのことを「海の帝国」と呼ぶのが慣わしになっている。しかし商売だけに熱心で、国防の方は傭兵でこと足りるとしていた国を、少なくともシチリアの基地を全部失うまでのカルタゴの商人国家を、「帝国」と呼ぶことはためらわれる。強固な軍備とその精鋭を持つのでなければその名には値しないはずだからである。
海軍力は、なるほどその初期からカルタゴの海外発展を保障していただろうし、その海外植民地も当時としてはずば抜けて広かったかもしれない。だが、その領土支配の方法となると帝国主義と呼ぶには心もとないものがあった。
カルタゴはあるとき市に陸つづきのアフリカ大陸に農地をひろげて穀類の生産にはげみ、ギリシアで農業生産が落ちた時期には、ギリシア向けに穀物の輸出を行なったことが記録に残っているという。また、マゴという農業技術の専門家がいて生産も大いに上がったということも知られている。しかし、それとても、カルタゴ周辺のごく限られた地方だったのである。
カルタゴが海外に持っていた植民地は、商業を営むための基地というべきものであったらしい。これを近代に例をとれば英仏が上海にもっていた租界に近かったようである。だが、上海の租界が背後に強大な国力を控えていたのとは異なって、カルタゴ人のそれは個人や家族集団の孤立した植民集団だったようだ。
そういう植民地の一例をジャン・マゼルの報告に従ってみてみよう。
イタリア半島の長靴を北上して、ナポリのすぐ近くにある硫黄の産地として知られたポゾーリ港は、早くからフェニキア人の基地となっていたところである。ポエニ戦役のころも、戦乱とは関係なくフェニキア人が住んでいたらしい。この地がカルタゴの時代にどういうステータスだったか、今となってははっきりしないが、カルタゴ人の同胞たちは勝手気ままな平和な暮らしをしていたらしい。
この地をローマ人はフェニキア人のスタチオ Stacio と呼んでいたらしいが、それは「哨所」という意味で、「仮りの」とか「一時の」ということでこう呼ばれていたらしい。フェニキア人は領土としてではなく、借りたものと考えていたのである。
商人であったフェニキア人には、土地の領有ではなく、その使用権だけが問題であったことがこのことから想像せられる。
もっとも、カルタゴとスペインに建てられたカルタヘーナのような国家の体裁をもつようになった土地は別で、そこには恒久の国土を作るという意図がみられる。しかし、ポゾーリのような租借地では、まったくそのような意図は読みとれないのである。
ポゾーリでフェニキア人に関心があったのは硫黄で、硫黄の採掘権と販売権だけだったのであろう。硫黄はオリエントで珍重されていたということで、当時のローマ人にはそれを商売の材料にする気配はまだなかったのである。
ポゾーリには、そこにあった墓の発掘から、最小限のフェニキア人しか住んでいなかったことが分っている。ローマ人より前の先住民であったエトルスキ人にとっても、またローマの時代になってもフェニキア人の存在は邪魔にはならなかったらしい。しかしそれでも、この植民地にいたフェニキア人は母国のティールと密接な関係を断つことはなかった。
この商人の一団はとにかく優雅な暮らしぶりであったらしい。ポゾーリの眼前にあるカプリの島に、今でも「スカラ・ポエニキア」(フェニキア人の石段) と呼ばれる坂道があって、海からこの石段を登って行くと丘の上の高級住宅街に行きつくという。ポゾーリのフェニキア出張所の社員の夏の別荘でもあったのだろうか。
一方、すぐ北にあるナポリの博物館へ行くと、ポゾーリから出土したというギリシア文字の石碑があるという。その碑文によると、ポゾーリのフェニキア人に対してローマが納税を強要した経緯がのべられている。そこでこのローマの要求を入れざるを得ないので、母国であるティール市に、それまで払っていた税を免除してくれるようにとの嘆願書を送ったのである。これに対してティールは、議会でこれを慎重審議した結果、許可することを決議したが、同時に、ポゾーリに建てられたフェニキアの神殿に対する補助金は出さないことにしたとの決議を通知して来たことが石碑に刻まれている。そしてポゾーリ植民地人の愛国心 (この場合は祖先の神に対する崇敬である) については感謝すると記されているということである。
つまリポゾーリ植民地は故国から離脱したのである。
税金の件は、今日でいうところの二重課税の問題で、ポゾーリの駐在員事務所でもこの問題が生じたことを示すものであろう。
カルタゴが帝国といわれたときにあっても、同胞の身の上にこのような事情が発生していたのである。その年代はアレクサンドル大王にティールが敗北した前332年から後のことなのである。この事例はそのままカルタゴ植民地にあてはめることはできないかもしれないが、カルタゴの場合も似通ったものであったろうと想像せられる。
ローマにとっては、制海権をもつカルタゴの商人貴族の政権は敵視するに値するが、足元にある小さな商業グループは、敵国人の同胞であっても問題にならなかったということなのであろうか。もし、そうであるとすれば、この時代の国家観に光を投げかけることになろう。もっとも、ローマにとっては、たとえ敵国人の同胞であっても、税を納めて叛意さえなければ抹殺するまでもない瑣末な事だったということだろうか。
「帝国」という呼称から私たちが受ける印象は、このようにいくらか修正する要があるのかもしれない。このことは近代の帝国主義一般から古代政治を類推してはならないということだろうか。特にフェニコ=カルタゴ人については言えるのかもしれない。
だが、次に述べるハンニバルの大構想については、この論理は通用しないようにみえる。そのときカルタゴの存在は変質していたのだ。
3、軍事大国へ向けて
スベイン進出の意味するもの
ハンニバルの父のハミルカルにはじまるスペイン進出は、まず、本国に欠けている資源の開発を通じて、ローマヘの賠償金の支払いの力をつけることであった。じじつそのとおりをハミルカルは実行した。銀山の開発によって銀の地金をカルタゴヘ送りこんだ。カルタゴではそれを銀貨に鋳造してローマヘの支払いに当てた。地金を本国へ輸送するばかりでなく、スペインにおいても工場を建設して、2000人もの労働者を使っていたことは、まえに書いたとおりである。
銀ばかりでなく、金も銅も、それから後になると鉄鉱さえも開発され輸出もされたらしい。

デメテール神の顔とヤシの木に馬を配した、美しい金貨と青銅貨は、カルタゴのビュルサに建てられた造幣所で造られてカルタゴ貨幣として出廻っていた。だが、これらの貨幣の鋳造は前四世紀の末から前三世紀のはじめまで中止されている。再び、銀貨が出現するのは、そのあとの前二世紀になってからである。この考古学的事実は、スペインに進出したハミルカル・バルカの経済活動を語るものだろう、とピカールが書いている。じじつ、アンダルシアの銀鉱山は、かつてフェニキア人が開発しティールの富の源泉だったものだが、長い間打ち捨てられていたのである。
ハミルカルがアンダルシアのベエチカ地方を攻撃したのは前237年から後の10年間にかけてであった。その間そこにあった有力なシェラ・モネラ銀山を手に入れたが、ポリュビオスの書いているところによると、その銀山では一日当り100キロの銀鉱が採取されたという。また、ベエベロという名のもうひとつの銀山では年間36トンの銀が採れたということである。こういう量の銀を、ビュルサの鋳造所と、カルタヘーナに設けられた鋳造所で馬力をかければ、ローマヘ支払う賠償金の支払いは容易に達成できただろう、というのが、最近行なわれた考古学調査に参加した学者の意見である。
それからまた、イベリア半島の北端、ピレネー山脈の支脈をなすカンタブリア山地で、原住民のケルト=イベリア人を支配すれば莫大な量を産出する銀山が手に入るはずであった。ハミルカルの時代はそこまで手が伸びなかったが、娘婿のハズドリュバルの時代になって実現し、ハンニバルに受け継がれた。もしハンニバルがローマの挑戦に立ち上がるのをもう少し遅らせていれば、もっと広くて豊かな経済基盤をもつことができ、壮大な世界戦略が展開されていたことだろう。
では、ハンニバルの世界戦略とは、どういうものだったのだろうか。
ハンニバルの夢
ハンニバルが企図していたのは、かつて祖先のフェニキア人が利用していた陸上の錫の道の回復であったと思われる節[ふし]がある。フランスのブルターニュから出発して南仏の地中海へ抜ける錫の道は、フェニキア人の時代からすでに開発されていたが、祖国の衰微とともに空白がつづいていた。ハンニバルはその回復を目指していたのではなかろうか。彼がガリア人 (ゴール人) と外交を通して友好関係を保った目的の一つがそこにあったのではないか。もちろん、ローマ攻撃のための傭兵徴集と食糧の確保もその目的ではあったが、南フランスの経済的交通路としての重要性も十分認識していたことだろう。ハンニバルはこの交通路の安全確保のために、マルセイュに古くから基地を置いていたギリシア人を追放することを意図していたのであろうか。この動きを見て、ことの重大さに気づいたローマ人は急いでカルタゴ人の勢力をエブロ河の南までに限定しようとした。
そこでハンニバルはローマ討伐の軍を起こすことを決意すると、エブロ河を渡り南フランスに進出した。
1915年から南仏のリュスシノで発掘されていた古代遺跡から最近35個のアムフォーラが出て来た。まぎれもなくカルタゴ型式のもので、ブドウ酒容器として用いられていたものであると報告されている。
「この報告書は、ハンニバルがその遠征に当って、彼の祖国の貿易を睨んでいたことを示すものだ。『リュスシノ』という発音には偶然かも知れぬがフェニキア語の音声が感じられる。それにその傍にあるアンセリュヌにもフェニキア語らしい音があり、そこにあるアクロポリスからは南仏の運河が見渡せるが、そこにはオード河の河口があって、川上でガロンヌ河と運河でつながっているのである。このルートは昔からカステリイド (イングランドの南の錫の島) の錫を直接、地中海へ輸送するのに使われていたのだ。クラウストル氏 (これがこの発掘を行なった人の名) の発見は、われわれの見るところ、ローマ攻撃の途次ハンニバルが彼の祖国へ向けて、西方の資源の運搬を支配して、地中海世界支配を容易にするために腐心していたことを証明するものである。
だが、この計画は、ローマの執拗な抵抗によってついに実現に到らなかった。」(シャルル・ピカール『ハンニバル時代のカルタゴの日常生活』
もし、という仮定がゆるされるなら、もしザマの敗戦後に生じたローマに対する負債一万タレントの支払いを、この南仏ルートからの資源によってまかなうことができたとしたら、前191年以後の支払いにあれほど苦心惨憺する必要はなかっただろう。
そのことは、その時以後鋳造された銀貨には50%の銅が混入されていたこと、金貨には銀が交ぜられてうまく表面がごまかされていたというカルタゴの苦しい台所事情によくあらわれている。また、この間の市民の生活程度の低下は、この時代のものとされるオデオン墓地から出土する副葬品の貧しさ、トペテへの供物の品質の低下などからもうかがえる。

南仏に発見された35個のアムフォーラは、ハンニバルがアルプスヘ向けて進軍したあとに重要な駐屯軍を残しておいたことを物語るもので、このことからハンニバルの壮大な意図が読みとれるのではなかろうか。ローマのイタリア半島も含めた汎地中海世界の建設というのが、それである。マケドニアのアレクサンドル大王を夢見ていたハンニバルにふさわしい夢である。
怨念が噴き出す
南スペインに残されたカルタゴの基地は、30キロごとに置かれたといわれてはいるが、考古学調査によって確かめられている地域はそれほど多くはない。その中でもっとも注目すべきものはカルタヘーナとアルメリアの中間にある地域である。
このあたりは有史以前から住居があったらしく、沖積地帯の崖の上にも人間が住んでいた穴居の跡が残っている。その平野の中ほどに乳房のような突起がある。それは大昔はデルタをなしていたと思われるが、そこにカルタゴ人の墓所が発見されたのである。
このあたりをカルタゴ人の残像を訪ねて歩き廻ったジャン・マゼルは、ある奇妙な話を聞きこんだ。そこに昔カルタゴ人が開発した鉄鉱山があったというのである。すぐ近くの港から船で鉄鉱を運び出したのだという話である。カルタゴ人はこの土地を去らねばならなくなった時、この鉱山が競争相手の手にはいらぬよう埋めた上に呪詛の儀式を取行ない、土地の人びとに、もしこの鉱山に手を触れるようなことがあれば、太陽の神の怒りにふれて焼き殺されるだろう、と言い残して立ち去ったという言い伝えがあったというのである。
そのために何百年ものあいだ誰も手をつけるものはなかったのだが、1925年から30年にかけてファシスト政権の独裁者となろうとしていたプリモ・デ・リベラは、このカルタゴ人の鉱山跡の復活を思い立ち、労働者の募集を開始した。この呪われた鉱山に働くことを嫌がる土地のものも狩り出されて開発に着手したところ、ある日、作業を始めようとした鉱山から突然、大量の蒸気が噴き出した。そしてあたりは熱湯の池となったという。そして何人もの死人が出たのだそうである。
「古代の鉄滓の山の後にあった放棄された機材の向うに、私は錆色をした池、すなわちフェニキアの神の復讐の池を認めた」
と、ジャン・マゼルは書いている。
そのあと、この探険家は昔は湾をなしていたと思われる場所の崖の上に在るモハカール村を訪ねている。そこにはかつて、おそらくカルタゴ人の城砦基地があり、合図の烽火が上げられたと思われる信号塔があったにちがいないと、そこの地形からマゼルは判断しているが、地下からは何の考古学的所見は出ていないということである。
この村はアラブ・ベルベル人が700年にわたって住んでいたところなので、今でもモロッコのベルベル人の住むアトラス山中の家と同じように太い釘で打ちつけた扉があり、それにはノックをするときにたたく太目のノッカーがついていた。細い道に向けて並んだ窓のない家の壁がベルベルの村落そのままに並んでいた。
1492年、カトリック教徒のフェルディナンドとイザベル女王とがアラブ人を追い出しにかかったとき、この村の住民はイザベル女王にスペインに留ることを許可してくれるよう懇願したという。イザベルはフェルディナンドを説得し、モハカール村のアラブ人の願いは聞きとどけられるところとなり、この村はスペインに残る唯一のアラブ文化の残る地となったのだという話である。
そこでは女たちは相変らず旧式な仕事場で毛布や肩掛けを織っていた。娘たちは長いスカートを引きずって顔の半分は布で隠して水汲みに行く。彼女たちが抱えているアムフォーラは昔のカルタゴのものと形が同じであった。さらに、ジャン・マゼルは家の庇[ひさし]の上の石灰で白くした壁面に描かれている魔除けのための絵を見つけて、「この図柄はタニト神のシルシに外ならなかったのである。このアシダルシアの地に、カルタゴは、ローマやアラブや、キリスト教スペインの時代を通じて生き残っていたのだ」と、驚嘆の声を発している。
ハンニバル・バルカの世界戦略構想が実現していたとすれば、西はイベリア半島からフランスの大部分を含み、もちろん北アフリカも、さらにイタリア半島をも包みこむ大帝国が日の目をみたかもしれない。しかしながら、雄図は水泡に帰し、広大な版図は各所に点在する遺蹟となって残るだけのものとなってしまったのである。
紀元前三世紀の国際情勢
「イタリアの海運業者と貿易業者たちは、西地中海の権益を決定的に手中にして、自分たちの特権的な利潤を確保したいと欲していたのである」というフランソフ・デクレ教授の説を、さきに紹介しておいた。ローマがカルタゴを抹殺しようと意図した理由はほかにもあっただろうが、最も有力な理由を「貿易戦争」に求めようという説である。
国際法あってなきが如きそのころの地中海上の実態は必ずしも明らかではないものの、海賊の横行する洋上で物をいうのは海軍力であっただろう。だからカルタゴの海軍は壊滅させられねばならなかった。500隻の軍船が眼前で焼き払われるのを見るため、カルタゴの埠頭に集まったカルタゴ市民の胸のうちはいかばかりだっただろう。その群衆のなかには、おそらく失意のハンニバルの姿もあったに違いない。燃える軍船を見まもっていたことだろう。
そのあと約50年後に、最後の決戦になってから、カルタゴは50隻の軍船を急造する。カルタゴの軍港の北側に残されている狭い水路も急造されて、軍船はそこから海に出て行って、海岸のすぐ近くで死闘を繰りひろげるが、すでにその時は勝利の女神は味方しない。「死闘の六日間」の直前の出来事である。
ところで、ザマの敗戦の直後、ハンニバルが内政改革に志し、悪徳政治家の不正を暴露して蓄財を吐き出させて財政の立直しをはかった段階で、カルタゴは再生の可能性は果してあったのだろうか。甚だしく疑わしいと言わざるを得ない。
というのは、再生が可能であるためには、当時の地中海をめぐる国際情勢がカルタゴにほほ笑みかけていなければならなかった筈だからである。状況は果して有利だったろうか。これも「ノン」である。
ローマは日の出の勢いで上昇していた。シチリアを手中にし、次いでマケドニアに遠征してこれを降した。ギリシア全体もほぼローマの自由になる地帯となっていた。
だが、この勝利の裏にはエジプトの強力な援助があったことを見落してはならない。さきにも見たように、第二次ポエニ戦役のあとでカルタゴが2000タレントの借款をエジプトに申し入れたとき、エジプトはこれを拒否し、むしろローマ海軍の養成のために協力を惜しまなかった。それどころか、エジプトのファラオはカルタゴの脅威であったヌミディア王のマシニッサにも肩入れしていた。カルタゴ消滅の直接の原因となったマシニッサのカルタゴ侵入も、じつはエジプトからそそのかされたものであった。カルタゴは腹背に敵を受けていたことになり、しかもその元凶は最大の富を誇るエジプトのプトレマイオス王朝だったのである。
ローマのカエサルやアントニウスが、エジプトのプトレマイオス朝の女王だったクレオパトラと結ばれたりしたのは、そのようなエジプトの富とオリエントに対する栄光が欲しかったからだったのである。
ピエール・ロッシは一般の正史とはやや異なった見解をもっていて、当時のローマはオリエントの銀行家からの借金潰けになって首が廻らなくなっていたと書いている。カエサル自身もガリア (ゴール) 遠征に出発するまでに700万セステルシウス (古代ローマの貨幣) にものぼっていたという。またアントニウスの負債は1100万セステルシウスだったという。ピエール・ロッシはこの銀行家がエジプトだとは明言していないが、おそらくその多くはエジプトからのものだっただろう。
「こんな金はどこから来たのか。恐らくそれはローマ人の農工業や労働から生じたものではなかっただろう。ローマの貴族の購買資金は外部から来た金[かね]だった。この金で、スペイン、ビチュニア、中国、コーカサス、バビロン、アラビア、スーダン、エジプトなどに古くから商売のネットワークを持つアジアの銀行家や商人が提供した完成品をローマの貴族たちは輸入することができたのである。いわば、ローマ人は彼らの手代[てだい]に過ぎなかったのだ。つまリローマはオリエントによって買い取られていたと言える。ローマは理論的には主権者であったが、実際はそうでなかったのだ。ローマ人社会は財物の消費者社会につくり変えられ、それ以上のものではなかった。なぜなら、こうした輸入品の洪水はもの凄いインフレを引き起し労働者階級を破産させていた。ローマではすでに職人や労働者、小工業家や地方の小商人の生活の場は失われてしまっていた。」
こういう金融システムが張りめぐらされていたから、ハンニバルはカンナエの勝利のあと約10年にわたってカンパニアに滞在しながらローマ占領をためらったのだとピエール・ロッシは説明する。ちょうどそのころ、カルタゴがローマ=エジプト同盟に対抗して、プトレマイオス朝の古くからの宿敵であった、セリューコス王朝のアンチオコスとの盟友関係を持っていたが、このアレクサンドル大王が残した両王朝は、ガザの南のラフィアで会戦した際(前217年)、アンチオコスは敗北を喫した。このことはハンニバルに対するセリューコス朝の援助金の中止を招き、ローマ攻撃戦略のための軍資金の涸渇を招いたので、ハンニバルはやむなくローマヘ最後のとどめを打つことを控えたのだと説明されている。ハンニバルの行動を説明するには、この解説はきわめて説得力があるが、一般の通説とはなっていない。しかし、カルタゴの内政改革を中途で投げ出してアンチオコスのもとに走ったハンニバルの行動の裏には、セリューコス朝対プトレマイオス=口ーマ同盟との対立関係があったことは否定できないだろう。
以上のような国際情勢の文脈を考慮に入れると、カルタゴには再生の目はなかった、と結論せざるを得ないだろう。
[カルタゴ 第11回 終]
