
昼休みには会社の入っているビルの屋上に来るのが習慣になっていた。腹も満たされ、心地いい風に吹かれて気分がよかった。
フェンスの金網越しに遠くを見ている時に、後ろから声をかけられた。同じ課の由香里だった。
「大木君、今度の社員旅行も行かないの?」
「ああ、そうだけど」
「飲み会とかカラオケなら、あんた結構付き合いがいい人なのに、また今度の旅行も敬遠するってわけ」
「うん。子どもの頃から乗り物に弱くてさ。ほら、あの遠くの丘の上に一本の樹が見えるだろ。あそこに僕の家があるんだ。自転車でここまで通える。電車通勤は最初からNGってわけ」
「つまんないな」
そう言い残して由香里は塔屋へ消えた。
もう一度僕は金網越しに遠くを見た。たくさんのビルや屋根がひしめいている向こうの小高い丘の上の、今は本当に小さくしか見えないあの一本の樹の下に僕の家があり、その樹を見ているだけで、どんなに仕事が大変な時でも、トラブルを抱えている時も心が休まった。目を閉じれば優しい木漏れ日が部屋の中へこぼれているのが見えた。風にそよぐ緑の葉の音が耳に残っている。
いつだって。
乗り物酔いをするというのは嘘だった。ただ、家から遠く離れるのが嫌だったのだ。
今の会社で働き始めてからしばらくの間は、自転車で会社に向かってペダルを漕いでいると、家から離れれば離れるほど、心にわずかな不安が溜まって行くのを感じた。何日かでそれには慣れたけれど、仕事のために、家から会社よりも遠くへ行くことがあると、やはり新しい不安が首をもたげるのだ。遠くへの旅行なんて考えられなかった。まして海外旅行なんて。
その反対に、仕事を終わり家に向かっているときはリラックスする。家に吸い込まれていくかのようにペダルを漕ぐ足も軽快だった。
自転車をガレージの隅っこに停めて家を見上げた。古い木造の家の後ろには、屋根に覆いかぶさるようにして一本の大きな樹が伸びている。そう、まるで家が大きな樹に抱かれているようにさえ見える。
軋(きし)むドアを開けて中へ入ると、家の中は爽やかな香りに満たされている。まるで森の中にいるように、フィトンチッドに包まれる。
「お帰りなさい」と、台所で夕食の支度をしている祖母が声をかけてくれる。
二階の自分の部屋に落ち着いて、窓から外を見た。両親と祖父がそれぞれに樹の世話をしているのが見えた。
母は樹の根元にスコップで肥料を入れている。樹に梯子をかけて、この間の台風で折れた枝のあとが、腐らないように癒合材というのを塗っているのは父親だった。
今の我が家は五人家族だけれど、昔はかなりの大家族だったと聞いていた。親子四代が同居して、母方の両親と父方の両親も一緒に暮らし、ひ孫まで入れると十五人ということもあったとは祖父の話だ。それが今は五人だけだ。
十五人もの大家族が暮らしていた家は普通の住宅と比べるとかなり大きく、古くても部屋数だけはたくさんあった。
我が家には一般的な家と大きく変わっている所が一つあった。以前は家の裏庭に生えていたはずの樹が、家の中まで入り込んでいることだ。庭に生えていた樹が、いくら太くなったとしても家の中にまで干渉するわけがないとは思うけれど、現実はそうなのだ。
一階の一番奥の部屋はいつも薄暗かった。窓は樹で覆われ、照明器具もなかった。障子を開けると太くなるままに畳を持ち上げてしまっている樹の幹が、部屋の半分を占拠している。太さが五メートル以上はありそうな幹の一部には、ぽっかりと大きな洞(うろ)が口を開けていて、その中は真っ暗だった。大人でもその中に入れそうなほどの大きさがある。更に上に伸びている幹は部屋の天井を突き抜け、二階の部屋まで入り込んでいる。天井の照明器具がないのはそのせいだった。
二階の部屋の中では枝が伸び放題で、部屋中に緑の葉を茂らせていて、更にその部屋の天井も突き破り、外から見ると瓦屋根をも突き抜けているのがよく見えた。
屋根には大きな穴が空いているはずなのだが、大雨が降っても雨漏りはせず、台風だろうと風が家に吹き込むこともなかった。
樹と家が一つになっている。そんな感じなのだ。
そして家族の誰もが樹のそばにいることで日々安らぎ、樹に守られているのを感じるのだ。
自分の部屋の窓から、樹の緑の葉が風に揺れるのを見ながらふと思い出した。由香里が、僕が社員旅行に行かないのを確認して言った一言を。
「つまんないな」
その後に「大木君が行かないと」とでも続くのだったかも知れない。
その二年後に由香里と僕は結婚をしていた。
なぜか最初からそれが決まっていたかのようにごく自然に一緒になった。そして、やはり彼女にもこの家で暮らすうちに、ここにいることがひどく安心で、なるべく家を離れたくない気持ちが根付いて行ったのだ。結婚して一年目で由香里は会社を辞めた。やめる直前に恒例の社員旅行があったのだが、それは体調不良を理由に自分から断った。今では、より家に近いスーパーで、パートとして働いている。
我が家と一体化している樹は見るからに老木だが、家の屋根より倍以上に高く伸び広く枝を張り出し、年中緑の葉を密集させていた。春には新緑の新しい葉をつけ、古い葉を大量に落とした。しかし年々葉をつけていない枝や、つけたまま枯れてしまう枝が増え、風が強い日は家の中の根元の部分さえ少し揺らいでいることもあった。目に見えて弱っているのが分かったので、祖父母と両親は毎日のように世話をした。父は植木の専門書を買い込んで熱心に読んだ。そして、高価な肥料を買い込み、枯れた枝を落とし、切った痕に防腐処理をした。
更に月日は流れ、僕たち夫婦には五人の子供が出来ていた。
その間に祖父母が亡くなり、父は体調を崩して一日中寝ていることが多くなっていた。今では樹の世話をするのは僕と母親の大きな仕事だった。子どもの頃から両親たちのすることを、いつも僕は部屋の窓から見ていたので、手順はよくわかっていて戸惑うことはなかった。
ある休日のこと。樹の手入れを終えた僕と由香里は、自分たちの仕事っぷりを確認していた。頭上を覆い尽す、更に大きくなった我が家の樹を見上げていた。
「とても元気そうね、この樹」
「そうだなあ。一時は枯れて倒れちゃうんじゃないかと思ったこともあったけど。何とか持ち直したって感じだな」
「ただいま~」
表の方で子供の声が聞こえた。まだ小学生の、下の子供三人が一緒に帰って来たようだ。五年生の次女が、ランドセルを背負ったままそばにやって来た。
「先生にお手紙渡してきたよ。『林間学校いけないのか?』って残念そうだった」
子供たちがそれぞれ自分の部屋に入ってしまい、由香里も夕食の支度のために台所に戻った。その時、家の前に一人のスーツ姿の男が立っていて、家を、その上に茂る樹を見あげているのが目に入った。
「なんでしょうか?」
僕が声をかけると彼は振り返り、その首にかけられている身分証が見えた。市役所の職員らしかった。
「大木さんですよね」
「そうですが」
「おかしいな。お宅に用事があったはずなのに、ちょっと失念してしまいまして。また出直します」
首をかしげながら車に乗り、帰って行く男を見送った。
日が傾き、そろそろ上の二人の子供も帰ってくる時間だった。丘の上に建っているこの家からは、長男の通う高校も、長女の通う大学も、おびただしい建物の屋根の向こうに、小さいけれどなんとか見ることが出来た。
その二年後には父が亡くなり、更にその五年後には母もこの世を去った。兄弟の上の二人は市内の会社で働いていて、どちらも家から通っている。一番末の男の子も中学生になっていた。
五人の兄弟たちは、修学旅行や社員旅行には一度も行ったことがなかった。今までに、彼らの担任の教師が家庭訪問でもないのに家にやって来ることがよくあった。明らかに、なぜ修学旅行や林間学校に行かせないのかと話をしに来たのだろうけれど、家に入って世間話をしているうちに最初の目的を忘れてしまうようだった。
ただ雑談を交わし、お茶を飲んで彼らは帰って行った。
僕はずっと同じ職場で働いていた。年齢と共に足腰が弱くなり、自転車通勤もそろそろ無理になってきたかなと思い始めていた頃に、交通事故に遭ってしまった。
仕事からの帰り道のことだ。
歩道の工事を避けるために車道に降りた瞬間、バランスを崩して自転車ごと倒れてしまったのだ。
後ろからやって来ていた車の急ブレーキの音を聞き、体が押しつぶされる感覚があり、目の前が一瞬真っ赤になりすぐに暗闇に落ちて行った。
それからどれぐらいの時間が過ぎたのか、朦朧としていたけれど人の話し声を理解している自分がいた。由香里の声もその中にあったようだ。
「応急処置はしましたが、このままでは……」
「ドクターヘリで、大学病院へ……」
「よろしくお願いします……」
また眠りに落ち、今度目覚めた時にはどうやらそのドクターヘリの中のようだった。大きなエンジン音が聞こえ、時々寝かされているベッドがゆっくりと上下する感覚があった。
ヘリが飛び続けるうちに、僕はじわじわと不安を感じ始めていた。それは自分の身体の状態ではなく、自分の家から遠ざかっていることへの不安だったのだ。
いったい自分はどれだけ家から、あの樹から離れた場所に連れて行かれるのだろうか。離れれば離れるほど不安は増して行き、恐怖さえ感じ始めた。あの樹と僕が引き離されるのは、まるで体を引き裂かれると言った方がいい様などうしようもない恐怖だった。
その恐怖に耐えられず、僕はまた意識を失っていた。
僕はやけに白い病室にいる。
目を覚まし、どうやら命は助かったらしいと思ってから何日たったのか定かではなかった。看護師さんにしゃべりかけられても声を出すことが出来ず、僅かに顔を動かしてイエスかノーを伝えることが出来るだけだったのだ。手も不自由で筆談さえ出来なかった。
そんな状態で僕は毎日のように家のことを、あの樹のことを考えていた。今ではあの家が特に懐かしくもなく、樹のそばに帰りたいと思う気持ちもなかった。なぜ自分が、あの樹に縛り付けられていたのだろうかと疑問に思っていた。あの家にいることで大きな安心感を持ち、あの樹のそばにいることで大きな喜びを感じていたその異常さに気がついていた。
一か月過ぎ、二か月が過ぎても、由香里も家族の誰も見舞いにはやって来なかった。病院とのやり取りは電話で済ませているらしい。たまに病院の電話の受話器を耳にあてがってもらい、由香里や家族の声を聴くことは出来た。
「どうして家族の皆さんはお見舞いにいらっしゃらないのでしょうね」
担当の女性看護師は気の毒そうな表情を浮かべるけれど、その理由はあまりにもよくわかっていた。
長い長いドライブのあと、病院の車で我が家に帰って来た。
身体は何とか杖を突いて歩けるぐらいまでに回復していた。話すことにも不自由はなくなっていた。樹は相変わらず古い木造の家の瓦屋根を覆い尽すほどに葉を茂らせていた。
帰って来たことに、特に何の感慨もわかなかった。今はまだ。
また以前の様に、この家のそばに、この樹のそばにいることに幸せを感じるにはもう少し時間が必要なのだろうか。いや、もうそれは家に入った時から始まっている感覚がわずかにあった。
由香里が玄関まで出迎え、優しく微笑んだ。
「お帰りなさい」
子供たちはまだ勤めや学校から帰っていなかった。
階段を見上げ、二階の自分の部屋に上がれるのだろうかと不安になった。僕は不自由な足でそのまま廊下を歩き、一番奥の部屋にやって来た。部屋の半分以上を樹に占領されているあの和室だ。
障子を開けるとその幹は以前より一回り大きくなっていて、相変わらず虚ろな洞が口を開けていた。樹のそばにいることの喜びが急激に戻って来るのがわかった。
今のうちならこの樹の呪縛から逃れることが出来るかもしれないと焦る気持ちと、逃れたとしても行くところがない不安と、ここに留まりたいという誘惑。そんな気持ちが、ないまぜになって頭の中で揺れていた。しかし、もう居場所はここにしかないのが分かっていた。由香里や子供たちを見捨て、離れて暮らすことはとてもできないのが分かっていた。
病院にいる時に、何度かこの家にやって来た市役所の職員のことを思い出していた。彼は、一度も死亡届の出ていない我が家を不審に思い、調査にやって来たのだろう。しかしここまでやって来ても、家の前に立つとそのことを忘れてしまい、帰って行き、調査は放置されたのだ。昔からそれが繰り返されていたのだろう。家にいる時は思い至らなかった。病院で、樹から離れていることで、樹のそばで暮らして来た我々家族の異常さや、様々な疑問を考えることが出来たのだ。
樹の洞を覗き込んだ。その中に入りたいという誘惑があった。いや、まだそれは今ではない。
今まで何人の家族が、先代の人々が、この中に入り、樹の活力になったのだろうか。
次は僕なのが分かっていた。
了
