
「お茶が入ったよ」
彼女のひと言で、我に返った。
どのくらいPCに向かっていたのだろうか。長い間タイピングをしていたので、肩は重く、気怠かった。伸びをして、文章ファイルの保存ボタンをクリックする。
彼女の好きなお茶の時間だ。テラスでは、テーブルにやわらかな光が差して、薄緑のクロスは爽やかな風に吹かれ、揺れている。ティーカップを挟んで、彼女の向かいに座ると、自然と視線が絡み合あった。彼女は今日も楽しそうに笑っている。ほほ笑む彼女を見つめるたび、私は確信するのだ。
彼女は誰よりも私を愛している。
見捨てない。見放すことなどしない。それが彼女の愛だ。愛は揺るぎなく、変わることなく、確かなものだ。疑う余地などない。
私もまた彼女を愛している。与えられる愛に誠意を持って応えることは当たり前だ。
テーブルに置かれた彼女の手の甲に、優しく触れてみる。そしてふたたび私たちは見つめ合った。
文章を書くことで少しだけお金をもらっていた。あれを書こう、これを書こうと思い悩むことは楽しかった。けれど、書くこととは……なんて思い悩んだことはなかった。書くことそのものの意味や意義を考えることに、興味はなかった。
文章を書くことは気持ちのいいことだった。私の書いた文章は、意外にも価値があるものとして読まれた。楽しくて、気持ちがいいことで、お金をもらえることを知って、たくさん書いた。
けれど、いつの間にか書けなくなっていた。PCのモニタに映る文字列はもはや文章ではなかった。映るのは白を背景とした黒い点だった。気のせいだろうと思ってキーボードを叩いた。
今まで出来ていたのだから、文章が書けないことはない。ただのスランプなんだと思った。焦ることはない。また楽しく文章を書けるようになる。けれど、そんな日は戻って来なかった。結局、文字すら打てなくなった。
そんな中で恋人がいなくなった。他の仕事も出来なくなった。他人と抱き合うことも出来なくなった。友人すらいなくなった。大切なものが手からすり抜けていく。失っていくばかりだった。
他人の値踏みなんて、はなから興味はない。問題なのは大事に抱えていたものが、私を楽にするどころか、痛めつけるようになった。自分が大切にしていた全てに、価値を見出せなくなった。どうしようもなくなり、手にしたものを捨てながら逃げるように走った。それしか出来なかった。
最後には泣くことも出来なくなった。今、自分は何が欲しいのか、何をしたいかすら分からなくなった。そんな自分を嘆くこともままならない。確かにあった感情も欲望も遠のいて、私を裏切り、傷つけようとしていた。
だからSに電話をした。Sならどうにかしてくれるだろう、と期待した。Sは有名な人だ。偉い人だけれど、地位などくだらないと思っている。名誉を与えられても、慎ましやかで、穏やかで、いつもほほ笑んでいる。
「今から来るといい」
電話口でSは落ち着いた声で言った。
「苦しい」
彼を前にして唯一出てきた言葉だった。Sの前で喉を掻きむしれば、楽になるかもしれない。けれど、そんなことで解決出来ないことは分かっていた。他に発する言葉がないことが厄介なことだった。
「孤島に行っておいで」
Sは優しく諭してきた。けれど、簡単には頷けなかった。私の気持ちなど関係なく、彼は孤島行きのチケットを手配し始めた。
「行っておいで」
私に向き合ってSは改めて言った。苦しいのに吐き出すことも出来ない。大切なのに壊すことしか出来ない。悲しいのに泣くことすら出来ない。取り繕うことに精一杯で、私は疲れ果てて荒んでいた。
顔を上げてSをじっと見た。彼はほほ笑んでいる。眼鏡を通した目線は温かい。Sは私自身を見ていたのではない。彼は私の背後を見つめていた。
彼の目は饒舌だった。Sは私の背後を、私が巻き込まれている嵐だけを見ていた。嵐の別の名前は混乱だと私は気づいた。自分が長い間、混乱していたことを知った。けれど、何が原因でこんなに混乱しているか、見当もつかなかった。
Sは嵐の、混乱の正体を知っている。その原因を白日の下に晒そうとしている。孤島に行くことが正しいかどうか分からない。しかし、Sの瞳は何よりも説得力があった。
孤島に行こうと決めた。そして嵐の存在を認めた。ようやく失ったものたちのために泣き叫ぶことが出来た。
相変わらず嵐は収まらない。明日から孤島に行く予定だけれど、荷作りは覚束なかった。仕方がないのでSに電話をした。
彼は最低限の着替えでいいよ、と言った。
「何もないから休暇にはちょうどいいよ」
「ネット環境も?」
「あるにはあるけど、皆あんまり使っていないかな」
孤島で休暇を過ごすとは、そういうものかと思った。取りあえず携帯電話と充電器をキャリーケースの中に投げ入れた。着替えやら化粧品やらを最低限身なりを整えるものをトランクの中に詰めた。荷物は案外少なかった。
本が読めないことは知っていた。けれど、もしかしたら読めるかもと思い、トーマス・マンの『魔の山』とドストエフスキーの『死の家の記録』、山田詠美の『熱帯安楽椅子』そして江藤淳の評論を放り込んだ。
本を収めてノートPCに手を伸ばした。そして我に返った。何をしているの? もしかして私はPCを持って行こうとしているの? PCは今の私には何も関係ないのに。
ずっとPCを使って書いてきた。PCは、私をどこまでも遠くへ連れて行く魔法の絨毯だった。今はただの機械部品の塊だ。価値はない。悔しくなって下唇を噛んだ。
書けるとは思っていない。孤島では、PCはただの無駄な荷物になるだろう。それでも何か出来るかもしれない。その時のために、と思いうめき声を上げながら、PCをキャリーケースに詰めた。
全てが終わったと認めるのは、休暇の後でもいい。感情は押しては引く荒波で、足元がすくわれそうになる。怯えることはない。これは混乱なんだと言い聞かせた。けれど、嵐の存在を認めたところで、何かが変わるわけではなかった。
「孤島は過ごしやすいところだよ」
Sの言葉を思い出した。確かに孤島は眺めがいいし、本土は遠い。休暇には持ってこいの場所だと思った。入り組んだ道を迷いながら、待ち合わせ場所に向かった。
NはSが言っていた場所で待っていた。NはSの後輩でお世話になる洋館の管理人でもある。
「遅い」
たった十分遅れただけなのに、Nはこれでもかというほど苛立っていた。彼の鋭い言葉に私は体を固くした。迷ってしまったと言い訳をしたかった。
キャリーケースを引きずる私を無視して、Nはせかせかと歩いた。
「荷物、持ってくれないんですね」
口にした瞬間、後悔した。ただの八つ当たりだ。こんなことを言いたいんじゃない。Nの態度が怖かったと、素直に言えばよかった。嵐の中で言葉を操れなくなった自分が、空恐ろしくなった。
「責めてるの?」
Nは振り返り舌打ちをした。彼の顔を見ることが怖くて、私はうつむいた。
あなたじゃない。混乱を責めているの。そう言いたかったけれど、言葉の代わりに出てきたのは涙だった。Nが再び歩き出す気配を感じて、置いていかれないように後を追った。
洋館の事務室に通されると、Nはここでの規則を平板に、不愛想に説明し始めた。ルールと言っても堅苦しいものではない。心地よく滞在するための決まり事だ。金品の貸し借り、備品の破損、暴力、暴言、セクシュアルハラスメントの禁止。本土のルールと大きな変わりはない。あとは禁酒、禁煙の徹底だろうか。隠れて喫煙や飲酒をしたら、見つかった時点でどんな状況であっても、孤島から追放される。
「起床は六時ね。就寝は十時。だけど、みんなあんま守ってないよ。とりあえずその時間にベッドに入ってくれたら、問題ないから」
「はい」
「これが一日のタイムスケジュール。禁則事項とかに納得したらサインして」
何枚かの契約書にサインをすると、Nは最近何が起こったか、それについてどう思ったかと、個人的な事柄をいくつか質問した。
彼の問いになるべく丁寧に、誠実に答えた。自分の言葉は拙く、覚束ないことは知っている。それでも、かつて大切にしていた言葉の紡ぎ方を思い出して話した。相手に伝わるように、嘘をつかず、言葉の意味をよく考えながら喋った。
「とても大事に言葉を使うんだね。素敵なことだと思う」
Nの思いがけない誉め言葉に一瞬うぬぼれた。けれど、得意になった自分が恥ずかしくなって、すぐNから顔をそらした。
言葉の養分をすすって生きてきた。言葉は何よりも味わい深かった。美味しいと貪ってきた。Nと話してかつての芳醇さを思い出した。けれど、ただの過去だ。今はもう砂の味しかしないし、言葉にも意味がない。出来ることと言えば、文章が書けていた記憶にすがるしかない。
多くの人は大切なものを手放した私に同情し、不憫だと思ってほほ笑んできた。そのたびに自分のみじめさを思い知った。Nもまた曖昧な笑みを浮かべるだろう。
Nは笑ってなどいなかった。彼のまなざしはSとよく似ていた。Nの視線は、私の心の中の嵐にだけ向けられていた。NはSと違ってガラは悪いし紳士でもない。けれど、Nもまた混乱の正体を知っている。SやNには一体何が見えているのだろか。私は何に混乱しているのだろうか。何も分からないままだった。Nは再び淡々と、事務的に孤島や洋館について説明した。
洋館のスタッフが滞在する部屋を案内してくれた。東向きの部屋で、わずかに本土が見えた。空を区切るような電線もなく、鳩が飛んでいた。下校時間間近の学校のように、洋館は静かだ。懐かしい静けさに感じ入っていると、窓に反射して映る自分の顔が目に入った。慌てて視線をそらした。
安らぎを感じてしまっている自分がいた。そんな自分に嫌気が差す。手にしていたものたちは代えがたかった。後悔すると分かっていながら、大した価値はないと屁理屈をつけて捨てた。そんな自分を責めて、呪う以外すべきことがない。
着替えないままでベッドに体を投げた。自分を嘲笑うことは出来た。自嘲は高度な文明人にだけ許される行為のはずだ。私は自分のことが大好きな蛮人だから、自分を軽蔑なんてしないと思っていた。
ため息をついて枕に顔を埋めた。誰かが近くにいてくれればいいのに。まだひとりきりで泣くことは難しい。
『Nに言葉を大事にしていると言われた。けれど、Nに伝えられたのは混乱していることだけ』
久しぶりに日記帳にペンを走らせた。嘘をつかず、読んでもらう相手に敬意を込めて必死で書いた。しかし、結局出てきた言葉はこれだけだ。生乾きの雑巾を絞って出てきた汚水と大差はない。
諦めてペンをテーブルに投げた。無意味に残ったプライドが、悔しさと恥ずかしさを刺激した。苛立って白い紙をぐしゃりと握った。
すると、私の手に女の指がいたわるように触れてきた。彼女は指を解くように優しく触れてくる。
「やめて」
触れられた彼女の手を払いのけた。それでも彼女の手は伸びてくる。彼女の指が視界から消えてほっとしていると、ペンをあっという間に奪われた。彼女は力強くペンを握って、私の手の甲に振り下ろしてきた。
ペンが突き立てられる瞬間、叫んで体を起こした。
見ていたのがただの夢だと一瞬分からなかった。服に汗が張りつく不快さで、自分が孤島に来て、洋館にいることを思い出した。
自分の字が嫌いだから、ペンを使って日記をつけることなんてありえない。そもそも今、自分は文字すら書けない。けれど、そんな思考は的外れな考えだと知っている。誰がペンで私の手を突き刺そうとしたのか。誰がどんな理由で私を傷つけようとしたのか。それが問題だった。
ただの夢だ、と言い聞かせた。混乱のせいでわけの分からない悪夢を見たのだ、と言い聞かせた。それでも震えは止まらなかった。大丈夫、私は大丈夫、と呪文のように繰り返した。
夕食なので食堂に行った。そこで初めて洋館のゲストを見た。客人たちは静かに、上品にスプーンを口に運んでいた。彼らは控えめな笑みを浮かべて、他人に粗相がないように気配りをして、楽しそうに食事をしていた。
洋館は本土とは違うルールで動いていると思った。しかし、違っていた。客人たちはルールを大切にして、尊いものだと思っているようだった。
私も他のゲストと同じように食事を始めた。
スプーンを動かしていると違和感を覚えて、スープ皿から目線を上げた。目の前に女がいて私に向かって、ほほ笑んでいた。
私は彼女のまなざしに戸惑い、慌てて皿と向き合った。けれど、気になってすぐ顔を上げた。彼女はまだ私を見つめている。向けられた目線に込められた好意に戸惑っていると伝えるために、私は曖昧にほほ笑んだ。
彼女のためらいのない優しい視線に懐かしさを覚えて、久しぶりに衝動に駆られた。その出来心は嵐の中で見失ったひとつだ。
気立てのいい、陽気な女たちと遊ぶことが好きだ。ゲイタウンである新宿二丁目に向かう道すがら、綺麗な女をはやし立てることも好きだし、酒を飲みながら、彼女たちと下らない話をすることも好きだ。気取らないバーやクラブを溜まり場にして、彼女たちと好き勝手をしていた。嵐に襲われる前、私は単純なお調子者だった。
楽しい人間になりたい。女を気持ちよくさせて、自分も気持ちよくなりたい。久しぶりに湧き上がったものは、確かに欲望だった。自分の中に、そんな欲が残っていることに驚いた。まだ死んでいない。書けなくても私は生きている。楽しく生きようと思うことは悪いことじゃない。手放してしまったものは愛おしく、代えがたかった。けれど、これ以上嘆く必要はない。また新しく、大切なものを手にすればいい。
もだえ苦しむことなんて他人に任せておけばいい。心でも、体でもいい。彼女に触れてみたい。そう考えると混乱は遠のいていった。
自室で歯を磨いた後談話室に足を向けた。もしかしたら彼女に会えるかもしれない、と淡い期待を抱いていた。
談話室は色々なものが置いてあった。テーブルが並べられ、TVがあり、ピアノが置かれ、CDプレイヤーがあった。壁には林檎と白い花の絵が掛けられている。部屋の中でも異彩を放っていたものがランニングマシンだった。近くには柔軟運動をするためのマットレスも敷かれていた。運動不足を解消するためだろうかと頭をひねった。
客人たちは談話室で思い思いに過ごしていた。ソファに座って雑誌を読んでいる老境の男性がいて、その隣で女性がTVを見ていた。勉強をしているのだろうか、テーブルに座ってペンを動かしている少女がいて、そのはす向かいで白い髪をした女性が本を読んでいた。
本棚が目に入り、習慣で背表紙を見つめた。
友人の本棚を見ることが好きだった。
本を読まなければ生きていけない野蛮人ばかりだった。そんな人間たちと呼吸をするように本の話をしていた。友人の本棚は雄弁だった。友人が何を考え、知りたいと思っているのか。本棚はいつも優しく語りかけてきた。
今はもう友人はいない。本も読めない。今、目の前にある本棚は何も私に教えてくれない。覚えたのは虚しさだった。本棚は壁のように私の前に立ちはだかっていた。
本棚から目を背けるように部屋を見ると、いつの間にか食堂で会った彼女がいた。
彼女は私に手を振り、手招きをした。
私は欲望を見透かされているかもと動揺した。けれど、彼女のことが知りたくて近寄った。
「ここなら会えると思った」
彼女の声によこしまな感情は一切なかった。私も会えて嬉しかったけれど、不純な気持ちがあったので声を出さずに頷いた。
「今日からここでお世話になります」
「私はY」
彼女は礼儀正しく、やわらかな声で名前を明かした。
ただの挨拶だった。けれど、Yはすでに私を気持ちよくする方法を知っていた。私はためらうことなく彼女を見つめた。そして彼女も私の不躾(ぶしつけ)なまなざしを受け入れた。
Yと意味のない、短い会話をした。天気や食事の話、鳩の存在と談話室での娯楽について話した。彼女は頷いて、私の言葉に耳を傾けた。
「もう休まないと」
当たり障りのない会話が終わると、Yは談話室を後にした。彼女が出て行った扉を見つめつめて、息をついた。Yと話すことで緊張と興奮をしていたのだと気がついた。
「あのさ」
談話室を出ようとするとNの声が聞こえた。びっくりして振り返ると、談話室の扉の横に彼はしゃがみ込んでいた。
「何ですか?」
Nは赤茶に染まった髪を無造作に、不快そうにかき上げた。
「Yとは親しくならない方がいいよ」
「そんなつもりは……」
ない、と言いたかった。けれど、彼に嘘は通用しない。Sと同じように、Nは私の中にある何かを知っている。
「本質を見誤らないでね」
Nは子どもをあやすように言った。彼が何を言いたいのか分からなかった。私は今、Yを通して人間らしく生きている。とても大事なことだ。
「言いたいことがあるなら、ハッキリ言ってください」
「分からないならいいよ」
私はNをにらみつけた。彼のせいで、鳴りをひそめていた嵐の勢いが増そうとしている。
「じゃ、おやすみ」
怒っている私を軽くいなして、Nはさっさと廊下を歩き始めた。
彼はここの管理人で、私はゲストのひとりに過ぎない。彼がとても賢いことは知っている。私は愚かしい人間に見えるだろう。だから何だって言うんだ。バカだからと言って、軽んじられる理由はひとつもない。見下されるのは真っ平ごめんだ。
日中、洋館ではいつもYと談話室にいた。Yは細い糸で編み物をしていて、私はそんなYの横顔をスケッチしていた。
私に絵心はない。けれど、チェスみたいな専門的な知識が必要なボードゲームは出来ないし、ランニングマシンで走る趣味はもともとない。本を読むという選択肢はそもそもなかった。
絵心はなかったけれど、日がな一日、Yを見つめて、描くことは楽しかった。陽の差し方で陰影が変わる。Yは表情が豊かだった。感情表現が豊かというわけではない。口角の上げ方や、眉根の寄せ方、目じりの肉の弛み(ゆるみ)方。些細なところでYは多くを語っていた。そんな一瞬を残したかった。繊細な表情をするYを夢中になって素描した。
デッサンをし始めてすぐYの手のひらの傷に気がついた。
「ああ、これ。昔の傷」
無遠慮に凝視していた自分を恥じた。気にしないで、と慰めるようにYはほほ笑んだ。
「昔はコンサートピアニストだったの」
過去形で、事もなげにYは言った。
傷は誰にでもある。怪我がその人をどれくらい抉った(えぐった)か、私には分からない。ただ想像することだけは出来た。
「そっか」
言えることはそれだけだった。けれど、Yと話した中で一番の慈しみを込めて言った。他に言葉はなかった。
もう弾けなくて残念だと言えばいいのか。大変だったねと同情すればいいのか。陽気に、励ますつもりで、少しでも弾いてみたらと言えばいいのか。そんな言葉たちではYに寄り添えないことは分かっている。無意味な哀れみは傷つけるだけだと知っている。私がすべきことは言葉を発することではなく、彼女のか細い声に耳をそばだてることだ。
悲しいことは生きる上でたくさんある。意味の分からない混乱や、癒しがたい傷を抱えて生きるつらさは知っていた。
だからこそのひと言だった。
「優しいね」
Yは意図をくみ取ってくれた。そしてYの言葉には私への同情が含まれていた。傷ついている私への同情だった。けれど、それは哀れみでも、慰めでもなかった。Yは私を知っているのだ。
そしてYを一番理解している人間も私だけだと思った。私たちは二度と戻ってことない日々を、忘れられず苦しんでいる。
もう丁寧に誠実に、そして素直に文章を書けないだろう。認めることは難しい。
私とYは孤島で出会うべくして出会った。私たちは大切なものを失った悲しみに、支配されないように必死だった。Yは同志だ。Yの心に触れることが出来たと知ると、抱き合う快楽より穏やかな喜びに満ちた。
私はこれから自分を大切にする時間を、たくさん持たなければならない。孤島に来た意味がようやっと分かった気がする。Yに優しく接するように、自分を癒さなくてはならない。難しいことだと知っているからこそ、孤島がある。ゆっくりと休みながら、自分と向き合う時間が必要だった。
そうと知れば話は早かった。
洋館に二週間も滞在し始めればYだけではなく、顔見知りも増えた。なるべく朗らかでユーモアに満ちたゲストと話すようにした。TVに映るお笑い番組に心の底から笑ったり、ステレオから流れる音楽に任せてダンスを踊ったりした。洋館のスタッフからNのゴシップを聞き出しもした。
愛おしいものが自分の中で満ちてくる。Yや洋館での楽しい思い出を抱えて、近いうちに孤島を去るだろう。別れは残念だった。けれど、孤島で休暇をとることは、長い間求めていたものだ。
順調に回復していると実感し始めた時期に、Nに呼び出された。彼は洋館での暮らしを聞いてきた。Yと出会うことも出来たし、生活は順調だった。近いうちにここを去るかもしれないと伝えた。
ひと通り説明をし終えると、Nは床に唾を吐いた。私は彼の行動の意味が分からず、唖然とした。ここでの生活を拙いけれど、慎重に言葉を選んで伝えたつもりだった。彼が非常に怒っていることだけは分かった。けれど、何に腹を立てているか分からず、呆ける(ほうける)しかなかった。
Nはため息をついた。
「本当のことを見つめることが大事なんだ。君にはそれが出来るはずだ」
孤島でのまだ学びが足りないのかもしれない。けれど、何が足りていないか分からない。
「本当のことって何ですか?」
「俺が急ぎすぎなのかもしれない。ゆっくり考えて」
Nが、なるべく穏やかに伝える努力をしていることは分かった。彼の言葉はとても難しい。理解出来ないことから生まれる不安が私を襲った。怯えて戸惑う私を前に、彼は言った。
「大丈夫だよ」
分からないことは怖い。真意が知りたくて彼の目を見た。Nはなぜかほほ笑みを浮べていて、ますます混乱した。Nが何かを知っていることは確かだった。そして、私がそれに気づくことを待っている。何を分かればいいのだろうか。
Nと別れて、談話室に座って窓の外を見ていた。土鳩は今日もふてぶてしく、のんきに空を飛んでいた。いくら考えてもNの「大丈夫だよ」という言葉の意味が分からなかった。
「ここにいたんだ」
Yはレース編みのバスケットを持って目の前にいた。Yを見て話を聞いて欲しいと、お願いした。
「Nと話したんだけれど、意味が分からなくて……」
Yは辛抱強く私の話を聞いてくれた。本当のことが分からない。何を考えればいいのか。
「どういう意味なんだろうね」
Yもまた理解出来ないようで首を傾げた。疑問でいっぱいになっている私を、Yは心配していた。
「気分転換した方がいいよ。答えの出ないことを考えても仕方ないし。そうしたら分かるようになるかもしれない」
もっともな答えに頷いて、スケッチブックを開いた。まだ上手くYの横顔を描けてはいない。それでも器用な反復運動を繰り返し、糸を編み上げていくYを見つめることは楽しかった。そんなYの姿を逃したくない。
私とYは互いのことを詮索しなかった。あれこれと聞き出すことは、節操がなく、浅はかなことだと思っていた。だからこそ彼女の言うことは、些細なことでも聞き漏らさなかった。私は彼女を見つめ、彼女は私を見つめた。
彼女はピアニストであった時期のことを冷静に話していた。書けないことに戸惑って、困り果てていた私とはまったく違った。
舞台に立つ時に響く自分の足音が好きだったことや、演奏が終わった後、集中し過ぎて拍手にすぐに気づかなかったことを語ってくれた。世界中を飛び回りながらコンディションを整え続ける難しさも教えてくれた。
「すごい世界なんだね」
「居続けることが大変な場所だったよ」
Yは楽しそうに笑った。
手の傷について触れることは怖過ぎて出来なかった。その言葉でYを傷つけるかもしれなかったから。穏やかな関係が壊れてしまうことが怖かった。
それでも、ただひとつだけ、勇気を持って聞いた。
「ピアノはもういいの?」
「私はピアノに必要にされていない」
Yは即答した。そして私を見つめた。瞳は澄んでいた。彼女の中ではとっくの昔に決まっていて、当たり前のことのようだった。Yは手元を見て編み物を続けた。私も再び彼女の横顔を見つめた。
今日、誕生日を迎えた。歳を重ねても大きな変化を感じられない年齢になってしまった。いつものように朝食を食べて、談話室に向かった。
途中にNがいた。彼は赤茶の髪をいつものようにガシガシとかき上げている。
「おはようございます」
「おはよ」
管理人に挨拶しないわけにはいかない。Nは眠たげな声で言った。
「今日、私の誕生日なんです」
思い切って話を振った。Nは私に混乱をもたらすけれど、克服することが大事だと思った。きっと本土に戻っても必要なことだろう。
「そ。おめでと」
Nの言葉は、意外にも心がこもっていたので、肩透かしを食らった。私の何を見て彼は苛立っていたのだろうか。さっさとNは去って行き、私はいつものように取り残された。
事前にふれ回っておいたから、談話室のメンバーが誕生日を祝ってくれた。売店で買ったお菓子をくれる人もいた。好意の押しつけじゃない彼らの控えめな愛情に、心が動かされた。
Yもいつものテーブルについて、ソワソワしていた。
「お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
Yは小さなレース編みで出来たものを差しだしてきた。
「コースターなの。手編みなんて重いかもしれないけれど、あげられるものって、これしかなくて……」
彼女は照れたように、顔をうつむけ素っ気なく言った。Yが愛おしい。長らく忘れていた純粋な好意を向けられた気がした。
「大事に使わせてもらうね」
彼女は恐る恐る顔を上げて私を見た。私の答えに満足がいったのか、Yははにかんでいる。
Yに対しての愛おしさが私を満たした。孤島にいる皆と別れが近いと考えると、寂しくなった。Yを含め孤島のゲストたちは純粋で、優しく、温かい。不愉快で、汚らしい空気が漂っている本土に帰ることはいとわしかった。せめて自分が孤島を去る時、あなたが好きだと伝えるために、Yの横顔を描いたスケッチを渡そうと思った。私に出来る最大限で最良の愛し方だった。
翌日は洋館に滞在するようになって一番心地よい目覚めで始まった。早速、食堂に入ってYを探した。けれど彼女はいなかった。変だなと思って洋館の中をあちこち探し回ったけれど、Yはどこにもいない。
仕方がないので、事務室にいるNのところに向かった。
「Yなら孤島を出て行ったよ」
Nの言うことの意味がまったく分からなかった。私たちは昨日、楽しく過ごしていた。出て行く理由がひとつも思い浮かばない。
「昨日の夜、Yがペンを握って君の部屋の前に立っていたのを俺が見つけた。落ち着いて見えたけれど、彼女は自分がひどい状態であることを自覚していた。孤島から出たいと言われたから、朝一番で本土に帰した。Yにとっても本土に戻ることが大事なことだったから、承諾した」
「意味がよく分からないんですけど……」
戸惑う私を前にNはため息をついた。
「Yは君が好きだったんだ。だから君にペンを突き立てたかった。Yは自分の気持ちが君を殺すことを知ってしまった。Yは疑いようもなく、君が大切だったんだ。だから孤島から出て行くしかなかったんだよ」
自分の呼吸音がかすれて響くのが分かった。
「君が気づかなかったはずはない。それはありえない。気づいていないとは絶対に言わせないよ。認めるんだね」
Yは私のために孤島を出て行った。私のせいで孤島を出て行かざるをえなかった。
私はずっと本当のことを認められなかった。気づいていたし、知ってもいたし、分かってもいた。けれど認めることは決してしなかった。目をそらし続けることで忘れようとしていた。忘れたことすら忘れてしまおう。事実そうなった。
しかしYは本当のことを認めた。だから本土に戻ったのだ。
私は自由になりたいと強く願っていたのに、不自由になることを選び続けていた。それが本当のことだった。
そんな私を自由にするためにYは孤島を去った。
目眩(めまい)を起こした。今度こそ耐えきれそうにない。嵐は今まで以上に荒れ狂い、奪うことだけでは飽き足らず、私を壊そうとしていた。
Yのために出来ることはもう何ひとつなかった。自分の愚かさで、大切にしていた人を失ってしまう辛さは耐えがたい。Yがいない。埋めがたい現実だけが目の前に広がっている。
Nは私の無邪気さのせいで、本当のことを見ないせいで、Yを失うだろうことを知っていた。私は欲しいものを間違えていると、自由を履き違えていると彼は伝えたかったのだろう。けれど、私は耳を貸そうしなかった。
私を哀れんでいたのか、Nはため息をついた。今度こそ同情しているのかもしれない。けれど、そんなことはどうでもいい。自分が本当のことを認めないせいで、大切な人を失ったことが悔しかった。
再び泣くことが難しくなった。自分がどこにも行けないと思い知らされた。右も左も分からず、その場に釘付けになってしまっている。かろうじて動いているのは心臓と脳だけで、指先を動かすことすら難しかった。
いつの間にかベッドの近くにNが立っていた。清潔な香りが鼻を刺激したので彼がいることに気がついた。
「ちゃんと食べた方がいい」
当たり前だ。生きるために孤島に来た。でも今は生きたいとも死にたいとも思わない。意思もなく、とりとめもなく死んでいないというだけだ。
「これは君だけの問題じゃない。Yはピアノを大切に出来なかったように、君を大切に出来なかったんだ」
Nの言いたいことは分かっている。けれど私にとっての問題はYへの想いだった。
Yに想われることは単純に心地がよかった。Yのまなざしの中で揺蕩って(たゆたって)いたかった。けれど、私は自分の本当のことを、自由になりたい気持ちを認めなかった。Yを拒否している自分が確実にいたことを、認めなかった。もし認めていたら、もっと違う形で彼女を大切に出来て、失わずに済んだだろう。
「私は今とても自由です」
見栄を忘れて、手で顔を覆いしゃくり上げた。自由の別の名前は孤独だと分かった。誰にも邪魔されず、束縛もされず私は存在している。ずっと自由を求めていた。けれど、自由であることはとても寂しかった。
「食事をとって、きちんと眠ってゆっくり休みなさい。そういう時なんだ」
そう言ってNは部屋を出て行った。彼の声は今までで一番優しかった。
歩き出さなければいけない。進まなくてはいけない。私は自由を思い知らなければならない。
数日間寝込み、自分を哀れむことの意味のなさを知って、食事をとった。生きることは手間がかかる。けれど投げ捨てることも簡単じゃない。
間違っていたとしても、Yは私を大切に扱おうと一所懸命だった。正せなかったのは私が不自由に甘えていたからだ。
Yについて忘れることは、棺に横たわることに似ている。記憶を捨てて忘れれば楽に生きられるだろう。でも、私は手を抜いて生きたいとは思わない。生きるということを骨の髄までしゃぶりたい。
どうしたら彼女のことを忘れないでいられるのだろうか。横顔や優しい目元、器用に動く指先を忘れたくない。ひとつひとつ手繰り寄せるように、噛みしめるように思い出した。彼女の声は今にも嵐の中に吸い込まれそうだった。
出来ることは、Yについて書くことだけだった。多くのことが終わり、私には何も残っていない。それでも忘れないために書く必要があった。自分の思いや、記憶を言葉に明け渡すことでしか、私は自由になれない。今まで書いてきたような、楽しい作業ではないことは百も承知だった。
PCを起動させてキーボードの上に指を乗せた。今までどうタイピングしていたか、思い出せなかった。文字の打ち方を忘れていた。指の動かし方を思い出そうとすると、Yのことを少しずつ忘れていく自分がいた。
まず五十音を打つことから始めた。あいうえお、かきくけこと指を動かす。覚束ない指を見て何度も嗚咽した。文字すら書けないことを、まず認めなくてはいけなかった。悔しかったけれど、それでも五十音字を打った。
三日目から文章を書く練習を始めた。短い文章を書き始めた。「鳩の足はピンク色をしている」。「今日はよく晴れていて、空には雲ひとつない」。少しずつ身の回りのことを書いた。
五日目は言い換えを考えながら文章を打った。「机は木やステンレスで出来ています。主に文章を書く時に使います。英語でデスクと言われます。机と似た言葉にテーブルがあります。テーブルは主に食事の時に使われます」。「困惑とは言葉や状況をどう受けとるか困ることを言います。同じような言葉は当惑や戸惑いがあります」。言葉は嵐のせいで四方八方に散らばっていて、繋ぎ直すことは難しかった。切れた言葉の糸と糸とを結び直した。
文章を書くことはとても難しい。けれど少し書けるようになると安心した。言葉を無駄にせず、偽らず、心を込めて文字を打った。丁寧に誠実に、そして素直に書くことは難しい。けれど、Yを忘れたくない一心でタイプした。
書き始めて三週間後、ようやくYについてまとまった文章が書けた。けれど、よく読んでみると目も当てられなかった。わけの分からない文章だった。助詞はめちゃくちゃで、前後の文章も繋がっていない。他人が読む価値はない。けれど、この文章を読むたび私はYを思い出すだろう。
混乱は遠のき、嵐の中を逃げ惑った私の元に、ひとつだけ戻ってきたものがある。「書くこと」だった。これだけしか戻ってこなかった。これだけは戻ってきてくれた。
「書くこと」は他人を忘れないための、自由になるための、生きるための、私の宝物のひとつだ。
それだけを手にして、本土に戻る支度をした。
インターフォンを鳴らすと、すぐに母が出迎えてくれた。居間から彼女の好きな韓流ドラマの音声が漏れ聞こえた。
「おかえりなさい。髪がずいぶん伸びたね」
たった二ヶ月なのに、母を見ると、本土に戻ってきたと実感が湧いた。
家に戻ってきて、孤島が病院で、洋館は精神科開放病棟であったことを思い出した。
S先生に勧められた入院生活は、Yを失ったということ以外は、心地よかった。入院中の担当医であるN先生は、ぶっきらぼうだけれど誰よりも親身だった。
「お茶を入れるけど、日本茶と紅茶、どっちがいい? 久しぶりの家だからね。夕食で食べたいものはある? お刺身にしようか」
母は饒舌だった。そして精神科開放病棟の入院については触れなかった。
入院中私とYがしていたように、私と母は大切なことを語り合わないために、話し続ける。真実から目をそらすために、私は母を見つめる。
底なしの恐怖に襲われ、体が震えた。
書けなくなる理由は、私と母が見つめあっているからだ。
母は誰よりも私を愛している。けれど、それが愛ではないと私は知ってしまった。
母は私を打ち捨てるような真似はしない。だから自由気ままに生きることも許さない。母は死んでも私の手の甲にペンを突き立て続けるだろう。私の自由を許さないことが、彼女の献身なのだから。
書くことが、自由になることが、生きることが不可能だと思った。それでも書きたい、自由になりたい、生きたい。
テーブルを挟んで母は座っている。母は心配そうに、純粋な瞳で私を見つめていた。泣き顔を見られないように、私は顔を手で覆った。何より大切で、本当のことを訴えることしか出来なかった。
「お母さん、見捨てることを許して」
