
――お前は勝利の女神だ。
それが恋人の口癖だった。女神と呼ぶには背が高く、体格もいいあたしに対して、歯が浮くような台詞を彼は何度も口にした。
じりじりと照りつける太陽の下、あたしは砂浜で青い海を見つめながら彼のことを思い出す。
恋人は外科医だった。仕事が趣味のような人で、好んで他の医師より多めに当直に入っていたし、手術もこなした。『医者にとって、手術の成功は勝利だ』と口癖のように言い、休日も最新の症例の研究や手術の練習に費やしていたものだ。
あたしはオペ室担当の看護師で、彼の手術の場に立ち会うことが多かった。最初は仕事のやりとりだけの関係で、お互い特別な感情はなかったと思う。それが変わったのは、何度目かの難しい手術を経た後のことだ。手術が成功して患者さんが無事に病室に運ばれていった後、自販機の前にいる彼を見かけた。ああ、オペが大好きなあの先生でもオペ後に気が抜けることがあるのだな。そう思って眺めていると、彼はあたしを呼び寄せて缶コーヒーを買ってくれたのだ。
「お疲れさま。難しい手術だったけど、やっぱり勝利の女神がいると違うな」
「勝利の女神……?」
「『ニケ』というのは勝利の女神の名前だろ」
彼は視線であたしの名札に印字された名を示した。
――仁希(にけ)。
名前の由来は知っていたけれど、あたしはこの名前が好きではなかった。勝利の女神というほどに、勝負事に強いわけではないからだ。看護師になったのだって、大学受験で第一志望の学部に落ちて看護学部に行くことになったのがきっかけだった。人の生命を救ったり、生活の質を向上させられたりするこの仕事に誇りを持つようになったのは、看護師として医療の現場で働きだしてからだ。
そんなあたしだけれど、そのとき彼に『勝利の女神』と呼ばれたのは、不思議と嫌ではなかった。幸運があったからこそ成功した――それほど難しい手術だった。だから、あたしはにっこり笑って返した。
「患者さんと先生ががんばったからですよ」
馴れ初めというほど明確なものではないけれど、そのときを境にあたしたちは親しくなって、間もなく交際を始めた。休みの日もほとんど最新の症例の話や手術の話をしていたけれど、あたしたちはそれで満ち足りていた。お互いの家でのわずかなときと、清潔で無菌状態に保たれた手術室での多くのときを、あたしたちはともに過ごした。
わっとビーチで歓声が上がる。
海から少し離れた場所でビーチバレーをしている学生たちだ。少し前から友人同士でチームに分かれて試合をしていたのが、決着が着いたようだった。グループのメンバーは笑いながら言葉を交わしている。少し離れたところでは、親子四人が西瓜割りをしていた。海へと目を向ければ、あちこちに浮き輪をした人が浮かんでいる。泳ぐ者、大きなビニールボートに乗っている者など、海水浴客たちが思い思いに過ごしている様子が見て取れる。
あたしは監視員席に広げられたパラソルの下、静かにビーチを見守っている。燦々(さんさん)と降り注ぐ夏の太陽の下、思い出すのは昨年の夏のできごとだ。あたしが彼を失って、『勝利の女神』でなくなったあのときのこと。
昨年の夏のあの日、お盆を間近に控えて医師である恋人は隣市にある実家へ帰省することになった。もともと、あたしも彼も基本的には実家に寄り付かないタイプなのだが、彼が珍しく律儀にお盆前に帰省しようとしたのは二人の間で結婚の話が出ていたからだった。
プロポーズを受けたとき、最初は冗談かと思ったものだ。あたしは華奢(きゃしゃ)な美人ではないし、家庭的でもない。もちろん、結婚したとしても家庭に入るつもりはなかった。看護師として、もっと経験を積んで多くの人を助けるのがあたしの夢。彼もそのことを知っていたから、結婚したいと思ってくれるとは予想もしていなかった。そんなあたしが好きなのだと彼はきっぱり言った。
「夜勤続きでも長い手術の後でも、まるで勝利の女神みたいに顔を上げて、つらさを見せずに働くお前が格好いいから惚れたんだよ。結婚したから家庭で俺を支えろとは言わない。俺たちは、ずっと医療の現場にいよう」
彼の人生の中心は医療だった。そんな風変わりな彼が好ましくて、あたしは二つ返事でプロポーズを受け入れたものだ。彼はあたしの返事を喜んで、顔合わせの前に両親に話しておくつもりだ、と実家に帰っていった。
あたしはその日、夜勤に入っていた。そうして二十三時、急患が運ばれてくるとの連絡が入ったので、あたしは先輩の指示を受けていつものように迎え入れる準備を整えた。急患と聞けば最初は緊張で手が震えたものだが、何度も手順を繰り返した今、だいぶ手際がよくなっている。
いくら『勝利の女神』と呼ばれたって、難しい手術の成功に立ち会うことが多いからといって、必ずしも人の生命を救えるわけじゃない。患者さんの病気や外傷の状態、さらにはその日のちょっとした偶然によって、手を尽くしても及ばないときはある。だから、せめて準備は完璧に行うのだ。少しでも勝利の――救命の確率を高めるために。
急患が運ばれてきたのは、連絡から二十分後のことだった。隣市との境の峠道での事故ということで、やや時間が掛かったらしい。救急車が玄関に到着して、あたしたちは急患を迎え入れる。ストレッチャーに載せられたその人物を見た瞬間、集まっていた医師や看護師が全員、あっと息を呑んだ。
血まみれで運ばれてきたのは、この病院の医師――あたしの恋人である彼だった。実家には泊まらず日帰りしようとして深夜に車で峠道を走るうちに、交通事故に巻き込まれたらしい。
事故の際にすでにかなり血液を失っていたのだろう。蒼醒めた彼の顔色に、あたしは胃が冷たくなるのを感じる。今こそ『勝利の女神』の幸運を発揮しなくてはならないのに、足がまるで枷(かせ)でも嵌(は)められたかのように重い。
手術室に運び込まれる彼。当直の医師が指示を出す声に叱咤(しった)されて、あたしは必死に処置を手伝う。けれど、息が上手くできない。動けない。まるで深海に沈んでいくかのように身体が重くて、空気をかき分けるようにして懸命に動く。しかし手を尽くした処置も空しく、バイタルサインモニターの波形が直線になった。
彼の生命が停止した証だ。
あたしはあまりの足の重さによろめきそうになる。ふと足元を見れば、無数の手があたしの足を掴(つか)んでいた。どの手も青白く、皮膚は傷んでおり、明らかに死者のそれのよう。その中に、何となく見覚えのある手を見つけた。手の大きさ、指の長さ、爪の形――何より、手首にはあたしが誕生日に贈った腕時計が見て取れる。先ほどこの世を去ったばかりの、あたしの恋人の手だった。今まで救うことのできなかった生命。きっと彼らの無念が手の形でこの目に見えたのだろう。
それから恋人の葬儀を経て、あたしは通常の勤務に戻った。けれど、あたしはもう恋人が言ったような『勝利の女神』ではなくなっていた。どうしてか、あたしが担当のときに運ばれてきた深刻な病気や外傷の急患は、救命できない確率が高くなった。それと同時に、患者が亡くなるときには、足元に無数の死者の手が視えるようになっていた。
恋人はあたしのことを、救命率を上げる『勝利の女神』と言ったけれど、本当に人々の生命を救っていたのは彼の方だった。それなのに、恋人が『勝利の女神』と呼んでくれたから、あたしは勘違いをしてしまったのだ。急患が亡くなるたびに、あるいは病棟の担当の患者が亡くなるたびに、あたしの足を掴む無数の死者の手は、勘違いをしていたあたしの傲慢さを咎(とが)めているのだろう。
あまりに担当した患者が死ぬため、程なくしてあたしは『死神』とあだ名されるようになった。
――あたしが悪いのかな。あたしがいるから、人が死ぬのかな。
非現実的とは思いつつも、そんな妄想に囚われるようになってきて、あたしは恋人の死から半年ほど経った春先に逃げるように病院を辞めた。結婚しても看護師として全力投球すると彼に宣言していたわりに、呆気ない終わりだった。
ライフセーバーになったのは、病院とはまったく違う場所で仕事がしたかったからだ。病院はどうしても恋人や死を思い出させる。それ以外の仕事を、と求人サイトを検索してヒットしたのが今の仕事だった。ライフセーバーになるには資格が必要だ。あたしは学生時代、特別講習でライフセーバーになるための授業を履修して、ついでに資格も取得していた。だから、今回の求人の応募要件を最初から満たしていたことになる。面接でも病院での勤務経験を買われて、とんとん拍子に仕事が決まった。
浜辺で遊ぶ人々を見守るのは、気晴らしになった。暑いし日には焼けてしまったけれど、今は美容に気をつけたところでデートしたい相手もいないから問題ない。もっとも亡くなった彼は、あたしの容姿よりも長時間の手術でもふらつかない丈夫さや、厳しい先輩の指導にも耐えるメンタルの強さを気に入ってくれていた。だから、彼と恋人同士だった時期でも、滅多に着飾ったりはしなかったものだけれど。
明るい浜辺でも、ときどき思考が、死んだ恋人の元へ引き戻されてしまう。そろそろ前を向いて生きたくて、こうして新たな環境に身を置いているのに皮肉なものだ。それほどに、彼の存在があたしにとっては大きかったということ。
――あなたを忘れるのは無理なのかな。
心の中で彼にそう語りかけたときだった。
「溺れてる人がいる! 助けて!」
波打ち際から女性の叫ぶ声が聞こえてくる。あたしは監視員席を降りて、仲間に声を掛けた。警察と消防へ通報を依頼する。そのまま準備してあったレスキューボードを抱えて走り出した。基本的に溺れている人物を泳いで救助することは至難の業だ。安全に救助するためには、浮き輪やボード、救命衣などを用いなければならない。何人か大人の男性たちが溺れる人を救おうと海へ入りかけるのを、「ライフセーバーです! こちらで対処しますから、助けにいかないでください!」と叫んで制止し、あたしはレスキューボードにまたがって海へ入っていった。
溺れていたのは、高校生くらいの少年だった。今はまだ何とか海面付近で浮いたり沈んだりしているが、ばちゃばちゃと不規則に手足を動かして弱々しく叫んでいる。「助けて……誰か……」あたしは少年に近づいていった。
「ライフセイバーです! あたしが来たからにはもう大丈夫」
あたしは少年に持ってきた膨張式の浮き輪を膨らませて手渡した。いったんそれで浮力を維持しておいて、その間にレスキューボードに乗せるつもりだった。ところが、少年はパニックを起こしてしまっているのか、浮き輪を手放してしまう。あたしたちがいる沖合は今、海流が陸から離れる方向に向かっているらしい。あっという間に浮き輪が離れていってしまう。
「大丈夫です! 助けるから、気をしっかり持って!」
あたしはなおも少年に呼びかけるが、錯乱するあまり聞こえていないようだった。ボードの上に引き上げようと手を伸ばして、少年を掴まえようとする。が、あと少しというところで彼は意識を失ったのか、そのまま海へ沈んでいってしまった。身を乗り出すだけでは手が届かず、体勢を崩したあたしはそのまま海に落っこちた。
まずい。
そう思うものの、いったんボードへ戻っていては少年が沖合へ流されていってしまうだろう。あたしは意を決して、そのまま少年を引き上げに潜ることにした。スクリュー付きベルトのスクリューを回転させて、海の底へ沈みかけている少年を追いかける。
――もう少しで手が届く……!
そう思ったとき、強い海流が横合いから襲ってきた。ちょうど満潮から干潮へ切り替わる時間で、海流の動きが変わりつつあるらしい。少年の身体は風に煽られる木の葉のように、ひらひらと離れていく。
――そろそろ、あたしも息が保たない。
海面に浮上しなければ、あたしまで溺れてしまうだろう。だが、今、浮上したらきっと少年を見失う。救助ができなくなってしまう。だから、あと少しだけ。いけないこととは知りつつも、あたしは少年を掴まえようとベルトのスクリューの回転速度を上げた。そのまま海へ潜りながら懸命に手を伸ばす。何とかぐったりした少年の腕を掴むことができた。
ほっとしたものの、それがあたしの限界だった。
ゴホッ……。息が続かず、苦しくなってむせてしまう。開いた口からも鼻からも、海水が流れこんできた。いけない。このままじゃ、あたしも溺れてしまう。そう思ったとき、あたしの周りに無数の手が視えた。恋人が死んで以来、病院で何度も目にしてきた死者たちの無数の手だ。
あの手が視えるのは、患者さんが亡くなる前兆だった。死者の手が視えるたびに動揺してしまって、それで周囲にあたしは死の前兆が分かる『死神』と呼ばれるようになった。だとすれば、今、病院でないこの場に死者の手が現われた理由は明らかだ。
――あたしを迎えに来たんだ。
そう悟ってあたしは身体の力を抜いた。
かつて、恋人には救命率を高める『勝利の女神』と呼ばれていた。それが彼の死以来、患者さんの死に遭遇することが多くなって苦しかった。あたしを信じてくれていた彼のために、もう一度、自分が人の生命を救えるのだと確信したかった。だから、病院に居づらくなって辞めた後、ライフセーバーという仕事を選んだのだ。誰かひとりでも海難事故から救助できたら、あたしは『死神』じゃない。もう一度、看護師の仕事に戻ろうと決めていた。
それが、まさかあたしが死に連れ去られる側になるとは。
――それなら、せめて彼が来てくれたらいいのに。
目を閉じてそう思ったときだった。足首に絡みついた手がぐいと少年を抱えたままのあたしを引っ張る。そのままぐいぐい引っ張られて、次の瞬間、あたしは水面に顔を出していた。激しくせき込みながら、辺りを見回す。幸運にもレスキューボードが間近に浮かんでいた。少年を手放さないように掴みながら、あたしはレスキューボードを脇の下に入れる。ふと海中を見れば、相変わらずあたしの足の周囲には無数の手が存在していた。
と、あたしの足を掴んでいた手がすっと離れる。見覚えのある手の大きさ、指の長さ、爪の形をして、あたしの贈り物の腕時計を着けた、死んだ恋人の手だった。彼があたしを海面まで引き上げてくれたのだ。彼は死んでなお、人を――あたしを救ってくれた。あたしが彼の女神だったなら、彼はあたしのヒーローだった。
「ありがとう……」
あたしはそっと呟く。と、恋人の手はあたしの足を離した。別れを告げるように手を振ってから、他の死者の手とともにどこへともなく消えていく。いつまでもぼんやりしているわけにいかず、あたしは少年をレスキューボードに乗せた。確認したところ、意識を失っているもののかすかに呼吸がある。念のため少年を仰向けにして、気道の確保をしてからあたしはレスキューボードを押してビーチへ向かって泳ぎ出した。とめどなく頬を伝う涙を、波が洗い流していく。
ビーチの方から仲間のライフセーバーたちが救命ボートでこちらへ向かっているのが見えた。あたしは大きく手を振って自分たちの居場所を合図する。
あたしを引き上げてくれた死者の手のおかげで、少年の生命を救うことができた。恋人は、きっとあたしにまた病院へ戻れと言っている。また救急の場で人を救えと。波に揺られながら、あたしはそう確信する。もう死者の手は視ない気がした。
了
