
カルタゴ 第7回
IV ローマとの攻防
1 海に投げられた碇
2 シチリアの戦い
3 ポエニ戦役
4 ポエニ戦役(つづき)
●夢よ、もう一度
●ハンニバルの戦い
●イタリアの平原で……
●カンナエの大会戦
[太字→]4、ポエニ戦役(つづき)
夢よ、もう一度
傭兵の乱は、三年四ヵ月もかかって、ようやくおさまった。
この叛乱で見逃がすことのできないことは、それが単に傭兵たちだけの叛乱ではなかったということである。それは、収穫の約半分を税金としてカルタゴに巻き上げられていた北アフリカ土着民 (リビア人とか野蛮[バルバル]人とか呼ばれていた人たち) の不満が傭兵たちの蜂起を力づけていたという事実である。カルタゴは、いとも残虐なやり方でこの民衆がらみの叛乱を圧し潰したのだ。陰惨きわまる、というカルタゴに対する評判だけを残して。
その残虐さに脅えたのは、ローマ人だけでなく、サルディニア島に派遣されて駐屯していたカルタゴ軍の傭兵たちもそうだった。傭兵たちは,土着民の反抗に手こずって応援をローマに乞うためイタリアに逃げこんだ。傭兵というものの哀れな運命をみせつけられてローマに走ったのである。
ローマは早速これに反応した。カルタゴの海上勢力を追っ払おうとしていた矢先に飛びこんで来た獲物とばかり、これに飛びついたというわけだ。もちろん、カルタゴ側もサルディニア駐屯の傭兵叛乱とみて征討の準備をしたが、ローマの元老院は先手を打って派兵を決議した。カルタゴはまたもローマと事を設けるには疲れすぎていたのでサルディニアをあきらめざるを得なくなった。ローマの執政官センプロニウス・グラッカスは、サルディニアを占拠するとともに、ついでにコルシカ島まで足を伸ばした。
ローマの史家ティツス・リヴィウスによると、
「誇り高いハミルカルの魂は、シチリアとサルディニアとの喪失に口惜しくてならなかった。シチリアを余りもあっ気なく手放してしまったのではないか、またサルディニアにしてみても、ローマ人はアフリカでの紛争を利用して不当にも奪い取ったのではないか、と彼は思っていた」『ローマ建国史』(Ab urbe condita libri)
ということになる。だから、サルディニアの喪失を残念に思っている市民の気持を利用して、ハミルカル・バルカは「スペイン攻略に乗り出した。ローマと戦争を続けるのに必要な富を提供してくれるだろうと計算した上のことだった」(ポリュビオス)。
打ちつづいた悲報に気落ちしていたカルタゴ市民は、ハミルカルの計画に賛意をあらわして彼をシュフェテスとして軍の最高司令官に任命した。カルタゴでは直接民主主機が生きていて、非常の際にはシュフェテス (国家元首) を市民会議で決定できたのである。
ローマに対しては、賠償金を稼ぎ出すためだという口実を用意してハミルカルは、北アフリカの陸伝いに軍をすすめた。兵員輸送のための船がなかったからである。ジブラルタルまで行くと、僅かな数の船を借りて海峡を何回も往復させて全軍をスペインに上陸させることができた。行く手は祖先のフェニキア人が開発の実績のあるカディスだった。ハミルカルは、土着豪族を巧みに味方に引き入れつつ、八年ののちにはアンダルシア地方の平定をなしとげることができた。だが、後日、水かさの増した川を渡っていたときに、溺れた部下を救出しようとして水に落ちるという思いがけない事故で、その英雄的な一生を閉じることになった。
彼の雄図は副官で娘婿のハスドリュバルに引き継がれた。外交手腕に長けたハスドリュバルは土着部族に忠誠を誓わせ、都をカルタヘーナ (新カルタゴ) に定めた。
スペインにカルタゴを復活させるというハミルカルの夢は、ハスドリュバルが死んだのちも、そのとき26歳の若者になっていたハンニバル・バルカに引き継がれて壮大な展開を遂げることになる。
ハンニバルの戦い
父のハミルカルの遺志を継いだハンニバルが抱いた構想には、そのときからほぼ100年まえ、オリエントの地にヘレニズムを植えつけたアレクサンドルヘの憧れも含まれていたことは間違いないだろう。カルタヘーナは新帝国の首都になる筈だったのだ。
ハスドリュバルが死んだとき、バルカ家の直系の後継ぎとして当然「新カルタゴ」の首長となることは約束されていたとしても、それだけでは、さまざまの出身地から集まって来た傭兵の信望を集めることには無理であるが、その後の彼の武将としての成功をみると、本人にそれだけの経験と資質がそなわっていたことを想像させる。
指揮官の位を継いでから三年ののちローマとの対決が始まる。第二次ポエニ戦役と呼ばれる長い戦争である。
戦いの発端はハンニバルのサグントゥム占領からだった。サグントゥムという町は、エブロ河のはるか南方にあるので、前226年にローマの元老院とハスドリュバルとの間で締結した領土協定からいえば、協定違反になるはずはないのに、ローマは横車を押したのだ。ローマ人であるティツス・リヴィウスは、当然というべきか、これをカルタゴ側の違反であるとして、次のように書いている。
「前218年、ローマは五人からなる使節団をカルタヘーナに送っている。ローマでは、20年まえと同じように、戦争するぞ、と脅かしさえすればカルタヘーナはふるえ上がって言うことを聞くものとタカをくくっていた。だから、使節団の中で最長老のファビウスはこう言った。『私はここに、平和と戦争との二つを携えて来ている。どちらにするか選んだらよかろう』と。するとカルタゴ人は、『貴殿が選んだらいいだろう』と答えた。ローマの代表は長衣[トーガ]のヒダを大きく振って、戦争をえらぶことを表明した。『承知した』とカルタゴ人は叫んだ。」(前出書)
そこで、その後17年間つづく戦乱の時代が再開されたのだ。ザマの敗戦への序曲である。
使節団が戻ってくるとローマは早速臨戦態勢に入り、二人の執政官を二手に分けて出発させた。ハンニバルの反応も、これに劣らず迅速だった。カルタゴの安全を期するため、彼はすでにガリア地方にまで工作していた。ガリアの民は、かねてからローマに反感を持っていることを察していたから、ローマヘの戦意をかき立てておいたのである。ガリア側も協力を誓うためにカルタヘーナヘ使節を送って来た。そこでハンニバルは弟のハスドリュバルに後事を托して北上することになった。
前217年の5月、ハンニバルはエブロ河を渡った。このエプロ河の線が前226年協定で取り決められた西国の勢力圏の境界である。ポリュビオスの記しているところでは、彼の軍は歩兵5万、騎兵9000、それに象の40頭が加わっていたということである。若武者ハンニバルの胸は夢で膨らんでいたことだろう。

イタリアの平原で……
おそらく、その年の八月ごろにはハンニバルはローヌ河の岸に達していただろうとされている。渡河地点はアヴィニォンの北のあたりだったといわれるが、アルプス越えの通路はハッキリしていない。困難なアルプス越えで多数の兵員と象とを失っているのは、敵に会ったからではなく峻険の地の行軍の困難さによるものであった。が、秋の終りにはイタリアの平原へ降りている。

カンナエの大会戦
前216年6月のこの会戦の動機は穀物の奪い合いだった。カンナエの一帯はローマの穀倉ともいうべき豊かな農村地帯であるが、ローマ軍の食糧としての小麦がストックされていた。それを旅の空にあったハンニバルの軍が奪取しようとしたのである。
8月2日になってローマ軍は、8万の歩兵と6000の騎兵を率いて押し寄せて来た。これに対するカルタゴ軍は4万の歩兵と1万の騎兵だった。
ハンニバルの陣立ては、中央に半月形に歩兵を布陣して、中央の突出部にはスペインとガリアから連れてきた、忠誠が余り期待できない寄せ集めの兵を置き、その両側にアフリカから連れて来た古強者を置いた。敵の中央突破を予想しての布石だった。ローマ軍は予想どおり中央を突いて来た。寄せ集めの弱兵はひとたまりもなく後退したので、勢い込んだローマ兵はハンニバル軍の中になだれこんだのである。そこで予定どおり、両側にいたアフリカ歩兵と騎兵がローマ軍の退路を包みこんだから、ローマ兵は袋の鼠となったというわけである。その死者は7万人 (ポリュビオス) とも、4万7000人 (ティツス・リヴィウス) ともいわれるが、後者の方が真実に近いだろう。
この戦いは戦術に秀でたハンニバルの非凡さを明かすものとされている。弓や槍や刀を使っての戦いで前進隊形の布陣を組むのは当然であった。しかし、ハンニバルには、寄せ集めの雑兵を使わねばならないという弱点があった。そこで彼はこの弱点を逆手にとったのである。いわば心理戦争であったとも言えるだろう。それに反して、愛国心の高いローマの自前の軍は、この心理戦にひっかかったのである。
がしかし、この後の歴史が証明するように、傭兵という忠誠心に問題のある兵力に頼っていたカルタゴ軍は、やがては敗北しなければならなかった。つまり、商人の国家カルタゴは、都市[ポリス]国家を脱しつつあったローマの前に屈しなければならなかったのである。
カンナエの大勝利の翌日、一気にローマまで進攻すべきだという部将もいたが、ハンニバルはこれを退けて追撃をやめた。「神はひとりの人間にすべてを与えなかった。あなたは戦争[いくさ]には強いが、勝利を利用するすべは知らない」と、部将のひとりがコメントしたことになっている。日本流にいえば「天は二物を与えず」ということだろう。
しかし、このコメントにも拘らず、ハンニバルは力の限界を知っていたというべきだろう。ローマの攻略は野戦のような具合にはゆかない。攻城兵器も必要だろうし、長期の攻防戦となった場合は十分な食糧の準備が要る。旅ガラスの身では十分な補給の見込みもないのだ。ハンニバルならずとも、ここは慎重に処すべきだったと思われる。それに後でも書くように、国際情勢は必ずしもハンニバルに有利ではなく、安心して攻撃をかける心境には至らなかったとみるべきだろう。
アルプス越えなど出来るはずがないとタカをくくっていたローマ人は、この報にびっくりした。ハンニバルのイタリア進出を阻止すべく派遣されていたスキピオ家の部将のひとりはスイスとイタリアの国境のティキヌス河のほとりで会戦するが、ローマ側は手ひどく敗戦し、スキピオ自身も負傷を負った。そこでこの地方のガリア人はカルタゴ側に寝返り、宣伝係をつとめることになった。クラスチディユムの市長が市に保管されていた小麦のストックをハンニバルに贈ったのは、このような戦況の下であった。
その年が押しつまってから、ローマ軍はもう一つの敗戦を記録し、ハンニバルはポオの平野で冬を過すことになる。だが、北アフリカの温暖に慣れたアフリカ出身の兵士には、イタリアの冬は厳しすぎた。40頭もいた象も、ただ一頭を残すのみで死んでしまった。ハンニバル自身も結膜炎にかかって片方の眼をやられてしまった。
冬が去って春が来ても、戦況は相変らずカルタゴ側に有利だった。6月21日のトラシメヌス湖畔の戦闘がその典型的なものだった。ローマ軍は濃い霧の中を進軍中、あらかじめ配置されていた伏兵に襲いかかられてさんざんな目に逢う。ローマ軍を率いた執政官も惨殺の厄にあった。1万5000の兵はことごとく殺され、虐殺をまぬがれたものも湖に溺れるという始末だった。しかるにハンニバル軍の方は1500人を失っただけだった。それも大部分はさして重要でないガリア人の傭兵だったという。敗戦の報にローマは混乱に陥った。
ローマ人の見たハンニバル
ティツス・リヴィウス (前64〜後10年) は、ハンニバルを評してこう書いている。
「相対立する事柄を処理するに当って、彼のような才幹をもった者は未だかつてなかった。その上、彼が将軍や兵士から慕われていたとなると彼の決定は、いとも容易に行なわれ得たのだろう。まして兵士たちから彼くらい信頼されていた指揮官はいなかったのである。彼くらい危機に立ち至っても勇気をもち続けたものはいなかった。彼の体力を疲れ果てさせ、その魂を打ちのめそうとしても無駄だった。しかも、食らい飲むに際しては、その限界を知っていて溺れるということはなかった。徹夜をするにしても、眠るにしても、彼には昼夜の別はなかった。仕事に余暇[ひま]ができると何時なん時でも休息した。休息するといっても柔らかなベッドで寝たいなどとは一切口にしたことはなかった。人びとは、彼が歩哨の傍の地べたの上に兵士と同じように粗末な戦闘帽をかぶって眠っているのを見かけたのである。
……進軍のときは先頭を切って進み、退却のときに殿[しんがり]に退いた。以上が、その長所であったが、しかし欠点もそれに劣ることなくあった。非人道的な残忍さ、ポエニ人の誰にも劣ることのない卑劣ささえもっていた。彼にとっては真実もその甲斐はなく、神を恐れる気配もなく、誓いを守る気などミジンもなく、信仰に至ってはまるでなかった。」
この評言を私が引用したのは、この文章の後半のところで、ローマのこの史家が憎悪をこめて罵っている部分をみていただきたかったからである。ティツス・リヴィウスは、彼が生きた時代からおよそ100年以上もまえの、憎むべき敵カルタゴの勇将を、一方では勝れた武将として描きながら、その一方では口を極めて非難しているのだ。敵だったからだ、といえばそれまでの話だが、こういう批評に果して客観性があるのだろうか。
たとえば、当時イタリア半島の第二の都市カプアの攻防の話はどうだろうか。
カンナエの勝利のあとでハンニバルはその年の冬をカプアで過した。世上「カプアの歓楽」として後世に伝えられているのがそれである。ハンニバルの軍は、かねてから不本意ながらロ―マに従っていたカプアの市民に、解放軍として大変な歓迎をうけた。その揚句、土地の享楽的な風習になじんで尚武の気風をすっかり骨抜きにされたのだ、というのがこの話のミソである。
ハンニバルが勝ちに乗じてローマまで進軍しなかったのは、カプアの快適な生活によって戦意を失ってしまったためだと、この風説は伝える。だが、まえにも述べたように彼自身が旅ガラスの身では、地盤を固めておくことの方が大切だと考えたのではないか。実際、カプアにいるときには、外交活動を盛んに行なっている。マケドニアのフィリップ五世と同盟し、シラクーサとも友好をはかって基盤の強化につとめた。「カプアの歓楽」というのは単なる世俗の風評であろう。
前213年、すなわちカンナエの戦いの三年あと、カプアは再びローマ軍に攻撃され、三年のあいだに執拗に抵抗したが、兵糧攻めにあって苦境に陥り、ハンニバルに救いを求めた。そのときハンニバルは、ローマの包囲軍を直接攻撃せず、ローマを攻撃する振りをしてカプア包囲軍を自分の方へ引きつけようとした。だがローマ軍は包囲を解かず、カプアは遂に陥落した。カプアのお偉方はローマの復讐をおそれて、自決の道を選んだが、ローマ人はその他の市民を捕えて囚人とした上、拷間の末に斧でなぶり殺しにしたということである。
残虐さの点ではローマの将軍たちも勝るとも劣りはしない。この時代、こういう残虐行為は、戦勝者の略奪と同じように常識だったのである。ティツス・リヴィウスのように、ハンニバルの残虐性だけを取り立てて、彼の欠点だとするのは当らないのではないだろうか。
スキピオの登場
新興ローマの颯爽たる登場は、スキピオ・アフリカヌスの若武者ぶりに重なり合っている。カルタゴの古ぼけてどうにもならなくなった姿がこの若武者のまえに崩れ落ちるのである。
スキピオ家はローマの名門で、カルタゴのマゴ一族やバルカ一族にも匹敵する家門である。その一族から有能な士を多く出している。彼の弟は小アジアのアンチオケに出征して武功を立てたので「アジアのスキピオ」と呼ばれるようになった。
スキピオがスペインのカルタゴ征伐の隊長に任ぜられたとき、彼は25歳の若者だった。前205年の春、彼はエプロ河を渡りカルタヘーナに迫り、遂にこれを奪取した。ところで、カルタヘーナを防衛していたのはハンニバルの弟のハスドリュバルだった。彼は脱出はしたものの、コルドバの近くで再びスキピオに破れてしまう。そのあと、彼はイタリアに在る兄の救援のために赴こうとするが、アルプスを越えてポオ河まで達したところでローマ軍に遭遇して三度敗戦する。そこで彼の首は、そのころの習慣に従って兄ハンニバルのもとに送られてくるのである。だが、ハンニバルは弟が北イタリアに来ていることをまったく知らなかった。知っていれば必ず救援に赴いたことだろうし、戦況は変ったものとなっただろう。じつは弟が兄に送ったメッセージはローマ軍に握り潰されていたのである。
スペインのカルタゴ勢力を潰滅させたスキピオは、カルタゴの繁栄の基盤だったカディスを手に入れて周辺の鉱山を手中にする。ここへ来て海洋帝国の命脈が尽き、運命の帰趨がはっきりして来たのである。何となれば、カルタゴはここにあった鉱山から送った銀鉱を精錬して賠償金の支払いに当てていたからである。
ハンニバルのもう一人の弟マゴも、スペイン土着のイベリア=ケルト人の独立運動を巧みにあやつりつつカルタヘーナ奪回をはかっていた。しかし、それに失敗すると土着の同盟軍にもうとまれ始めるのである。そこで兄ハスドリュバルの遠征にならってリグリア (現在のイタリアとフランスの国境地帯) に赴き、ローマの兵力を分散させてハンニバルの戦いを有利にしようと図る。が、ザマの会戦の直前、船でカルタゴに駆けつけようとして海上で戦傷が悪化して死んでしまう。かくて、カルタゴがスペインを取り返す望みは永遠に失われ、ハミルカル・バルカによって企てられた昔日の大海洋帝国の夢は潰[つい]え去ることになった。
スペインに止っていたスキピオはアフリカに堅固な友邦関係を樹立したいと願っていた。そのころアフリカにはベルベル人のヌミディア王国が二つあった。西方、シガ (現在のアルジェリアの西方海岸地方) にあったマゼジレス人の国と、その東方のキルタ (現在のコンスタンチーヌ) にあったマセレス人の国であった。後者の方はカルタゴと同盟関係を結びスペインに兵を送っていたが、その王のマシニッサはカルタゴ軍がスキピオに敗れて行くのを見て、カルタゴから寝返リスキピオの盟友となることを誓っていた。「騎兵を用いて最高の技倆を有していた」とティツス・リヴィウスはマシニッサを評している。
スキピオはこの同盟だけでは不足と考え、マゼジレスの首長シファクスとも結ぶことを考えていた。
ハスドリュバルの娘
そこでスキピオはシファクスとの直接談判を思い立ち自らアフリカに出向いた。するとそこには先客がいた。傭兵の乱のとき殺されたギスコの息子の、これもハスドリュバルと名乗る武将で、スペインでの敗戦によリカルタゴヘ帰る途次、ローマ人と同じようにシファクスの友情を得ようと立寄ったものだった。
前206年の夏のことである。二人の敵対する勇将が、アフリ力で最も富裕な王の賓客となって宴会の席で顔を合せることになった。極めて国際的な政治事件である。この場はさっそく和平交渉の場となる筈であった。スキピオとしてはローマの元老院の許可なしには何事もなし得ないのだが、それでも敵将であれ魅することはゆるされている。
アフリカの土着の王を、どちらが味方に取り込むか、というのがこの顔合せのハイライトである。結局、勝ったのはカルタゴ人の方だった。日本の戦国時代と同じように、私的な絆を結ぶのが、公的な絆の強化につながるという古代の習慣[ならわし]である。そのときシファクスは、ハスドリュパルの娘ソポニスペに惚れこんでしまって婚約する。
だが、この結末はハッピーエンドにならず、この美女を待っていたのは暗い運命だった。前203年、メジェルダ河のほとりのキャンピ・マグニ (大きな平原の意) でローマとマシニッサ同盟軍対カルタゴとの間に戦闘が行なわれるのである。このときカルタゴ側についていたシファクスは捕えられてローマ送りとなる。残されたソポニスベは、敵将マシニッサに捕えられてキルタに連れて行かれる。彼女はローマに送られることを極度におそれて、マシニッサに結婚してくれと嘆願した。マシニッサはこれを聞き入れて結婚式を取り行なうことにした。ところが、このニュースを知ったスキピオは、この結婚によってマシニッサがカルタゴ側に寝返ることを心配して、この美人で才気のある女王をローマに連れて行くと言い出したのである。美女は自分の運命のつきたことを悟ってマシニッサが差し出した毒杯をあおって死ぬ。
美女ソポニスベの逸話は、私の拙い記述だけでも読者の想像力を刺戟するものがあると思うが、じじつ、この話に感興を覚えた作家は後をたたない。17世紀のジャン・メエレの芝居にはじまって、コルネイユも、ヴォルテールも、この話を悲劇に仕立てているのである。彼女は文章をよくし、音楽の才もあったらしい。私たち日本人には太閤記の中の女性が思い出される。
さて、これからスキピオのカルタゴ攻略に話を移さねばならぬ。彼は前205年に執政官[コンシュル]の称号を手に入れて押しも押されぬ武将となっている。だいたいローマの執政官は一年限りとされていたが、スキピオの場合は、カルタゴ陥落までとの暗黙の了解が取りつけてあったというから、さすがである。前204年のウチカ上陸作戦は失敗するものの、翌年の夏にはキャンピ・マグニの戦闘で勝利を得て、その勢いをかってザマヘとのぞむことになる。
ハンニバル帰る
シファクスが捕えられたという報を聞いてカルタゴ市民は動揺した。カルタゴの政界は議論沸騰して結論が出ないまま、結局、和戦いずれでもないアイマイな態度に終始していた。まだ勢力を維持していた旧ハンノ派はチュニスにいたスキピオのもとへ使者を送って和平の条件をさぐろうとする。しかし、いずれにしても、イタリアに健在なハンニバルヘの期待が市内に満ちていることも無視することはできない。そのような状況の中にハンニバルの帰還が実現することになるのである。九歳のとき父に連れられてスペインヘ行って以来、久し振りに故国の土を踏むことになったハンニバルにとっては、気の重い凱旋である。しかし43歳の男ざかり、それなりの抱負もあっただろう。
ティツス・リヴィウスはハンニバルの帰還について次のように書いている。
「ハンニバルを倒したのは、それはハンニバルのために打ちのめされ逃げ回ったローマの人民ではない。そうではなくて、ハンニバルを中傷し嫉妬したカルタゴの元老たちであった。」
カルタゴの元老たちがスキピオのもとに送った使節に示された和平の条件というのは極めて厳しいものだった。カルタゴはローマ人の捕虜や逃亡奴隷を引き渡し、スペインをはじめ地中海のすべての島から手を引くこと、っまり地中海をローマの海とすることが、第一の条件とされた。次に、20隻の船を残して、すべての船艦をローマに引き渡し、加えて5000タレントの賠償金を支払い、和平条約の正式の成立までの期間、ローマ軍の兵馬の糧食を供給せよ、というものだった。
そういう状況のもとで、心をイタリアの野に残してハンニバルは帰還した。が、それはカルタゴの港ではなくて、チュニスから150キロも南にあるハドリュメート (今のスース) だった。この選択は、チュニスのスキピオの陣から遠く、自由に動けるという理由もあったが、今ひとつ、バルカ家はこの地方に古くから勢力を保持しており、城砦も一つ有していたからである。ここに籠っていれば一族は安心して暮せるはずだったのである。
ところが、一つの事件がザマの会戦の引き金となるのである。
スキピオ軍の食糧を積んでシチリア島を船出してきた船団がチュニス湾の入口のところで、嵐に逢い小島に座礁してしまった。積荷は散乱して漂流し、船乗りたちも船から逃げ出した。これを見て、食糧不足にあえいでいたカルタゴ市民は、曳船を出してその船を曳航して来てしまった。この海賊行為を見て取ったスキピオは抗議の使節をカルタゴヘ送った。ところが、その使節の横柄な言動に腹を立てたカルタゴ人は、追い返してしまったのである。そればかりか、使節が船に乗って帰ろうとするところを、三隻のカルタゴ船が追跡して攻撃を加えてしまった。使節たちは生命からがらスキピオのもとに帰るが、スキピオはこれを宣戦布告の合図ととったのである。
だが、スキピオはヌミディア王マシニッサの援軍の到着まで満を持[じ]して動かずにいた。一方カルタゴの方はハンニバルをけしかけて戦わせようとしたのだがハンニバルはこの戦いに気がすすまなかった、といわれる。それでも、カルタゴ政府の煽動があろうとなかろうと、戦うべきときには戦うのだと、ハドリュメートの城を出て、ザマの近くにキャンプを張ることになった。
ザマの会戦
ザマのあった位置は、カルタゴから徒歩で五日を要するところにあったという。距離にすればカルタゴの西方約500キロばかりのところだということになっている。この地方を調査した学者の話によると、現在のシリアナの近くのジャーマ村がそれではないかと推定されている。
スキピオも西へ向けて軍をすすめているが、彼のお目当ては、西方から応援にくる筈のマシニッサの騎兵である。すると間もなく若いヌミディアの王は約一万の兵を率いて現われた。その中には4000の騎兵が含まれているのだ。こうして態勢を整えたスキピオは、ハンニバルから申し出のあった「会見」に応じると答えた。
スキピオとハンニバルという当時の二大将軍の会見は、古代史家の想像力を大いにかきたてたらしく、多くの文章が修飾をほどこされて残っている。ただ、ハンニバルが和睦の条件として、カルタゴ船艦の存続だけは強く主張したというのは確かなことだろう。それは海洋帝国としての再生をはかった父の遺志を継承した彼の悲願だったからだ。勝ち目はないと承知しながらの頑張りだったのである。結局のところ、二人の英雄は顔を見合わせ、互いに相手の人物を認め合ったものの、話し合いには何らの結論も生れなかった。
双方の正確な軍勢は不明だったということではあるが、カルタゴ軍はおよそ五万の傭兵から成る混成軍で、そのうちにはイタリアからの歴戦の勇士も含まれていた。これに対してローマ軍の方は騎兵において優勢だったという。それはマシニッサの騎兵が参加していたからで、この騎兵にカルタゴの混成軍は悩まされることになる。
ザマの会戦をもっとも正確に伝えているのは、ポリュビオスの記述であるとされているものの、これさえもローマ側からの記述で偏見に満ちていることであろう。がともかく、カルタゴの象部隊の戦術はウラをかかれて第一線の備兵団はヌミディア騎兵に総崩れにされたらしい。傭兵の第一線が崩れたとき、死をかけても第二戦の兵をかばおうとする動きがなく、イタリア歴戦の強者[つわもの]たちも、ひとたまりもなく惨殺されたという。
ハンニバルは二日三晩のあいだ馬の手綱を握りしめて戦場を駆けめぐったあと、力つきてハドリュメートの城へ引揚げたということである。
そこで再び和平の条件が取り上げられるが、ザマの敗北によってカルタゴ側は著しく不利な立場に立たされることになった。ここで目につくのは、ローマの援軍に廻ったマシニッサの立場が優勢となったことである。「カルタゴは、かつてマシニッサからぶん捕った家屋、土地、町のすべてを返さねばならなくなった」と、ポリュピオスは記している。
カルタゴが押しつけられた降服条件は、カルタゴに死ねといわんばかりのものだった。500の軍艦は残らず沖に引き出されて市民の眼の前で焼き払われた。一万タレントの賠償金の50年に分けての分割払い、リビア以外での戦争行為の禁止、それも、もし戦争する場合はローマの承認を要する、というものだった。そのことは、マシニッサにどんなに愚弄されようと耐え忍べというものだった。この条件のなかに、すでに第三次戦役の芽が含まれていたのである。
[カルタゴ 第7回 終]
