
今年の四月、東京の小学校に入学した双子の孫の世話もあって、生活の九割以上、上
京しています。甲府桜座もご無沙汰しっぱなしです。
ネットで桜座ライブの予定や様子を見るたび、なんとも言えない寂しさに襲われてし
まいます。桜座での日々を思い出し、振り返っていたとき、思い出したのが「さくら」
でした。
九年前の平成二十八年四月一日、甲府桜座で〈いいの怪1〉というイベントをやらせ
ていただきました。そのとき書き下ろした落語が「さくら」です。
一夜かぎりのために作ったお話です(当日、口演は山梨の落語家・まんま家雅さん)
。
小説仕立てに直そうかとも思いましたが、当時の原稿をそのまま掲載していただけた
らと思います。
孫たちが成長し、また甲府での生活が戻り、桜座で、あんな会がならぬ〈いいの怪2
〉をできたら、と思いつつ――。
* * *
桜花 今ぞ盛りと 人は言へど 我れは寂しも 君としあらねば
吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき
(病室・ベッドに寝ている、さくら。脇には恋人の一郎がいる。)
さくら「ねえ、千本桜、見てみたい」
一郎「何だよ、とつぜん」
「……とつぜんじゃない」
「とつぜんじゃないって……?」
「ううん……。だって、千本の桜よ。見てみたいと思わない?」
「それにははやく、身体を治さなくちゃ」
「じゃあ、見られないんだ、わたし……」
「何言ってんだよ。そんなことあるわけないだろ」
(さくら、じっと一郎の顔を見つめて)
「やっぱり、覚えてないんだね?」
「何を?」
「ううん、いい……」
(と、目を窓の外へ向ける。)
◇ ◇
(病室を出た一郎。スマホを開き、ウィキペディアで調べる。)
「ええ、と千本桜は、吉野山(奈良県)の花盛りを称える表現。転じて、桜の木が沢山植えられている名所および、その花盛りのさまを指す。形容表現などとして一目千本桜などと称されることもある。
日本の各地に〈千本桜〉と称する名所が存在している。烏帽子山千本桜、一目千本桜、夏井千本桜……。
あれ~、山梨にもあるんじゃん。山の神千本桜、山梨県中央市にある桜の名所。標高約800メートルの山頂にある神社〈山之神社〉の参道に沿っておよそ千本のソメイヨシノが植えられている……か。へー、ぜんぜん知らなかった。
でもなあ……行けるわけないよな……。まあ、明日になったら、忘れてるだろ」
◇ ◇
ところが次の日。
「千本桜って、奈良県の吉野山なんだって」
「なんで知ってるの?」
「看護師さんに調べてもらった」
「でも、奈良だけでなく、ほかにもあるんじゃない? 山梨にも、あるみたいだし」
「でも、元祖は吉野山なんだって」
「元祖って、いっても……」
「わたしが見たいのは、吉野山の千本桜」
「ああ……」
「見たかったな」
「見れるさ」
「でも……」
(弱々しく、目を閉じる。興奮したせいか、呼吸が乱れる。)
「お、おい……」
(一郎、枕元のボタンを押す。)
看護師「どうしました?」
「さくらの具合が……」
「すぐ、行きます」
(駆けこんでくる看護師。さくらの様子を見るなり、一郎に)
「すぐに先生を呼びます。病室から出て、お待ちください」
「あの、家族に連絡は?」
「来られるなら、ぜひ!」
◇ ◇
(一郎、医者と話している。)
「先生、新幹線ですし、ええ、わかってますって、なんとか。おれが付きっきりでいきますから。いえ、だいじょうぶです。だから、なんとか……」
「わかってない。ことの重大さが」
「いや、解ってないのは、あなたのほうだ。ほとんど喋れなくなったさくらが、あんなに必死になって訴えてるくらいだから、どうしても、どうしても見たいんだと思います」
「しかし……」
「いえ、すみません、なんとか……なんとか、さくらに吉野山の千本桜を……千本桜が見られれば、そうすれば彼女も、なんとか……」
「なんども説明した。君もわかってるはずじゃないか」
「しかし、最後の……いや、最後じゃなくて、つまり……なんとか、一つくらい思いを叶えてあげたくて……」
(一郎、土下座して、)
「お願いします!」
「ううん……。まあ、吉野山は無理だが」
「それなら、中央市の、山の神千本桜でも」
「いや、無理だよ。そこでも遠い……」
「しかし……、どうか……」
(医者、必死に土下座する一郎を見て)
「もっと近くなら、なんとか……」
◇ ◇
(車椅子のさくらを連れた一郎。桜の咲く舞鶴城へ来た。さくらを起こす。)
「おい、ついたぞ」
「……?」
「ほら、千本桜」(負い目と悲しさから、少々ぶっきらぼう)
「ちがうじゃん」
「ちがわないよ」
「ここ、舞鶴城だよ」
「いや、ここは……」
「ほら、あそこに白いお城。いっしょに来た」
「ちがうよ」
「ちがわないよ。だって、ここで、はじめて……」
(震える眼で、一郎を見つめるさくらだったが、見つめ合ったまま、静かに目を閉じる。その顔を見て、一郎は想い出す。)
「そうか、そうだ。ここだった……」
◇ ◇
おれがさくらと会ったのは、今から二年前の春、甲府の桜座でした。
その日、おれは、近藤房之助のライブに、来ていました。一軒、なじみの居酒屋『小磯課長』で呑んで、開演ぎりぎりに来て、一階は満席で、二階席の隅にかろうじて、空席を見つけたのです。
桜座でもハイボールを注文して、房之助に歓声を送っていたのですが……。
「いええい! いえええい……、いえええええい……いええ……。ふあああぁぁ、ふあぁぁ……。すうぅぅ……すうぅぅ……。スッー……、スウーッ……ぐううぅぅ」
「すみません」
「え?」
「うるさいんです」
「いえい?」
「いびき」
「えっ? あ、やべ! 寝ちゃったよ……。いえ、ライブが退屈だったんじゃなくて、ただ、その、飲み過ぎで……」
「しっ!」
「すんません……」
◇ ◇
終演後――。
(一郎、桜座を出ていく彼女を追いかける。)
「あっ、ちょっと」
「え?」
(ふりかえったさくらを見て、一郎、ドキッ。はじめて面と向かい合って、鼓動の高鳴りを覚えながら)
「さっきは、すんませんでした」
「いえ、そんな……」
「そして、ありがとう」
「はい?」
「だって、あのまま寝てたら、せっかくのライブをめちゃくちゃにしてた。それを、あなたのおかげで……」
「いいんです、そんなこと」
「いえ、悪いのは、おれです。あなたに嫌な思いさせたし、でもありがたくて、すごく感謝してて。だから……。その、つまり……、そう。お詫びがしたいんです。よろしかったら、軽く、焼き鳥でも。すぐ近くに美味しい店、知ってるんです。だから……」
「うふふ」
(と笑い声。一郎が顔を上げると、さくらが微笑んでいる。)
「何か……?」
(さくら、微笑んだまま一郎を見ている。)
「あ、焼き鳥、嫌いですか? それなら別の……」
「大好きです」
「それじゃ」
「でも、今日はもう、遅いから」
「あ、そうか……。そうですよね。うん、まったくだ。で、でも、それでも……」
(一郎は言葉に詰まる。と、さくらは笑顔で)
「また今度、で、よかったら」
「えっ? は? ははは~ん……。えええ、じゃあ、今度、おれといっしょに?」
「ちょっと待って」
(さくらは手帳を取り出し、メモを取り、破って、差し出す)
「わたしの携帯の番号です」
「えっ? あ、はあ……」
「じゃあ、連絡、待ってます」
(さくら、立ち去っていく。)
◇ ◇
(一郎、携帯とにらめっこしている。ボタンを押すが、指が途中で止まる。決心して……しかし……)
「あ~、とてもかけられないよ。一杯飲んで景気をつけなくちゃ。しかし、そんなことしたら、おれ、呂律が回らなくなるし。……そうか、Cメールにしよう。うん、それだ!」
(一郎、文字を打ち込む。)
〈今度の土曜日、よろしかったら――〉
◇ ◇
一週間後――。
(居酒屋〈小磯課長〉のカウンターで並んで話す二人。)
「ね、おいしいでしょ」
「はい、とっても」
「でしょ~! マスター、おまかせで、どんどん焼いて!」
その一週間後――。
「ねえ、やっぱりおいしいでしょ?」
「ええ」
「でしょ~。店の名前が〈小磯課長〉って、おもしろいでしょ~。うまいでしょ~。マスター、まかせた。じゃんじゃん焼いてちょ~」
そのまた一週間後――。
「また小磯ですか?」
「えっ、なにか問題でも……」
「そういうわけじゃ。美味しいし。けど、まだ時間、はやくて開いてないんじゃない?」
(さくらに言われて、気がついた。)
「しまった、そこまで考えず、午後三時がいいと言われたから、『じゃ、甲府駅の改札で』なんて、約束しちゃった。えええ~、どうしよう? まだ小磯、開いてないし。ほかに馴染みの店なんてないし、あっても、まだやってないだろうし……」
「少し、散歩しません?」
「えっ? あ、それがいい。とてもいいです」
一郎、歩きだすが、まったく当てがない。独り言で、
「どうすりゃいいんだよ。いきなり散歩なんて言われたって……」
「わあっ!」(とさくら、立ち止まる。そちらを見ると、桜が満開だ。)
「舞鶴城か」
「きれい……」
(さくらは舞鶴城の桜を見ながら、つぶやく。一郎は、さくらの横顔を見ながら)
「ほんとうだ……」
「えっ?」(と、見られて、一郎、ドキマギ。)
「いえ、そのさくらさん……あ、何言ってんだ、おれ……」
「行ってみません? もっと近くに」
「ほんとに?」
「ええ」
「それじゃ、おれも男です。もっと近くに……」(と一郎、さくらに顔を寄せるが、さくらは、すっと離れ)
「もっと近くで、見ましょ。満開ですよ、桜の花が」
「えっ、桜の花……。ああ、当たり前だよな。ったく、いくつになっても、ばかなおれ……」
「どうかしました?」
「いえ、行きましょう」
一郎が歩きだすと、さくらはそっと寄りそう。触れあう肩と肩。
「えっ。ええ……、まじ近い……」
鼓動を押し殺し、なんども唾を飲み、舞鶴城へ入る。満開の桜です。
(さくら、顔をほころばせ)「きれい!」
「ほんとうだ。花見に来るのなんて、子どものとき以来だ。それにしても、多いなあ。こんなにあったんだっけ?」
「何本くらいあるのかしら?」
「百本、いえ、千本」
「そんなには……」
と、さくらが微笑む。間近に顔と顔。
ふたりは満開の桜に包まれている。風がそよぎ、はらはらと可憐な花びらが、二人を包むように舞い落ちる。
桜の花には、美しくも妖しい魔力でもあるものか。素面ではまともに女性と口も利けない一郎のこころは、人生でこれまでにないほど高鳴りを覚えた。
桜の花でなく、目の前のさくらを見つめ、
「きれいだ」
「えっ?」
「すごく、すごく」
(さくら、照れて、桜を見上げ)
「桜の花が、でしょ?」
「いや、それよりもずっと、ずっと」
「もっといっぱい、咲いてても?」
「うん」
「千本、咲いてたとしても?」
「いや、ずっとずっと、君のほうが――」
すさまじいまでの一郎の剣幕におされ、一瞬顎を引いたさくら。だが、すぐに顔を上げ、やわらかく目を閉じる。
満開の桜の下、見えない磁力に惹きつけられるように、二人の唇と唇が、はじめて重なり合いました。
◇ ◇
「二年前と同じだ……」
「想い出してくれたんだね」
「ああ……。それで、千本桜だったのか」
「ううん、もういいの。千本桜は無理でも、ここの桜は、わたしにとって、それ以上だよ。またふたりで、来られたんだから……」
「さくら……」
「ありがと。でも。私もやっぱり、桜、だね」
「ん?」
「散ったら、おしまい」
「ちがうだろ。お前は散らない。それに桜だって、そりゃ、一度は散るけど、また必ず」
「散るよね。私もすぐ」
「いや、お前はまだまだ……まだまだ、まだ。ずっとずっとおれと――」
「ごめん、疲れた……」
(さくらは弱々しく目を閉じる。)
◇ ◇
(病院の通路で、一郎、さくらの両親に詫びている。)
「すみません、おれが無理に連れ出したから」
父親「いや、ありがとう」
「えっ?」
父親「な、いい思い出になったはずだよ」
母親「ええ。あの子、ずっと奥手で、でも、一郎さんのことは話してくれた。
二年前、桜座から帰ってきたとき、
『ねえ、今日すごく面白い人に会ったんだよ』
『そんなに素敵なライブだったの』って訊いたら、
『え? ああ、それもだけど、いびき!』
『いびき?』
『それにいきなり焼き鳥。若いんだか、オヤジなんだかわからない』って……。
はじめて、あの子が男の人のことを、母親のわたしに……」
「そんなことが……」
一郎はさくらの両親と共に〈面会謝絶〉とかかれた集中治療室の扉を見つめる。
「さくら……さくら……散るもんか。散らせるもんか……」
一郎、ジッとしていられず、走り出す。
「あ、一郎くん!」
病院を出た一郎は、甲府駅へまっしぐら。キオスクで買った時刻表をしばし凝視し、身延線に駆け乗った。(時刻表を見ながら)
「これで静岡まで行って、そこから新幹線に乗り換えて……」
ふと気がつくと、通路を挟んだ席に、小さな女の子がすわっています。足ぶらぶらさせながら、笑顔で一郎を見ている。頬に大きなほくろ。
「迷子? ねえ、お母さんは?」
「さくら、好き?」
「えっ? あ、うん」
「どれくらい?」
「どれくらいって……。すごく好き、かな」
「ありがと」
少女は笑顔で立ち去っていった。
◇ ◇
「来た、吉野山だ。といっても……」
辺りは緑の葉桜一色。人に訊いても、
「あんさん、時期がずれとるがな」
「今頃に来はって、なに言うておまんの」
「せめて一週間早ければ、山の上の、奥千本に残っていたかもしれへんけど……」
「来年まで待ちなはれ。桜は逃げはせん」
「いや、どうしても、今すぐ。さくらに、千本桜を見せるんだ」
吉野山を登る一郎。彼のこころを哀れみ、慰めるように、緑の葉桜がつづく。
「いや、だめなんだ。千本桜を、吉野山の千本桜を、さくらに――」
「こっち!」
「えっ?」
「こっち、こっち」
ふと見ると、山道から少し離れた場所に、女の子が一人。頬にほくろが一つ。
「あれ、君は……?」
女の子が指し示す、脇の桜の木を見ると、そこの一枝だけに、満開の桜の花が!
「あった! あった、あった」
落語に『千両みかん』という噺があります。
夏の真っ盛り、金持ちの若旦那が、みかんが食べたいあまり病気になった。番頭が探しまわると、一軒の青物問屋に、腐らずたった一つだけ残っている。
値段を訊けば、時期が時期だけに千両。千両というと、今で言えば、ドリームジャンボ一等賞。それくらい貴重です。
「すんません。必ず、お詫びに来ますから」
花の咲いた枝を折った。運よく、近くに落ちていた黒いビニール袋で包み、隠し、走り出す。
電車に乗っても、じっとしていられず、車内を行ったり来たり。新幹線の中でも、走る。走る。
老夫婦の男「あの人、早いな」
妻「なんで?」
老夫婦の男「超特急に乗ってる、うちらを抜いてった……。いや、やっぱり遅い」
妻「なんで?」
老夫婦の男「ほら、遅れてく」
「おい、あの男を止めろ。さっきから、うるさくてしょうがねえ」
などと言っていた客も、何度か見るうちに、一郎の真剣な態度に感銘を受けます。
「お客さん、じっと座っててください」
「うるせえな、車掌。走らせてやんな!」
さらに感銘が広がり、ほかにも走り出す者が出てくる。新幹線の車内は、さながら『フォレストガンプ』状態。
それは静岡で、身延線に乗り換えてからもつづき、甲府駅へ着いたとき、一郎の後には百人を超える人々です。
これには共立病院の前の警備員も、大驚き。
「ちょっと、ちょっと。ちょっと待ってくださ~い」
病院の入口で、一郎、立ち止まった。振り向いて、居並ぶ人に、桜の枝の入ったビニール袋を、大きく掲げる。
無言の歓声を背に、一郎は病院内に駆けこんだ。受付で病室を訊こうとしたとき、
「一郎さん!」
「あ、さくらのおばあちゃん。さくらは?」
「三階A号室だよ。はやく、はやく。はやく!」
「はい!」
三階A号室へ駆けこんだ。ベッド脇に両親が立っている。
(ビニール袋から、枝を取り出す)
「さくら、千本桜だよ」
「おい」と父親は、小さく母親をうながして、病室から出て行く。
「うん、見える。千本桜だ。すごいね。ずっと桜、ずっと、ずっと……、きれい……」
さくらが目を閉じると同時に、桜がすべて散った。いや、ここまで持ったのが、不思議なんだ。
ふと、視線を感じる。病室の隅に女の子。ほほえんでいます。桜が枯れるといっしょに消えていく、その頬にほくろ。
「そういえば、さくらが言ってたっけ」
さくら「子供のころ、ここにあった、ほくろを取った。悪性だから、って。それで治ったと思ったんだけど……」
しんとした病室。さくらの息が弱い。
ふと見ると心電図も弱っています。それを察したらしく、病室に看護師と医師が駆けこんできます。
一郎「先生、外に出たほうが?」
「いや、いなさい」(医者、看護師に)「すぐに、ご両親がたも呼んで」
「はい」
「さくら!」「さくらちゃん……」
虚ろな目で、さくらは一郎だけを見つめる。
「ありがと……」
微笑みを残して、目を閉じたとき、心電図の波形が、しずかに。ツーッと……、真一文字に……なりました。
◇ ◇
あの日から、もうすぐ一年になります。
おれは一人、吉野に来ました。桜が満開です。千本の桜が。
(一郎、桜の木に手を合わせ)
「すんません。毎回、宝くじ買ってるんですけど、一等どころか、ぜんぜん当たらなくて……」
「ありがと」
声がして、振り向くと、あの女の子……。
だが、この時期の吉野は、桜の本数以上の人だかり。すぐに女の子は、花見客の人混みに掻き消されます。
来てたんだね、君も。
うん、来年もいっしょに来よう。そしてその次の春も、その次の春も、いっしょに。
「さくら……」
(了)
