
誰かに揺り起こされたような気がして目が覚めた。
多分錯覚なんだろう。あたしには揺り起こしてくれるような同居人はいない。
──いやだいやだいやだ、起きたくないいぃぃぃ……。
眠りの底に必死でしがみついていたものの、意識はヘリウム風船のようにぷかぷかと浮き上がる。なんとか眠っていようと固く目を閉じ続けていたのだが、無駄な抵抗だった。
シーツや枕の肌触りがはっきり頬に感じられるに及んで、あたしはようやく諦めた。手探りで枕元にスマホを探す。あちこちばんばんと叩きまくった後でようやく冷たい板きれをさぐりあてた。しょぼつく目で時刻を確認する。
液晶画面は真っ黒だった。電源ボタンを触っても復帰しない。
──何。電池切れ?
昨夜寝る前に充電したっけとか、バッテリー残量はどのくらいだったっけとか、考えてみても思い出せない。とはいえ電源が入らないんだから電池が空っぽなんだろう。
ちぇ、と呟いて、しかたなしにのろのろと枕から顔を上げる。
カーテンの向こうは暗かった。遮光一級とはいえ外が明るくなれば多少は隙間から光が漏れこむものだけど、それもない。
──え。夜中?
もう一度、ちぇ、と声が漏れた。
──なんで夜中に目が覚めるのよお。せっかく眠れてたのにい。
再び枕に突っ伏し目を閉じる。羊を数えたり腹式呼吸をしてみたりしたが、一度去っていった眠りはさっぱり戻ってきてくれなかった。
もともと、睡眠不足でもなければ眠たいわけでもない。むしろここのところの睡眠時間は平均よりずっと多いくらい。そう、問題は時間ではなくて。ただ起きていたくないのだ。眠っている間はよけいなことを考えなくてすむから。
そうやってしばらくもがいていたが、やがて口の中がネバネバしているのに堪えきれなくなって、あたしは起き上がった。
洗面所でうがいをして、ふと壁に吊した時計が目に入る。長針と短針がくたんとハの字を描いていた。
──四時四十分……
ではなかった。右側の針の方が長い。ということは八時二十分だ。
最初は時計が止まっているのかと思った。が、秒針はせっせと回転している。
──うそお……。
昨夜眠りに落ちる前、最後に見た時刻は十一時を過ぎていた。いくらなんでも二十時間以上寝ていたとは思えない。ということは朝の八時に違いなく、八時を過ぎて真っ暗なんてことはいくらなんでもあり得ない。時計が狂っているのかと思って部屋に戻り、キッチンにかけた時計も確かめる。
八時二十分。
やはり朝の八時二十分。
あたしは首をひねった。何か普通でないことが起きているらしいという実感が湧いてくるまでに、しばらくかかった。
そのあと部屋の中をうろうろしているうちに、いくつかのことが分かった。
まず、スマホは電池が切れているのではなかった。よく見ると画面は表示されている。ただ、消えそうなほどにうっすらとしか映らない。故障かもしれない。そして圏外になっている。今まで家で圏外になるなんて一度もなかったのに。
電気はつく。けれど死にかけの虫みたいにじりじり変な音がするし、妙に暗い。テレビも同じで、ぼんやり暗いだけで何も映らない。音もしない。
水道は出る。けれどこれはアパートが古くて屋上に貯水タンクがあるからで、空になれば出なくなるかも。
最初に頭に浮かんだのは、何か災害が起きたということだった。地震とか、大規模な落雷とか──そういえば目が覚めたきっかけは揺り起こされるような感覚だった。だけど電波や電器に障害が起きるほどの災害なら、あの程度ですむだろうか。
あたしはテーブルの上の、昨夜飲んで放り出したままの薬を見た。しばらく前から、あたしは鬱病の診断を受けて心療内科に通っていた。病気のせいで失業したのか失業したから病気になったのか、そのへんは曖昧だけれども、関係があるのは確かだ。それはともかくとして、その処方薬には睡眠薬のような効果はないので大きな地震なんかあればすぐ気がつくはずなのだ。
窓の外は妙に静かだ。そしてやっぱり暗い。
あたしはしばらく座り込んでいた。何かが起きていて、何かした方がいいのだろうけど、行動を起こすような気力が起きない。
そんなあたしの腰を上げさせたのは、玄関の扉を叩く音だった。
──……ちゃん……アオイちゃぁん……。
消え入りそうな声であたしを呼んでいる。同じアパートに住んでいるヒナちゃんだと分かった。ヒナちゃんとは、つい最近まで廊下で出会ったら会釈する程度の間柄だったのだけど、歳が近いことと無職仲間であることが分かってからなんとなく親しくしている。もっともヒナちゃんには半分同棲状態の彼氏がいるけど。
──開けてよう……たいへんなのよう……。
相変わらずの鼻にかかった甘ったれ声だが、泣きが入っているようだ。たいへんなのは分かってるよ、と独りごちて、あたしはのろのろと立ち上がり、玄関を開けた。
ヒナちゃんは、やっぱり泣いていた。
「アオイちゃん、どうしよう……モカちゃんがいない……」
モカちゃんとは、ヒナちゃんが飼っているトイプードルのことだ。このアパートはペット禁止なのに内緒で飼っている。内緒で飼っている癖に、ノーリードで散歩に連れ出したりするから本当にこの子は分からない。そもそもあたしと親しくなったのも、窓を開けっぱなしにしていたせいでモカちゃんが部屋を脱走し、あたしのところに迷い込んできたのが始まりだ。
どうせまたそんな感じで脱走させたのだろうと思ってぼんやり聞いていると、ヒナちゃんはわっと泣き出した。
「さっきまで一緒に寝てたのよう。目が覚めたらいないの。アオイちゃん、一緒に探してよう」
どうせまた窓を開けっぱなしにしてたんだろうと思いながら、あたしはヒナちゃんの部屋に引っ張られていった。
ヒナちゃんの部屋は、泥棒にでも入られたみたいに散らかりまくっていた。部屋中の引き出しという引き出し、扉という扉が全部開けられ、洋服やら何やらが散乱している。犬を探しまくったのだろうということは理解できたが、テーブルの上に転がっている一ダースかそこらのチューハイの空き缶やお菓子の空き袋までは犬とは関係ないだろう。
ジャーキーの袋をガサガサいわせながらモカちゃん、モカちゃんと呼び続けるヒナちゃんを後目(しりめ)に、あたしはそうっとカーテンをめくった。
窓は閉まっていた。きっちりと。
ヒナちゃんがあたしのところへ来るために部屋を出たとき気づかずに出て行ったのかもしれない。
なんだかんだでそんな結論になって、ヒナちゃんは外を探すことにした。あたしも一緒に行くことになったのは、ヒナちゃんが懇願するのと、他にすることもないのと、少しは外の情報が知りたかったのと、理由はいろいろだ。
外は静まりかえっていた。
アパートのまわりはもともとごちゃっとした住宅街で、昼でも夜でも人通りは多くないが、今はまったく人っ子一人いなかった。どの家もきれいなままで、崩れたり傾いたりしている様子はない。けれど灯りの漏れている窓は一つもなかった。真っ暗な道のところどころで街灯が、じりじりと呻(うめ)きながら息絶えそうな光を投げかけている。
あっちの茂みやこっちの物陰をのぞきこんでは犬を探すヒナちゃんのかたわらであたしは、やっぱり変だなあと考えていた。
時刻はとっくに九時を過ぎていた。なのにまだ真っ暗だ。じゅうぶん異常事態なのにどうして誰も騒がないんだろう。
「彼氏くんには連絡した? 助け呼んだら?」
あたしがそう提案すると、ヒナちゃんはぷっと頬を膨らませた。
「ダメ。昨日ケンカしたの」
聞いてみるとケンカの理由は実にしょうもないもので、ヒナちゃんが買っておいたケーキの箱を彼氏くんが先に開けたとか、そんなことだった。勝手に食べたなら怒るのも分かるが、箱を開けたくらいいいじゃんと思ったが、二人には重要なことなんだろう。
ヒナちゃんの話では昨日は結構派手にやり合ったらしく、あたしはヒナちゃんの部屋にあった大量のチューハイの空き缶のわけが分かったような気がした。
「でも、あんまり飲みすぎるのよくないよ?」
「うん……でも、もう昨日はどうでもよくなって……このまま死んじゃってもいいやって……」
ヒナちゃんは突然ぽろぽろと涙をこぼし、
「モカちゃあん! どこにいるのおおお!」
と叫んだ。
「うるせえ」
すぐ横──正確にはフェンス一枚隔てた向こう側の茂みの、膝くらいの高さあたり──から突然声がして、あたしは飛び上がりそうなほど驚いた。
「静かにしろよ。迷惑な奴だな」
茂みの中からのっそりと男が体を起こした。
あたしたちが立っていたのは小さな公園の裏手だった。フェンスの内側には低い植え込みと藤棚、その下にベンチがある。男はそのベンチに横たわっていたのだった。第一声はえらくドスのきいた感じで驚かされたが、よく見ると男はまだ「男の子」だった。高校生か、せいぜい二十歳くらいだ。
「夜中に何騒いでんだ、ばか」
「とっくに夜中じゃないけど」
「ああ?」
男は顎を突き出して睨みをきかせてきたが、そんな表情をするとよけいに幼さが際立った。
「もう九時回ってるよ。それよりあんた、いつからここにいるの? このあたりで茶色いトイプードル見なかった?」
「……いや」
男は面食らったような顔で、案外素直に答えた。
「そう、ありがと。──ヒナちゃん、行……」
しゃがみ込んで茂みの奥をのぞいているヒナちゃんを促した拍子に、〝それ〟が目に入った。
藤棚からぶら下がっているロープ。先っぽがわっかになっている……。
まじまじ見ているのはよくないと思いながら、目が離せなくなった。あたしの視線の先に気がついたのか、男は慌てたようにあたしの前に立ち塞がった。
「犬探してんだろ。行けよ」
顎をしゃくって追い払おうとする。どうしよう。聞きとがめた方がいいのだろうか。それとも大きなお世話?
ためらいながらヒナちゃんを促していると、男が背後から呼び止めてきた。
「おい、さっき変なこと言ったな。今何時だって?」
「九時」
「嘘つけ。まだ真っ暗じゃねえか」
「だって本当だもん。何だったらどこかで確かめる?」
男──名前を聞いたらジョーというらしいが本名じゃないと思う──は、夜中の二時頃からあそこにいたらしかった(何のためにとは聞けなかった。あからさますぎる)。時計は持っていないし、スマホはあたしたちと同じ状態で今の時刻は分からない。
まだ夜明け前に決まっている。あんたらの言うことは信じられねえ──そう言い張るので、一緒に行くことになった。何だかおかしなことになったと思ったけれど、あのまま首吊りされるよりはずっといい。
犬はなかなか見つからなかった。ヒナちゃんは半泣きを通り越して茫然とした顔をしている。それでもあっちの茂みこっちの物陰をのぞくのは忘れない。
そして、時刻を表すものもなかなか見つからなかった。街角にこんなに時計がないなんて思わなかった。あたしが子供の頃は──ううん、ほんの十年くらい前までは、どこにでも時計が立っていた気がするのに。
住宅街を抜け、駅の近くまで足を伸ばして、ようやく一軒のコンビニを見つけた。真っ暗な夜道に煌々と──とは言えない、やっぱり弱々しい光だけど、それでも周囲よりひときわ明るく光を溢れさせている。
自動ドアはぱっくり口を開けていた。やっぱり電気関係はおかしい。
カウンターの奥の壁にはアナログの時計がかかっていて、確かに動いていた。時刻はもう十一時になろうとしている。
「嘘だろ……」
立ち尽くしているジョーをそのままにして、あたしは店の中を見回した。食べ物を目にすると、急に猛烈におなかが空いていることに気がついた。そういえば、昨日の朝から何も食べていないんだった。
病気のせいなのか、このところ食欲がほとんどなかった。こんなに空腹を感じるのはいつぶりだろう。長い距離を歩いたからだろうか。
食べられそうなときを逃さず食べておけと、医者は言っていた。栄養状態の悪さは病状の重さに直結するから。それであたしは、何か買おうと思った。が、カウンターに店員の姿がない。セルフレジの画面は消えたままだ。
「すみませーん。お願いしまーす」
バックヤードにいるのだろうと声をかけていると、店の奥でゆらりと立ち上がる人影があった。店員かと思ったが、制服を着ていなかった。
「誰もいないよ」
人影は、五十歳くらいのおじさんだった。無精髭と髪の毛がぼうぼうに伸びている。身につけているポロシャツやチノパンはきれいだが、傘やらタオルやら洋服やらを詰め込んでビニール袋にくるんだカートを引いていた。
「うん、だーれもいない。お嬢ちゃんたちどこから来たの?」
おじさんは真っ赤な顔をしていた。数メートル離れていてもものすごく酒臭い。黙っていると、おじさんは勝手にしゃべり出した。
「おじさん臭いかな? 通夜酒よ、通夜酒。今夜はお通夜だったの。一緒に暮らしてた猫ちゃんが死んじゃってさ。目も見えない、耳も聞こえない、親猫に見捨てられてそこの河原で鳴いてたの。そんなでも五年も生きてくれたのに」
おじさんは赤い顔を歪めて、急におんおんと泣き崩れる。
「ぼくだけ置いていくんだもんなあ。もういいよ。一緒に連れてってくれよ。毎朝毎朝、目が覚めるのがつらいんだよ」
気がつくとヒナちゃんとジョーもまわりに集まってきて、しんみりとした目でおじさんを見つめていた。
こんなに大声で騒いでいるのに、店員はついぞ出てこなかった。
おじさんの「一緒に連れてってくれ」というのが、猫に言ったのかあたしたちに言ったのか分からない。が、気がつくとおじさんも一緒に歩いていた。
「今がもう昼だってことは間違いないんだよな」
コンビニでいただいてきた(お金は置いてきた)パンをかじりながら、ジョーが言った。自殺するつもりでもおなかは減るのがいかにも男の子らしい。
「なのになんでいつまでも夜なんだ? 何が起きたらこんなことになるんだ? なんで誰もいないんだ?」
真っ暗な道を、あたしたちは四人横に並んで歩いている。車は一台も通らない。静けさの中に、おじさんの引っ張るカートの音だけががらがらと響く。
「誰も、じゃないけどね。ぼくたちはいる」
おじさんが言った。泣き止んでからのおじさんは、涙と一緒にアルコールも流れ出てしまったみたいにクールになっている。酒臭いのは相変わらずだけど。
「ジョーくんがいま的確にまとめてくれたね。何が起きたのか? それは分からない。なんでいつまでも夜なのか? それも分からない。けどなんで誰もいないのか? は答えが見つかるかもしれないよ。それは言い換えれば、なんでぼくたちはいるのか、ということだからだ」
ホームレスのおっちゃんだと思っていたら、えらく理屈っぽい喋り方をする人だ。ホームレスが理屈っぽくていけない理由はないけど。
「もっともっと歩いていれば、また仲間が見つかるかもしれないねえ。そうやってサンプルを増やしていけば何か共通点が見つかるかも」
「見つけてどうすんのさ」
ジョーは食べ終わったパンの袋を丸めて放り投げる。袋は風に乗って暗闇の中を飛び去っていった。
「ああ、そうか。そういやそうだね。知りたいかと思ったんだけど、どうでもいいのか」
おじさんは急に空気が抜けたように溜息をついた。
「明日が来たって何のいいことがあるわけじゃなし、このままでも……」
明日が来たって──か。
そういえばおじさん、毎朝目を覚ますのがつらいって言ってたっけ。
その気持ちはあたしもちょっと分かる。病気を治さなきゃ仕事に就けない。仕事をすれば病気が悪化する。堂々めぐりのどん詰まり。減っていくばかりの貯金と失業保険の終了を目の前に、先がまったく見えない。一日が過ぎてまた朝が来るのが怖い。
彼氏とケンカして死にたいと思ったヒナちゃん。
首吊りのロープを前に一晩中ためらっていたジョー。
みんな、新しい日が来るのが怖かった。
モカは犬だから、そんなこと考えもしなかっただろう。
おじさんの言った共通点というのは、そういうことなんだろうか。
明日なんか来なければいいと願ったあたしたちだけが、夜の中に取り残されたんだろうか。
おじさんの一言を最後に、みんな黙ってしまった。もしかしたらみんな考えているのかもしれない。あたしと同じことを。
あたしたちは夜の中を、黙々と歩き続ける。
明日はまだ来ない。
〈了〉
