「カルタゴ:消えた商人の帝国(第4回)」服部伸六

カルタゴ 第4回

III カルタゴの大航海時代
  1、ハンノの巡航
●「ヘラタレスの柱」を越えて
●ハンノはカメルーン山の噴火を見た?
  2、目指すは金[キン]
●アフリカ一周の冒険旅行
●沈黙交易

III カルタゴの大航海時代

1、ハンノの巡航

     「ヘラクレスの柱」を越えて
 ハンノという名はカルタゴではありふれた名であったらしく、これからも、この名をもつ多くの人にたびたび登場していただくことになる。この名前は、日本ではハンノと呼ばれているが、これは英語からの翻訳から来たもので、フランス語ではハノンとなっている。アラブ人の友人が私に教えてくれたところでは、「ハヌーン」と発音すべきだということだった。
 紀元前425年ごろのこと、通称ハンノ大王というカルタゴ人が、大船団を率いてジブラルタル海峡から大西洋に乗り出し、モロッコの海岸に沿って南下してカメルーンまで航海している、というのがこの巡航の話である。ポルトガル人が大航海をはじめる約2000年まえの話なのだ。
 ジブラルタルの海峡、当時の呼び方を用いると「ヘラクレスの柱」を越えて大西洋に出たのは、ハンノがその最初の人ではなく、それまでティールの船乗りはこの海峡を出て南スペインのカディスに錫を求めて航海しているし、さらに北上して英国の南の島へも到達している。
 カルタゴの商人貴族の家柄のハンノのこの時の航海記録は、カルタゴのバール・ハンモン神殿の石板に刻まれていたということであるが、原物はローマ人の破壊にあって残っていない。残されたのは、ギリシアから来た旅行者がカルタゴ政府から見せてもらった記録を書き写したコピーであったという。私が見ることができるのは、そのまた仏訳である。それは次のような前文ではじまっている。

 「カルタゴの王ハンノのヘラクレスの柱の外への旅の物語。これはクロノスの神殿の中に吊り下げられていた板に刻まれていた。」

 クロノスといわれるのはギリシア人がカルタゴ人の神バール・ハンモンを自分たちの神の名に翻訳して、そう呼んだのである。
 記録はつづく。

 「カルタゴ人はハンノにヘラクレスの柱の彼方に出て、カルタゴ人の町を建設させることを決定した。50の櫂をつけた60隻の帆船を造り、それに約三万人の男女と食糧とその他の要具を積みこんだ。」

 ハンノは市民議会から任務を委託されたのである。乗組んだ男女の数は大へんな人数になっている。一隻に500人が乗り込んだことになる。とすると船はかなり大きかっただろう。しかし、全部のものが最終地点まで行ったわけでなく、このあとでみるように途中で次々と降ろされて、それぞれ植民地づくりのために上陸したらしい。

 「ヘラクレスの柱を通過したのち、二日間の航海のあとで、チミアテリオンと名づけることになる最初の町を建てた。この町は広大な平野の中に位置している。」

 このギリシア風の名の場所は、モロッコの首都ラバトの北にあるケニトラに当ると考えられている。じじつ、ケニトラはガルブ平野の中心にある。

 「次いで、われわれは、森に覆われたリビアの岬ソロエイスに到着した。」

 ソロエイスは、現在のカップ・ブラン (白岬) に比定されている。現在のエル=ジャディダ市の南にある白い岩の輝く断崖である。リビアとあるのは、当時北アフリカ全体を指した名称である。カルタゴ人から見ると未開人の住む地という語感があったに違いない。

 「そこにポセイドンへの礼拝所を造ってから、われわれは太陽に向って航海し、半日ばかりのうちに背の高い葦の繁茂した、海に面した潟湖[ラギューン]に達した。象やその他のたくさんの動物が見られた。この潟湖を通過してから、一日の航海ののち、海岸にカリオン壁、シイテ、アクラ、メリッタ、アランビスと呼ぶ植民地を建てた。」

 カリオン壁というのは、カリコン=ティエスとも呼ばれて現在のサフィに比定されている。同様にアクラは現在のエル=ジャディダであり、アランビスは今のラバトであるとされる。
  

     
 ここにいわれている潟湖は現在も残っていてカキの養殖が行なわれている。ここに象が棲んでいたというのには驚く。ここでハンノの船団は白岬から引き返したらしいことが、「太陽へ向って」という句から想像される。ハンノはひと先ず先へ行って下見[したみ]をして、植民地の選定をしたあとで、場所を決定したのである。

 「そこを出発してわれわれは、リビアから流れているリクスス河に達した。その河畔ではリキシト人たちが家畜に草をはましていた。われわれはこれらの人たちと友人になり、しばらくここに留まった。」

 船隊はさらに引き返している。というのはリクススは現在もカルタゴの遺跡として現存していて、リクソスという名で残っているからである。現在、この遺跡の位置は海からかなり遠くなっているが、河が運んで来た土砂で河口が埋まったためであろう。そのころハンノの船は現在の遺跡の場所に横づけができたものであろう。
 そこにあるカルタゴ人の小さな街の遺跡の上には、ローマ人の建てた闘技場の跡が残っていた。この地方への足がかりとして地の利を得ていたのであろう。そこから内陸に入ると、ローマの支配下にあったヴォリュビリスの壮大な遺跡に達することができる。
 カルタゴ人はここにかなり長く逗留して、リキシト人と友人になったということは、彼らの言葉も学んだにちがいない。だからカルタゴ人はこの人たちをのちに通訳にして南へ前進することになったのだ。

 「河上には非友好的なエチオピア人や、野獣のいる土地があり、その奥にはリクソス河の源となる山々があるという話である。その山岳には異様な身なりの穴居族が住んでいるという。リキシト人は馬より早く走ることができると自慢していた。」

 エチオピア人というのはまえにも書いたとおり、黒人の総称で白色リビア人と区別されている。水源の山というのは現在のアトラス山脈の支脈リフ山脈のことだろう。

 「リキシト人のうちから通訳を選んで乗せ、砂漠の岸辺を二日間南へすすみ、次いで一日を太陽へ向けてすすんだ。すると湾の奥に周囲五スタード (ギリシアの尺度で、1スタードは約180メートル。したがって、この島の周囲は一キロとなる) の小島を発見した。われわれはこの島をセルネと名づけることにして、そこへ植民者を降ろした。今までの航程からして、この地はカルタゴの反対側にあると判断した。なぜなら、カルタゴから (ヘラクレスの) 柱までと、柱からセルネまでとは同じ里程だからだ。」

     ハンノはカメルーン山の噴火を見た?
 さて、このセルネはどこを指すのか。説はほぼ二つに分かれている。太陽へ向ってすすんだ湾というのはフランソワ・デクレによると現在の西サハラのリオ・デ・オーロ (金の川) であろうということだが、探険家のジャン・マゼルは、セネガルのダカール市の前面にあるゴレー島だろうという。しかし、湾というよりもむしろ岬に近いダカール附近にこれを求めるのには無理があるように思われる。デクレ教授の説のリオ・デ・オーロはそれに反して、現在のダクラと呼ばれる町のある岬に抱かれた湾になった地形のなかにある。しかも、この説が有利なのは、古い地図にはこの湾にエルヌ島 (ile Herne) と名づけられた島があるからである。セルネ (Cerné) とエルヌは似通った発音になる。デクレ教授に軍配を上げたい。
 教授は、この島を、カルタゴ人の植民地の最西端のものと想定し、カルタゴ人が金[キン]の買付のために開いていた勘定所があったのだろうと言っている。なぜなら、ハンノ一行の最大の目的は金の購入にあったからだという。
 記録はさらにつづく。

 「(セルネ) から、クレテスという大きな河を通って、われわれはセルネ島より大きな三つの島を包んだ湖に達した。これらの島を出て、一日の航程ののち、もう一つの湖に達したが、この湖の近くに大きな山があり、動物の皮を着た野蛮人が沢山いて、われわれに向って石を投げつけたので、われわれは上陸ができなかった。そこでもう一つの大きくて幅の広い河には入ったが、そこにはワニと河馬がいっぱいいた。われわれは引返してセルネに戻った。」

 ここで言われている河というのはセネガル河であるらしい。ハンノはこの河をのぼって金の取引先をみつけようとしたが、未開人にはばまれて目的を果さずセルネの基地に引返したものであろう。

 「われわれは (セルネ) から南の方角へ航海し、12日の間、エチオピア人だけが住む沿岸にそってすすんだが、われわれが近づくと逃げ去るのだった。彼らは訳のわからぬ言葉を話したが、われわれが連れていたレキシト人にさえ解けぬ言語だった。」

 船は岸すれすれに航行したから、岸にいる黒人の言葉まで聞きとれたのである。

 「最後の日、われわれは木の茂った、そそり立った山に近づいたが、その木は香気を発し、色もそれぞれ違っていた。この山を迂回してから二日ののち、われわれは広い湾に入ったが、向う側には平野がひろがっていた。」

 この山というのは、現在のギニア共和国のカリクーマ山だろうと言われる。このあたりの地形は入江などが入り組んでいて、このハンノの報告とほぼ一致しているようである。ハンノの一行は、その後ベニン湾へすすんでいる。

 「そこで夜になると火が燃えていて、僅かの間隔をへだててあちこちに燃えていた。そこで水の補給をしてから、五日のあいだ岸に沿って航行し、通訳が『西の角[つの]』と呼ぶ大きな湾に到着した。この湾の中には大きな島があり、その島の中には潟湖があり、またその中に島があった。この島に、われわれは上陸したが、日中は森があるだけなのに、夜になると火があちこちに燃えるのが見られ、笛の音、シンバルや太鼓の音に加えて大騒ぎしている人の声が聞かれた。われわれは恐しくなり、占い師がこの島を離れるようにというので立去ることにした。
 そこでわれわれは急いで出発したあと、香気で満ちみちた灼けつくような岸に沿ってすすんだ。炎の流れが流れて出て海に注いでいた。暑くて陸地に近づくことが出来なかった。恐しくなって、われわれは急いでそこを離れた。四日間の航海のあいだ、夜になると陸地は火に覆われていて、その真中に、ほかのものより大きな火が立ち昇っていて星まで達するかに見えた。昼になってみると、それは大きな山であることがわかった。『神の戦車』という山だそうである。それから三日間、火のそばを航行して『南の角』という名の湾に着いた。奥の方に一つの島があって、その中に湖があり、その中にまた一つの島があって野蛮人が住んでいた。女の方が多かった。彼女たちの体には毛が生えていて、通訳はそれをゴリラと呼んだ。われわれは男の方を追っかけたが、一人も捕えることが出来なかった。というのは逃げ足が早かったからである。だが三人の女を捕えることができた。噛みついたり、ひっかいたりしてわれわれに従いてくる様子がないので、われわれは彼女らを殺し、皮を剥いてカルタゴまで持って帰った。というのは食料がつきて、もはや前進ができなかったからである。」

 この記録の後の方は、一行がどんなに危険で難儀な冒険を果し終えたかを吹聴するホラ話のような気もする。だが、この中で「神の戦車」といわれている山が学者たちのいうようにカメルーン山だとすると、一行はちょうどその噴火にぶつかったともみられるので検討してみる価値はあるかもしれない。また、ゴリラであるが、これが今日のゴリラと同じものなのか、それとも人間なのか判らない。いずれにしても余り信用のできる記録とはいい難いだろう★。
 [★原註=とはいえ、1986年の8月、このカメルーン山の旧火口から噴き出したガスは、谷を伝って山麓の村を襲い数千人の村人を殺して世界を驚かせた。空気より重いこのガスは地上1メートル以上には拡がらず、人間も動物もガス死させたということである。]

 しかし、セルネのところまではかなり信用できるのではなかろうか。ここまではカルタゴの植民地として活用されていて、とくにセルネは金[キン]の購入地として重要な基地だったろうと思われる。

2、目指すは金[キン]

     アフリカ一周の冒険旅行
 ハンノの大航海よりほぼ一世紀早く前六世紀の初頭、エジプトのファラオだったネコス王の委嘱をうけてフェニキア人によるアフリカ一周の航海が行なわれたという話は、この話を伝えているヘロドトス自身が、「余人は知らず私には信じ難いことであるが」と断わって (ヘロドトス『歴史』中巻、松平千秋訳、岩波文庫、28ページ) その事実に懐疑を告白しているため真偽のほどは怪しまれていたが、最近では、どうもほんとうらしいということになって来ている。
   


 このフェニキア人の一行は紅海を出発して、希望峰をめぐってアフリカを一周した上、西方から地中海へ戻ったというのである。地中海へ戻ったのは三年目だったという。ヘロドトスの伝聞によると、嵐の季節になると一行は船を陸に揚げ、麦の種を蒔いて年を越し、麦の収穫[とりいれ]をすませてから再び船出して航海をつづけた。彼ら一行は、最初のうちは太陽がその「右手」に沈んだのを見ていたが、次には「左手に」見たという報告をしていたので、ヘロドトスは、そんな馬鹿な話は、と取り合っていない。しかし、考えてみると、希望峰までは太陽が右手に沈み、そこを越えて大西洋を北上することになると左手に沈むというのは正しいことになる。
 してみると、フェニキアの船乗りが前七世紀ごろすでに紅海を出て熱帯地方の珍しい物資を運んで来ていたことはあり得ることになる。最近イタリアのパレストリナ (ローマの近郊) の古代遺蹟で発見された銀製の衣服掛けはフェニキアで製造されたものであり、人間ほどの大きさの尾のないチンパンジーを狩りしている人間の姿が彫られているので、そのことから海の民の熱帯地方での活動が裏づけられるとされるようになった。
 カルタゴ人の航海熱の高まりも、それとの関連で考えられるが、この時代の関心は決して地誌学とかいうような学問的なものではないし、ハンノの航海日誌の書き移しにしても、そういう関心から書きとられたものではないだろう。
 カルコピーノは、その著『古代モロッコ』( J. Carcopino 《Le Maroc antique》 Paris Gallimard, 1943) のなかで、ハンノの航海の最大の目的は、当時の富の最高のシンボルだった金[キン]のルートを開発することだったろうと推測している。だからその事業を記録するのに当っては二つの配慮がなされたはずだというのだ。その一つは、自分たちが行なった危険きわまりない航海をできるだけ正確に記録して後世に残すということと、もう一つは海上貿易の競争相手であるギリシア人に、西アフリカの地誌についてはできる限り知られたくないという配慮がなされていたというのである。そしてカルコピーノは、ギリシア人が入手したテキストは、ほんもののコピーではなく、ハンノの配慮によっていくらか変造されていたものだと想像している。これが真実だとすると、モーリタニアの海岸のセルネからの後の記述のあいまいさが納得される。こうして事実をぼかして隠蔽することによって、探険の真の目的であった金の所在と購入ルートをあいまいにして置きたかったのだろうというのだ。
 ハンノの一行は西サハラのリオ・デ・オーロの近くのセルネを最南端の基地としているが、この地名から判断できるように、太古からここでは金[キン]の取引が盛んであったのだろう。カルタゴ人は海からだけでなく、陸上からもサハラを越えて金に近づこうとしていたことがわかっている。いずれにしても、サハラ周辺の砂金が目当てだったのである。
 現代人の富は銀行の帳簿に記載された数字 (預金) に化けていて持ち運びする必要はなくなっているが、古代人にとっての富は持ち運びできる金貨や銀貨であり、倉庫の奥深く眠っている宝石や金塊であった。マルクスが『資本論』のなかに引用して有名になっている、シェークスピアの『ヴェニスの商人』のセリフの中の「土くれ」こそ富のシンボルだったのである。

     沈黙交易
 ヘロドトスが記している有名な「沈黙交易」または「無言取引」は、カルタゴ人が西サハラで黒人を相手にして行なっていた取引の実態を明らかにしている。

 「カルタゴ人はこの国に着いて積荷をおろすと、これを波打際に並べて船に帰り、狼煙 [のろし] をあげる。土地の住民は煙を見ると海岸へきて、商品の代金として黄金を置き、それから商品の並べてある場所から遠くへさがる。するとカルタゴ人は下船してそれを調べ、黄金の額が商品の価値に釣合うと見れば、黄金を取って立ち去る。釣合わぬ時には、再び乗船して待機していると、住民が寄ってきて黄金を追加し、カルタゴ人が納得するまでこういうことを続ける。双方とも相手に不正なことは決して行なわず、カルタゴ人は黄金の額が商品の価値に等しくなるまでは、黄金に手を触れず、住民もカルタゴ人が黄金を取るまでは、商品に手をつけないという。」 (ヘロドトス『歴史』松平千秋訳、岩波文庫、第四巻、196節)

 カルタゴの冒険商人はこのような取引きをしながら西アフリカ海岸を南下したのだろう。カルコピーノはまた、「クレテス」という河を「バンブーク (Banbouk) 河であると考証している。この河の源から金を積んで隊商が河を下って来たのだという。現地黒人は採取した砂金をこうして海岸まで運んで来たが、カルタゴ人はそれを、曾長などに手土産などを添えて手に入れたものだろう。そうであるなら、自分たちで直接その原産地へ接近すれば安くなるはず。ハンノの探険はその接近の道の模索であったに違いない。そのことには一言もふれずにサラリと記述しているところが、心憎い、とカルコピーノはハンノの航海記録の評釈としてコメントしている。

        [カルタゴ 第4回 終]

 ウィリアム・キュリカン著「地中海のフェニキア人」創元社1971 の図版を引用。