
勝ち誇ったかのようないやらしいスカシ目で、もう一人の俺が俺をにらみ付ける。
「そのとおりだ。俺自身があんたなんだよ。あんたのコピーだ。あらゆる生体認証をパスできる。指紋も、顔や網膜のパターンも、手のひらの中の血管の形まで全部同じだ。DNAすらも! 機械どもには俺とあんたの違いは分からない。完全なる同一人物ってわけだ」
軽く両手を広げてみせた。
タイトな黒いジーンズに、だぶっとしたダークグレイのジャンパー。短く刈り込んだ黒髪をオールバックにしている。なかなか精悍な面構えだが、その視線からは根深そうな憎悪のようなものが感じられた。
左手首に銀色のシー端を巻いている。見た目こそ普通だが、恐らく中身は俺のしている上級公務員用の端末とまったく同じはずだ。もし違っていたなら、ここまで深刻なエラーにはなっていなかったはずだからだ。
「一人しかいないはずの俺が、ここには二人いる。それでシステムがパニックになってるんだな」
「より正確には、お前ではなく、国家公安省の事務次官殿が、だがな」
自分の手首の端末を俺にかざし、クク、とにやける。
これはいったいどういうことなのか。俺は必死に思考を巡らせる。
通常、本人が存命の間は、クローンは生み出されない。何らかの事情により作成する場合でも、クローン体には特別なマーカーが埋め込まれるので、存在情報がオリジナルとバッティングすることはない。
だが目の前のこいつには、その処理が施されていない。正規のルートから生まれたわけではない、ということだ。一言でいうなら、闇クローン、だ。非合法な複製体。
そもそも俺はまだ生きているし、クローンの作成を許可したことなんて一度もない。第一、俺のことなんて誰も惜しまない。政府からすれば、くたびれきった消耗品だ。もし俺が死んでも、次の奴が後釜に座るだけ。クローン一人を生み出すには、戦闘用サイボーグ十人分のコストがかかる。なら、そっちの方がはるかに得だ。わざわざ俺をもう一人こさえる必要などどこにある?
三十五年前とは事情が違う。あの頃はまだ世界も、この国も、ここまで狂ってはいなかった。バックアップ人間の構想は、世の中が多少は平和で豊かだった頃のものだ。今となっては時代遅れの、妄想じみた発想だ。
だが非合法な組織、反政府活動家、つまりはテロリストども、にとってはそうではないのかもしれない。
闇ルートでならばコストもある程度は抑えられるのだろう。それに奴らが欲しがっているのは、俺そのものではなく、俺の座っているあの椅子なのだ。国家公安省事務次官という、俺の肩書きを狙っている。
俺のバックアップデータをどうやって入手したのかは知らんが、このままずっと公安とことを構え続けるよりも、そこの事実上のトップを偽物と入れ替えてコントロールする方が安上がりだということに、連中の中の誰かが気づいたのだろう。
だとすると、そのプランは俺だけでは終わらないはずだ。
「――こうやって、この国の主要な人物を一人ずつ、クローンに入れ替えてゆくってわけか? 官僚、政治屋、財界人、研究者、報道関係者……、そしてゆくゆくは裏から社会を、世界を、お前らは牛耳るつもりなんだな」
「俺とあんたが入れ替わっても、何も問題はない。そうだろう? 俺はあの日のあんただ。だからこれはテロじゃないんだよ」
はぁ、と俺。大袈裟に呆れてみせる。
致命傷ではないが、すでに体のあちこちが切り裂かれ、血がにじみ出ている。
「こうして人が血を流してるのに? もうすぐ殺されてしまいそうなのにか? まさしくこれはテロルそのものだろうに」
「社会システム的には誰も死なないのさ。森月司が、ただちょっと若返るだけ。あんたの死体には身元不明のレッテルが貼られるだろう。それで終わりだよ。よくある話だろ?」
「機械の目はだませても、人間はどうだ? 俺の肌はそこまでつやつやしてないし、お前は俺にしては皺や白髪の数がまるで足りてないように見えるがな」
「お気遣いいただいてかたじけないが、そんなのはメイクでどうとでもなる。あるいは多少、顔をいじったっていい。人間なんて機械よりも簡単にだませるさ。それにもう人間同士が実際に顔を突き合わせて話すことなんて滅多にないだろ。誰も気づかないよ」
再びナイフを構える。どうあっても俺を始末する気のようだ。
いつの間にかビークルの炎は消えていた。スプリンクラーからの放水も止まっている。
じりじりと奴が迫る。
クローンにも人権はある。もちろんオリジナルにも。どちらかがどちらかを勝手に殺してもよい、などという法はない。だがテロの手先なんぞに遵法精神を説いたところで無駄だろう。こいつは俺に成り代わるためだけに生み出された存在だ。それを諦めたら、何のために生まれたのかが分からない。たぶん今、本人はそんな風に思い込んでいる。あぁ、考えてみれば若い頃の俺は随分と未熟だった。視野狭窄というか、思い込みの激しい、猪突猛進型の馬鹿だった。テロリストどもにとってはいかにも御しやすい、いわゆる鉄砲玉人間って奴だ。
目を細め、相手を、若造を、かつての俺を、睨み付ける。
「テロリストどもに、好き勝手をやらせるわけにはいかないな」
「ところが俺はテロリストなんかじゃなくて、革命家なのさ。
それと、何か勘違いしているようだが、俺は脳をいじられてるわけではないし、催眠術で操られてもいないぜ。外部からのコントロールなんて一切、受けてない。あくまでも自分自身の自由意思に従っているだけだ」
「自分のオリジナルを殺すことが、お前の意思だってのか?」
「あんたにはがっかりだよ、事務次官。国家公安省で今まで何をやっていた?
目を開いて周りをよく見てみろ。あっちもこっちも殺人ばかり。社会は乱れ、国民は貧しくなり、文化は衰退した。一方で一部の富裕層どもだけが、好き勝手に快楽をむさぼっている!
こんな腐りきった政府の犬に成り下がるとはな。恥を知れ! 理想に燃えていた、あの日のあんたはどこに行っちまったんだッ!」
今度こそ俺は、鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
がっくり、と膝が崩れ、手のひらから零(こぼ)れた警棒が甲高い音とともに床に転がる。
これまでの人生が走馬燈のように脳裏に去来する。死んでいった仲間たち、救えなかった命の数々、剥き出しとなった暴力の連鎖、どこまでも続く地獄の日々。俺自身も血まみれになりながら、ドブの底を這いずるようにして生きてきた。激戦区に投入され続ける毎日。そこにあるのは血と弾丸、苦痛と恐怖、絶叫と絶望だ。暗闇の中で正義と正義がぶつかり合い、悪党同士が殺し合う。かいくぐってもかいくぐっても、次の地獄がやってくる。死線の先にあるのは次の死線だ。闘争という名の鎖につながれた永遠の虜囚、それが俺だった。
わななく両手のひらを見つめる俺に、更なる追い討ちがかけられる。
「俺と代われッ! ふぬけになった貴様なんかより、俺の方がよっぽどマシだ! 俺ならもっとずっと良くやってみせる、絶対に!」
この瞬間、俺の中で何かが弾け飛んだ。
全身の血が燃焼したかのように熱くたぎる。逆上した神経が、沸騰したアドレナリンが、瞬時にして肉体と精神を支配する。
言ったな、このクソガキッ!
俺は涙を振り払って立ち上がると敵を睨み付ける。憎悪とともに。奴は今度こそ俺を刺し貫こうと、右手を大きく背後に引いていた。
そのままの姿勢でこちらに向かって跳躍してくる。奴の体が宙を舞う。
周囲の何もかもが、ゆっくりとした動きになっていた。
何も知らない青二才の分際で! と俺の中で凶悪な何かが吠えていた。
はるか上空で瞬く強烈なフラッシュの下で、かつて摩天楼だった瓦礫の山からは赤い川が流れ落ちていた。都市の谷間には腐臭がわだかまり、ネズミやカラスや様々な虫の塊が、人々の骸を音を立ててむさぼる――。脳裏から永遠に消えることのないあの光景を、こいつは見てもいない。何も知らない馬鹿野郎が今、これまでの俺の人生の全てを否定したのだ!
踊るような暗殺者のシルエットが、ゆっくりと俺に向かって降りてくる。
いいだろう! ならば俺ももうお前を哀れだとは思わんッ!
力任せに自分の手首から端末をむしり取ると、俺は大声でコマンドを叫んだ、奴の左手首に向かって。
* * *
気がつくと俺はザラザラした深緑色の床の上で、うつぶせのまま伸びていた。
ぺっぺっ、と口の中の砂を吐き出しながら、慌てて立ち上がる。ひどい味だ。使い古されたマシンオイルの臭いがする。
ここは……あの地下駐車場だ。ここで俺はだらしなく伸びていたのか。いったいどれくらいの間だ。恐らく数分程度だったのではないかと思うのだが。駄目だ。意識を失う直前の記憶がない。何か強烈な光を浴びたような気がするのだが。あれはいったい――
まだ全身に痺れが残っていて、真っ直ぐ立っていられない。ふらついてしまう。
周囲に森月司の姿はなかった。逃げたか。ターゲットをロスト。暗殺計画は失敗だ。
辺りには半分ほど焼け焦げたリニアビークルが一台あっただけ。俺のナイフは、どこにもない。取り上げられたか。
だが、だとするとなぜ俺はまだ生きているのか。オリジナルの奴はなぜ俺を始末しなかった? 殺さないにしても、警察に突き出すなり、テロリストとして公安で拷問するなりすればいいものを。なぜ?
ナイフはなかったが奇妙なものが二つ、頭上に浮かんでいることに俺は気づいた。ガードドローンだ。あいつの。こんなところで何してる?
ズキズキと痛む頭に手を当てていると、どこからか声がした。骨伝導システムからの音声通知。
〈さすがに若いと、回復が早いな〉
奴だ! 俺のオリジナル、俺にとっては不倶戴天の敵!
「き、貴様、いったい俺に何をした!」
無人のフロアの真ん中で俺は吠える。
〈自分の端末をオフにしただけだ〉
何ッ! い、いや、そうか、そういうことか。俺は相手の言葉を理解する。
奴がシステムから切り離されたのは、この場に森月司が二人いたからだ。だが、どちらかの端末をオフにすれば、その矛盾は解消され、システムは正常な状態に戻る。
あいつは俺の端末ではなく、自分の端末を切ることで、それを実現したのだ。
だが、それでもまだ謎は残る。
正常な状態に復帰した瞬間、システムにとってはこの俺こそが世界で唯一の森月司になったはずだ。ならばなぜ奴のドローンが俺を攻撃したのか。
緊急コードを発動したからだ、と相手が告げた。
〈あの時ドローンは、この場の脅威を排除したんだ。武器を持っている人間、つまりはお前、をスタンさせた〉
あぁ? 何を言っている、と俺。
「そりゃ確かに俺とあんたの声紋は同じだから、端末はあんたのコマンドも受理するだろう。だがなぜだ! あのドローンは森月司を守るための――」
〈緊急状況下では敵も味方もない。敵味方の識別信号を偽るなんてのは、テロの現場じゃよくある話だ。だからそんな時は敵か味方かに関わらず、武器を持っている奴を全員、片っ端から気絶させちまうのさ。ま、俺も荒っぽいやり方だとは思うけどな〉
何だと。確かにあの瞬間、俺はナイフを持っていた。一方、奴は徒手空拳、完全な丸腰だった。この違いが結果を分けた、ということか。
なんてこった、そんなモードがあったなんて、と思いながら自分の手首を見つめた俺は、そこに異変を見いだした。色が違う。何だこの金色のシー端はッ!
「お、おい、ちょっと待て! これはお前の端末だろ!」
〈そうだ。どうせなら本物の方を使えよ。テロリストのなんて、どんな小細工がされてるか分かったもんじゃないだろ。
ああ、ちなみにお前がしてた方は踏み潰して、ドブに放り込んどいた。もうないぜ〉
「……お前はどうすんだよ」
〈別に。今日からは死人だ。これからは晴れて、都市をさまよう名無しの幽霊としてやっていくさ。気楽なもんだ。清々するね〉
今だって公衆回線から話してるのさ、と奴。
「なぜだッ、どうして俺を殺さなかった!」
〈単なる気まぐれだよ。お前にも俺が見たものを見せてやろうと思ってな〉
「お前は公安の人間だろ! テロリストを野放しにする気なのかよ!」
〈ところが俺はもう、公安の人間じゃないんだよ。それはお前だ〉
「信じられねぇぜ、俺が言ったことを全部、真に受けるってのか?」
〈あん?〉
「俺が反政府活動家どもに操られていないって、どうしてあんたに分かるんだッ?」
〈別に。どっちだろうと構やしないさ。どうせお前には何もできない。テロリストどもも、とんだ見込み違いをしたもんだ。森月司なんて、そんな大した奴じゃないのさ〉
「俺はお前とは違う!」
違やしないよ、同じさ、と沈んだ、暗い口調でオリジナルの俺がつぶやいた。
〈俺には世界を救うことなんて、できなかった。なのになぜ、お前にはできるんだ? できっこなんかない〉
数秒の間、沈黙が流れた。
〈なぁ、こんなジョークを知ってるか? ムッソリーニ政権下のイタリアの話だ。
ムッソリーニがとある精神病院を訪れる。病院の奴らは皆、ファシスト流の敬礼をし、歓呼して彼を出迎えるが、その中に一人だけそうしない者がいた。ムッソリーニの側近が慌てて注意しに行くと、その患者はこう言い返す。『私は正常なのだ』〉
ククク、アハハハ、と笑っている。
「何がおかしい! ちっとも面白くないぞ!」
〈そうか? 傑作だと思うがな。
狂った集団の中で正気を保つのは、並大抵のことではないってことさ。朱に交われば赤くなる、というだろ? どんな人間もいずれは周囲に流されて、徐々に徐々に狂ってゆくんだ。狂わずにいられるのは、最初っから狂っちまってる人間だけなのかもしれないぜ。
お前は威勢のいいことばかり言っているが、どうせできやしないよ。お前にもいつか朱に染まる日が来るんだ、俺のようにな〉
自分だけは例外だなんて思わないことだ、と小馬鹿にした口調で続ける。
俺は全身の毛が逆立つのを感じた。
「だ、だが少なくとも俺は、あんたという失敗例を知っている! この差はでかいぜ。俺は手前ぇと同じ轍は踏まない!」
〈言うじゃないか。ならばお手並み拝見だ。俺より上手くやれるというのなら、やってみろよ。
最後に一つだけ忠告しておくが、俺のオフィスの椅子には要注意だ。立ち上がる時、背骨を痛めることがある〉
じゃあな、兄弟。そう告げると相手は通話を切った。
ふざけやがって、と俺は毒づくも、すぐに「い、いや、むしろ好都合だ」と気を取り直した。
暗殺計画は失敗したが結果としては悪くない。端末がなければ死んだも同然なのだから、もうあいつは気にしなくていい。国家公安省事務次官の地位は無事、手に入った。
後はあいつの代わりにあいつの椅子に座って、あいつの代わりにあいつの仕事をこなすだけだ。あいつよりも数倍、上手く、見事に。
俺にはプランがある。志を同じくする仲間もいる。何も問題はない。できるはずだ。
とにかく、まずは一刻も早くあいつに成りすまさなくてはならない。
俺は端末のプライベートモードを解除し、アシスタントAIにオフィスに戻る旨を伝える。
途端に奴の端末からは、様々な方面からの情報が洪水のようにあふれ出てきた。
〈柏木公安大臣から、極東共栄戦線に関する詳細バージョンのレポートを至急、国会に提出するよう指令が――〉〈晴海で発見されたアンプルから検出されたのは、やはり新型エボラの亜種でした。生物兵器用に改良された痕跡が複数発見されたと――〉〈品川地区に所属不明の戦闘集団が出現! 重装タイプのサイボーグ群。こちらの装備では歯が立ちません! 至急、陸自に援軍を――〉〈こちら新宿の山本班。反都政デモの参加者が暴徒化して――〉〈ギャラクシーパレスホテルで爆発事件発生! アジア経済フォーラムを狙ったテロと――〉〈東州独立支持派が首相官邸に!〉〈マンハッタンが消滅! 戦略級の核兵器が複数使用された模様! ワールドワーストを名乗る欧州反平和革命組織から犯行声明があり、二十四時間以内にジュネーブとパリ、上海、シドニー、東京をこの地上から蒸発させると――〉
何だこれは。俺は無人の地下フロアで呆然と立ちつくす。背筋に突然、氷柱を突っ込まれた気分だ。いったい何の話をしているんだ? 何だって? ふざけるなよ、突然こんな、何を、どうしろと――
ちょ、ちょっと待ってくれ、もう少しゆっくり、と俺が懇願する間も、激しい情報の奔流は止まらない。思わず耳を塞ぐが、骨伝導には何ら影響を及ぼさなかった。はっきりとした大きな音量で、緊迫感に満ちた口調で、駆け足のような素速いテンポで、複数の声が同時に次々と勢いよく飛び込んでくる。
いや、声だけではない、俺の網膜にも様々な映像が映し出される。まるでザッピングのように、素速く次々に切り替わってゆく。その中には酸鼻を極めるようなむごたらしい暴力の現場や、正視に耐えない大惨事の光景も数多く混じっていた。
俺の神経が悲鳴を上げる。やめろ、やめてくれ! 頭を掻きむしりながら叫ぶ。絶叫が周囲に轟いた。
耳を塞いでも目を閉じても、次々に情報が入ってくる。断固とした勢いで、よどむことなく、一方的に打ち寄せてくる。狂った世界の、狂った波が。
〈すでに相当量のアンプルが使用されたものと――八重洲エリアの集団感染はペストに似た症状を――池袋の地下エリアの一角から、放射性物質が検出――武藤班との連絡が途絶えまし――――が我が国に対し、宣戦を布告――クーデターが――のスパイ組織と――――官房長官の遺体が発見され――緊急会議の開催――警察隊が――暴動――破滅を――――いかがいたしますか――撤退の許可を――おい! 何やってる! もう全閣僚が揃って――彼らの要求に――早く! 早く――指示を下さ――マスコミが山のように――どうすればいいんですか、ボス――指示を! 手遅れになって――急いで――早く! 早く何とかしろよ早くッ! 急いで! 急げよ、急げ急げ急げッ! 早くってば、早くしろ早く、早く、早く、早くッ――
