
永遠に終わりそうもないデスクワークを投げ出して立ち上がると、背中が抗議の悲鳴を上げた。俺は顔をしかめる。そう言えば、もう随分と長いこと座りっぱなしだった。この天然革張りのチェアはエアクッションの調整具合が完璧で、見かけのゴージャスさに負けない夢のような座り心地を提供してくれる。唯一の欠点は、立ち上がる度に自分の年齢を思い知らされることだ。いつまでも座っていられればいいのだが。
軽くストレッチをしてから(背骨が再び、そして何度も、ポキポキと鳴った)、飲みかけのコーヒーを手に壁際へと移動する。手首の端末を操作すると、硬質強化クリスタルの壁は一瞬で水のように透き通った。
ここは地上から約二百メートルの高さ。滅び行く都市のパノラマが眼下に広がる。
橙から藍へと色を変じつつある頭上では、薄紫に輝く雲のその更にかなたで、真珠色の輝きが突然発生し、いくつも左右に連なった。昼から夜へ手渡される首飾りのように見えなくもないが、実際はそれほどロマンチックなものではない。
「随分と単純な軌道だな、安物のミサイルか」とコーヒーを口にしながら独り言つ。
またどこぞの貧乏国家か三流テロリストどもがちょっかいをかけてきたのだろう。全て迎撃されたようだ。実際、警報も鳴らなかった。ここ霞ヶ関の防空システムにとっては、何ら脅威ではなかったということだ。
こうして世界を見下ろしていると、どうしても冷笑的になってしまうな、と俺は白けた気分で微笑みを浮かべる。まるでどこかで筋立てを間違えたコメディを眺めているかのようだ。ひどい出来で、とても笑えたものじゃないが、そのせいでかえっておかしく思えてしまう。
二十一世紀もようやく折り返し点が見えてきた頃、世界中の様々な要素が一斉に閾値(いきち)を超えた。剥離剤を浴びたメッキのように、多種多様なものが社会から分離し粉微塵になって消える。イデオロギー、同盟、条約、安全保障、人権、人道、エトセトラ。前世紀には金科玉条のように奉られていたこれらの概念は、今では紙切れほどの価値もない。
世界中のあちこちで派手な火柱が上がり、真っ赤な蓮の花にも似た爆炎が都市のそこかしこを吹き飛ばす。それはここ、東京でも同じだった。
大量の瓦礫や下水が流れ込んで、わざわざ半世紀以上もかけてこさえた都知事肝いりの巨大地下都市は、たった数ヶ月で使い物にならなくなった。行き場のなくなった群衆がイナゴのように地上に溢れ、折り重なって死んでゆく。まるでレミングのように。
何もかもがぐじゃぐじゃに混じり合ったこの世界では、もうどこからどこまでが戦争で、どこからは内紛で、どれとどれがテロなのかも見分けがつかない。なのに民衆も、官僚も、政治屋も、それどころか市民管理AIどもも、何かが起こる度にけたたましいアラームを俺に送って寄こす。まったく冗談じゃない。公安は、掃除屋でもなければ便利屋でもないってのに。
視界の隅で、また派手な光が炸裂した。今度は地上からだ。一つ、二つ、三つ……黄金色をした巨大なキノコが、むくむくと大きくなってゆく。大型の燃料気化爆弾だ。距離は、だいぶある。千葉の方か。さて、何人が死んだだろう。あの辺りは人口密集地帯ではなかったはずだが。それにしては随分と気前がいい。あんなでかい花火を三発もとは。軍需工場でも狙ったか。
変だな、と冷めかけたコーヒーに口をつけながら、俺は思う。まるで他人事じゃないか。以前の俺はここまで冷淡じゃなかったはずだが。
遠くの爆炎のせいで周囲の景色はまるで黄昏のようだったが、それでも見上げれば空の色は藍から濃紺へと変わりつつある。ふう、とため息が漏れる。もうすぐ夜か。
急速に暗くなってゆく世界。だが灯火管制のせいで都市に明かりはほとんど灯らない。最新の防衛システムによって守られているとはいえ、油断は禁物だ。俺のオフィスも、このフロア全体も、照明は最低限度のレベルまで絞られている。
振り返れば、俺のデスクの上は散らかり放題。壁やボードには所狭しと色とりどりの付箋が貼られ、赤い線や文字が狂ったように殴り書きされている。
その向こうは無人だった。ただ広いだけの空間に静寂が満ちている。
ふむ、と一瞬考えた後、アシスタントAIに帰宅する旨を告げると、機嫌の悪そうな声が返ってきた。
〈公安大臣、自衛大臣ならびに、総理大臣に待機を要請されております〉
帰ってシャワーを浴びて、着替えるだけさ、と俺は自分の左手首に向かって喋る。
「今帰らなかったら、次はいつになるやら。もう十日もここに泊まり込んでるんだ。そのくらいの権利はあるはずだろ。すぐに戻るよ」
〈では護衛の手配を〉
ああ、よろしく頼む、と俺は肯く。
高速エレベータで地下八階まで下りる。
ここはリニアビークル用の駐機場だ。公務員宿舎まで気軽に空を飛んで帰れたのは、遠い過去の話。今そんな目立つことをすれば、郊外に出た途端、三十秒以内に撃ち落とされる。地下都市自体はすでに死んだも同然の有様だが、そこを走る通路は辛うじてまだ何とか使えるので、こっちで行く方が多少は安全だ。実際、多くの者がそうしている。
宿舎まで歩いていけないこともないが、それだと往復で二時間以上もかかる。あのせっかちな大臣どもを今以上に逆上させたところで、俺に何か得があるとは思えなかった。
サッカー場ほどもあるこのフロアは吹き抜けで、壁だの仕切りだのは一切ない。真っ白な極太の柱が十数メートル間隔で規則正しくならんでいるだけだ。
空気はよどんでおり、少し肌寒い。フロアは深海のように真っ暗で、俺の周囲だけがスポットライトで照らされている。この明かりは天井のセンサーと連動していて、俺が歩くとついてくる。
辺りはほとんどガラガラだ。止まっているリニアビークルの数は少ない。職員の多くは帰るか、それぞれの現場へとすっ飛んでいっているのだろう。
それでも俺は空いているスペースを横切ってショートカットをしたりはせず、深緑色の床に描かれた白いガイド線に沿って歩いた。少しは体を動かした方がいい、背骨がまた不機嫌になってしまう前に。
頭上に浮かぶ二つの銀色の輪っかを見上げ、苦笑を浮かべる。
個人用のガードドローン。以前は人間の部下が同行してくれたものだったが、今ではもう、それは考えられない。ここですり切れるまでこき使われているのは、俺だけではないのだ。
全体と個人、拡大と縮小、解放と閉鎖、内向と外向、不可逆的発展と自然回帰、知性と反知性、融和と不寛容、博愛と憎悪、富裕と貧困、同族意識と同族意識、信仰と信仰……様々なレベルで人間同士が争い合うこの社会では、誰が敵で誰が敵ではないか、その線引きはかつてないほどに困難だ。多種多様な集団や個人が、勝手な理屈をこじつけては突然、戦闘を開始する。昨日までは友人だった者が、いきなり牙を剥いて襲いかかってくる、今はそんな“狂犬の時代”とでもいうべき世界だ。
空中をふわふわと漂う、こんな玩具みたいな護衛でも、ないよりはマシだと納得するしかなかった。下っ端の職員は、これすらつけてもらえない。ひどい時には陸自の装甲車をバス代わりに運行してもらったりしているそうだ。やれやれ。
左右のドローンの奏でる、ややくぐもった虫の羽音のような微かな響きとともに、自分のビークルを目指す。アスファルトの上で、コツコツと革靴のかかとが鳴る。
とにかく今は熱いシャワーが恋しい。さっぱりしたいのだ。できれば、ほんの少しでもいいから仮眠もとっておきたいところだが、さすがにそこまでの余裕はないか。
そんなことを考えながら歩いていた俺は、不意に足を止めた。やや腰を落として身構える。
車の陰に誰かいる。
馬鹿な。
なぜセンサーが反応しないんだ?
だがその理由はすぐ明らかになった。のそり、と姿を現したそいつは、何か黒っぽい、靄(もや)のようなものに覆われていたのだ。まるで全身に黒い炎をまとっているかのようで、輪郭がはっきりとしない。
ナノフォッグだ。元々は監視カメラに対抗するためのものだが、最近のは可視光線だけでなく、赤外線や紫外線などほとんどの電磁波を攪乱させることができる。周囲に漂わせているナノマシンにジャミングさせることで。おかげで大抵のセンサーをだませる。使用には特別な許可が必要な上に、かなりの高級装備だが。
普通は銀色の、霧のような見た目になる。奴が使っている黒いタイプのものは初めて見た。過去のいかなる報告にもなかったと思う。新型か。
俺は正体不明の相手を敵性に指定するよう、シー端に告げる。左手首に巻き付けた、一見すると金色のフィルムのように見える物、これは実際にはシート型のウェアラブル情報端末だ。通称はシー端。
俺の発したコマンドによって、相手はガードドローンによって即座に攻撃されるはずだった。高電圧を浴びて、しばらくは身動きがとれなくなる。ナノフォッグはあくまでもセンサーを欺くための欺瞞用の装備なのであって、電流などの攻撃は防げない。
だがそうはならなかった。
二台のドローンはどちらも着地し、LEDをチカチカと点滅させている。待機モードだ。俺のコマンドが届いていない。網膜の片隅には、シー端からの「SYSTEM ERROR」の文字が、長ったらしいエラーコードと一緒に高輝度で赤く表示されていた。おい、どういうことだ、と手首に怒鳴っても、骨伝導から返ってきたのは無味乾燥な電子音のみ。
そんな馬鹿な。システムダウン? こんな時に?
背中の窪みを、冷たい何かがゆっくりと上から下へ、伝ってゆく。嫌な予感がした。
もちろん、これがただの偶然であるはずがない。相手は何らかの方法により、少なくとも俺をセントラルシステムから切り離したのだ。奴には新型ナノフォッグとは別に、まだ何か奥の手があるということだ。
一方の俺はといえば、事態はまさに絶体絶命。こんなひと気のない、だだっ広いだけの地下空間で声の限りに叫んだところで無駄だ。誰かの耳に届くことはない。
スポットライトはまだ俺を照らしてくれているが、これは単に照明装置が天井のセンサーと直結しているからで、途中に高度な情報システムを介していないというだけの話だ。
その黒い、まるで炎上しているかのようなシルエットが、左右に揺らめきながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「国家公安省の森月司(もりづき つかさ)事務次官だな?」
ちッ。俺が誰なのかまで知っている。考えてみれば当然の話だが。最新の欺瞞システムに身を包んでまで、こんな誰もいない地下でずっと待ち伏せをしていたのだ。何か明確な目的があってのことに決まっている。
「刺客、か」
俺はニヤリ、と微笑む。
自慢じゃないが俺はモテる。これでも大層な人気者なのだ。特にテロリストなどの反政府側の人間には。ちっとも嬉しくなどないが。
相手は肩をすくめたようだった。
「んー、ちょっと違うかな。ま、死んでもらうことに変わりはないが」
そう言うと懐から何かを取り出した。ナイフ。だがよくあるセラミック製ではない。十五センチほどの刀身が薄青く光っている。超高密度サファイアクリスタルを使った高周波振動ブレードだ。銃を使う方が手っ取り早そうなものだが、さすがの最新鋭欺瞞装備でも、合金の塊を金属センサーから隠すのは容易ではないのだろう。
とはいえ、ここでなら十分な威力の武器だ。ちッ、と俺は再び舌打ちする。
俺のスーツは一応、防弾防刃仕様になっているが、そんなものはあの刃の前では紙も同然。たやすく切り裂かれてしまうはずだ。ずっと待ち伏せていただけあって、用意周到というわけだ。
俺にじりじりと迫る奴の構えには、必殺の凄味が感じられた。
俺も懐から自分の武器を取り出す。軽く一振りすると、青白い火花とともに、八十センチほどの長さになった。伸縮式のスタンロッドだ。相手の最新装備に比べれば、骨董品といってもいいような古臭さだ。公安省に入る前、まだ警官だった頃に使っていたもので、俺にとってはお守り代わりの品だった。
相手が足を止める。
「まだそんなもんを持ち歩いてたか」
「そりゃ四十回以上も殺されかけりゃな。誰だって慎重になる」
実際、この特殊警棒には何度か命を救われている。旧式とはいえ、そう馬鹿にしたものでもない。
愛用のロッドを正眼に構える。
クク、と相手が鼻で笑った。
「無理すんなよ、おっさん。そいつはご老体が振り回すには少々重すぎるシロモノだ。杖の方がまだ良かったんじゃないか」
「フン。試してみるか?」
敵の挑発に乗って、前方に素速く踏み込む。だが全体重を込めた一撃が奴の脳天に炸裂することはなく、それは呆気なくナイフで払われてしまった。オレンジ色の火の粉が舞う。
返す刃を、俺は跳び下がって辛うじて避ける。が、上着が少し切り裂かれた。切られた周囲が軽く焦げている。ちッ。かすっただけでもこの威力。
次は相手の番だった。俺が体勢を整え直す前に踏み込んでくる。一閃、二閃、青いナイフが煌めく。俺の急所に滑り込もうとするそれを、俺はどうにか下がりながら防ぎ続ける。
相手はフェイントなどは挟まず、ただただひたすら前へ前へと出てくる。突進にも似た奴の連続攻撃は、暗殺者にしては素直な太刀筋で、読みやすく、それゆえ何とか致命の一撃だけは避けることができた。
だがこの戦いの趨勢は明らかだ。こちらは防戦一方。狂ったように踊り続ける奴のナイフを弾くだけで精一杯で、反撃にまでは手が回らない。しかも、息が上がりかけている。呼吸を整える暇がないのだ。
やはり装備の差がでかい。奴のナイフの重量はせいぜい一キロあるかどうかってところだろうが、俺のロッドは五キロ以上だ。すでに右腕がくたびれ始めていた。それでいて相手の刃は、こちらのチタン合金製の警棒を容赦なく削り取ってゆく。まだ切断には至っていないが、それも時間の問題だった。
俺の体力がなくなるのが先か、それともこっちの得物を折られるのが先か。どちらにせよ、その先にあるのは死だ。
「案外、粘るな」と相手が軽口を叩く。余裕たっぷりだ。勝利を確信したのだろう。
「だが無駄な足掻きだ。そうやって時間を稼いだところで、あんたに援軍が到着することはないぜ」
確かに。システムから切り離されてしまっている以上、ここでどんなに奮闘しても、それが誰かに伝わることはない。このままなら、俺は誰にも知られることなく始末されてしまう。
この状況を何とかしない限り、俺に勝ち目はない。
だが奴がいかなる手段を用いているのかが分からない以上、対抗する術がない。ここ霞ヶ関は、日本の中でも最もセキュリティレベルが高いエリアだ。そんな簡単にハッキングできるはずはないのだが。
軽快なステップで軽くこちらを翻弄した後、相手が再び突っ込んできた。正面、右下、上段、様々な角度から青く光るナイフが襲いかかってくる。まるで海の底でサメの群れに襲われているかのようだ。くそったれめ。息もさせてくれない。怒濤の連続攻撃。体が、重くなってきた。
ガン、と背中が硬い何かにぶつかる。ビークルだ。追い詰められた! これ以上は下がれない! 奴はこれを狙っていたのか!
俺は目を細め、相手の太刀筋を見極める。
左からの斬撃をロッドで受け止め、敵の懐に膝蹴りを見舞う。
だが敵は素速く一歩後退し、それを難なくかわす。次の瞬間、獣のようなしなやかさでこちらに跳躍。ナイフを頭上に大きく掲げた。とどめの一撃か。全体重を乗せた振り下ろしにより、俺を警棒ごと真っ二つにする気だ。
俺は咄嗟に斜め前方に向かって頭から飛び込む。アスファルトの上で素速く前転。間一髪、ギリギリのところで凶刃をくぐり抜ける。
俺の背後で青緑の色彩が破裂した。
奴のブレードがリニアビークルの床下にあったバッテリーを切り裂き、爆発させたのだ。自慢の切れ味が仇になったというわけだ。そう。俺はこれを狙っていた。
ぐあ、と小さく叫びながら、奴が後退する。
クソが、と吠えた。
「下らん悪あがきを! こんなしょぼい爆発でこの俺がビビるとでも思ったか!」
ナイフを構え直す。
確かにバッテリーから生じた爆炎はほんの一瞬だったし、規模も小さい。それでもちろちろとした緑色の炎が、切り裂かれたビークルの車体をなめ始めている。灰色がかった青白い煙が車体の下から盛大に吹き出してもいた。
思っちゃいないさ、と俺。片膝をついた姿勢から、よっこらしょ、と立ち上がる。
「だが、天井の火災センサーはどうかな?」
ククク、と喉を鳴らす。
やがてけたたましい警報と同時に、頭上から霧雨のような水が降り注ぎ始めた。スプリンクラーだ。周囲のあちこちで赤色灯が回転し始める。
ちぃぃぃ、と相手がうろたえた。自信なさげに左右を見回している。俺に援軍が来るのを恐れているのだ。妥当な判断だ。この火災はもちろん、セントラルシステムにも通知される。俺は相変わらずシステムから切り離されたままだが、ここで起きている火事は大勢に知らされるのだ。もしかしたら、誰かが駆けつけてくるかもしれない。
もっとも、定時を過ぎたこの時間帯では期待薄だ。派手なミサイルや爆弾がそこら中で炸裂している昨今、地下で起きたボヤごときでいちいち大騒ぎする人間なんて実際にはいない。いずれビルの管理人が確認に来るはずだが、さて、いつになるやら。それはもしかしたら明日の昼過ぎかもしれないのだ。
だが無論、俺もそんなことを期待しているわけではなかった。
奴が天井を見上げている。その周囲を覆っている黒い炎が、徐々に薄くなってきていた。
「さしもの最新鋭装備でも、これほどの熱源はごまかせないだろ。ここに炎がある限り、水は自動で降り注ぎ続ける」
俺はロッドを構える。
「そしてナノフォッグは雨に弱いってわけだ。洗い流されてしまうからな。ククク!
そら、化けの皮が剥がれてきた。お前の正体も、これで――」
だが俺は次の言葉を思わず飲み込んでしまう。
溶けるように消えてゆく黒い霧の中から現れたのは、俺がよく知っている顔だった。知っているどころの話ではない。俺だ。現れたのは俺自身だ! 奴は俺と同じ姿をしている! いや、違う! 俺とよく似てはいるが、そっくり同じではない。若いぞ。向こうの方が若い。どう見ても二十代くらいだ。
「そうか、そういうことか」
俺は愕然とする。
確か二十七歳の時だ。警察から公安にスカウトされたあの時、自分のバックアップをとった。あちこちの細胞を採取され、脳をスキャンされた。
これにはとんでもない費用がかかる。国が全額負担してくれなかったら、とてもじゃないが受けられなかった。それに、正直言うと受けたくもなかった。
バックアップされたデータから復活したとしても、それは俺ではない。双子の弟のようなものだ。よく似てはいるが、俺とは別の個人だ。俺そのものが生き返るわけではない。
だが両親に泣きつかれ、結局は渋々政府からの申し出に乗った。たとえそれが単なる“俺のそっくりさん”なのだとしても、誰も帰ってこないよりは、少なくとも親にとってはマシなのだろうと思って。
あれから三十五年。思い出したくもないくらいに大勢から殺されかけてきたが、持ち前の強運と、高度に発達した再生医療のおかげで、こうしてどうにかこうにか死なずにすんでいる。すでに二親とも天寿を全うしたことだし、結局あのバックアップはお守り以上のものではなかったな、と思っていたところだった。
それがまさか、こんなところで出くわすことになるとは!
システムエラーの原因はやはりハッキングではなかったのだ。最新のナノフォッグのせいでもない。俺の目の前にいる、もう一人の俺のせいだ。あの日の、二十七歳の、俺。こいつの存在自体がバグなのだ。
さすがに察したか、と相手がほくそ笑んだ。
