(PDFバージョン:komatusakyounoisannwotugunohadareka_aramakiyosio)
1 頼れる巨樹
小松左京を巨樹に例えて書いたことがある。後発作家の偽らざる小松観だが、巨樹は多くの小鳥に巣を与え、足元に日陰をつくる。だが、年齢差のある人たちは十分に恩恵を享受すればいいが、年齢が近いと幹に近づきすぎて日陰になり、自分が大きく育たないという不安を抱いてしまう。
私は小松さんからご指名をいただき、一九八四年に、『空から墜ちてきた歴史』(新潮文庫)の解説を書かせていただいたが、上記のような感想を率直に書いた。敬愛と畏怖のアンビバレンツが私の小松左京観である。
もとより小松左京がいたからこそ、日本のSFは今日の地位を築けたのだと思う。創生の時代から福島・柴野時代まで、初期の日本SF界は外部から多くの批判を浴びせられたが、われわれは小松ブルトーザーを先頭にして戦ってこられたのだ。
私は一期ではないが、田中光二や山田正紀にはじまる二期でもない。自分では、石原藤夫とともに一期半だと思っている。ずーと、私は地方住まいだが、SFが様々な批判を浴びつつも一つにまとまっていられたのは、小松左京という巨星が引力圏内にみなを抱え込んでいたいたからだと思う。
2 百科全書派にして未来思考
小松さんの黄金時代は、大阪万博(一九七〇年)のころだったと思う。水を得た魚のようにいきいきと輝いていた。
実は、その二年前の一二月に、私は一フアンでありながら日本SF作家クラブの総会に出ることを許された例外的な一人なのだ。私は、当時、同人誌コアの編集人だったが、「未来学とSF」(十一号/最終巻/一九六七年一月)という長目の評論を書いていた。総会で小松さんは滔々と未来学について語ったが、驚いたことに私の拙論が載ったコアを握っておられた。(なお、小松左京著『未来の思想』中公新書は同年十一月)
光栄であった。認められたような気持ちだった。この未来学は小松左京の大きな業績であるが、一九七〇年以降すたれてしまう。
が、改めて『空から墜ちてきた歴史』を読み返してみると、日本人としてはニュータイプの知識人であった。たとえば、ゲーテの描くファウスト博士のように。いったい、なにが小松左京をアクタオン・コンプレックス(知識欲)の使徒にしたのだろうか。
さらに『空から……』は、宇宙人が書いた地球全史である。おもしろいのは、各時代が等価で扱われていることだ。小松さんは過去の遺物、マルクス史観を精算するためにこれを書いたちがいない。あるいは、マルクス史観を脱構築するという隠された意図があったのかもしれない。
3 小松左京の宇宙観は曼荼羅である
私としては、クラーク『幼年期の終わり』の系譜につながる人類未来史の流れ、『果しなき流れの果に』(SFM連載開始一九六五年)を大事にしたい。あれこそSFの醍醐味である。SF作家は宿命のように想像力の限界を試みるのである。
小松左京の評価は多面的であっただけに様々である。それぞれに巨樹の根から様々なジャンルが育つ。
しかし、小松左京の本音はその初心にある。
〝人間の目から宇宙を見るのではなく、宇宙から人間を見る〟
この、いわば、宇宙哲学こそが小松左京の真髄ではないだろうか。
だが、具体的にどうするか、どこから手をつけるか――よく考える必要がある。
一つのアプローチは、仏教的宇宙観を示す観念の具象化、曼荼羅すなわち胎蔵界、金剛界の考え方である。
〝われわれ人間は大宇宙からみれば芥子粒と同じだ〟ではない。
〝大宇宙と一体化する〟
まさに仏教的世界観だ。
4 脱構築家小松左京の文学的基礎/神曲
もう一つの重要な見方、それは小松左京が、すでに構造主義者でありポストモダンの先駆者であり、脱構築家であった〟という考えかただ。(未来学はマルクス主義的未来観の再構築であるとも考えられる)
現に、小松左京の主目標は〝一般文学のデコンストラクション〟であったと思う。
日常の次元から決してテイクオフしようとしない日本の近代(現代)文学を脱構築するための戦略として、アメリカSFさえをも止揚しようとした。
ベースは京大イタリア文学への進学のきっかけとなったダンテである。
『神曲』は地獄界・煉獄界・天国の三層構造をもつキリスト教的宇宙構造を持つ。
主人公は詩聖ヴェルギリウスとベアトリーチェに導かれて九天へ昇り、神の姿を目の当たりにするのだ。
5 佐世子はベアトリーチェ
ダンテの三作品、『新生』の高貴さ、『饗宴』の哲学、『神曲』の愛を担うのが、理想の女性ベアトリーチェである。おそらく『果てしなき……』のヒロイン、佐世子が、このベアトリーチェであろう。
高貴な女性。久遠の女性。私は、『待つ女』をはじめ小松左京の女性が大好きである。
ここで、まだ誰に言わなかった話をしよう。
開拓時代の屯田兵の家が当地の琴似というところにあると言うので、車で案内したことがあった。最後、千歳空港まで送って別れたが、前日、宿泊先のグランドホテルのレストランで真剣に、怒っていたのを思い出す。週刊誌か何かで女性問題で偽りの記事を書かれたのだ。私も憤慨した。小松さんにとって女性は天界に属するのだ。そう私は信じている。小松さんの心には、アニマが棲みついているのである。
6 小松左京読解の鍵
以上が、小松宇宙を解読する〈鍵概念〉である。
遺されたわれわれにとって必要なのは、その文学・思想的遺産の整理と再投資であろう。
小松さんは沃野であるから、そこから様々な新種が生まれるかもしれない。
だが、私は、小松さんがやり残した仕事が気になる。
漏れ聞くところでは、最期は冗談を言って旅立たれたようだが、晩年は病を得て本来の執筆ができなかった。元気ならば何を考えただろうか。
今、日本は危ない。ミネルバの梟は今こそ飛び立つときだが、物質的にではなく精神的に日本人を救う知識人がいるのだろうか。
二十一世紀問題は二十世紀コードでは解けないのだ。しかし、今、テレビなど論壇で日本をリードする知識人の教養は、二十世紀コードである。
今の日本に必要なのは小知識人ではない。
だが、今の日本には、ダンテもゲーテもいない。
彼らのような大知識人がいない。
小松左京は、SFは大文学だと言った。それが旗印だった。
二〇世紀文明をデコンストラクションし得る大知識人は、小松左京のはずだった。だが、今はいない。
私は合掌しない。
冥福を祈らない。
小松左京はまだ生きているのだ……
(二〇一一年八月二一日)