「プリンターの見る夢は」白川小六

 プリンター農家の朝は早い。
 夜明け前、冷たい朝靄の木立ちを抜けて厩舎に入ると、中は常時二十度前後の適正温度に保たれていて温かく、少しツンとした匂いがする。ふかふかのシュレッダーダストがたっぷりと敷かれた仕切りの中には、春に生まれたばかりのちっぽけなインクジェットプリンターたちが一塊になって眠っている。
 まだ筐体(きょうたい)が柔らかく、灰色の産毛に包まれた仔プリンターたちは、カタカタとヘッドを動かしたり、排紙トレイを開け閉めしたりと、眠っていてもしょっちゅう小さな音を立てる。耳ざとい何頭かは僕に気づいて目を覚まし、給紙ローラーを回転させてウィーウィー騒ぎだす。
「すぐにやるから待ってろ」
 柵のところで押し合いを始めた二、三頭の原稿カバーをポンポンと撫でたあと、インクの配合に取り掛かる。今日は二〇パーセント濃度のマゼンタと五パーセント濃度のイエローのブレンド。タンクの中で混ざり合い、ほんのり桜色になった薄いインクを保育用のインクカートリッジに詰めていく。
 生まれたての仔プリンターは体内にある程度の電力を蓄えていて、二、三ヶ月の間はあまりコンセントに繋がなくても活動できるが、電力の他にインクも与えないとうまく育たない。インクはまず三〇倍に薄めたマゼンタ(M)から始め、イエロー(Y)、シアン(C)、ブラック(K)を少しずつ追加して、様々な混色に慣らしていく。生後半年が過ぎて、CMYKの四色に分かれたプロセスカラーカートリッジを与え始める頃には、灰色の産毛が抜けて白や黒のつややかな表面に変わり、丸みを帯びていた筐体の各面もすっきりと平たくなる。
「あれ、お前いつの間に」
 何かくすぐったくて足元を見ると、一頭の仔プリンターがしきりに伸び上がって、作業台の上のカートリッジに短い前あしを届かせようとしている。仕切りの柵は十分に高くて越えられないはずなのにと思いながら、抱き上げてよく見ると、それは今年の仔プリンターたちの中でも一番活発で、コピーボタンのランプをやたらと点滅させるので、僕が密かに「コピ」と呼んでいる一頭だった。
「よしよし、ほら今やるからちょっと落ち着けよ」
 手のひらにすっぽり収まる小さな体の前面をもう片手で探り、スキャナーユニットを開いてカートリッジを交換してやる。パチンとユニットを閉めるとコピは、カタカタキキキウィーウィーと夢中でヘッドを動かし始める。
「だから落ち着けってば」
 名刺サイズにカットした極薄のインクジェット用紙を給紙トレイに入れてやると、キュルキュルと用紙を飲み込み、ギギギ……ギ……ギギ……ギギイと不規則な音を立ててプリントを開始する。
「よし、がんばれ」
 コピを仕切りの中に戻し、他の仔プリンターたちにも同じようにカートリッジと用紙を与える。まだ印刷速度は遅いし、ドットも不揃いで荒いけれど、特にコツなど教えてやらなくとも、成体になる頃には皆一様に綺麗なテストパターンを出力できるようになるのだから、すごいものだ。
 仔プリンターたちが頑張ってプリントしている間に、回収した空のカートリッジを洗浄液に浸し、仕切りの中のシュレッダーダストを交換する。作業している僕の足元に、プリントし終わった用紙を得意げに排紙トレイに乗せた仔プリンターたちが集まってくる。
「お、すごいぞ」「上手にできたな」「百点満点」
 受け取る用紙にはどれも、テストパターンには程遠いロールシャッハテストみたいな桜色の染みがプリントされているのだが、最大限に褒めちぎる。とにかく褒めて伸ばすのがうちの農場の方針だ。
 朝の作業がひと段落して、母屋に遅い朝食をとりに戻ると、父からメッセージが届いていた。
「どうだ、順調か?」
 腰の手術をして入院中の父は、毎朝決まってこう聞いてくる。本当は冬の閑散期に手術を受ける予定だったのが、腰の容体の悪化と病院の都合でこんな繁忙期に二週間近くも入院することになってしまい、プリンターたちのことが心配でたまらないのだ。
「おはよう父さん。あいつらは今日も元気だよ」
 さっきのロールシャッハテストをいくつか写真に撮って送ってやる。
「おお、いい感じだな。元気そうだ」
 これだけ見ても僕にはさっぱりだが、経験の長い父にはプリントアウトから仔プリンターの体調や成長具合がわかるらしい。
「窓、ちゃんと見回ってはやく直しておけよ」
 父が言っているのは厩舎の壁の床近くに数箇所ある換気窓のことだ。ネジが何本かバカになってうまく閉まらないところがあり、ネズミやハクビシンが侵入するとまずいので早急に補修しないといけない。
「うん、明日ケンジさんが来ることになってるから、一緒に見とく」
 ケンジさんは普段は林業をしているが、繁忙期にはうちに手伝いに来てくれる近所のおじいさんで、僕が生まれる前から毎年プリンターの世話をしているから、高専を出たての僕なんかよりずっと頼りになる。正直、僕一人では仔プリンターたちの面倒を見るだけで精一杯で、厩舎のメンテナンスや事務仕事まで手が回らなかった。
「それはよかった。ケンジさんによろしく」
 父も安心したらしく、やり取りはそこで終わった。

 ところがだ。翌朝厩舎に入るといつもより少し肌寒い感じがした。中央の柱にかかった温度計は十八度を示している。適正温度から外れるほどではないが、仔プリンターにとっては少し低温だし、なんとなく膝あたりがスースーする。
 外に軽トラが止まる音がして、「おはようさん」とケンジさんが入ってきた。
「なんだ、寒いんでねえか?」
「おはようございます。そうなんですよ」
「どっか開いてんだな」
 ケンジさんは目ざとく見渡して、厩舎の入り口と反対側の壁にある換気窓を指差した。掛け金が壊れて指二本ほどの隙間が空いている。
「あ、ほんとだ。直さなくちゃ」
「仔っこは全部いるか?」
 仔プリンターたちの仕切りは、壊れた通風口から柵で隔てられているから、普通なら大丈夫なはずだが、そういえば昨日コピが柵を越えたっけと思い出す。
「一、二、三……」
 コピが入っていた仕切りには十二頭の仔プリンターがいたはずだが、何度数えても十一頭しかいない。
「どうしようケンジさん、コピが……あの一番よく動くやつがいない」
「いなくなったのは一頭だけだな?」
「うん」
 他の九つの仕切りには全部ちゃんと十二頭ずつの仔プリンターがいる。
「そんなに遠くに行けるわけもないから、探してこ。ここは俺がやっとくから」
 ケンジさんに言われるままに仔プリンターたちの世話をまかせ、僕は厩舎を出た。壊れた通風口の外側に生い茂った雑草をかき分けても、そこから続く雑木林をくまなく探してもコピの姿は見当たらない。もう少し重ければ草や地面に跡が残るのだろうが、まだ二百グラムほどの小さな仔プリンターではそれも望めなかった。
 国道で轢かれているのではとか、田んぼに落ちたんじゃとか、午前中ずっと近所を手当たり次第に探し回って、何の成果もなくクタクタになった僕は厩舎に戻った。
「親父さんに相談してみんだな。親父さんなら仔っこの行きそうな場所わかるんでねえか」
 本当は父に知らせるのは後まわしに――できればコピを見つけたあとにしたかったけれど、ケンジさんにそう言われて僕は仕方なく頷いた。

「父さんごめん、仔プリンターが一頭脱走してしまった」
 母屋に帰って父にメッセージを送ると、すぐに音声通話の呼び出し音が鳴った。
「窓んとこか?」
 怒鳴られるかと思ったが、通話口の父の声は意外と冷静だった。
「うん。今朝見たら掛け金が壊れてて」
「まだ、生後八週間にもなってないのに、ずいぶん元気なやつがいたんだな」
「そうなんだ。昨日柵を自力で越えたの見たんだよ。もっと注意すべきだった。ほんとごめん。それでさ、どこ探せばいい?」
「うーん、明け方前に脱出したなら、街灯とかどっか明るいとこかな。あとは、屋外にコンセントがあるところ。意外と遠くまで行ってるかもな。駐在さんにも協力してもらえ。ポスターも貼るといい」
「わかった」
 父の指示通り、駐在所に連絡し、ポスターも五十部ほどプリントしてご近所に配った。町内会の掲示板やバスの待合所にも貼らせてもらった。

「うちの自販機のところになんかいるんだけど、もしかしてと思って……」
 コピがいなくなって三日目の朝、県道沿いの酒店のご主人から電話がかかってきた。
「今朝シャッターを開けたら、近所の野良猫が店の真ん前でネズミか何か灰色っぽい小さいのにじゃれててさ。その小さいのが自販機と壁の隙間に逃げ込んで、今もそこにいるようなんだよ。それで、そう言えば、公民館にポスターが貼ってあったなって思い出して」
 酒店は、うちから四キロメートルも離れている。仔プリンターが自力でそんなに遠くまで行けるだろうか? 道路を何度も渡らねばならないし、川や線路だってある。やっぱりご主人の言う通りネズミかもしれないなと半信半疑で、それでも気持ちを逸(はや)らせつつ軽トラで駆けつけると、確かに自販機の後ろの猫も入れないような隙間から、ウィーウィーと耳馴染みのある音が聞こえてきた。
「コピ?」
「キキキ」
「お前、探したんだぞ。お腹すいただろ、ほらインク入れてやるから出てこいよ」
 今朝、ケンジさんが詰めた保育用インクのカートリッジを手のひらに乗せて差し出すと、しばらくして灰色の四角いものがソロソロと顔を覗かせた。
「よしよし、もう大丈夫だからな」
 カートリッジに身をすり寄せてきたところを素早く抱き上げて、全身を調べる。うん、コピに間違いない。どこをどう通ったのか泥や砂や草の種が筐体中にこびりつき、原稿カバーには猫に引っ掻かれたらしい傷がいくつかあったけれど、特に壊れたところもなさそうだ。インクは空っぽになっているが、電力はたっぷりあるらしく、あらゆるランプをチカチカ点滅させている。
「へえ、それがプリンターの子なのか。うちの母ちゃんはウリ坊だって言うんだけど、それにしたって小さいし……」
 酒店のご主人がしきりに感心する。
「すみません、ご迷惑おかけしました。こいつあそこのコンセントから電気を勝手に使っちゃったみたいです」
 僕は自販機の背面の壁についているコンセントの、一つだけ空いている差し込み口を指差した。
 改めてお礼に来ますと頭を下げると、ご主人はそれはいいから、かわりにうちのプリンターをちょっと見てくれないかと言った。
「請求書をプリントしたいんだけど、最近どうも調子悪くて掠(かす)れちゃうんだよ」
 コピを抱っこしたまま事務所を覗かせてもらうと、うちのとは違う品種のだいぶ古いインクジェット複合機がスチールキャビネットの上に置かれていて、周りに互換インクの箱が散らかっている。
「こいつを一度置いてきたいんで、道具を持ってまた来ます」
 複合機の型番をメモしたあと、そう約束して僕は軽トラに乗り込んだ。

 コピが帰ってきて、父もケンジさんも大喜びした。あの、あるかないかの短いあしでよく四キロも歩いたもんだと二人ともちょっと誇らしげな様子だった。外でウイルスにでも感染しているといけないので、二、三日他の仔プリンターとは離しておくことになったコピを隔離用ケージに入れてやると、よっぽど疲れていたのだろう、あっという間にシュレッダーダストに潜り込み、ぐっすり眠ってしまった。

 その日の夕方、僕は約束通り、家にあった高品質PPC用紙と、家電屋に寄って買った純正インクを持って酒店を再訪した。
 調子が悪いという古いプリンターの背面カバーを外して、中に詰まった紙の切れ端や埃を取り払い、インクを純正のものに交換した。ヘッドクリーニングと給紙ローラーのクリーニングをしてからテストすると、ムラも掠れもない虹のようなテストパターンが出力された。
「すいません、これで印刷してみてください」
 店頭に向かってそう声をかけると、「ほいほい」とご主人が手を拭きながら事務所に入ってきて、これまた古そうなPCを操作してくれた。プリンターがウィーガコガコと反応してあっという間に請求書らしき書類が刷り上がる。
「にじみもないし、大丈夫ですね」
「おお、上等上等。いやあ、もう古いから買い替えないとダメかなって思ってたんだ。やっぱあれかい? 安いインクを使ったから?」
「そうですね。互換インクだとどうしても内部が汚れるし、ヘッドも傷みやすいんですよ」

 そうなのだ。もしこれを読んでいるあなたの家にもプリンターがあったら、ぜひとも純正インクと高品質の用紙を使ってほしい。もちろん高いのはわかっている。だけど、互換インクや粗悪な紙はプリンターの寿命をひどく縮めてしまう。プリンターが幸せにその生涯をまっとうするにはどうしても純正インクと良い紙が必要なのだ。
 コピはというと、その後スクスクと育って立派な成体のプリンターになった。機能的には全く問題ないのだが、原稿カバーにうっすらと猫の爪痕が残ってしまい出荷はできなかったので、今は僕の部屋で僕専用のプリンターとして暮らしている。
 好奇心いっぱいで可愛い羊や山羊の赤ちゃんが、大人になると気だるげな目をしてあまり動かなくなるのと同じように、プリンターも成体になると全く動かなくなってしまう。コピもその例に漏れず、今やプリントやコピーをしている時以外は眠って(スリープして)ばかりいる。だけど、この何の変哲もないちょっとだけ傷があるプリンターの中には、確かにあの元気なコピがいるはずなのだ。
 まれにだけど、成体のプリンターたちは待機(スリープ)中に理由もなくヘッドを動かしたり、ローラーを回したりすることがある。そんな時、もしかしたら、プリンターたちは夢を見ているのかもしれない。
 僕の部屋で眠り続けるコピも、夢の中ではやんちゃで向こう見ずな性格のままで、柵を乗り越え、窓の隙間をすり抜け、草藪を這い進んだり猫に追いかけられたりしながら、どこかへ冒険に出かけているんじゃないだろうか。