「カルタゴ:消えた商人の帝国(第3回)」服部伸六

3、カルタゴの建国
   ●フロンチアー
   ●新しい市[まち]、カルタゴ
   ●『アエネーイス』は語る
   ●その版図

3、カルタゴの建国

    フロンチアー
 フェニキア人はどこから来たかという謎に光をあてるひとつの解答が出されたといって、ピエール・ロッシは1960年にモスクワで開かれた第25回国際オリエンタリスト会議で発表された、デンマークの考古学調査隊の報告を紹介している。この調査隊は、約20年まえからペルシア湾に浮ぶ小さな島バハレーンで発掘を続けていたが、そこで10万基にも及ぶ墓を発見したのだという。墓があったということは、その近くに市[まち]があったことを意味する。そしてじっさい、7つの層をなした古代の市の跡がすぐ近くにみつかったのである。現在のマナマ港からほど遠くないところである。そこにあった神殿らしいところから、宝石や石像、石膏の器もの、プールの跡、それに犠牲を供える卓などが出土した。それらの遺物にはインド=シュメール文化の特徴があらわれているが、特に注目されるのはレバノンの世界最古の都市とされているビブロスから出土した印璽や小像とよく似ていることだという。そしてその年代はおよそ紀元前3000年ということだ。バハレーンは、かつてカルデア王国のあったところで、英雄ギルガメーシュが不老不死の秘密を求めて旅をしたディルムーン (現在の名はバハレーン) の地である。
 ピエール・ロッシは、この報告を紹介しながら、アレクサンドル大王がティールを落したとき、ほかのフェニキアの都市とは異なって激しい抵抗を試みたティール市民を処罰するために、彼らを「そのふるさとへ送り返せ」と言ったという話を書いている。その「ふるさと」とは、すなわちそれはバハレーンだったということだ。とすれば、アレクサンドル大王のころには、まだ、フェニキア人の故郷がペルシア湾であったことが忘れられずに記憶に残っていたのかもしれない。
 「海の民」から学んだにしろ、あるいは右に見たように故郷のバハレーンの海洋生活時代から持ってきたにしろ、フェニキア人は海洋航海の技術の点では当時、他の追随をゆるさないものを持っていた。そして「ヘラクレスの柱」(ジブラルタル海峡) と名づけられた地中海の東端ヘと直進したのである。
 現在のモロッコの首都ラバトのすぐ北にある平野の中心地のララシュの岸辺のリクソスに商業用の基地を建てたのも、そこから北へ向けて海を渡ったスペインのガデス (現在カディスと呼ばれる) に鉱物資源の集積のための重要な基地を建てたのも、紀元前1110年のころの一連の海外活動の成果だった。
 大西洋へ向けてのこれら前線基地の補給のためには、もちろん地中海に中間基地が必要であった。なかでも地理上の重要な位置にあるシチリア島のあちこちに基地が造られたが、島の西端にあるモチエは重要だったらしく、フェニキアの制海権が失われたカルタゴの時代になっても決して競争相手に奪われることはなかった。また島の対岸のアフリカ側にはウチカの基地が造られた (前1101年)。長い航海のためのこのような補給基地や商業拠点は、およそ前1100年ごろまでにその整備を完了したらしい。
 というのは、その後100年ののちティールの王であったヒラム1世が、ダビデのあとを受けてイスラエルの王となったソロモンの要請に応えて、宮殿の建築に材木や技術者を送ったのは前969年~925年のころのこととされており、聖書の記述によると、海外の物資取り引きの中心地ティールの市[まち]の繁栄は旧約聖書のエゼキエル書に書かれたとおりであっただろうからである (「エゼキエル書」、第27章)。
 それはまた、『オデュッセイアー』でホメロスが語るフェニキア人の活動ぶりも、その一つのエピソードだっただろう。

 「折からそこへ、船をもちいて世に知られたポイニーキアの男たちが来た、強欲ないかさま師でな、小間物類を山ほど黒い船で運んで。」(岩波文庫『オデュッセイアー』呉茂一訳、下巻、417~418)

 ヒラム1世王の時代はティール人をはじめとするフェニキアの海の商人の全盛時代だった。が、前875年アッシリアの王アシュルナジルパル2世の遠征軍が、フェニキアの岸の港市をことごとく荒し廻り、貢物を強要した。ティールも、シドンも、ビブロスもアルワドもこれに従った。爾来、それらの地は絶えずアッシリア帝国の征服の対象となり、前332年のマケドニアの王、アレクサンドルのティール攻略まで引続いて外国勢力の支配下に入れられることになったのである。
 ローマの史家ユスチノスが伝えているカルタゴ創設の歴史も、おそらくアッシリアの進攻の史実と関連があるのかもしれない。ティールの王家の内紛によって、王統の分派がティールの故国を捨てて海へ逃れ、やがてアフリカの北岸に辿りつき、カルタゴを建設するという筋書きであるが、すべての内紛とか内輪もめのような事件は、勢力の盛んなときに起るものでなく、運勢が衰えたときに起き易いものだからである。
 それはともかく、カルタゴにフェニキア人の植民地が出来ることになった経緯について、史家の伝えるところを記述してみよう。
 ティールの王だったムトオ (またはマタン) は死にのぞんで、息子のピグマリオンと娘のエリッサという美女に権力を分担して統治するよう言い遺した。ところが市民はピグマリオンの方に臣従してエリッサの方をうとんじたので、エリッサは叔父に当る金満家でティールの二番目の実力者であったアケルバスに嫁入りすることに決めたところ、ピグマリオンはアケルバスがその財力に妹の持参した財産を加えて、叔父がますます強力になることを恐れて叔父を殺してしまった。
 この事態に身の危険を感じたエリッサは逃亡を決意するが、海へ逃げるにも船がない。エリッサは、そのころ島であったティールの街とは海をへだてた陸側に住んでいたのであろう。エリッサは一策を案じて、兄が船を送ってくれれば島で一緒に住んでもいいと兄に言い渡した。もちろん、これは嘘で、エリッサはその船で海外へ逃げるつもりである。さもなければ生命が危ない。古代の王朝の歴史はシェークスピアを俟つまでもなく、肉親殺しなど意に解しないのである。
 兄ピグマリオンは妹が島に来るなら、アケルバスが地下に埋めていた財宝を持って渡ってくるだろうと考え、船を送ることを承諾した。が、その船には自分の重臣たちを乗せてエリッサを監視させようとしたが、エリッサは巧みにこの裏をかいて、財宝を入れたと見せかけた砂をつめた袋を海の中ほどで捨てさせたあと、兄の重臣たちに財宝を捨てたことが兄に知れれば罰されるだろうと脅して、共に逃亡の旅に出発したということである。
 もちろん、ほんものの財宝の方は船倉に隠してある。おそらくこの財宝がカルタゴ建設のための資金をまかなったことであろう。
 最初の寄航地はキプロスである。キプロスにどれほどの期間滞在したかは、はっきりしないが、相当の長さであったと思われる。というのは、すでにそのころキプロス島には多くのフェニキア人が住みついており、銅山の開発などに働いていたので、見知らぬ異国ではなかったからである。
 ギリシア神話でキプロス島のパフォスがアフロディテの生誕の地とされているのは、おそらくこの島にフェニキア人たちが彼らの女神であるアシュタルテの信仰と、あの有名な神殿売春の風俗とを持ちこんでいたがためであろうと想像される。エリッサの一行がこの島を去るとき、島の神官たちや非処女化儀式 (神聖売春の原形) のために集まって来ていた処女80人を一行に加えたというエピソ―ドも、キプロス寄港が単に短期間の旅ではなかったことを思わせる。というのは、おそらくこの伝説は、大陸文化がキプロスヘと移転する筋道を伝えたものであると考えられるからである。

    新しい市[まち]、カルタゴ
 エリッサ一行を乗せた船は南下して北アフリカの一角へ辿りつく。そこがカルタゴだった。エリッサは、長旅で疲れた乗組員たちを休息させねばならないので、土着のリビア人 (北アフリカ人のことを当時はこう呼んでいたが、これは、エチオピア人と呼ばれていた黒人と区別するためだった) に、一枚の牛の皮を見せて、この皮で覆うだけで良いから土地を分けてくれるように頼む。牛の皮の広さなら、何ということはないというのでリビア人は早速承諾する。ところが、エリッサは牛の皮を細長く刻んで帯状にして土地を囲ってしまう。つまり、この説話は、フェニキア人がいかに奸智にたけているかを言わんとするギリシア人の伝えた話なのである。
 カルタゴのアクロポリスに比されているビュルサの丘という小山がある。これは牛の皮という意味であるという。この説話からそう名づけられたものか、あるいはこの丘の方が先にあって、後から説話が生れたものか、どちらとも言えない。
 さて、まんまと騙されたはずの土着民も、新着の東方から来た移民との間で取引きすることにうま味を見出した。おそらくエリッサは持って来た財宝を巧みに商売に利用したに違いない。そこで、ここに新植民地が誕生したのである。
 カルタゴの本来の名はフェニキア語で「カルト・ハダシュ (Qart Hadacht) 」といったが、ローマ人はこれをカルタゴと聞き違えたのである。フェニキア語で「新しい市[まち]」という意味だという。北米大陸に渡った英国人がニュー・ヨークと言ったりするのと同じことである。だが、何に対して新しいのか。それは、カルタゴの北西30キロのところにあった、古くからのフェニキア人の商業基地ウチカに対するものだというのが通説であるが、ティールに対する呼称だとの説もある。ウチカよりも港として適地であったということだろうが、もしかすると、エリッサの一行は、ティールのフェニキア人共同体のなかで、異種に属するか、あるいは別派であったので、ここで区別を判然とする必要があったのかもしれない。
 そこでこの建設の年代であるが、それについては諸説紛々としていたが、現在では、ギリシアの史家ティマイオスの記録している814年に決められている。

     『アエネーイス』は語る
 ローマ第一の詩人ウェルギリウスの歌う英雄アエネアスの叙事詩では、このカルタゴの女王はエリッサではなくディドオという名前になっている。この叙事詩ではローマ建国の英雄は美しいディドオを愛し共生を誓うが、神の命令のまにまに別離してローマヘと向い、新しい彼の任務を果すことになっている。
 だが、なぜディドオなのだろうか。
 その謎は、カルタゴの先住民リビア人のつけた渾名で「漂泊の人」または「さすらいの旅人」という意味だと知ると合点がゆく。エリッサというのがギリシア人のつけた名であるとすれば、ディドオはリビア人のつけた名なのである。ほんとうの名は、ついにわからない。が、私はこれから先、ローマの詩人にあやかって、ディドオの名で彼女を呼ぶことにする。

  さて、ローマの英雄に恋されたフェニキアの女性というウェルギリウスの文学の中のイメージと、プリュタークが評している「陰気な民族で、支配するものには卑屈、自分が優勢なときには残酷で、人生の喜びを解しない」というフェニキア人に対する評言とはどうも符合しない。正反対な民族像であるが、このことについては、イタリアの先住民エトルスキ人を語るところで書くつもりであるので、ここでは深入りは避けることにしたい。
 とにかく、ウェルギリウスの詩のなかでは、ディドオは破れた愛に絶望して火に身を投じて自殺することになっている。カルタゴの最後の日に、身を火に投じたハスドリュバルの妻と同じ運命を辿ったことになるが、美しい女王が自殺するという物語りの結末のつけ方には古代人のロマンが感じられる。と考えてみると、ウェルギリウスの文学も詩人の夢想の結実であるかもしれない。がしかし、ローマの建国やカルタゴの建設の行なわれた当時にあっては、その後600年を経て敵対し合うことになる両民族のあいだには憎しみも競争関係もないばかりか、協力関係さえもあったことを、この英雄譚が反映していることには注目してよい。とにかく、ここでは、このくらいにして、もう一度イタリアの先住民について書くところで見直してみることにしたい。

     その版図
 女王ディドオのカルタゴ建設のあと、カルタゴ人は生得の商業の才を生かして富を蓄えて行く。ローマの軍人で史家だったプリニウス (23~79年) の残した有名な句に「王朝を確立したのはエジプト人の手柄で、民主主義をきずいたのはギリシア人である」とあるが、それにつづいて彼は「そしてフェニキア人は商業を発明した」と付言している。
 カルタゴ人はその父祖フェニキア人から、この商業の才を受け継いだばかりでなく、ラテン語で Tyria maris と呼ぶ「ティールの海」の主人公の役も受け継いだ。すなわち現在のリビアとテュニジアの境界をなすシルト (シドラ) の海岸から西はジブラルタルまで、いやその外へ出て大西洋の海までの、貿易のモノポリーを実現したのであった。
 ギリシアの歴史家ポリュピオス (前201頃~120頃) が伝えるカルタゴとローマとの前509年の条約というものがあるが、それによると、いかにカルタゴの勢力が強大であったかがわかる。その概要は次のとおりである。

 「ローマ人とその同盟者は、嵐の際とか敵に襲われた時以外は、ファリナ岬 (カルタゴの西北にある岬) より外への航行は禁止される。もし、その外へ出る船がある場合、その乗組員は物の売り買い一切が禁止させられる。但し、航行を続けるために必要が生じた場合とか、神へ犠牲を捧げる場合は例外とするが、その場合にあっても五日内に出発せねばならない」

 となっていて、細かい規則、たとえばカルタゴ政府の役人の立ち会いの下でなければ一切の商取引は成立したことにならないというようなことまで取決めてある。そしてサルディニアとアフリカ海岸とはカルタゴ領として考えられており、シチリアでは、その一部についてカルタゴの権益が確保されていたことが規定されていた。そこに「海の帝国」の版図とでもいうべきものが見られる。そしてじじつ、この海上権はその当時の世界最強の海軍によって確保せられていたことは、ギリシアの歴史家・地理学者ストラボン (前64頃~後21頃) の次の記述にある通りだった。

 「忘れてならないのは、カルタゴ人は、彼らの海上権のあるところで、サルディニア向けか、またはヘラクレスの柱に向けて航行するすべての船を容赦なく撃沈したということである。」

 北アフリカの海岸においてカルタゴが占有していた基地の数々が、最近の考古学調査で確認されている。というのは、岬を示すセム語の Rus――アラブ語では Ras ――という前置詞が、多くの地名についているからだという。たとえば、アルジェリアの西部にある島はラシュグーム (Rachgoum) と呼ばれているし、チュニジアの国境の近くにはラスシカードがある。ラシュグームにはフェニキアが掘って造った古い停泊地がある。つまりこの2000キロに亘る沿岸にカルタゴ人のプレゼンスが判明したのである。しかも海岸だけではなく、陸地内にはいり込んだ所にも確認されている。
 北アフリカ史の専門家であるフランス人のジェローム・カルコピーノは、「これらの植民地が “混合文化” の中心となったことは疑いをいれない。このような文化が海岸から内陸へ向けてひろがり、北アフリカ全体にカルタゴ精神を伝播させたのである」とのべている。現在のテュニジアがそのもっとも良い例であろう。
 このような基地の一例として、現在の西部アルジェリアに在るラシュグーン港の遺跡をデクレ教授の『カルタゴまたは海の帝国』(Français Décret 《Carthage ou l’empire de la mer》 édition du seuil, 1977) によってたどってみよう。

 「波しぶきに洗われた丘が海面から50メートルの高さに突出していて、そこの発掘によって114基の墓が出て来たが、墓がつくられた時代は前五世紀まで遡ることができることがわかった。この丘の東側に人工の湾がつくられているが、それは長さ20メートル、幅15メートルの長方形をなしており、その中へ入るために幅が2メートルの入口が岩をくり抜いて造ってあった。この湾内に船を入れてカルタゴ人は土着民と交易したものであろう。
 この港湾は、たしかに小さいかも知れぬが、しかし、それは人手によって掘ったものであることは確実であって、警戒心に富んだこの東洋[オリエント]から来た海の民の努力のあとをまざまざと見せつけるものであることは確かである。彼ら海の民はつねに防御ということに細心の注意を払い、必ずしも彼らを歓迎するとは限らない未知の土地へ、人生の娯楽というものにも見向きもせず、また、未来が彼らにほほえんでいるという確信もなく、つねに自分たちの勇気を試す敵意のある世界へ向けて勇敢に立ち向かったものであろう。」

 プリュタークは、こういう民のことをいささか誇張して「恐怖にかられたときは卑屈になり、焦立ったときは狂暴となり、楽しいもの愛すべきものに対して敵意をもっていた」民と形容したのだ。
 では、次にこの冒険者たちの、世界探険への挑戦の物語りを語ることにしよう。

      [カルタゴ 第3回 終]