
チェックインしたばかりの客に、コンシェルジュが声を掛けてきた。
「ミスター洋一。キスバンク第一ホテルに長期の御宿泊、まことにありがとうございます。もし、お時間がございましたらこれからスペシャル体験ツアーの案内をさせていただきますが、かまわないでしょうか」
コンシェルジュはまるで祭壇を後ろにして立った牧師のように威厳に満ちた目をしていた。洋一は彼なら安心して頼れそうだと素直にうなずき、こう答えた。
「ありがとうございます。ラブポートの旧市街には二週間ほど滞在します。昼間より夜の方がずっと退屈しそうなので、ナイトツアーがあれば教えてください」
「分かりました。それなら気に入っていただけそうなのがございます。空の観光になるのですが、お客様は高いところ、高所は大丈夫でしょうか?」
洋一は高所愛好症という言葉があれば、それがピッタリなくらい高い場所が好きだった。だから思わず身を乗り出した。
「高いところは大丈夫どころか、いたって好きです。素晴らしい、夜景を満喫できる観光ヘリコプターとかがあるんですね」
コンシェルジュは片目をつむって、くだけた表情を作った。
「少し違います。お客さま自身が街の上空を飛んで、夜空の散歩を楽しむことができるのです」
「冗談でしょう。ああ、そうか。流行りの仮想現実というやつですね」
洋一はそれならもういいよと言うように、顔の前に立てた右手を車のワイパーのように左右に振った。
「そうじゃありません。厳密に言いなおしますが、あなたに飛ぶ夢を見ていただきます」
「飛ぶ夢?」
「はい、そうです。夢の中でということになりますが、空から街巡りをしていただこうという趣向です。今夜七時少し前にこの睡眠誘発剤を飲んでいただくと、すぐに夢を見始めます。夢の中ですみやかにホテルの9階屋上テラスにお集まりいただき、参加希望者全員で編隊を組んで飛び立ち、街の夜景を満喫してもらおうという遊覧ツアーです。もちろん無料オプションです。ここにサインをいただければ、お薬を差し上げます」
「……、……」
洋一は、目を見開いたまま、しばらく瞬きができなかった。
「この薬は飛ぶ夢を見てもらうためだけに作られたもので、身体にはまったく無害なのでご安心ください。朝はスッキリ目覚めることができますし、夢の中の記憶は消えるということがありません。そうそこがこれまでの薬剤とは異なる点です。夢とは言え、ラブポートの夜景を空から見ずして、この地に来たとは言えません。それにこのサービスを提供している市内ホテルは二か所しかございません。我がキスバンク第一ホテルの最大のおもてなしをぜひ体験してみてください」
洋一は最初危なくないかと半信半疑だったが、ぜひにと奨めるコンシェルジュの熱心さに押し負けた恰好になった。どっちみち、薬は睡眠薬以外のなにものでもなく、翌朝、「そんな観光ツアーは夢物語ですから。でもグッスリ眠れましたでしょ」などと言われるのではと想像できたからだ。そんな落としどころに違いないと読んだ。
だが……、そうではなかった。
*
現れたツアーコンダクターらしき人物の指図に従い、洋一は軽い運動を始めた。ツアーコンダクターは、エルビスプレスリーのステージ衣装のような、白い羽根をイメージした派手なコスチュームで身を包んでいる。演出は念入りだ。
「両手を水平に伸ばして、そうだ。右に傾き、左に切り返す」
意識という言葉をそんな風に使って良いかどうか分からないが、夢の中でも意識はちゃんとあった。不思議なことに身体もよく動く。洋一は筋肉をほぐしながら、これが本当に夢の中なのだろうかと何度も首をひねった。ある意味、コンピュータが創り出した仮想現実の世界に通じるようだが、こっちの夢では五感が無理なく機能して、より現実に近い感じがした。
始まったアスレチックの最中、ポツリポツリと今夜一緒に飛ぶことになる人たちが屋上テラスに集まって来た。思い思いの運動着を着込んだ参加者はエルビスもどきのツアコンを含めて十五人ほどになった。
「全員揃ったようだ。今夜のフライトリーダーは僕だが、見かけ通りエルビスと呼んでくれ。よろしく。それでは、編隊を組むところからやってみよう。今夜は逆Vの字になって飛ぼう。ではわたしを逆Vの頂点にしてその手を順に握り締めていく。はい、やって。あなた、よく見かけますね。えーと」
エルビスが白い服の女性に声をかけた。
「ホシエです。日本人です」
洋一の頬が緩んだ。こんな異国で日本人と顔を合わせることになるとは思いもよらなかった。意外な場所での出会いに驚いた。彼女には、洗い立てのコットンのようなソフトで優しい耀(かがや)きがあった。一目見ただけだが、急に洋一の胸の鼓動が高鳴った。彼女が出会わなければならない運命の女性だとピンと来た。
「今夜はもう一人、珍しいことに、日本の方が参加していたんだよね。ミスター洋一、初めましてウエルカム。左ウイングの一番端に立って、ホシエさんの左手を強く握りなさい。早く。ギュッと」
「えっ」
「はい」
彼女はすぐに手を差し出したが、洋一は少し間を開けてそっと握り返した。
「今夜はエルビスがリーダーだ。全体のバランスを考えている。それでいい。では、これから、ラブポートの夜空にひとりずつ飛び立とう。ホテルの上空でホバーリングしながら、今と同じ編隊を組むように。では、あのベランダ前方のロイター板に向かって全速力で走り、足裏を強く叩きつけてジャンプする。いいか、まずはわたしからだ」
さすがの洋一も、体育の授業の時に跳び箱で使った経験があったとは言え、久しぶりにロイター板を目にした時は驚き少し後ずさりした。
「大丈夫です。だって、ここは夢の中だから。あなただって、飛ぶ夢はしょっちゅう見ているのでしょ。ところで、あのう、もう手は放してもらっていいですか、スタートジャンプはひとりずつなので」
あわてて握りしめていた手をほどいた洋一は、その手を上に持って行き頭を掻いた。
「これはたいへん失礼しました。ホシエさんでしたね。よろしくお願いします。何度も飛んでおられるとか」
ホシエはキラキラした目で洋一を上から下までスキャンし終えると、こう言った。
「こちらこそよろしくお願いします。おまかせください。でも、あなたがウイングの端のエッジ役に回されるとは意外でした。飛行編隊に何かあったとき、一番に切り放されるのがウイングエッジの人なので、くれぐれもご用心を」
「ええっ」
「でも、私、空の上ではあなたの手を絶対に放さないので大丈夫。もしかしたら地上でもずっと放さなくなるかも知れません。いえ、もちろん、あなたがつなぎたくないと言われるなら別ですし、ロイター板の前も例外ですが、あぁ、これは余計でした。何か運命的な出会いのような気がしたので」
丁度スタートの番が来たので、洋一はこの言葉を受け、文字通り舞い上がった。
「まるでソーダの気泡が上がっていくのを見上げているようだ」
洋一がそう言うと、ホシエがしっかりアイコンタクトをして来た。
「脱落者なくみんな空宙で揃ったのでいい感じだ。風も強くも弱くもなく、飛行に障害はない。では、練習通りに手をつなぎあって、さっそく雁のような編隊を組もう」
「オッケー、エルビス」
ホシエの反応は早かった。
「出来たようだ。いいね。ではこれよりツアー開始だ」
エルビスの声がかかると、ホシエの左手にひきずられる形で洋一の初遊覧飛行がスタートした。徐々に身体を安定させるコツが分かってくる。受ける風が想像以上に心地よく、洋一の目に星と同じくらいの輝きが宿った。
「鳥はこんな風に、いつも自由なんだ」
思わず洋一が声を出した。
飛行客の誰かが「ピーヒョロロ」と鳴いたので全員に笑顔が溢れた。
エルビスが下界を指さしながらガイドを始める。
「さぁ、あそこが街の中心部。憲法広場だ。我が国の独立を記念したモニュメントが見えるだろう。国一番の高い尖塔をもったチャペルが前方に見えて来た。十一時の方向だ。ここで左側に体重を載せて行こう。ゆっくり左に旋回する。ここからベーグル通りの歩道沿い、七色のイルミネーションの上を飛ぶことにする。マロニエ並木にイルミネーションの装飾がクールじゃないか。そのままずっと行くと海に出る。夜光虫が今夜は特別きれいだ。皆さんを歓迎しているのだろう」
夜光虫の神秘的な輝きが空の星の瞬きとつながり、海と空の境が分からなくなっている。洋一は左に体重をゆっくり載せていく。
「左ウイング、もっと高く飛んで。垂れ下がってきているじゃないか。ミスター洋一、左手で海の水を掬ってはいけない。警告注意。そうだ、高さを維持して」
彼女の左手の握りが強くなった。洋一は不慣れのため体重の掛け方が極端過ぎたようだ。
「観光船だ。夢遊覧船ツアーの乗客がデッキで手を振っている。ウイングの端の方、それに応えてあげなさい」
洋一は空いていた左手を大きく振った。ワッと歓声があがった。
「あそこに舞い降りればダンスも踊れるが、それは次のお愉しみだ。このまま飛ぼう、じゃ。また左旋回。右ウイングの方、灯台の強い光に注意。今、見えてきたのが、十字軍の城だ。今では市庁舎と博物館に改造されている。ちらちらと灯が見えるのは修道院。その前の広大な庭は市民の憩いの平和広場、それは巨大な公園墓地につながっている。北の端に見えて来たのが遊園地。あの観覧車は止まることを知らない。それで、実はあのホイールが地球を回しているのではないかなどと噂されている」
参加者に余裕がでてきたので、あちこちで笑いが漏れた。
「見えてきたのが、飛行場。あっ、今いっせいに飛び上がってきたのは空港ホテルから出発した夢遊覧飛行者たちだ。あっちは違うコースなので、こっちの編隊とはぶつかりはしない。さあ、ハッハ山に向かおう。火口が大口を開けてハッハと笑っているように見えるので、そう名付けられたとかでね。はい、山頂ホテルで一旦休憩だ。降りるよ。ウイングのエッジにいる者から着陸していくように。きれいに降りよう」
ホテルの庭に面したオープンテラスで洋一はホシエと同じテーブルに着いた。何も言わずに出て来たレモネードを飲みながら、開口一番、この言葉を発した。
「何て楽しいんだ!」
「良かった」
「明日も飛ぶよね、ホシエさん」
「もちろん」
二人はもう言葉以上に目と目で情報交換ができるところまで親しくなっていた。
*
それから洋一は、毎晩飛ぶ夢を見た。そして、この街に住み着く決心をした。何と言っても、ホシエの存在がその決断の後押しをした。ホテルで宿泊しなくなると、有料にはなったが、コースも増え、二人だけでロマンチックな飛行も許されるようになり、二人の愛は静かに空の上で育まれていった。
そしてひと月後、ラブポートチャペルの屋根の上でささやかな式をあげた。彼女はいつも白い服を着ていてそれがよく似合っていたけれど、やはり純白のウエディングドレスにはかなわないなと洋一は思った。もちろん、それは夢の中だけの出来事ではあったわけだが。
夢の中での夫婦生活。当然のことだったわけだが昼間はホシエと一緒にはいられなかったので、洋一の不満は溜まるばかりとなった。彼女が洋一の視界のどこかにいなければ、胸が締めつけられるようになった。ホシエがいつか夢の壁をすり抜けて消えていきそうな予感がしてならなかったからだ。
「ホシエ、きみの昼間の生活を知りたい。この街のどこで生活しているのか、誰と暮らしているのか教えて欲しい」
たまらず洋一がそう切り出した。
「いいえ、私たちの関係は秘密めいたままにしておきましょう。洋一さんなら、もう気づいていらっしゃるのでしょ。私には夫がいるってことを。でも、せめて夜だけは大好きな人と一緒にいたい。いっしょに飛ぶ夢を味わっていたい。昼間の私の居場所をどうか探さないでください、お願いです」
もちろん洋一はその言葉を真逆に解釈した。つまり、居場所を探して、ご主人と別れてもらうように説得して欲しいというように都合よく。実に洋一の解釈も飛んでいたと言えるだろう。
だが、いくら街を歩き回ってみても、手掛かりが見つからない。知り合った街の人に聞いても、心当たりはないとつれない答が返ってくるばかりだ。
それがある日突然ひらめいた。朝、夢から目が覚める直前にホシエを「いってらっしゃい」と玄関先で送り出すのがルーティンになっていたが、そのときに、彼女の後をつけられないかと考えた。しかし薬の効き目の時間が問題となりそうだ。そんなことは果たして可能なのか。
さっそくホテルで既に親しくなっていたコンシェルジュに相談してみることにした。
「分かりました。そういうことなら、少し薬剤の調合加減を変えてもらうようにいたします。終わりのない夢を見たいとおっしゃっているわけでもないですしね。これまでにもそんな要望を叶えたこともあるのでできるはずです」
協力してくれることになった。夢見る時間を長くするという妙手があったのだ。
さっそく彼は満足が行く薬を提供してくれた。それを使って、彼女を追いかけることが可能になった。
*
ホシエは私の家から外に出て、すぐにまた空に舞い上がった。洋一は、ホシエのねぐらを探すために、その後を必死で追いかける。
ホシエは平和公園から続く公園墓地の一角にソフトランディングした。そしてなんと大きな墓の中にすぅっと自分の身体を溶けこませた。
洋一は、その様子を上空から見下ろし、その墓の上を何度も旋回するしかできることはなかった。
そのとき洋一は、死者も夢を見るのだと初めて知った。