
ある時から、従妹のマキ姉は川を身に着けるようになった。
頻繁に会うほど親しくはなかった。マキ姉の実家は県外にあり、会うのはお正月などの集まりだけ。僕とは十歳以上も年が離れていた。
身に着けられる川の存在に気づいたのは、マキ姉が高校生の頃だった。曾祖父の葬式で親戚一同が介し、マキ姉と久しぶりに会った。
マキ姉の顔を見た時、前髪をまとめているヘアピンに目が留まった。周りの大人は喪服、マキ姉は制服を着ていたのだが、この場ではそれだけが瑞々しく見えたのだ。
「マキ姉、それなに?」
僕が指をさすと、マキ姉は腕を組んで頷いた。
「よく気づいたね、いっちゃん。これはリバークラフトだよ」
「リバークラフト?」
「そう、川を加工したもの。川のヘアピンってところだね」
「水でそんなことできないよ」
「できないことこそ、この世界に無いよ。ほら、耳を澄ませて」
マキ姉に手招きされてヘアピンに耳を近づけた。すると川のせせらぎが聞こえる。驚いてヘアピンを見ると、流れる水面が見えた。
「本当に……川だ」
「今日はすすり泣きが多いからね。せせらぎで気を紛らわせるくらいなら、お爺ちゃんも許してくれるでしょ?」
マキ姉はそう言って遠くを眺めていた。
その後、会う度にマキ姉はリバークラフトを僕に自慢してきた。スマホのケースがリバークラフトに変わっていた。マキ姉の指の隙間から、清流を泳ぐ魚の影が見えた。川のパンツを履いていた日もあった。膝のあたりに木陰が映り、ダメージジーンズの模様のようでよく似合っていた。
正直なところ、僕はマキ姉のリバークラフトが苦手だった。当時、僕は泳げなかったのである。物心つく前に溺れたことがあり、幼少期は湯船に浸かることさえ怯えていた。だから川の音がするマキ姉には苦手意識を持つようになった。
ただ、マキ姉は僕の相手をよくしてくれた。たまに会う面倒見のいい、けれど少し苦手な大人の女のひと??僕にとってはそんな印象だった。
いつ頃からか、マキ姉は家にやってこなくなった。母に尋ねると「お姉ちゃんは大学が忙しくなった」と言っていた。それを聞いて寂しくなったけれど、それが数年も続くと当たり前になってしまった。
僕が中学生になった五月だった。土曜日の午後、僕が部屋でのんびりしていると、扉を叩く音がした。
「いっちゃん、久しぶり。中に入ってもいい?」
マキ姉の声だとすぐに分かった。慌てて返事をしたものだから僕の声は裏返った。扉が開くとマキ姉が入ってきた。数年ぶりのマキ姉は最後に会った頃より、ずっと大人の女性に感じてしまい、一気に緊張した。
「ど、どうしたの? いきなり来て」
「いやね……それが来てしまったというかね。いっちゃんに引っ張られたのかも。私も事情が呑み込めていないんだよ」
僕が首を傾げると、マキ姉は小さく笑った。
「不思議なこともあるものだね。じゃあ、今日はもう帰るよ」
「え、もう?」
「また来るよ。この新緑の季節に、必ず」
そう言ってマキ姉は帰っていった。何だったのだろう、と思って窓から玄関を見ると、マキ姉が振り返ってこちらに手を振った。その手の薬指が輝いていた。
その日の晩のことだった。神妙な顔をした父から、マキ姉が亡くなったと聞いた。三週間ほど前に亡くなっていたのだという。
〇
季節が巡って春が近づくと、マキ姉のことが頭をよぎるようになった。また来る、という言葉が頭の中で響き始めたのだ。
あのマキ姉は何者なのだろう。もし幽霊であったのなら、何故僕の前に現れるのだろう。僕らの関係はそこまで濃いものではなかった。
そわそわしながら五月を迎えると、マキ姉はふらりとやってきた。
「あらあら、一年も経ったら背が伸びたね」
その言葉や表情を見た途端、本当にこの人は亡くなったのだろうか、と錯覚してしまうほど自然だった。
「男子三日会わざれば刮目して見よ。成長期はさながら魔法のようだね」
「……今のこの状況の方が、よっぽど魔法だけど」
「まったくね。まさか命が尽きてからも、こうして自我が残っているだなんて。これでも生前は死後の世界否定派だったんだよ。不思議なこともあるものだね」
「本当だよね」
「もしかすると、この子が結びつけてくれているのかも」
マキ姉が左手の甲をこちらに見せた。薬指にはまった指輪――その表面は水面を映しているように見えた。
「リバー……クラフト?」
「そう、これは川の指輪。太古より、川というのは黄泉とそちら側の狭間とされてきたからね。通行証になってくれているのかもしれない」
どこからどこへ行くための、と質問はできなかった。
「こうして現世にいられるというのもいい気分だよ。この体は自由だけれど、どこか地に足がつかない感じが慣れない」
「マキ姉は悪霊ってわけじゃないの?」
「私も知らない。今の私はどういう状態なんだろう……というかだね、久々の再会で吐くには強い毒だよ、それ」
そう言われて笑った。マキ姉の喋り方は昔と全然変わらなかった。マキ姉が亡くなっていなかったら、何も問題はなかった。
「さて、そろそろ行こうかな。川に呼ばれ始めたみたい」
「帰るってこと?」
「それほど自由の身でもないの。いっちゃんとお喋りするくらいの力しか残されていないんだから、困ったものだね」
マキ姉が立ち上がり、扉を開けた。目の前に肉体があるように見えたが、その体から影は伸びていない。
「ではまた来年。いっちゃん、元気で」
マキ姉が去った後も、川のせせらぎは残り続けた気がした。
〇
新緑の芽吹く季節になると、マキ姉は必ずやってきた。やってくる数日前になると、微かに川のせせらぎが聞こえ始める。
高校生になった頃には、マキ姉への苦手意識はなくなっていた。それは僕が大きくなったからで、分別がつけられるようになったからだろう。水の気配がしたところで近くに本物の川が無ければ、怖がる理由もなかった。
大学一年生の時、僕は上京して狭いアパート暮らしをしていた。故郷から遠く離れていたが、マキ姉はやってきた。
「よくここが分かったね」
「分からないまま導かれたんだよ」
「ふうん。そういえばマキ姉も上京して大学に通ってたよね? どうすれば慣れるかな」
「知り合う人と他人を区分けすること。そして後者に対して興味を抱かないことが当たり前になること」
大学四年生の時、地元に戻って公務員になる、とマキ姉に伝えると驚いていた。
「あんなところに戻るの? 何もないのに」
「何もなくても生まれたところではあるでしょ」
「まあ、私があれこれ言っても決めたことだろうからね。でも私にとっては刺激が無くて退屈すぎたな。良いところはリバークラフトが手に入れやすいくらい」
「リバークラフトってどこにあるの?」
「もちろん、川だよ」
二十五歳の時、結婚して妻と大喧嘩した日にマキ姉はやってきた。
「ひどい顔だよ。泣きたいなら無理しなければいいのに」
「マキ姉には関係ないよ」
「むしろ、私相手に吐き出しておけばいいんだよ。独り言とさほど変わらない」
マキ姉の前で泣くと、荒んだ感情が嗚咽と一緒に外へ流れ出た。
毎年、マキ姉はやってきた。来る年も、来る年も。
〇
四十六歳の時、マキ姉に相談した。
「泳げるようになるコツ?」
「娘が泳ぐの苦手なんだ。プールの授業で友達から笑われて悔しかったから、泳げるようになりたいって息巻いてる」
「いっちゃんが教えてあげれば?」
「僕、未だに泳げないんだよ。妻も運動が得意な方じゃないんだ」
「そうだね、コツは水に逆らおうとしないことかな。沈み込む感覚と浮力を掴めるようになれば、そんなに難しいことじゃない」
マキ姉は少し誇らしそうに言った。この日も川の指輪が輝いている。
僕が年齢を重ねるにつれて、マキ姉は輝きを増すばかりだった。飾り気のない眼差しも、青臭い喋り方も、張りのある肌も、自分がいつか失ったものだ。どれだけ時間が経とうとも、僕を諭す口調は変わらず、いつまでも『いっちゃん』のままだった。
「ありがとう。伝えてみるよ」
「いっちゃんは体を絞った方が楽に泳げるようになると思う」
「……流石に太ったか」
「丸々しているようには見えるね」
その後も雑談をしていると、マキ姉が急に立ち上がった。毎年同じ時期にやってくるのだが、話す時間は長くても三十分程度だった。
「もう行くの?」
「いい時間だからね。それじゃあ」
マキ姉がドアノブに手をかけると、振り返って「ああ、そういえば」と言った。
「近いうちにもう来られなくなるかもしれない。それだけは留めておいて」
「どういうこと?」
「この子の大本の川が枯れそうなんだね」
マキ姉が川の指輪を指さした。
「多分、リバークラフトが私を結んでくれている。大本の川が消える時、この子も私もどうなるかわからないんだよね」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「直感。でもあくまで可能性の話だから」
「それならさ、川の名前を教えてくれないかな」
「何のために?」
「もしマキ姉が来られなくなったら、僕が会いに行くよ」
「面白いね。でも探すのは難しいよ? その川に名前があることを知っている人が、どれだけいるか」
「大丈夫、ちゃんと見つけるよ。僕は大人なんだから」
「橡名川(とちながわ)。そこでなら会えるかもしれないね」
〇
翌年、五月を過ぎたのにマキ姉はやってこなかった。そこで初めて僕から会いに行くことにした。
だが、橡名川探しは難航した。僕の知り合いで橡名川の名を知っている人は皆無、ヒントすら与えられなかった。時間を割いて方々手を尽くして探したところ、川の名を知るお婆さんと出会えた。ゆうに四ヶ月が過ぎていた。
お婆さんは今年九十歳、寝たきりの御老体だった。彼女も場所を把握していたわけではなく、小さい頃に人づてに聞いたというだけ。そこからは自分の足で探すしかなかった。
橡名川があるという山に入ったのは九月だった。日差しに夏の照りが残り、歩くうちに汗が滲んできた。
しばらくすると、礫(れき)の転がる谷底にたどり着いた。しかし、水の気配は無くせせらぎも聞こえない。そのまま上流を目指して歩き続けた。
強い日差しを遮るものもなく、長い時間歩いていると意識がぼんやりしてきた。蝉はぎいぎいとやかましく、蚊が手の甲を食ってかゆい。自分はこんなところで何をしているのか、という疑問を抱えながら、緩やかな坂を上り続けた。
やがて遠くに橋を見つけた。高さは五メートルほどの石造りである。その橋に近づいて触れてみたが、完全に乾いており、苔や水に浸かっていたようには見えない。
何だか奇妙な感覚がある。この橋は――。
「よくここまで来られたね」
頭の上からマキ姉の声が降ってきた。見上げたが逆光になっており、人のシルエットしか見えない。
「マキ姉……ここが橡名川なの?」
「ご名答。この夏は暑さが厳しかったから干上がってしまった。大したものだね」
「よかった、一安心したよ。マキ姉が消えてしまったかと思った」
「……もう、時間の問題だけどね」
「え?」
「このままだと、橡名川は枯れてしまうんだ。今は地下水が微かに流れているけれど、長い時間を生きた跡が途絶える」
マキ姉はため息をついた。
「私はね、それが悲しくてたまらない。私の心の故郷のような場所で、私の愛したリバークラフトも、ここで生まれた。うん、いつ見ても美しいね」
マキ姉が手をかざす。ほっそりした指のシルエットの途中で、水玉が浮いているようにも見えた。
「だから、この子を解き放たないといけない。私の愛したものを、残すために。いっちゃんを待っていたのは、そういうこと」
「僕を?」
「今際(いまわ)の際(きわ)くらいは、誰かに見守ってもらいたいじゃないか」
どこからか、川のせせらぎが聞こえてきた。その音はみるみるうちに大きくなり、やがて地響きに似た轟音へ変わっていった。
「マ、マキ姉! これは一体……」
「いっちゃん、懐かしいでしょう?」
「懐かしいって、何のことを」
次の瞬間、マキ姉の川の指輪から水しぶきが迸った。巨大なバケツをひっくり返したような水量が僕に降りかかろうとしていた。
立ったまま水に飲みこまれる。足元をすくわれて呼吸ができなくなり、方向感覚を失った。辛うじて水面から顔を出すと、マキ姉の指輪から、滝のような水が止めどなく溢れていた。
「思い出せるはず。この川を」
水流が激しさを増し、僕の身体はコントロールできなくなった。そのまま流れに飲みこまれて、何が起きているか分からなくなる。
川で作る、のではなく、川を作る――。
〇
ぴたぴた、と頬を叩かれる感覚で意識が戻った。
「おーい、生きとるか」
目を開けると傍らにお爺さんがいた。つまらなさそうな顔でこちらを見ている。自分の体に目をやると、腹から下が清流に浸かっていた。
「僕は……」
「川上から流れ着いたみたいだな。命があってよかったな」
僕は立ち上がって振り返る。干上がっていたはずの川が蘇っている。勢いは穏やかで清々しささえ感じた。
「お爺さん、この辺りで女性を見ませんでしたか」
「女性? 特徴はどんなだい」
「年齢は二十代くらいです。えーと、リバークラフトという――」
「あんた、リバークラフトのことを知っているのか」
お爺さんは目を見開いた。そこで僕は事の顛末を語った。これまでのこと、マキ姉のこと、リバークラフトのこと。全てを聞き終えたお爺さんはがっくりと項垂れた。
「可哀そうに。あの娘はそんなにも長い間、川に囚われ続けていたのか」
「マ、マキ姉を知っているんですか?」
「当然だ。儂がリバークラフトを作っていたんだからな」
「え!」
「作れ、とささやかれるんだ。その声が聞こえると体は勝手に動いて、川を手にしている。水を形として練って救い上げるのは、童心に帰れて存外楽しかったもんだ。ところがあの娘は、あれを作れこれを作れと。記憶に残らんわけがない」
するとお爺さんは微かに笑った。
「まあ、何だかんだ儂とあの娘は本質的に似ていたのだろうな。儂らは橡名川に魅入られていた。ただ、あの娘の方が一段深い所にいたようだが」
リバークラフトの作り手――その人が目の前にいると理解して、僕は今まで口にしなかった疑問をぶつけた。
「……マキ姉、僕が故郷を離れてもやってきたんです。行く先々を伝えていないのに、必ず。どうして僕の元だったんでしょう?」
「ははあ。あんた、もしかすると橡名川に来たことがあるんじゃないか?」
「この川にですか」
「ここは道路が遠いから地元の人間くらいしか稀に訪れん。川の水に直に触れたことのある者はさらに限られる」
そうだ、あの石橋だ。僕は確かにあれを見たことがあるはずだ。もしかすると、幼少期に僕が溺れた川は、橡名川だったのかもしれない。そして、溺れた時に川の水を飲み、それが僕とマキ姉を繋いでくれていた――。
橡名川は整備された河川ではなく、鬱蒼と茂る山間を流れている。時間が経てば再び石も苔むして、生物豊かな場所に戻るのだろう。
「あの娘も、ようやく自由になれたんだな」
「もう会えないのは寂しくなりますけれどね」
「寂しくなったらこの川を泳げばいい。川を口にしたことがあるなら、きっと馴染むはず。そこで出会えるかもしれない」
「二人のように魅入られたりしませんかね」
「さて。それはお前さん次第だろう」
僕は意を決して大きく息を吸いこみ、頭から川に飛び込んだ。音が遠のき視界はぼやけるが、全く恐怖心がない。これまで水に浸かることも嫌だったのに――ゆっくり手足を動かすと、身体が水を滑る感覚があった。
泳げた。やけに手足が軽くて、自由自在に水の中を進んでいく。呼吸もせずに、ひたすら加速していく。まるで自分が魚にでもなった気さえした。
遠くへ。もっと速く、より遠くまで――。
「いっちゃん、止まろう。顔を上げて」
その声が聞こえると、僕は我に返った。泳ぐのを止めて立ち上がると、心臓の鼓動が異様に高まっており、くらくらと目眩がした。
遠くで誰かが手を振っている。あのお爺さんかと思っていたが、自分の視界がやがて鮮明になると、その人影は消えていた。