
気が進まないものの、楓は実家に顔を出した。空気が冷たいのは冬が近づいているせいばかりではない。職場、つまりは実家の経営する病院で倒れたことは既に家族全員に知られてしまっているだろう。そして、楓を守ってくれる祖父は亡くなったばかりだった。
父、母、姉からの冷たい視線が刺さるなか、弟は朗らかに楓の体調を訊いてきた。姉が眉をひそめるのに対し、弟は軽い調子で返す。
「病院で診てもらっていると思うけど、楓姉さんはその辺が少し鈍いから念のためだよ」
姉は弟を無視して、楓に毒づいた。
「一条の家に生まれたからお情けで働かせてやってるのに、勝手に倒れて手間をかけるなんて立場がわかってないのね」
医師になれなかった楓を臨床工学技士として実家の経営する病院で雇ってやっている。医師になれた姉は、楓を攻撃する材料としてそのことを引き合いに出す。姉の暴言に揺れる感情は存在しない。いつもなら姉を咎める祖父はもういない。楓はソファに座る姉を冷たく見下ろした。祖父に認められなかった鬱憤を楓にぶつけたところで、何も変わりはしないのだ。楓は弟の隣で父の言葉を待った。
「四十九日の日取りを決める。通夜と告別式は身内のみにしたが、四十九日の法要は広く知らせるつもりだ」
祖父は県外からも患者が来るほど名の知れた医師だった。弔問に訪れる人数も相当なものとみていい。やってくる大勢の弔問者に遺族として対応しなければならないと考えると気が重くなる。父は淡々と日取りを決め、その場で斎場を予約した。母は父の指示に従い、あれこれと細かなことを手配し始める。他人の表情や顔色に鈍い楓にもわかるが、その横顔に追悼の意はない。この家は、そして両親は、祖父の死を悲しんでなどいなかった。無表情だ、人の感情をわかっていないと楓を責め立てた両親の教育の成果か、二人の態度があからさま過ぎるのかは判然としないが、楓にも二人が祖父の死を悼む気がないと痛いほどに伝わった。
「楓、修一。お義父さんの部屋を片付けてしまいなさい。部屋だけじゃなくて、庭の方もね」
「こんなすぐに?」
弟が声を上げるより先に、口が動いていた。
「もう誰も使わないんだから、さっさと片付けなさい」
他人の感情に疎い楓でも母の真意が読み取れた。片付けてしまいたいのは祖父の荷物だけではない。楓と祖父の思い出そのものだ。祖父が病気になる数年前まで、楓と祖父はカブトムシやクワガタ、カイコなどの昆虫の飼育を楽しんでいた。小学生の頃に時折弟が覗きにきていたほかは、庭の一角が祖父と楓二人が大切な時間を過ごす空間だった。
「それなら私がもらう。自分で使うから」
母と姉が同時に顔をしかめる。失敗したと気づいても、口に出した言葉は消えない。
「あんたやっぱりあの部屋の虫達を自分のマンションに持っていったのね。お義父さんに頼まれたんでしょうけど、年頃の娘が虫を飼って喜んでいるなんて。おじいちゃんはもう亡くなったのよ。そんな子どもっぽいことはやめて、先のことも考えなさい」
「おじいちゃんの孫だって言えば、あんたでも見合いの一つくらい成立するでしょう。ちょっとはこの家の役に立ちなさいよね」
楓に課されようとしているのは、優秀な医師もしくは有力者の子弟との結婚だった。医師になれなかったなら、せめて娘として家の役に立てと迫られているのだ。祖父が生きていた頃は「そんなことはしなくていい」と肩を持ってくれたが、今は何の後ろ盾もない。母と姉相手では建設的な議論も期待できない。父は使い勝手の悪い娘などどうでもいいのだ。
母のため息と姉の嫌味を背中で黙殺し、楓は庭へと向かった。
職場で倒れた経緯を思い返す。
忌引き休暇が明けてから二日、祖父の死を受け止めきれていない楓は、色と音の洪水と化した世界に耐えきれず、いつの間にか意識を失っていた。顔色の良し悪しもわからないまま、目が覚めたから平気だろうと結論した。医学の知識を得たところで、自分の健康にすら鈍感なのは動かしようのない事実だ。
気は重いが、残されたメモから状況を把握し、助けてくれた柏木へのお礼と報告に向かう。弟と変わらない年頃の仕事熱心な青年には一切の非がない。悪いのは彼の真剣な恋心に前向きに応じられない自分と、柏木と関わる度に攻撃を激しくする姉だ。姉は研修医としてやってきた柏木に気があるのだ。
楓を診察し、心労が重なったせいかもしれないと分析した上で、柏木は本音を口にした。
「楓さんが倒れたと知って、焦りました。心配だったなんて俺が言っていいのか、わかりませんが」
こちらを気遣い、まっすぐ見つめてくる。柏木のその言葉が医師としてのものだけではないのも、とうに知っていた。どんな言葉をかければいいか、楓の頭には選択肢すら浮かばない。無意味で形の定まらない言葉を吐くような不誠実な行為を柏木にはしたくなかった。深々と頭を下げてお礼を口にして、楓は自分の部署へと向かった。
祖父の死を境に世界は混沌としたものに変わり果て、楓は頻繁に世界の悪意に苛まれた。祖父の庇護がなくなった今、楓は自分の望みも見失っていた。
庭は大部分が母の趣味を反映したものに入れ替わっていた。祖父の作った棚には腐葉土、おがくずといった昆虫の飼育に欠かせないものが置かれている。祖父が元気にしていた頃と棚の位置は変わらないのに、祖父の棚が隅に追いやられているように思えるのは気のせいではない。母に気づかれないよう、弟の手も借りながら祖父のものを運び出していた。その成果もあって、今回運ぶものは少ない。
「……この棚は私の家には置けないか。バラして捨てるしかない」
祖父の気配がかろうじて残る空間を眺めて、楓は決断を下した。同時に、母と姉を言いくるめてきたのだろう弟が到着した。
「これバラすところ?」
楓の手にした工具と視線から意図を察知して、弟は手際よく棚を押さえた。
「うん。バラすしかないかな。私のところには置けないし。それと……手間をかけた」
「何が? 母さん達はいつものことだろ。父さんはじいちゃんの跡継ぎとして認められたいのがみえみえだったけど」
市内の病院で研修医をしている弟には実家の病院が外からどう見えているかもわかるのだろう。医師ではない楓の知らない世界もおそらく知っている。楓にとっては話しやすく、何でもできて医師にもなれた弟が少し羨ましかった。
「認められたいも何も、実際跡継ぎじゃないの?」
棚を解体しながら、楓は弟と会話を続けた。
「この辺で『一条先生』って言えばじいちゃんを指すんだ。父さんはずっと『一条先生の息子さん』なわけ。じいちゃんほどには評価されてない」
楓は一人の医療従事者として、父が優秀ではないなどとは思っていない。祖父の影響があまりに大きく父の長所は注目されにくいのだろう。
「そうなのか。姉さんはともかく、父さんはすごい医師だと思うけど」
「その通りなんだけど、じいちゃんがすごすぎるんだよな」
そこまで言って、弟は声を潜めた。
「まどか姉さんは、変わらず?」
「……変わらず。柏木先生と私が仲良くしているのが気に入らないみたい。柏木先生には八つ当たりしていないけど、柏木先生には面倒をかけちゃってる」
院内での評判はあまりよくなく、医師としても高評価を得られていないくせに、姉は意中の異性と親しくしているスタッフにきつく当たる。勉強会で柏木とともに学ぶ楓は、元々の不仲もあり、集中的に被害を受けている。他のスタッフに火の粉が飛ぶよりは事の収拾もつけやすいだろうが、そもそもそんなくだらないことで人に当たる時点で浅慮が見え透いている。
「きょうだいで一番金かけて、どうにかこうにか適当な私大入って医者になったくせに、あの人こそ立場わかってないよな。一条の家に生まれてなきゃ、医学部にすら入れてないっての」
弟の言葉は、楓の知る話とは違っていた。疑問をそのまま口にする。
「一番お金かけたのは私じゃないの? 中学生の頃、母さんがよく『教室が合わないからって個別指導なんて頼んでお金がかかった』って言ってた」
棚を解体して出た木材を集めながら、弟が笑った。
「私大の医学部、しかも6年だ。国試もやばくて、家庭教師頼んでたんだから、中学生の個別指導なんか誤差だよ」
これまで見ていた世界が嘘のようだった。
「楓はもっと自信持っていいんだって。じいちゃんの見立てはいつも正しかった。そうだろ?」
祖父の言葉が頭に浮かんでくる。
楓は賢い子だ。姉さんと違って、しっかり考えている。大丈夫、楓が丁寧にやっていることをじいちゃんはわかっている。楓はじいちゃんが大事に守ってやるからな。
表情がない、人と馴染まない、女の子らしくないと両親が楓を否定的に見るなかで、祖父のそばが楓の唯一の居場所だった。家、学校、そして職場でさえも、祖父の庇護が一条楓を無数の刃から守り続けた。祖父は楓の仕事ぶりを見て、「やはり楓はすごい子だ」と喜んでいた。楓の得意を引き出したのは、祖父との時間だ。植物や昆虫の世話、勉強のおもしろさまで、多くのことを教わった。
「そう、だね。ありがとう」
見えていなかったものが、鮮やかに形を成していく。他にも新たな発見があるのかもしれない。根拠はないけれど、そんな気がした。
倒れてから初めての出勤日。楓を迎えたのは同僚の謝罪と気遣いだった。パソコンを起動し、院内システムで業務予定を確認していると、隣に座る同僚の女性から遠慮がちに声をかけられた。
「楓さん、その、今までごめんなさい。楓さんが倒れるまで、まどか先生が楓さんにあんなに負担をかけていたなんて思わなくて……。楓さんは患者さんと接するのは苦手でも技術はすごいから平気なんだと思ってしまって、本当にごめんなさい」
どう返したものかと迷っていると、近くの同僚達も彼女に同調して楓への気遣いを約束してくれた。患者とのコミュニケーションを免除されて医療機器の保守管理に専念する楓を特別な存在だと遠巻きにしていたが、忌引き休暇でしばらく休み、復帰早々に倒れたのをきっかけに楓が担っていた業務、姉からの攻撃の実態が部署内に知れ渡ったらしい。業務内容を限定してもらっている以上はできることの精度を上げなくてはと人一倍頑張ってきたのが評価されている。経緯はともかく、自分のやってきたことが認められるのは純粋に嬉しかった。
「私達の代わりにまどか先生との間に立ってくれていたのも知らなかった。これからはもっと連携していこう」
少し誤解がある。姉が楓に攻撃的なのは元からだ。楓に注目している分、同僚達にまで当たり散らしている暇がないのは事実だが、楓が同僚達を守っていたわけではない。ただ他人にパワハラして問題になるより、家族相手の八つ当たりの方がましだという判断も楓にはあった。同僚の言葉を即座に肯定も否定もできないでいるうちに、楓の反応は感動して言葉も出ないと解釈されていた。
慎重に言葉を選び、楓は礼を述べた。
「……あの……、ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします」
笑顔が浮かべられなくても、頭を下げると何とかなることも多い。覚えたルールに従って頭を下げた楓を好意的な視線が包んだ。同僚達の変化に混乱はしていたが、積み上げた技術や熱心に取り組む姿勢を評価されて、嫌な気持ちになるはずがない。わずかに頬が緩むのを感じた。
夢を見た。
両親や姉、名も忘れた過去の同級生に怒られている夢だ。何と言っているのかも、何に怒っているのかもわからない。言葉がまとまらない音として反響するばかりで、楓はただ怒りの嵐が過ぎ去るのを待っていた。時間が経てば、人々は怒るのに疲れて、諦めて去っていく。無駄と知りながら怒り続ける人々を楓は憐れんだ。何にもならないのに手間をかける愚かさに呆れていた。記憶は定かではないが、過去にも楓はそうしていたのだろう。
「嫌な夢だ」
一人暮らしのマンションで目覚めて、淡々と食事を口に運ぶ。祖父に教わったルーティンだ。機械的に作り、食べる。生活は乱さない。
あれ以来、上司も同僚も姉と鉢合わせしないよう楓を気遣ったり、楓の業務量に目を配ったりしてくれている。つまり、楓の仕事ぶりはそれだけの価値があると認められているのだ。それだけで、悪夢もなかったことにできるほどに気持ちが明るくなった。
後ろ盾だった祖父を失った今、ここに楓の未来はない。上司や同僚が評価してくれても、父と姉は楓を評価することはない。四十九日の段取りからわかるように父は弟を自分の後継とするつもりだ。弟の判断は信頼できるが、弟が院長になるまで待つのは無理だ。祖父の死から一月も経っていないが、それだけはたしかだ。母と姉は楓にあまりにも攻撃的だ。
「じゃあ、どうしよっか」
一条は珍しい姓ではないが、祖父は医師として相当名が知れている。実家の病院をやめてよそへ移ったところで、その名はついて回る。そして、臨床工学技士の業務のなかでも患者とコミュニケーションをしなくてすむよう配慮してもらって働いている。仕事の出来は悪くないにしても、配慮をしなければならない人材は転職も難しいだろう。
そこまで考えて、来週の勉強会で使う資料を手に取った。人工心肺を用いた手術についての論文を扱う予定だった。英語の論文に目を走らせていくうちに、欧米では日本の臨床工学技士にあたる職業はなく、日本の臨床工学技士の職域である医療機器の保守管理と臨床業務は別々の職業だと思い出した。昨年、国際学会に行った上司がおみやげを配りながら話していた。
海外欧米に行けば、医療機器の保守管理に専念できるのではないか。資格を取り直したり、語学力を上げたり、やることは多いが、国内で転職活動をするよりは希望がある。元々英語は苦手ではないから、英語圏がいいかもしれない。
突飛な思いつきに思えたが、医療従事者としての海外移住について情報収集を重ねていくと、何とかなる気がしてきた。臨床工学技士の業務、特に医療機器の保守管理には手応えを感じていた。
日本から出たことのない楓にとって海外で働くのは大きな決断だ。迷いから目をそらすように情報を集め始めた。
楓の決意を後押ししたのは、姉の八つ当たりと弟の応援だった。祖父の四十九日の法要を終え、真冬の寒さのなか、斎場から姉とタクシーに乗った。姉は際限なく楓を罵り続けていた。父が後継者にと考えているのが誰なのか、ようやく身にしみたようだった。
「あんたみたいな落ちこぼれ、誰も嫁にもらってくれないわよ。頼みの綱のおじいちゃんもいないんだから、立場を弁えて大人しくしてるといいわ」
立場を弁えて、大人しくしている。なるほど、祖父のいないここでは私の未来はそこにしかないのか。
楓の頭はひどく冷えて冴え渡り、今まで無視し続けた姉に向かって薄く笑った。気圧されて、姉は一瞬怯えた目を見せた。
「憐れだ」
荒れ狂う姉の言葉をどこか遠くに感じながら、楓は決心した。海外に行くのも、ここにいるのも、どちらもリスクがある。ここも海外もそう変わらない地獄かもしれない。それでも、どこの地獄をどう生きるかくらい、自分で決める。楓の瞳には、かつてないほど強い光が宿っていた。楓の望みは、目指す姿は、明確に形作られた。
その数日後、弟に海外移住の決断を伝えた。「そう。いいんじゃん?」とあっさりしていて、本当にいいやつだと感心した。
心を決めてからは、住み慣れた街の風景も一変した。今後はそう簡単に見られなくなる光景と思えば、何かを失う感覚が生じた。
故郷を離れるとなれば、私でも思うところがあるのか。
自分にもそんな感情があったのだと一人でおもしろがっていると、約束の相手が現れた。柏木だ。今日は楓から食事に誘った。決断を伝えるために。
柏木も楓も、さほどかしこまった格好はしていない。本当はもう少しよい店に行こうとしていたが、仕事の後の勉強会が思いの外長引いて深夜のファミレスにやってきたのだ。
「結局ファミレスになっちゃいましたね」
「いっぱい食べてもそんなにかからないから、今の俺には最高です。それに、この時間なら人も少ない」
その言葉通り、柏木は楽しそうにあれこれ注文していく。無理もない。まだまだ若い柏木にとっては勉強会で出された軽食では全然足りないのだろう。楓はコーヒーと唐揚げを頼んだ。
テーブルに沈黙が訪れる。楓は意を決して口を開いた。
「告白の返事をさせてください」
楓の言葉に、柏木が真剣な顔つきになる。
「柏木先生とお付き合いすることはできません。より詳しく言えば、私は恋愛というものがよくわかりません。柏木先生のことは好き、だと思います。でも、恋愛感情ではなくて、だから、恋人になるのは違って、でも勉強会で仕事の話をするのは、とても、いい時間だって思っています」
言葉が浮かばない。準備してきたはずなのに、何を言っても言葉が足りていないどこまでも言葉が足りないのを思い知る。楓は何とか自分の気持ちを伝えようと必死だった。
よかった、と柏木がほっとした顔で口にした。
「楓さんに嫌われていたんじゃなくて、本当によかった……」
そんなこと、考えもしなかった。いつも真っ直ぐな柏木が楓に嫌われているかもしれないと不安になるなんて、想像もできない。
「嫌いだったら勉強会の後にごはんとか行きません。たしかに私はそういうことに鈍いですけど、恋愛でもそうでなくても、嫌いな人とごはんに行くわけないです」
「そっか、そうですよね」
告白を断ったのに、柏木は悲嘆にくれている様子はない。もう少し気まずい雰囲気になると思って覚悟を決めたのだが。楓の疑問を感じ取ってか、柏木が説明してくれた。
「告白してからずっと、俺のなかにも違和感があったんです。楓さんを好きなのは本当だけど、その、世間一般で言うような好意なのかって。楓さんと恋人になって、結婚して、子どもができるかもしれなくて、とか、そういうの考えてみたけど、違うなと。俺も、楓さんと仕事の話をして、話が終わらなくてごはん行くのが好きなんです。楓さんとの関係に恋人と名付けるべきなのか、それとも他に楓さんのなかで特別になれる方法があるのか、さっきまでわからなかった。でも、恋人じゃなくても、名前がなくても、いいんじゃないかって、楓さんの話を聞いてて気づきました。俺は楓さんと勉強したりごはん食べたりする時間が好き。そこに名前をつける必要は別にないっていうか、名前がないのもいい。うまく言えないんですけど」
恋人になるか、ならないかの二択ではない。言われてみれば当たり前だが、楓も柏木に言われるまで気づかなかった。
「私もイエスかノーかで考えてしまっていました。恋人じゃなくても、今までみたいに勉強したりごはん食べたりするの、できますよね」
柏木が頷いて笑った。同時に柏木の腹が鳴る。
「すいません、お腹空いてて」
「こんな時間ですしね」
ちょうどよく運ばれてきた食事に目を輝かせ、柏木は幸せそうに食べていた。
帰り道、海外移住の計画を打ち明けると、しばらく考えこんで、柏木は一つ提案した。
「約束をしませんか」
「約束?」
「お互い頑張って目標を達成したら、二人でおいしいごはんを食べに行くんです」
楓は食事に思い入れが強い方ではない。だが、それが柏木との約束になるなら、頑張りがいもあるかもしれない。柏木といると、引っ張られるように食が進んでいるときがある。
「目標、おいしいごはん……」
「そのとき手が届くなかで一番おいしいごはんを食べましょう」
「それは、いいですね。頑張ってやりとげて目標達成して、お祝いにおいしいごはん……それは、楽しみです」
約束を交わした途端、楓は目標を考え始めた。海外に行っても、その先があるのだ。当然、立ち止まってはいられない。海外移住そのものが大きな挑戦だが、それで終わりではない。
祖父が亡くなって二度目の春。楓は空港で国際線を待っていた。柏木がくれたメッセージカードの端には、AUG……と記されていた。タンパク質合成の開始を告げるmRNAの塩基配列、そしてその先は未定だ。塩基配列に変異が生じて、本来とは違うタンパク質を合成してしまうかもしれない。変異の有無、変異があった場合の変化が運命を左右する。今の楓を表しているようだ。進んでみるまで確定しない未来を恐れつつも、楓は足を踏み出した。
搭乗案内が始まる。不確定の未来へ、飛び立っていった。
ふっと笑みが漏れた。果たされることのない約束に思いをはせ、柏木は画面を閉じた。もう夜も遅い。明日は出勤ではないが、大切な用事がある。体調を整えておきたかった。
夏の始まりに英語でかかってきた電話が楓の死を告げた。交通事故で即死だったという。送られてきた遺品のパソコンには渡航してからの楓の生活が記録されていた。先ほどまで読んでいたブログの下書きもその一つだ。
楓に後悔がないのならそれでいい。もちろん、できることなら約束通り祝杯をあげたかった。それでもカナダに行かなければなどとは夢にも思わなかった。拙いとはいえ、楓が自分の気持ちを言葉にできるようになるなど、ここにいた頃では望めない変化だからだ。
安らかに眠っていることだろう。そうであってほしい。次の休みには二人で勉強会の後に小腹を満たしたファミレスにでも行こうか。ともに訪れた居酒屋も悪くない……。
緩やかに柏木は眠りに落ちていった。
日本語を忘れないために日記書いていきます。ブログ(言い方古いのか?)は初めてだから勝手がわからないなりに手探り。
初記事?初エントリ?だから自己紹介から。
カナダに移住した医療職。移住5年目。
日本語が出てこなくなってきて、ひとりごとのつもりで書くことにした。あと生存確認。
移住を決めたのはいろんな意味で日本にいても自分に先はないと理解したから。
で、移住してみてなんだけど、いいことばかりじゃない。
食事とかも慣れるまできついし資格もそのままじゃ使えないし。
パートナーがいて当然、みたいな空気はかなりある。
前向きに移住決めたわけではないんだけど、全然後悔してない。
日本にいればしなくてよかった苦労もあるかもしれない。
でも、自分で選んで決めたここで生きていく方がずっといい。
今が一番幸せで、これからももっとよくなるって思えてる。
希望ってこういうもんなんだな。
写真はブリティッシュガーデンでひとめぼれしたバラ。
バラは育てられないので、見るだけにする。
<指が写りこんだ白いバラの写真>
(了)
染井雪乃(そめい・ゆきの)
細胞生物学を専攻していた病弱な物書き。
エッセイ「書くこと、あるいは希望と救済と生存について」(『書くしか。書くしかないひとたちによるエッセイ集』有限会社EYEDEAR)がある。