「黄金の街」粕谷知世

 白壁に夕日があたって黄金色に染まっている。
 ああ、また、ここに戻ってこれたんだ。
その嬉しさで足が数センチ、地面から浮いたようになった。
 家々の屋根や窓枠は黄金に輝き、橋を渡れば、光を反射する欄干の球飾りが眩しい。
 道行く人は僕に微笑みかけてくれる。目尻が優しく下がって、口角がきゅっと上がっている。話しかけてくるほどの仲ではないけど、同じ街の住民同士なんだし、仲良くやろうよっていう意思表示だ。転んだりしたら、あっという間に駆け寄ってくれるだろう。
 集会所の屋根の上には陽火鳥(ようひどり)がとまっていた。どこか生真面目で、それでいてふざけてもいるような顔つきで、僕を見下ろしている。顔つきはカラスに似てるけど、この鳥の羽は鮮やかな朱色で、嘴(くちばし)は金色だ。
 久しぶりに飛ぶところを見てみたいな、そう思ったとたん、陽火鳥は飛び立った。燃えるように赤い翼を広げて、レモン色の空へ昇り、西の山のほうへ飛んでいった。
 長くたなびく極彩色の尾羽に見とれているところへ声をかけられた。
「あら、戻ってこれたの。よかったわね。珈琲、飲んでいくでしょう?」
 満面の笑みを浮かべて話しかけてきたのは僕の母さんの妹、パン屋のおばさんだった。
 だんなさんが、がっちりした食べごたえのある堅パンを焼く職人さんで、もともと人気のパン屋だったから、みんなからパン屋、パン屋と呼ばれているけれど、おばさんが店の隅で入れる珈琲が評判になって、今ではカフェとしても繁盛している。
おばさんの、丸太みたいな腕で抱きしめられて、ああ、ほんとうに戻ってきたんだなあ、と実感した。
「寄っていきたいけど、もう席がないんじゃない?」
「この時間なら大丈夫」
店内は街路側の大きな窓から差し込む光で明るかった。白壁にダークブラウンの柱や腰板がアクセントになっているのは街の外観と同じなので、室内でも外にいるような開放感がある。
 僕の定位置は空いていた。店のすみっこだけど、ここも窓際だ。明るくはあるけれど、面しているのが街路ではなくてカフェの裏手、集合住宅の中庭なので、静かで落ち着ける場所だった。
 おばさんは珈琲と一緒にホットサンドを持ってきてくれた。
「ここのお金、そんなに持ってないよ」
「いいのよ。気にしなさんな。たまに来たんじゃない」
 遠慮なく、ミルク入りの珈琲を啜り、ホットサンドにかぶりつく。 
珈琲をおいしいと思うようになったから、僕はもう子供じゃないんだろう。だけど、すごくお腹がすくってことは大人でもないらしい。大人はお腹がぺこぺこになったりしないそうだから。
 空腹が満たされて初めて、席にそなえつけられた封筒と便せんに目が留まった。
 ゆっくり珈琲を飲んで一服すると、懐かしい人に手紙を書いたり、今の想いを文章に綴ってみたくなる。この近くには望みの塔があるから、ここで書いたらすぐに投函することもできて便利だ。
 僕も何かを書きたくなった。胸ポケットからペンをとりだし、便せんを広げて、そうだ、君に手紙を書こうと思いついた。
 書き出してから気がついたけれど、僕には、柳の枝のように一続きに流れていく文字を読むことはできなかった。ただ、自分の思いがちゃんと紙に落ちている実感はあった。
 そう、僕のなかには二人の僕がいるんだ。この街に馴染んでいて、この街で使われている文字を苦もなく書ける僕と、その文字が読めない僕。君に会いたいと思うのは、そのどちらの僕だろう。
 手紙の最後を「この街にいられるうちに君に会いたい。街にいる間は、毎日このカフェに来るから、会いに来てくれないか」と結んだ。封筒の表に、さらさらと書いたのは、きっと君の住所だろう。これが読めさえすれば、僕のほうから君の家に訪ねていけるのに、そういうところはちょっと不便だ。
 手紙を書き終えてほっとして、僕は立ち上がった。
「もう帰るの」
カップやお皿を洗っていたおばさんは手を拭きながら、カウンターから出てきた。
「姉さんによろしく。たまには店にも来てねって伝えて」
「最近、母さんはここに来ないの?」
「そうなの。お客さんが増えたから、遠慮しているんだと思う」
 母さんらしいな、と思った。
「わたしはわたしで忙しくなって、なかなか会いに行けないし」
「分かった。伝えとく」
 僕はうなずいたけど、おばさんはまだ何か僕に言いたいことがあるようだった。
「あのさ、あんたが時々いなくなるのは、別の世界に行っちゃってるからだよね」
「うん、まあ、そうだよ」
「そこって、どんな世界なの」
 僕は少し驚いた。この街での僕の知り合いはみんな、僕がいなくなるのは別の世界へ行くからだと知っているけれど、質問はあまりしてこない。単純に興味がないんだと思う。僕だって、この街にずうっと住んでいたら、きっとそうなる。この世界にだって、この街の外には別の街があるはずだけど、この街にいる限り、他の街へ行きたいって気にはならないんだから。 
 おばさんは僕が答えるのを辛抱づよく待っていた。
「そんなこと、どうして知りたいの?」
「あんたはさ、行きたいと思って行ってるわけじゃないんだろ。気がつかないうちに行っちゃってて、戻る時も、ふと気づくと戻ってるんだよね」
「そうだよ」
「だったら、同じように消えちまう人たちも、あんたと同じ世界へ行ってるんじゃないかな、と思ってさ」
 すごく年のいった人たちは、ある時、ふっといなくなって戻ってこない。言われてみれば、僕とよく似ている。
そういえば、この前、戻ってきた時、おばさんは、とてもお世話になった恩人がついにいなくなってしまったと寂しがっていた。あれから、この街でどれくらいの時間がたったのか分からないけど、おばさんにはまだ、忘れてしまえないことなんだろう。
「でも、あちらの世界で、こちらの年寄りだったっていう人には会ったことがないよ」
「そうなの? すごく広いから会えないってだけじゃなくて?」
 僕は向こうの世界を思い出そうとした。たしかに、この街よりもずっと広くて複雑でごちゃごちゃしてて、人もたくさんいた気がするけれど、それ以上のことはよく思い出せない。せっかく、この街に戻ってきたのに、あの世界のことなんか思い出したくない、そんな気持ちもどこかにあって、無理をして思い出すのはやめた。
 おばさんもそれ以上は聞いてこなかった。
「ごちそうさま」
 僕はポケットに手をつっこんだ。以前、上着に入れておいた数枚の銅貨はちゃんと残っていて、それをテーブルに置くことができた。
「やあね、おごりって言ったのに」
「珈琲代にしかならないよ」
「いいの、いいの。くれぐれも姉さんによろしくね、頼んだわよ」
 僕はおばさんに礼を言って、カフェを出た。
先ほど店へ入った時と同じく、街路に立ち並ぶ家々のスレート屋根やベランダは黄金色に染まっている。きらきら輝く街路樹の葉を眺めながら歩くうち、前方に人の背丈ほどの円柱が見えてきた。
 あちらの世界でいうところの電信柱くらいの太さで、色も灰白色で似ている。ぱっと見では折れた電信柱のように見えるけど、それにつながるはずの電線はどこにも見当たらない。それに、この円柱は、近づくにつれて、だんだん高く大きくなる。この街にずっといれば珍しくもない当たり前のことなんだけど、今はまだ戻ったばかりだから、それが不思議なことのように思えた。一足ごとに大きくなって、真下に立った時には三人がかりで抱える巨木の太さになっていた。見上げれば、ずっと上のほうは西日を受けて輝いている。眩しすぎて、どうなっているのか、よく見えない。
 これが望みの塔だ。
 この街では大抵のことはうまくいく。こうしようと思ったことができないってことはほとんどない。だから、みんな、普段はとくに望みなんてものを持たずに暮らしているけれど、たまに、どうしてもこうなってほしい、という気持ちが強く湧いてきて息苦しくなったら、それを紙に書いてこの塔へ収めるといい。そうして気持ちがおさまれば、それだけ早く叶うと言われていた。
 君宛ての封筒を投函すると、他の封筒も入っていたんだろう、底のほうで、かさりと枯れ葉の触れ合うような音がした。
 これでもう一安心、まっすぐ家へ帰って、母さんにパン屋のおばさんからの伝言を伝えよう。
 お店の多い賑やかな通りを過ぎて、立派な門柱の並ぶお屋敷街を抜けると、昔この街を治めていた領主が、母君のために建てた隠居所の前へ出る。隠居所といっても敷地はとても広く、高い石垣と木々に囲まれているから、中のお屋敷の様子はよく分からない。博物館にしてみんなに公開しようという話が昔からあるけれど、今どうなっているかは知らない。
 君は、まるで僕が来るのを知っていたかのように、隠居所の石垣にもたれて小石を蹴っていた。一瞬、声をかけるのをためらったのは、ほんとうに君だろうか、と疑わしくなったからだ。前髪がまるで帽子のつばのように前へ飛び出ている。白かったはずのシャツは黄ばんで、膝までのズボンはところどころ破れている。僕の知っていた君は、もっとちゃんとした身なりをしていたと思う。それとも、それは、あちらの世界で会う時の君だろうか。
 僕は、この街で君に会ったのがいつだったか、思い出せないことに気づいた。
 それでも、やっぱり君は君だ。
 勇気を出して、話しかけてみた。
「やあ、望みの塔の効果は絶大だな。さっき、君に手紙を書いたところだよ」
「知ってる。僕も出した」
そうなんだ、君も僕に会いたいと思ってくれていたんだ。
 君の態度がそっけないから、素直に嬉しがるのが悔しいような気がして「会えてよかったよ」とだけ口に出した。
 君は僕に背を向けて歩き出した。
 石垣に沿って小道を進み、緩やかに続く石段を上っていく。
僕には君についていくよりほかに、選択肢なんてなかった。
 石段には、その気になれば君と並んで歩くことの出来る幅があったけど、僕はあえて一歩下がって、君の後ろ姿を見ながら上ることを選んだ。
 久しぶりに、この街で会うことができて、君と話したいことはたくさんあるけど、あまり機嫌の良くなさそうな君と無理やり話をして、嫌な思いをさせたりさせられたりするのが怖かった。そんなことになったら、君は黙って駆け出して、僕から離れていってしまうだろう。それに、久しぶりにゆっくり君の背中を眺めるっていうのも、それはそれで悪くなかった。
石段が途切れてからは、まったくの山道だった。道へ張り出した大きな枝の下をくぐり、枯れ葉の浮かぶ水たまりをまたいだ。足下に幾つも転がっている石を避けているうちに、坂はどんどんきつくなって息があがってくる。
 ここまで上るつもりだったなら、せめて水筒くらいは用意したほうがいい。
 君の無謀さを責めたい気持ちと、それにうかうか乗ってしまったことに後悔の念が湧いてきたけど、あと少しと分かっていたから膝に力を入れて乗り切った。
 目の前が開ける。
 君と僕とは、見晴らしのいい尾根に立ち、眼下に広がる街を見下ろした。ここからは、黄金の欄干の橋やカフェのある街の中心、それに僕の家のある住宅街までをいっぺんに見渡すことができる。
黄色い空には赤みを帯びた雲がかかり、群青色に翳る山々が街を見守るように囲んでいる。その上に、「西の日輪」が輝いていた。黄金色の光を放つ日の神々しさは、その昔、引率の先生や初等部のみんなと眺めた時から変わっていない。街の中にいる時も、家々や木々の間にお日さまが見えることがあるけれど、やっぱり、ここから西の日輪を臨む気分は格別だ。 
ズボンのポケットに手を入れて、君も西の日輪を眺めていた。
「あの日輪が沈んだら、この世界はどうなるんだろうな」
 君が口を開く。
「西の日輪が沈む? そんなことあるはずないだろう」
反射的に答えて、僕は僕をみつめる君の瞳にとらわれた。
 あちらの世界では日が沈む。
 そんな世界を僕は知っているし、君も知っている。
あちらの世界の太陽は、空中にいる時は光が強くて、とても直視できない。だんだん暮れかけて黄金色になるけれど、もっと低くなると真っ赤になって沈んでしまう。
 そして、夜が来る。
「みんな、驚くだろうな」
「君はそうなったほうがいいと思っているの?」
「たまには驚いたほうがいい」
 君はびっくりするほど怖い顔になった。
「だって、そうだろう。ここでは日が沈まない。人が争うことも飢えることだってない。不公平じゃないか。あちらの世界の奴らがここのことを知ったら、絶対にそう思うはずだ。西の日輪くらい、たまには沈めばいいんだ。世界が真っ暗になったその時でも、今みたいに、のほほんと澄ましていられるか見てみたいって思うさ、あちらの世界の奴ならさ」
君の剣幕に驚いて、僕はとっさに何も答えることができなかった。
 その僕の態度に、君は余計に腹を立てたらしい。
「君はどう思うんだ、自分の意見を言いたまえよ」
「僕はね」
 言いかけて、僕はもう一度、こちらの世界の日輪を見返した。
「ずっと沈まなければいいと思うよ。こちらはこちらでいいんだ。あちらの夜に現れる月や星々は綺麗だけど、だからって、あちらみたいにならなくていい」
「そうか。君はそんなふうに思ってるんだな」
君は黙ってしまった。
 唇を引き結んで、じっと西の日輪をみつめている。
 日輪に照らされて、君は黄金色に染まっていた。
 ずっと君を見ていて気がついた。
 君の足下からは、僕にはない長い影が伸びていた。
「僕はもう、二つの世界を行ったり来たりするのに疲れたんだ」
その気持ちは分かる。これでもう五回目になる。ごく小さい頃に初めてあちらへ行ってから、初等部で二回、中等部になってからも二回、こちらとあちらを行き来しているけれど、いつまでたっても、その感覚に慣れない。こちらへ戻ってくるのはいい。問題はこちらからあちらへ行く時だ。あちらでは、あちらの世界の僕がずっとあちらを生きている。その僕に重なり合っては、こちらへ戻ってくる僕はといえば、だんだん、あちらの世界が苦痛になってきているんだ。あちらでは、すべてが速すぎる。すべてが昼と夜、白と黒の二色に塗り分けられて、その境目から差し込む、あわいの光が弱くなっている。
「あちらの世界の奴らは、あれが当たり前だと思ってる。こちらの世界に来れば、これが当たり前だ。だけど、両方を見続けるのはつらすぎるんだ」
「でも、どうしたらいいんだろう」
行こうと思って、あちらの世界へ行くわけじゃない。もう行きたくないと思っても、行かずにすむとは思えない。
「その方法を、望みの塔に聞いてみた」
「どんな方法があるんだって?」
 答えの代わりに、君は両腕をまっすぐ横に広げて、尾根の端から断崖へ飛び降りた。
 慌てて崖の下を覗き込んだ僕をかすめるようにして、陽火鳥が羽ばたいていった。そのぎょろりとした目は、もう僕を見てはいなかった。あっという間に、黄金色の空へのぼって、西の日輪めがけて飛んでいく。
「おおい、何だよ。どうして行っちゃうんだよ。おおい、おおい」
 僕の叫び声にも振り返らない。
 逆光のなか、極彩色のはずの尾羽は闇色だった。
 そのまま、まっすぐに日輪のなかへ飛び込んでいく。
 陽火鳥は日輪のなかで永遠に燃えるんだろう。
 もう決して影を引きずったりはしないんだろう。
 
 沈むことのない日輪を背に、僕は山道を一人で下った。
 君が望みの塔へ出したのは、僕への手紙じゃ、なかったんだね。
 それでも、最後に会えたのはよかった。
 君のこと、うらやましいと思うよ。
 だけど、僕は母さんにパン屋のおばさんの伝言を伝えなくちゃいけないんだ。
 それに、いつかはあちらの世界の人たちに、この街のこと、知ってもらいたいって思ってるから。