
え? 何だってッ!
ふと自分の左手に目をやった俺は、そこに信じられないものを見た。自分の小指だ。より正確には、その地肌。思わず、でんぐり返った心臓が口から飛び出すんじゃないかと思ったくらいに驚いた。
「な、なな、何ぃぃぃいいいーーーッ!」と叫ぶ。
いや、自分の手に自分の小指があるのはいいのだ。肌の色も特に普段と変わりはない。問題なのは、なぜこの箇所の地肌が見えているんだ、ってことなのだ! ないッ! ここにはめていたはずの、指輪がない! そんな馬鹿な!
慌ててズボンのポケットの中をまさぐる。あの指輪はサイズがちょっと大きめで、時々、指から抜けてしまうことがある。もしかしたら、またポケットの中に落ちてるんじゃぁ――
だが、なかった。
うっそぉーんッ! あれ? あれれ? ない! ないないないッ! そんな、あの銀色の輪っか、どこ行った? 嘘だろ、会議まであと三〇分しかないってのに!
ズボンの反対側のポケット、尻ポケット、シャツの胸ポケットの中まで探したが、見つからない。
「おいおいおい、今日の会議には社の重役連中が揃って出てくるんだぞ! ここでしくじったりしたら、プロジェクトはパァになっちまうッ! しっかりしろよ、俺!」
などと自分で自分を叱咤(しった)してみても、状況はいっかな好転しない。辺りをキョロキョロと見回しても、求めている物の姿はなかった。
「リング!」と自分のさして広くもない部屋の真ん中で俺は声を張り上げる。まるで呼べば返事をしてくれるとでも信じているかのように。もちろん、あの安物のデバイスにそんな気の利いた機能はついていないのだが。
「って、冷静になってる場合かッ! あの指輪がなかったら、社のネットワークにアクセスできない! 遅刻どころの話じゃないぞ、出席もできないなんてッ」
それは実際には指輪の形をした電子デバイスだ。装着者の指の中にある血管の形や、そこを流れる血の量や速さなどをモニタしている。これらのデータを個人情報としてセキュリティに活かすために。平たく言えば、生体認証システムの一部というわけだ。
あのリングをはめていないと俺は社のサーバーから社員として認めてもらえない。当然、オンライン会議にも出席できない。傍聴すらさせてもらえない。欠席扱いだ。己の身分を証明してくれる大切な大切なセキュリティ・リングをうっかりなくすような粗忽者(そこつもの)には、容赦なく無能のレッテルが貼られる。会社は、無能な社員にはあまり良い顔をしてくれない――
「うあああぁぁぁ! このままだと俺は破滅だ! ジ・エンド、だッ!」
やばい、やばい、やばいッ、やばすぎる!
俺は髪を掻きむしる。
何てことだ。今日のこの会議のためにやりたくもない部屋の大掃除をしたり、見栄えの良いブランドものの家具類を揃えたり、観葉植物の鉢まで買ったっていうのに! 画面に映らないんじゃ全部パァだ! まったくの無駄じゃないか! いいやそれどころか、上役どもからは「大事な会議をすっぽかした駄目な奴」という目でこれからは永遠に見下されるのだ、永遠にだッ! あぁぁ、このイケてる部屋の様子を画面の隅にさりげなく写して、「俺はできる社員ですよ、使える人間ですよ」ってアピールしたかったのにッ!
しかたない、とにかく無断欠席だけでも避けないと。
俺は渋々、ポケットからスマート端末を取り出す。
だが、どうしても操作することができない。指が、まるで凍りついたかのように、固まってしまう。動か、な、い。
“りんぐヲナクシタノデ、おんらいん会議ニ出席スルコトガデキマセン”なんて間抜けな台詞、言えるか! 受付にまで馬鹿にされそうな気がする!
「あああ、駄目だ、駄目だ! 会議を欠席するのは絶対に駄目だ! 落ち着け、俺! 落ち着いて、このピンチを何とか切り抜けるんだ!」
部屋の真ん中で独楽(こま)のように回転し続ける。
考えろ、考えるんだ! 今朝の時点ではリングはあった。そして今日は部屋の掃除や家具の(好印象を生み出し得る、より効果的な)配置やオンライン会議用の機材の再チェック(特にカメラの角度には細心の注意を払わなくてはならない)なんかで忙しくて、一歩も外出していない。つまりリングは、この部屋のどこかにあるはずなのだ。
幸い俺の部屋はとても狭いし、今は掃除も行き届いていて散らかってもいない(これは奇跡的なことだ。普段ならこんなことはまずない)。探せばすぐに見つかるはずだ。
そうだ、絶望するのはまだ早い!
そう気を取り直して素速く探し物に取りかかった俺は、だがしかし、やっぱり数分後には、数分前と同等かそれ以上に、絶望しているのだった。
ない。どこにもない! 這いつくばって部屋中を探しまくったが、全然見つからない! 消えたぞ! まるで翼でも生えて飛んでっちまったみたいに!
常識的に考えればそんなことはあり得ないのだが、とにかく今は精神的に追い詰められまくっているので、どんな妄想もリアルに思えてしまう。
「やばい、このままでは破滅だ。ああ、どうしたらいいんだ。誰か助けて! 助けてくれるなら、魂を売ってもいい!」
と叫び、頭を抱えながら大きく仰け反る。
そのままの姿勢でしばらく固まった後、首だけをひねって時計を見ると、会議までもうあと十数分しかないことが分かった。
あぁぁ、万事休す。さすがにもう駄目か。と観念して端末を取り出す。
――いや、待てよ。
俺は指を止める。
世の中には便利なアプリが星の数ほども存在する。もしかしたら“失せ物探し”なんてのもあるんじゃないか? 少なくとも今ここにニーズはあるわけなんだし。ニーズがあるのなら、頭の良いどっかの誰かが、何かそんな風なイイ感じの奴をすでに作ってるかもしれないぞ。もうこの際だ、あのリングを見つけられるのなら、ちょっとくらい値段が高くっても構わない。
ダメ元で検索してみると、それは本当にあった。
「ええと、〈見つける嬢〉……何だこれ? 随分ヘンテコなアプリ名だな」
説明書きには『この〈見つける嬢〉は、あなたがなくした物を、あなたに代わって探し出してくれるアプリです。しかも面倒な設定等は一切不要。現在の周囲の状況をカメラで撮影して〈嬢〉に渡すだけでOKです』とあった。
う~ん、駄目かもしれんな、このアプリは。と思ったが、何しろこっちは藁にもすがる心境なのだ。しかもどうやらこれ、無料らしい。
ならば試しに、と思ってインストールしてみる。
起動すると端末の画面に、黒と赤のゴスロリっぽい服を着た、可愛らしい女の子が表示された。二頭身にデフォルメされた、アニメ調の絵だ。この子が〈見つける嬢〉?
最初に「ご利用になる前に」と題された、長ったらしい文言が表示される。いわゆる利用規約だろう。それにしても随分と、くどくどしい文章だな。こんなの全部読む奴なんているんだろうか?
はいはい、と肯きながら一番下まで一気に画面をスクロールし、そこにあったOKボタンを迷わずタップすると、ユーザー登録画面が表示された。
まぁ、普通だな、と思いながら操作しようとすると、何とこの画面、バーチャルキーボードからの入力を受け付けてくれない。指先で、手書きで、自分の名前を書かないといけないらしい。
「今どき、自署でないと駄目とは、随分と古風なアプリだな」
まるで何かの契約みたいだ。それにしても手書き入力なんてかなり久しぶり、いつ以来だろう、と思いながら端末のタッチ画面の上をなぞって、自分の名前を入力する。
すると「パパ~ン!」という安っぽいファンファーレが鳴り、画面の中の〈嬢〉がニンマリと微笑んだ。
「で? あたしは何を探せばいいの?」と、上から目線な感じで端末が喋る。
声は愛らしいが、どうやらこの〈嬢〉は、ちょっと無愛想な感じのキャラ、ということになっているらしい。この辺りの設定は、ユーザーの好みに合わせて変更できたりするんだろうか?
だが今は細かな調整をしている時間などない。
俺は彼女にやや早口で状況を説明する。
分かった、分かった、と端末の中のふんぞり返ったデフォルメ美少女が、すぐに面白くなさそうな表情を浮かべた。
「一度言えば分かるから。要するにその指輪を見つければいいわけね?
じゃ、次はあんたの周囲を撮って、こっちに送って。動画でも静止画でも構わないわ。あ、カメラへのアクセスをアプリに許可しておいてね。
本当はあたしが直接そこまで行ければいいんだけど、色々と問題があってさぁ。
……撮った? よしよし。うん、解像度は問題ないわ。これなら十分、十分。じゃぁ、ちょっと静かにしてて、集中するから」
瞳を閉じて数秒間、黙り込む。
やがて、――お探しの品は、あんたの右後方、約八〇センチのところに落ちているわ――、と告げた。
果たして、リングは本当にそこにあった! ゴミ箱の陰に、見慣れた銀色の輪が転がっている。信じられない、こんなにあっさり見つかるなんて!
俺はそれに飛びつき、拾い上げる。天にかざした。
「や、やや、やったー! あったぁぁぁあああ! え。でも、なぜこんなところに?」
首を傾げる。
自分で探した時も、万が一の可能性を考えてゴミ箱の中は軽くチェックしたが、その裏までは見ていなかった。それはそうだろう。会議の直前でそわそわしていたとはいえ、わざわざゴミ箱をどけて、その奥にそっと指輪を置くなんて意味不明な行動、いくら俺でもするわけがない。まさかこんなところに落ちてるなんて、夢にも思わなかった。
「んー、あ、そっか! 掃除中に課長から一度、電話がかかってきたんだっけ。それでポケットから端末を取り出した。あー、きっとあの時に脱げちゃったんだ。で、あそこまで転がってったんだな、たぶん。
この指輪、ちょっとサイズが合ってなくてさ、ゆるいんだよ。会社に言って、もっとちゃんと調整して――」
もういいかしら、と〈嬢〉が端末の中で腰に両手を当てていた。不機嫌そうな顔で。
「探し物は見つかった? あたしはちゃんと約束を果たしたのよね? そうよね?」
ああ、と俺は満面の笑みで彼女に肯く。
「ありがとう! おかげで助かったよ! 君は俺の救世主だ、天使だ!」
彼女は再び意味ありげにニンマリと微笑むと、「毎度あり~」と言って、消えた。
室内が静まり返る。
リングを指にはめ、俺はオンライン会議のためのシステムを立ち上げる。
チェアに腰掛けて、様々な文字が次々に流れてゆくディスプレイを眺める。全て順調だ。
ちらと時計に目をやると、会議の開始予定時刻まであと三分ほどだった。一時はどうなるかと思ったが、何とか無事、間に合いそうだ。
それにしても――
俺の心は、つい今し方の出来事に吸い寄せられる。
「凄いアプリだったなぁ。自分の周囲、三六〇度をただ軽く撮影しただけで、ああもピンポイントで探し物を見つけられるなんて。インターフェイスのAIは最後まで生意気で無愛想だったけど。でもとにかく、とてつもなく役に立ってくれたよ。まさに、地獄で仏、だ。アプリって、ここまで進化してるんだなぁ」
PCの画面を見つめながら、俺はつぶやき続ける。
「もっと話題になってもいいのになぁ。無料なんだし。そう言えば、広告も表示されなかったな。あのアプリ、いったいどうやって収益を上げてるんだ? 何か課金要素でもあるんだろうか」
フフ、と笑いながら、じっと左手の小指にはめたリングを眺める。
「まぁ、ネーミングにはちょっと問題があったよねぇ。今どき、〈見つける嬢〉じゃなぁ。それでいまいち、メジャーなアプリになれていないのかな。
せっかく絵も可愛いんだし、探し物の妖精、とか。そういう、もっと親しまれそうな名前にすればいいのに」
余計なお世話よ、と彼女が端末の中で怒っていそうな気がして、俺はちょっとおかしかった。
それにしても、と腕組み。
「何であの場所が分かったんだろう? 不思議だな。カメラからは死角だったのに。
てっきり、“ソレを最後に見たのはいつですか?”とか、“それから今まで、どこにいて、何をしていましたか?”みたいな質問攻めに遭うのかと思ってたけど、そんなのはなかった。スマート端末の位置情報や履歴へのアクセスも許可してないもんなぁ。本当にただ、周囲を撮影しただけだよ。それだけで、何で分かるんだろ?
現在を見れば、過去が分かる、のかな?」
まさか、と微笑む。
だがこの時、ふと、俺の脳裏を何かがかすめていった。
「……いや、そう言えば以前、そんな話を聞いたことがあったな。何だっけ? 確か、何とかの妖精、みたいな名前じゃなかったか?」
なら、その妖精をアプリの名称に使えばいいのに。
ちょっと気になったので、スマート端末を取り出して検索してみる。
うろ覚えの情報を頼りに色々なワードを入力してゆくと、割とあっさり、知りたかったものに出会えた。
「違う、妖精じゃない。……悪魔だ!」
俺は端末の画面に見入る。
「そうだ、思い出した。ラプラスの悪魔! これだ!」
トントン、と端末の画面をつつく。
ラプラスの悪魔とは、ピエール=シモン・ラプラスというフランスの数学者が言及した、超絶的な知性のことだ。
『もし、ある瞬間における、この宇宙に存在する全物質の位置と運動量を知ることができたら、未来も、過去も、計算によって割り出すことができる』と彼は考え、それを可能とする架空の存在について述べたのだ。それが、ラプラスの悪魔。この宇宙の未来や過去の何もかもを知っている、全知の存在だ。
「今さえ分かれば、未来も、過去も、そこから算出することができる、――なんてね。まぁ、まさかそんなことがあるわけないけどさ」
俺は笑いながら端末をポケットに戻す。
「きっと何か企業秘密があるんだろう。あるいは占いみたいなのとか? 確か、ダウジング、だったっけ。何か、そんなのもあったよね。
ま、とにかく、俺としては、見つかってくれさえすれば何だっていいんだ!」
ムフフ。
お、システムが立ち上がった。社内ネットワークにもちゃんとアクセスできた! オンライン会議室にも入れた、と。もう大丈夫だ。開始予定時刻までは、あと三〇秒。余裕、余裕。
楽勝すぎて、鼻唄でも歌いたい気分だった。
俺は目を細める。
「しかしまぁ、妖精ならともかく、悪魔じゃぁ駄目だよなぁ、悪魔じゃ。第一に、イメージが悪いよ。アプリってのは、もっと大勢から愛される名前じゃないとね。してみると、〈見つける嬢〉でも仕方がないのかな。ハハ、まぁ〈見つける悪魔ちゃん〉よりはねぇ。アハハ、悪魔じゃ駄目だな、悪魔じゃ」
思わず声を上げて笑ってしまう。
細かく仕切られた画面の中の何人かが、少し怪訝そうな顔をしている。
俺は「オホン!」と咳払い。それでも含み笑いは止まらない。ククク!
ここしばらくなかったほどの、晴れ晴れとした気分だった。ほんの少し前までこの世の終わりだと思っていただけに、喜びもひとしおだ。人生、何が起こるか分からないな。何となくだが、今日の会議は上手くいきそうな予感がする!
俺は指を鳴らし、天井を見上げる。拳を高く突き上げた。
「やっと俺にも運が向いてきたぁーッ!」