
退職して一年後に妻が交通事故に巻き込まれて亡くなった。
ついこの間まで笑いながら一緒に食事をしていたはずの妻が火葬場で灰と煙に変わってしまい、それから四十九日だ、喪中の欠礼だ、初盆だと慣れない行事を息子夫婦に手伝ってもらいながら済ませたら、心にぽかんという大きすぎる穴が空いてしまった。
これをやらなければと言う義務感みたいなものがその穴からすっぽり抜け落ちてしまったのだ。
義務感だけでは無い。ご飯を食べた記憶がないのに息子の嫁に聞けばもう食べたと言われたり、自分が馬鹿にされている気がして急に怒り出したり、そうかと思えば気分がふさぎ込んで落ち込んだりして、私は自分がどうなってしまったのか自分でも解らなくなってしまった。
妻にもう一度会いたい。せめて声だけでも聞きたい。
ある日のことだ。最近物忘れが酷くてしょうがないと息子夫婦にこぼしたら、腕の良いクリニックを知っていると言うので連れて行ってもらった。
そこは表に看板を出してはおらず、中に入ると真っ白い部屋の中に寝そべるためのベッドみたいな台がある美容整形外科みたいな雰囲気の場所だった。服を脱いで台の上でうつ伏せになった状態で診察してくれる白衣の先生に
「最愛の奥様が亡くなられて以来物忘れが酷いと……はい、ではコレカラ紋紋を施術と言うことでよろしいですか?」
と言われたので取りあえずよく分からないまま
「よろしくお願いします」
と答えてしまった。腕にチクリと麻酔の注射が打たれて意識がうつらうつらとしている時に、コレカラ紋紋? 聞いたことがあるぞ? どこで聞いたのだっけ? ああ、会社員時代だったな! と昔を思い出した。
アレは私が六十四歳の頃だったかな? 確か後一年何事もなく勤めれば定年退職という時に、最後の仕事として中途採用した青年の教育係を任されたな。
学校を卒業してしばらく就職もせずにブラブラしていた感じかな? といぶかしんだけれど、会ってみれば身体と声が大きい力持ちでハキハキとよくしゃべる好青年だし、電話対応やパソコンでの書類作成なども教えてやればちゃんと一人で任せられる有能な社員だったのを覚えているよ。
強いて難を言うなら、仕事をしている上では避けられない感情的になった上司からの理不尽な叱責や、取引先からの無茶なクレーム対応時に普通の人間より反応が一、二秒遅れる事くらいだったかな?
でも会社の人間として取引先からの罵倒やクレームに一々カッとなって怒鳴り返したりしては大変な事になる。実際見ていても反応がちょっと遅いだけで、その後の対応そのものは適切かつ迅速なので社内でも誰一人問題視しなかったな。私自身も怒鳴り返さないように、頭の中で冷静になれと自分に言い聞かせているのだろう程度に思っていたよ。
あの青年は酒好きだったから仕事が終わった後によく呑みに行きませんか? と誘われたな。私も嫌いな方ではないのでよく付き合って呑み明かしたよ。あの話が出たのは二人ともいい加減酔いが回ってきてからだったかな?
「ああ、聞いたことはあるよ。いわゆる反社会的集団の構成員が背中に入れる入れ墨の事だろ?」
「それは倶利伽羅紋紋(くりからもんもん)です。僕が言っているのはコレカラ紋紋ですよ」
「何なのだ? それは?」
「若気の至りで悪の道に墜ちてしまったけれど今までやってきた悪事を心底悔いて、まっとうなカタギの人間として人生をやり直したい元反社人間のこれからの人生と未来を、コレカラ龍王が守ってくれる入れ墨なのですよ」
「そんな施術は一体どこでやってくれるのだろうか? スマホの検索エンジンに引っかからないよ?」
「僕の聞いた話では表に看板を出してはいないけれど、中に入ると真っ白い部屋の中に寝そべるためのベッドみたいな台がある美容整形外科みたいな雰囲気らしいですね」
「でも背中にはもう彫り物が入れてあるし、そのコレカラ紋紋はどこに入れるのだろうな?」
「そりゃ背中の入れ墨の上からですよ」
「バカな? そんなことをしたら絵柄が二重になってしまうだろう?」
「そのコレカラ紋紋に使うインクに秘密があるのですよ。そこの先生によると製造工場でちょっと手を加えるだけで白人から黄色人種に黒人まで全人種の肌に対応可能なインクらしいですね。入れ墨を消すと言うより上からその人の肌と同じ色で塗りつぶすというイメージです。麻酔もしてくれるから痛みも一切無いですよ。唯一の欠点は病気になってもMRI(磁気共鳴画像診断装置)に入れなくなる事くらいですかね。インクの成分に磁石が使われているからとか」
「でも入れ墨が消えた程度で元反社の人間がカタギの社会で上手くやっていけるものなのかな?」
「反社の人間を倶利伽羅龍王(くりからりゅうおう)が守るように、コレカラ紋紋を入れると頭の中でコレカラ龍王が色々役に立つメッセージをくれるのですよ」
「どんなだい?」
「『完璧な人間などいない! 劣等感はあって当たり前! 何とかしたいという劣等感があるから前に進めるのだ!』とか『課題は分割せよ! 他人の課題を何とか出来るのはその人だけ! 他人の人生を必要以上に抱え込むな!』ですよ」
「へー、結構良いこと言っているね」
「でしょう! 他にも『人と言うのはこうあるべきだ! という思い込みが破られると怒りが発生する! これはあなただけでは無く上司も例外では無い』という教えには良く救われましたよ。ああ、だから課長は怒っているのだなと冷静になれましたからね」
あの青年とは定年退職するまで一緒に仕事をして呑みにもよく行った仲だったな。検索エンジンにも引っかからないコレカラ紋紋の事についてあそこまで詳しかったのは、恐らく彼自身が元反社だったのだろう。
それから数日後、家で寝てばかりいるのも不健康だなと一人で外出し、喫茶店で本を読みながらコーヒーを飲んでさあ支払いでもするかと席を立った時に、あれ? メガネはどこにいった? と慌てたら
「メガネはおでこの上ですよ」
という優しかった妻の声が頭に響いたのだ。それだけではない。雨の日に外出すれば
「傘を忘れていませんか?」
と注意してくれるし、また別の日には
「スマホを忘れていませんか?」
「診察券とマイナンバーカードは持った?」
「杖と自宅の鍵、忘れていない?」
「ガスの元栓と蛇口と戸締まりはしましたか?」
と私がヘマをやりそうになる度に妻が優しく声で教えてくれるのだ。そうだ、私は一人ではない! どこにいても妻が守ってくれるのだ!
※ ※ ※
「先生、この間はありがとうございました。おかげさまで父も喜んでいます」
「いえいえ。現在はスマホで動画を撮影する習慣が普及しているので、亡くなられた方の音声データが容易に入手出来ますから作業自体は楽なものですよ」
「しかしすごい技術ですね。動画ファイルの音声を参考にして生成AIでソックリの声を合成出来るまでは解るのですが、音声データを身体に録音して、感情に応じて内耳を直接震わせて脳に声を届けるなんて」
「人の感情がわき起こる時には、必ず体内にそれに呼応した電気信号が流れますし、怒りや悲しみなどの異なる電気信号に合わせた音声データを再生するのは現代なら簡単なのです。しかしこの医療技術が、認知症の方の生活補助にも使えると言うひらめきが起こるまでには時間がかかりました」
「これは認知症のお年寄りに向けて開発された技術では無いのですか?」
「元々は反社会組織に所属していた方の、社会復帰用に作られた技術ですよ。元反社の方がカッとなって暴れそうになる、仕事のヘマで落ち込む、カタギの人間社会でどうしたらいいか解らなくなる時は必ずあります。けれど、そうなった時に心理カウンセラーが必ず側にいて、助言できるとは限らないのです」
「そりゃ仕事で叱られる度に、一々心理カウンセラーはその職場に出張出来ませんからね」
「でも心理カウンセラーの知識を、その場で誰かがささやくだけで救えるのです。いや? その状況に応じた知識をささやくだけなら別に人間である必要は無いのでは? と考えた心理カウンセラーの発想に、それだ! と同じ大学の教授たちが賛同してくれたのです」
「思いついた人一人では作れなかったのですね」
「そのアイデアに感動した材料工学者が開発したのが、人間の体内でアレルギー反応を起こさず人間の肌に極めて近い色に加工出来る磁性体合金、通称コレカラ合金。それをインクレベルの微粒子に加工して体内に均一に埋め込む事で入れ墨を上から塗りつぶし、ハードディスクの記録面と同じ理屈で心理カウンセラーの方が考えたセリフを音声データにして書き込むのです」
「これだ! と言うような一言で表せる哲学神のセリフみたいなものがあれば、書き込むのが一ファイルで済むから楽だったでしょうね」
「あることはあるのですがシンプルすぎて使えなかったのです。優れた教えというのはどれも最終的には似るようで、幸せに生きるには過去とか未来とか頭の中にしか存在しないことで悩まずに、今生きているこの瞬間を良しと肯定し受け入れる事だ。と皆言っているのです。これを一言で表すと……」
「表すと?」
「これでいいのだ!」