「百日紅の木」深田亨

 夜になっても昼間の暑さが十分残っていた。
 坂道をのぼって久しぶりに訪れたレストランバーの入口で、ぼくは違和感を覚えた。でも気にすることなくがっしりした木製のドアを開ける。カランとカウベルが鳴った。
 お客はだれもおらず、カウンターに座ると若い女の子がおしぼりを出してくれる。彼女はマスターの助手みたいな存在で、簡単な料理やカクテルも作ることができる。
 ぼくはウォツカギムレットを注文した。マスターは留守のようだ。
「なにか不審げな顔をしていますね」
 ピスタチオの小皿を置きながら彼女が聞いた。さっきの違和感が顔に出ていたようだ。
「もしかして百日紅ではないですか?」
 ああそうだ。頭の中に満開の紅色の花が浮かぶ。
「どうしてわかったの」
「ここ二、三日、同じような表情をされるお客さまがいらっしゃるの。なんでも、坂を上ってこの店に曲がる角のところに、百日紅の木があったような気がするんですって。それもお一人じゃないのですよ」
「そうなんだ。ぼくもさっきそう思った。といってもぼんやり前と違うような気がしただけで、それがなにだか分らなかったけれど、言われてみて気がついた。あの角のところに……」
「でも百日紅の木なんてありませんよ。あそこにはガス灯をまねた街灯があるじゃないですか」
「それはそうなのだけど。街灯はもともと別の場所にあったのじゃなかったかなあ。どうもぼくには、百日紅がある景色が思い出されるんだ。ねえ、きみはどうなの? そんな記憶はないのだろうか」
「私は毎日しっかり街灯を見ています。いまから見にいってもちゃんとありますよ」
「でも、そうじゃないお客さんもいるんだろう。ぼくのように」
「そうなんです。それが不思議ですよね。もしかして街灯ができる前には百日紅の木が植わっていて、古い記憶が呼び起こされたんじゃないかと思って、ネットで調べてみたんですけれど。いまのアンティークな街灯が整備されたのは二十年以上前のようなのですが、その前がどうだったかはわかりませんでした」
「そんなに古くから街灯があったんだ。百日紅のことを気にしたお客さんって、お年寄りなのかな。少なくともぼくは、ここへ通うようになってから十年にもならないけれど」
「お若いかたばかりでした。お代わりはいかがですか」
「いただきます。同じものを」
 彼女がカクテルを作っていると、カランとベルが鳴って新しいお客が来た。中年の男性だった。
「いらっしゃいませ」
「夜になっても暑いですねえ。でも夜の花もいいもんだ。暑さが和らぐような気がする」
「花?」
「なんの?」
 ぼくと彼女が同時に聞いた。男がにやりと笑ったような気がした。
「あ、テーブルでもカウンターでもお好きなところにどうぞ」
 お客さまということを思い出したか、気を取り直したように彼女が席を勧めた。
「じゃカウンターで。いいですか」
 男はぼくに断ると、一つ席を置いて腰掛けた。
「ビールをください」
 男は出されたビールをうまそうに半分飲むと、ぼくと彼女を交互に見た。
「花が気になりますか」
「ちょうど百日紅の話をしていたのです」
 ぼくが答えた。
「この近くに百日紅の木があったかもしれない……というようなことを」
「そうだと思いましたよ。だから言ってみたんです。角のところにある百日紅の花が満開でしたから」
「でもあそこにあるのは街灯ですよね」
 と彼女。
「二十年前からあるそうですよ」
 これはぼく。
「ああ、それはね」
 男はビールを飲んで続けた。
「お借りしていたあいだ、代わりに置いておいたのです」
「お借りしたって、なにを?」
「『風景』を拝借したのです。坂の途中の満開の百日紅の景色が、探していたのにぴったりだったので」
「どういうことですか」
「私は、風景を集めて貸し出す仕事をしています。あちこちで、依頼のあった風景に合うものを切り取るんです。もちろん期間が済めばお返しします。そのまま盗み取ったりはしません。
 その風景を借りているあいだ、別のものを置いておきます。そうすると、だれの記憶にもその代替物が最初から存在していたことになるのです。ただ私が未熟なので、どうしてももとの風景の記憶が残ってしまう人がいます。まあこれは仕方がないので、風景を返したときにこうして近隣の様子をうかがうことにしているのです。
 でも、もうお返ししましたので問題ありません。ごちそうさまでした」
 男はポケットから五千円札を出してカウンターに置いた。
「お釣りはいりません。わずかですが風景をお借りした料金です。まあ、こちらのお店にお支払いするのもおかしなもので、ただ勝手に使ったわけではないという自己弁護にすぎませんが」
 カウンターの中で女の子があわててお釣りを用意しているあいだに、男は出ていってしまった。
 出ていったのだろうと思う。
 ドアのカウベルは鳴らなかったけれど、男の姿は消えていた。
 お釣りをもってあとを追った彼女がドアを開けるとカランと音がした。ぼくもドアのところまで行って外を見た。すぐ先の角にある満開の百日紅の木の下で、彼女はきょろきょろとあたりを見回していたが、やがてあきらめて戻ってきた。
「お釣りは別に除けておきます。またお見えになるかもしれないし」
「それがいいね。でも……」
 ぼくはすぐ先の百日紅の木をじっと眺めた。それから店に入ると、あとから来た彼女に聞いた。
「角のところは百日紅じゃなくて街灯だったような気がしない?」
「そんなことはないですよ、どうしたんですか?」
 きょとんとした顔で彼女は答えた。