
天沢世界のあるきかた――天沢退二郎『光車よ、まわれ!』書評 思緒雄二
すでにレビューで『夢でない夢』をとりあげ、他のコラムでも折りにつけふれてきた天沢退二郎の世界。
大学で教鞭をとり、フランス語の翻訳家であり、詩人、宮沢賢治研究家、そして児童文学作家という色々な顔の持ち主。
ここでは天沢さんが〝童話風の作品〟であらわした世界を、『光車よ、まわれ!』を中心にながめてみたいとおもいます。
「童話」と言いきらず「童話風の」と述べたのは、『夢でない夢』のあとがきで著者自身がのべられているよう、童話というのは「あくまで表現上の様式にすぎぎない」と捉えるべき色彩の濃い作品が少なくないとおもわれるからです。
けっして天沢ワールドでは児童が(しかも重要キャラまで)あっさりコロコロ死ぬとか、ディズニーではありえないエグイ展開をするとか、そんな理由ではありません。
天沢さんの童話もしくは児童文学風な作品群は、それ自体で通読すれば、とても妖しく魅力的なものです。
言葉としては宮澤賢治調かなと感じられるものがあっても、作品全体としては、なんというか〝深淵〟をイメージさせられる作家さんでした。
ちょっと脱線しますけど、ふだんアニメを見ない自分が、めずらしくちゃんとリアルタイムでアニメを見たことがあります。
NHK教育(いまのEテレ)で土曜の宵に放送された『電脳コイル』が、それ。
はじめのほうは実に面白かったです。
放送の日になると、まちどおしくてウキウキするあの感覚なんぞ、小学生以来でした。
けれど、だんだん伏線がほったらかしになって、結局は回収されないものも多かったよう記憶しています。
ラストの方はどこかでみたようなバトルシーン、オチも、まあありがちな〝境界またぎ〟ではあったけど、それでも全体として魅力的な作品でした。
でも、ところどころのネタやギミック、プロットの流れが、どこかで読んだような気がしてならない。しかもキーパーソンの一人が、天沢勇子という名だし、やたら勝ち気でミステリアスな小学生だし・・・。
ああそうか、もしかして『光車よ、まわれ!』に似ているのかな、と、きづきました。
(未回収の伏線が多いとこまでそっくりとか、おもったり)
天沢さんの児童文学として知られる『光車よ、まわれ!』を図書館でみつけ読んだのは、中学生のとき。
初版発行から年月がたっていたこともあり、けっこうボロボロのその本を夢中になって読んだものです。
手にとるきっかけは実に単純なもので「表紙めくると裏に地図がのっていたから」という、それだけ。
わたしはそういう本に、まことに弱いのです。
小学六年生のとき、トールキンの『指輪物語』を根性で読破できたのも、地図があったおかげと言って過言ではありません。
最初のホビット庄がなんたらあたりの説明があまりにかったるく、辟易しましたけど、いったん読書を中断、前作『ホビットの冒険』から読むことによって解決できました。
閑話休題。
天沢氏の童話風作品は、その後、オレンジ党シリーズも読破、また『闇の中のオレンジ』も読みました。
オレンジ党シリーズにアランガーナーの気配を感じるも、反権力および自由へと寄せる気持ちが強すぎて、それが最終巻で余りに露出した作者の顔となり、ほとんど現代日本への政治批判=フィクションの世界を逸脱したメタ要素的レベルに感じて困惑することも・・・・・・。
また、自分が大学へ進学し受験勉強から解放され、小劇場をはじめとする様々な演劇を見まくるようになると『闇の中のオレンジ』とアングラ劇、とりわけ唐十郎のそれに類似点があるのではないかとおもうようになります。――あの唐突に船が登場する非日常的シーンとかは、特に。
で、このコラムを書くことになって調べてみたのですけれども、『光車よ、まわれ!』復刊時、書籍の帯へメッセージを寄せていたのが唐十郎さん!
ああやはり、お二人のあいだに影響するものがあったのだとおもいました。
すると、それらに続いて、まあ出てくるわ出てくるわ、同時代人の横のつながりというか、連帯というか・・・別コラムでとりあげた斎藤惇夫氏との関係やら、つげ義春『ねじ式』との関係やら
・・・うーん、世界って狭いわ・・・
(このままいくと時代論とか作家論とかにいきそうなんで、軌道修正)
さて、わたしにとって、もっとも好みな天沢児童文学風作品をあげよ、となると、やはりそれは『光車よ、まわれ!』になります。
奇妙な言いまわしになりますが、その理由は「もっとも作者からの手ばなれがいい作品」あるいは「しっかり親ばなれできてる子供」とでもいいましょうか…。
作者の表層的な意図、思想、記憶、自我うんぬんよりも深いところから出てきている要素によって、作品がいい具合に作者の手をはなれ、独立した生命になっている・・・めんどくさい〝説明〟ですみませんけど、とにかく、そんな感じがするのです。
『光車よ、まわれ!』には、いくつも元型的象徴があらわれています。
たとえば、上下逆転する世界イメージと宙づりの感覚――これなどは、あるタイプの幻覚に特徴的な傾向をあらわすものです(詳細は説明しません)
上下逆転の異世界という要素は、原始宗教的世界観、たとえばラップランドのサーミ人やシベリア少数民族において死の世界としてあらわれるイメージ。また、左右逆転する世界を死の世界とするベルチル人などもおり、これらは、水にまつわる彼らの神話から、水鏡にうつる映像よりイメージされたと考えられます。すこし大きめの湖沼であれば、逆さ富士の例などださずとも、対岸のものは上下逆転、自分側の岸にあるものは左右逆転するのが確認できましょう。
水、水中、水底というのは、無意識の深みそのものとしてあらわれやすい象徴で、水にちなむ魚は自己、そこにある黄金の睡蓮、太陽、瞳のような円形といったイメージは、たとえば病からの回復や救いの象徴としてあわられる特徴的傾向〝中心のモチーフ〟です。龍子のひるがえったスカートに一瞬あらわれた象(カタチ)の黒い鳥をはじめ、あちらこちらに散らばる〝鳥〟のしるし。病の進行とシンクロする街の異常、内的世界と外的世界の混淆、善悪の交錯、滲み出てくる水とともに瀰漫(びまん)する悪意・・・。
――めまいがします――
『光車よ、まわれ!』で使用されている様々な象徴は、以前に作者が『夢でない夢』の自動筆記により表出させたイメージが多用されています(詳細は『夢でない夢』レビューを参照)。そうした〝力ある象徴〟を作品世界にできたので、独自な生命として『光車よ、まわれ!』は力もつことができたのではないでしょうか。
ブルトンと共通するようなイメージも散見できるのですが、これは真似たというより、元型的象徴の類型としてみたほうがよいのかもしれません。
大学の時、ムアコックのエターナル・チャンピオンシリーズやSF好きの知り合いから聞いたのですが、『光車よ、まわれ!』は、まったく性に合わなかったようです。
まあ、そりゃそうかもなと納得しました。知り合いが好んだSFは、ほぼ古典物理学に立脚した世界観のものばかりだったのですから。一応、らしく相対論などをツールというか装飾的にいれてはいるのですが、世界観そのものはニュートンの古典物理学的パラダイムが基本。それが絶対なら、天沢ワールドと合うわけがない。
多重に交錯する世界、不安定な意味づけ、不条理・・・天沢世界って児童文学としては、なかなかハードルが高いのかもしれません。でも、中学一年生の自分は、作品世界をあるがままに受けとめ、ただ書かれるまま読んで、なんかよくわからんけど面白かった。
既存の理屈、〝世界の見方〟が先行する前に、あらわれた世界をただ受けとめ、そこを冒険するのが楽しい・・・冒険の途中で、ありえないこと、キテレツなことがおこったら、作中の人物たちといっしょにとまどい、あたふたする・・・それで十分にたのしめた。不条理なシーン転換にも、なんとかそうやって対応できたし、要は、作中世界の児童に自分もなりきる、すべてを〝わかろう〟としないで、いまはわからないと感じるものは、その〝わからない感〟をおみやげにしておく・・・たぶん、子供の時の読書って、それが基本だったようなきがします。
そういった意味では、天沢童話風作品群って、本の世界の住人登録がためされる試金石なのかもしれません。
(初出:シミルボン「思緒雄二」ページ2016年1月11日号)