「悪魔(下)」青木和

 窓の外の黄色っぽい光がうらうらと輝いている。あれは本物のタイヨウだ。まぶしいほどの光が部屋いっぱいに射し込んでくる。
「シュンくん、おはよう」
 今日もレイコさんがやってくる。
「外はいいお天気ね。暖かくて秋とは思えないくらい。この部屋、暑くない?」
「うん。ちょっと」
「そうだろうと思って。今日はね、シュンくんに特別なプレゼントを持ってきたんだ」
 レイコさんはいったん部屋の外へ出たかと思うと、車イスを押してもどってきた。立って歩けるようになるために、ぼくは最近「リハビリ」を始めた。その訓練室に行くときに使っているものだ。
「リハビリ」はいつも涙が出るくらい痛くて、本当はあまり好きじゃない。レイコさんが喜んでくれるから、なんとかがまんして続けていられるだけだ。その車イスがどうしてプレゼントになるんだろう。
 そう思ったけれど、よく見ると車イスの上にあたたかそうなガウンとふかふかのひざかけがのっている。病院の中で着るには、どっちも分厚すぎる。
 ぼくの頭の中を読みとったみたいに、レイコさんはほほえんだ。
「そう。アズマ先生からお許しが出たの。病院の中庭なら散歩してもいいって」
「ほんとう?」
「もう少ししたら寒くなって外に出るのはきつくなるから、今のうちに行っておきなさいって。よかったね。さあ、これ着て」
 レイコさんに手伝ってもらってガウンを着、ぼくは病院の中庭に出た。レイコさんはゆっくりと車イスを押しながら、ときどきぼくに話しかけてくれる。部屋の中にはなかったものの名前を教えてくれる。
 しばふ。かだん。いけ。べんち。おちば。すずめ。ひよどり。かぜ。そら。くも。
 レイコさんの説明を聞きながら、ぼくはときどき目を閉じて、牢屋の中でいつも聞いていたいろいろな音のことを考える。
 ああ、あれは葉っぱが風にゆれる音だったんだ。あれは鳥の声だったんだ。
 冷たい壁に囲まれたあの牢屋のことは、まだときどき夢に見ることがあった。けれど前ほどしょっちゅうではなく、おそろしさに叫び声をあげて目を覚ますなんてこともなくなった。このままでいたい。ずっとこのまま何も起きなければいい。……
「やあ、こんにちは」
 レイコさんではない人の声がして、ぼくは目をあけた。
 ぼくとレイコさんは、中庭のはずれまでやってきていた。道はそこで終わっていて、その先には大きな木が何本も立っている。ほうきを持ったおじいさんが、地面に落ちた葉っぱをかき集めて山をこしらえていた。
 山からはぱちぱちと小さな音がして、変わったにおいがする。赤く透きとおってひらひらしたものが、山の上でゆれていた。
 それを見たとたん、ぼくはとつぜん思い出した。ずっと前、ぼくはあれを持っていた。いつの間になくしてしまっていたのだろう。
「落ち葉焚きですか。ずいぶん積もりましたね」
「はあ。昨夜の風でまたずいぶんたまってしもうて、掃いても掃いてもですわ」
 レイコさんはおじいさんと笑って話しながら、落ち葉の山にちょっとだけ近づいた。赤いひらひらがすぐそばまで来るけれど、もう少しで手がとどかない。
 おじいさんはしきりにほうきを動かして、まわりの土を集めている。赤いひらひらは、おじいさんが土をかけるのでうずもれてしまった。また出てきてくれないだろうか。
 レイコさんはまだおじいさんと何かしゃべっている。ぼくはだんだんじれてきた。
 出てこい!
 落ち葉の山に向かって呼びかけながら手をのばしたけれど、やっぱり届かない。ほんの少しからだを浮かせば何とかなるような気がして、ぼくは「リハビリ」でやるように足に力をこめた。
 するといきなり、車イスががくんと後ろへ逃げた。ぼくの体はその反動で前へ投げ出される。
「シュンくん!」
 レイコさんが気づいてぼくの名を呼ぶ。
 落ち葉の山がぐうっと目の前に近づいてくる。あ、もう少しでとどく、と思ったとたん、白い服に包まれたレイコさんの胸が間に割って入った。
 ぼくを抱きとめたまま落ち葉の上に背中からたおれこんだレイコさんは、聞いたこともないような高い叫び声をあげた。
 ぼくはすぐにおじいさんの手でレイコさんから引きはがされ、離れたところの地面に転がされた。目のすみに赤い色が飛び込んでくる。赤いひらひらは、落ち葉の山からレイコさんの背中や肩にも広がっていた。
「ちくしょう、どうなってるんだ。消したはずなのに」
 おじいさんは言いながら足下からバケツを取り上げると、その中身をレイコさんの頭の上から浴びせかけた。中身は水だった。ひらひらはあっという間に小さくなって消えた。
「大丈夫ですか」
 おじいさんがレイコさんの上にかがみ込んで、助け起こしながら声をかける。レイコさんは苦しそうに顔をゆがめながら何度かうなずいた。
「小児科のアズマ先生を、呼んでください」
「しかし」
「お願いします。急いで」
 おじいさんは何か言いかけたが、すぐにだまって立ち上がり、ぼくを怖い目で一にらみしてから病院の建物の方へ走っていった。
「シュンくん、ケガしなかった?」
 レイコさんは両手で何度もぼくをなでる。どちらの手も赤くはれあがっているのを見て、ぼくはひやりとした。〈番人〉になぐられるたびに、ぼくも体も同じようになったからだ。
 ぼくが無事なのを確認すると、レイコさんは安心したように笑い、それからがっくりと頭を落とした。肩を大きく上下させながら、とても苦しそうにうめく。レイコさんの白い服は黒ずんでぼろぼろになっていた。破れたすきまからのぞく肩や背中も、手と同じように真っ赤になっている。とても痛そうだ。
 それは、あの赤いひらひらのせいなのだった。
 気配を感じて顔を上げると、ぶすぶすと音をたてている落ち葉の山の向こうに、また〈番人〉が立っていた。
 ――おまえのせいだ。シュン。どうしてこんなことをした。どうして。
 そう言った〈番人〉の口調は、ぼくがいつも牢屋で聞いていたものとはちがっていた。まるで泣いているみたいに、とぎれたり裏返ったりした。
 そのときとつぜん、ぼくは「あのときのこと」を思い出したのだ。

          *

 来ないで、と叫ぶと、レイコさんがびくっとして足を止めた。ぼくはシャワー室の手すりに両手でおもいきりしがみついた。
「シュンくん、私の火傷のことならたいしたことないから。怖がらないで」
 レイコさんは包帯を巻いた手をかるくふってみせた。レイコさんがひどいケガをしなくてよかった。けれどそれはおじいさんがすぐに水をかけてくれたからだ。
 だけどだれも水をかけてくれなかったら、どうなっていたんだろう。
 そのことを思うと、ぼくは絶対にここから出てはいけないのだった。病院のシャワー室は牢屋にとてもよく似ている場所だった。
 どうして? とガラスごしにレイコさんがきく。
「シュンくんの体はまだそんなに丈夫になったわけじゃないのよ。いつまでもずぶ濡れでいたら病気になってしまう」
「ごめんなさい。でも、出られないんだ」
 顔を上げると、レイコさんの後ろに、白い服を着た男の人が何人か立っていた。アズマ先生やリハビリの訓練室の先生もいる。ぼくに見えないと思っているのか、顔をよせあってぼくを運び出す相談をしている。
 どうして? とレイコさんがもう一度聞く。
 ぼくは迷った。ぼくの正体を知られたくないけれど、話さなければ無理にでもつれだされるだろう。そうしたらこの次は、何が起きるかわからない。
 ぼくは手すりをはなれ、シャワー室の戸を細く開けた。
「あのね……」

 外へ遊びにいってもいい? と言うとたった今まで笑っていたママの顔がとたんにくもった。
「どうして? 外は危ないことがいっぱいあるでしょう。大きな車だっていっぱい走っているし、悪い人だっているし、シュンくん一人で行くなんて、ママとっても心配」
 家の前の公園までしか行かないよ、と言ってもだめだった。
「公園のお砂場にのらねこが来ているの、ママ見たわ。汚いじゃない。それに大きな子がボール遊びしているのも危なくていや」
 ママは立っていってテレビをつけた。ぱっぱっとチャンネルを切りかえて、いつもの〈ママのビデオ〉をかける。
「これでも見て一人で遊んでいて。ママ今日はとっても具合が悪いの。シュンくんといっしょにお外に行けないのよ。ごめんね」
 ママが眠ってしまったので、ぼくはしばらく一人でビデオを見ていた。どこかのきれいな景色がずうっと写っていて、静かな音楽が流れているやつだ。けれどすぐに退屈してしまった。ママのビデオはぜんぜん面白くないんだ。
 窓から外をのぞくと、子供が何人か公園で遊んでいるのが見えた。ぼくと同じくらいの年の子だ。
 中に一人だけ知っている顔を見つけた。一度だけいっしょに遊んだことがある。公園の砂場で〈どろだんご〉の作り方を教えてくれた。またいっしょに遊ぼうと約束したのに、あれからぜんぜん会えなかった。
 出ていって遊びに混ざりたい。なのに一人で外へ出ちゃいけないとママは言う。公園にいる子たちは、だれもママといっしょになんか来ていないのに。
 何だか胸の中がもやもやしてきたので、ぼくはひみつの宝物をながめることにした。
 それは、ぼくが見たいと思ったときにいつでも取り出すことができるので、さびしいときや今みたいな気持ちの時はいつもながめていた。赤くて透きとおっていて、少しもじっとしていない。ひっきりなしに形を変える。息を吹きかけると倒れてしまいそうなほど傾くくせに、止めるとまた立ち直ってくる。見ているうちに、いつの間にか気分がよくなるんだ。
 ひみつの宝物を見ていると窓の方でがちゃんと音がした。行ってみると、あの子がボールを持って庭に立っている。
「あれっ、おまえ」その子はぼくを見て言った。「おまえんち、ここだったの。何してんだ? 来ない?」
 その子が覚えていてくれたことがうれしくて、ぼくはうなずいた。だまって出ていったらあとでママに怒られるだろうなんてぜんぜん考えなかった。
 そしてそのままぼくは家を飛び出した。ひみつの宝物を放り出したまま。……

「ぼくのせいなんだ」
 ぼくはうつむいて、濡れたタイルをにらんだまま言った。レイコさんが、もし〈番人〉のような目をしてぼくを見ていたらと思うと、怖くて顔を上げることができなかった。
「さっきだってそうなんだ。ぼくが呼んだから」
「呼んだ? どういうこと?」
「だから、あれはぼくが出てこいって言うと出てくるんだ。〈番人〉がいつもぼくをずぶ濡れにしていたのは、ぼくがあれを呼び出せないようにするためだったんだ。ぼくは悪魔で、あれがぼくの――」
「シュンくん」レイコさんは手を伸ばしてぼくの口をふさいだ。「それは違うと思う」
 そう言うと、少し待っていてと言って出ていった。
 ぼくはレイコさんの後ろ姿を見送りながら、もうおしまいだと思った。だれだって、悪魔のそばになんかいたくないに決まっている。ぼくはきっと牢屋に返されてしまうだろう。
 泣きたくなったけれど、涙が出る間もなく、レイコさんは戻ってきた。
「シュンくん、こっちを見て。君が呼んだ〝あれ〟ってこれのこと?」
 ぼっ、と小さな音がした。レイコさんの手の中が、電灯の光を受けて金色に光ったかと思うと、すぐに青いゆらめきが立ち上がる。
 ぼくはそのゆらめきに目をうばわれた。色が違う。けれどレイコさんが持っているものはぼくの呼び出すあれと、動きも形もそっくりだった。
 どうしてレイコさんがこれを持っているんだろう。レイコさんもぼくと同じ悪魔なんだろうか。
「これはね、火というの」レイコさんが言った。
「ヒ?」
「シュンくんが知らなくても無理はないわ。浴室には火の気はないものね。だけどよく見て。特別なものでも何でもないのよ。誰でもこうやって使えるの」
 レイコさんはぱちんという音をさせて〈ヒ〉を消し、それからまた灯した。
「焚き火をしていたおじいさんも使っていたでしょう? シュンくんが行く前から」
 ぼくは信じられない気持ちで、レイコさんの手の中の〈ヒ〉を見つめた。少し色は違うけれど、確かにぼくのと同じものだ。落ち葉の上で踊っていたものとも。
「本当にだれでも持っているの? ぼくは悪魔じゃないの?」
 レイコさんはにっこり笑って、首を横に振った。
「シュンくんはふつうの男の子だよ」

          ***

「以上です。お借りしたこちら、お返しいたします。ありがとうございました」
 差し出されたライターを受け取りながら、東医師はその表面の金色の光沢と村上玲子の顔を等分に見つめた。
「それじゃあの子は、火が何かまったく知らなかったというのか? 五歳になっていたんだぞ」
 東医師はライターを脇へどけ、デスクの上の書類に目を落とした。『目黒俊(十一)の生育歴』と題されたその文書は、少年が六年前まで暮らしていた町での生活状況を調べたものだった。父親が住民票を移動させないまま転居していたため調査に時間がかかり、つい最近届いたばかりのものだ。
 報告によると、当時の一家はごくあたりまえの三人家族だったらしい。しかし少年が五歳の時自宅が火災に遭い、病気で伏せっていた母親が死亡する。少年は遊びに出ていて無事だった。家が焼けたことさえ知らなかったという。
 事件の後、父親はそれまでの勤め先を退職し、息子を連れて行方をくらませてしまう。虐待が始まったのはそれ以後のようだ。
「監禁されていた期間はともかく、それ以前にも一度も火を見たことがなかったというのか? テレビは? 五歳といえば幼稚園だって行っている年齢のはず――いや」
 東医師は言葉を切り、書類の上の文字を指でなぞる。
「……行っていないのか」
「はい。病気が理由となっていますが、本当のところは母親が外へ出したがらなかったのではないでしょうか。その報告書に当時の担当だった保健師のコメントが載っていますが、いささか度を超した溺愛傾向があったように読めます。異常とまでは言い切れませんが」
「うむ……」
 東医師は考え込むように低く唸って、腕を組む。
「家の中での熱源はエアコン、電気温水器、IHクッキングヒーターと炎の出ないものばかり選んでいたようです。オール電化住宅ですね。確かに安全には違いありませんけど、もし生まれたときからずっとこんな環境にいれば――」
「子供は炎というものをまったく目にすることなく育つわけか。考えてみれば恐ろしいことだな。火を知らない人間なんて」
「今はそんな環境が増えてきています。それでもたいていは、成長していくうちにどこかで出会いますよね。メディアはもちろん、周囲の大人が喫煙者だとか、花火だとか」
「不幸にもあの子はそのどれからも遠ざけられていた。――しかしそんな家なら火災の原因は? どこから出火した?」
「それがよく分からないんです。あの子の話では、自分が呼び出したから現れた、と」
「呼び出した? 火をか?」
「報告では、来客がライターでも忘れていったのをあの子が拾って持っていたんじゃないかとされています。ライターなら、火を知らない子からすれば確かに〝見たいときに突然出てくる〟ように思えるかもしれません」
「なるほど。それで父親は、あの子が母親を殺したと責め続けたのか」
 東医師は、玲子の話に該当する箇所を探して、報告書のファイルをぺらぺらとめくった。
 その手が、ふと止まる。
 父親が、失踪する直前に親しい人間に漏らした言葉というのが目に入ったからだった。
 ――あいつはおれの息子なんかじゃない。化け物なんだよ。おれだっていつ焼き殺されるかわからん。怖いのはおれの方だ。
 その下りを読んで、医師は少年の父親にふと興味を持った。
 父親が息子を虐待したのは、妻が死ぬ原因をこしらえたことへの怒りや憎しみのせいではないのか。もしこの言葉が本心なら、父親は息子を憎んでいたのではない。恐れていたことになる。
 この男、なぜこんな発想になったんだ? 幼い息子が火を出してしまったのは無知ゆえの不幸な事故だ。火の危険性をきちんと教育してやればすむことではないか。なぜ怖がる必要がある。
 東医師は、この父親の話を無性に聞いてみたいと思った。
 事故で瀕死の重傷を負った目黒俊の父親は、奇跡的に一命を取り留め、今もまだこの同じ病院の中で生きていた。しかしすでに植物状態が固定し、回復する可能性は低い。おそらく言葉を交わすことはかなわないだろう。
「俊くんはどうしている?」
「病室に戻りました。今のところは落ち着いています」
「母親が死んだことは思い出したのか」
「それが、死という概念を理解していないようなので――何かしたらしいということは分かっているようなんですが」
「そうか。あの子が必要以上に罪悪感を感じないよう、慎重に教えないとな」
 東医師はライターを手の中で弄びながら、戯れに着火した。ぽっ、という小さな音がして、青ざめた炎が立ち上る。
「火事の責任はあの子でなくまわりの大人にあるんだ」

          ***

 出てこい。
 心の中でそうつぶやくと、ぽん、と音をたてて〈ヒ〉が手の中にあらわれた。こうして暗いところで見ると、〈ヒ〉は明るいところで見るよりずっときれいだった。赤がいっそう真っ赤だ、
 そういえばレイコさんが出して見せてくれた〈ヒ〉はもっと青っぽかったな、とぼくは思った。人によって違うんだろうか。
 レイコさんの手の中に見えた金色のものが、ふと気にかかる。けれどあれはきっとレイコさんのしている指輪が光ったんだろう。そこから〈ヒ〉が出ていたように思えたのは気のせいだ。
 大切なのは、ほうきを持ったおじいさんもレイコさんも、みんな〈ヒ〉を持っていることなんだ。ぼくだけが特別なんじゃないってことだ。
 そう考えると、何だか心の中がうきうきしてくる。
 ぼくは恐ろしい悪魔なんかじゃなかった。あたりまえの人間だったんだ。〈番人〉はうそを言っていたんだ。
〈番人〉のことを思い出すと、〈ヒ〉が胸の中に燃え移ったような気がした。なんだかとっても熱い。熱くて、叫びだしたくなる。
 けれどぼくは叫んだりしない。かわりに、こっそりと考える。
〈番人〉はぼくを長い間だまして閉じこめてきた。とても恐ろしかったけれど、〈番人〉の言葉がうそだと分かった今はもう何も怖くない。どこに隠れたのか知らないけれど、いつか必ずあいつを探し出してやる。
 そうしたら今度は――ぼくの番だ。

               〈了〉