
●はじめに(岡和田晃)
服部伸六氏の再録企画も順調に進んでいますが、今回は「CUE 1987−07ー01 ジャパンタイムズ 第21号」掲載の「日本人の史眼でアフリカを見る」をご紹介します。
これは氏一流のレトリックが駆使されているエッセイで、少し解説が必要でしょう。
本文に出てくる牧瀬恒二氏は、『沖縄返還運動 その歴史と課題』(労働旬報社、1967年)で、佐藤栄作が沖縄を訪れた際の抗議運動を紹介しています。佐藤は後に「沖縄返還」を実現したとしてノーベル平和賞を受けましたが、その背後には「核」の持ち込みをめぐる密約が存在したのは報道されている通りで、ならば佐藤栄作神話も疑ってかかる必要があります。
同時に、古代~中世~近現代という「進歩発展」史観も、眉に唾を付ける必要があるでしょう。しかし服部氏はそうは書かず、あくまでも日本人のマジョリティにはどう見えていくか、そこから密やかな転倒を仕掛けているわけです。
文字起こしと校閲は、大和田始氏の尽力によります。
日本人の史眼でアフリカを見る
服部伸六
アフリカといっても、ここで言うアフリカはアラブ圏に属する北アフリカではなく、サハラ以南のネグロイド人種の住む、いわゆるブラック・アフリカのことです。
さて、人間の歴史を区分するのに、ふつう古代とか中世とかいう区分が使われていますが、アフリカにこの時代区分を用いることには無理があるようです。もっとも、いま現実に存在するアフリカを「現代アフリカ」と呼ぶのは一向に構わないとしても、「今あるアフリカ」を史学上の区分にあてはめようとするのは、いささか無理なようです。アフリカでは古代と現代が混在しているからです。
そこで日本の歴史をみてみますと、日本の歴史は世界史の区分とだいたいにおいて一致しているように見えます。日本の中世もヨーロッパの中世も、どちらも封建領主と宗教の世界だったからです。ただ時間的にずれ [2字傍点] があるだけの違いです。
ところがアフリカでは、この時代区分は通用しません。このあいだ日本の皇太子夫妻がアフリカを訪問されましたが、そのときの模様をテレビで見た日本の主婦たちはそこに「現代」を見たでしょうか。おそらくエキゾチックな古代を見たような気になったに違いありません。
なるほど、アフリカでも大都市には三〇階建の摩天楼があるし、近代的な設備がそろっています。ホテルでも事務所でも四六時中、冷房がきいていて、食堂やバアではジョニウォーカーのペリエ割りが飲めるし、うまいスパゲッティだって食べられます。だが、これはアフリカのごく一部でしかありません。一歩大都会を離れてサバンナへ出ると、そこには日本の縄文時代に似た世界がひらけています。いったい、どちらがアフリカの現実でしょうか。これに答えることはとても難しいことだと言わざるを得ません。せめて言えることは、どちらもアフリカの現実だということで、古代と近代の共存だといえばいいのでしょうか。
ところで、私は最近のこと、沖縄の歌謡として有名な「オモロ」の研究会に出ていて、講師の牧瀬恒二氏から耳よりな話をききました。それは、沖縄でオモロが歌われていた時代は日本本土では中世の武家政治の時代だったが、そのとき沖縄は古代だったという話です。沖縄では文化の発達が遅れていたのです。だから、オモロを文学として捉えてはならないという話なのです。それは歌と踊りであり、祭りである、というのです。オモロにはそのことを証明する歌がたくさんあります。たとえば、日本本土から物資を積んで戻って来船を迎えるのに、小さな部落の男女が総出して、船を歓迎するオモロがありますが、それは神女を先頭に立てて踊り狂いながら歌ったものだそうです。
そのことを知って皇太子夫妻を歓迎するザイールの肥えふとったオバサンや娘の踊りや歌をみていると、ポルトガルの船乗りがアフリカに上陸した五〇〇年前の光景など想像されるのです。人間の文明はすっかり進歩発展したのにアフリカには古い昔が残っているのです。おどろくべきことです。
そこで想い出すことがあります。私がコートジボアール共和国 (西アフリカ) のアビジャン市に住んでいた二〇年前のことです。
この国は一九六〇年に仏領植民地から独立し、今でこそアフリカの優等生といわれる安定した国になっていますが、やはり当初には混乱があり、クーデタが発覚したことがありました。大統領ウフェ・ボアニの政権を転覆しようとしたのはフランス留学帰りの若い大臣でした。逮捕のあとで家宅捜索をしてみると、呪いのワラ人形が見つかったという話です。大統領はこの若者を四年間刑務所に入れておいたあと釈放して社会復帰させました。
(はっとり しんろく 大東文化大学講師)
CUE 1984−07ー01 ジャパンタイムズ 第3号