「悪魔(上)」青木和

 ぼくは牢屋で育った。
 牢屋はつるつるの壁に囲まれた、四角い小さな部屋だった。
 壁の高いところに窓があるけれど、いつも青い布で目隠しされていた。牢屋の中が明るく青くなったらヒルで、真っ暗になったらヨルだ。それしか分からない。
 目隠しは窓にひもで結わえつけてあるだけなので、手さえ届けばめくりあげることができるはずだ。けれどぼくの首には重たいわっかがかけられ、牢屋の壁から突き出している銀色の取っ手にくさりでつながれていた。くさりが短いので、ぼくはまっすぐ立ち上がることができない。
 外を見ることができないので、ぼくは窓の外から聞こえる音に耳をすます。窓の外はいろいろな音がする。どの音もなぜか知っているような気がして、何の音か思い出そうとするのだけど、ぼくはあまりにも長くここにいるので、もうみんな忘れてしまっている。
 牢屋の中は、ときどきとても寒くなる。そんなときぼくは毛布を引きよせる。毛布はいつもしめっていて冷たい。顔をおしあてると、くさい水がじゅくりと音をたててしみ出してくることもある。
 けれどぼくはいつも裸で、毛布にくるまるしかない。そしてかたい床の上に横たわる。

 気持ちの悪い眠りからさめると、牢屋の中が明るくなっている。天井の一部が丸く黄色くかがやいている。
 タイヨウだ。
 ぼくは震えあがる。
 その黄色い光をなぜタイヨウというのか、いつからそう呼ぶようになったのか、どういう意味の言葉なのかわからない。ずっと前には知っていたような気もするけれど、思い出せない。
 タイヨウはとても明るくて、ぎらぎらしていて、見ているととがった爪を目に突きたてられて掻きむしられるような気がする。
 でも、タイヨウが出ると牢屋の中がほんの少しあたたかくなる。目をつむっていれば痛みは楽になることもおぼえた。
 ぼくが怖いのは、タイヨウが出るとそのすぐあとで必ず、牢屋の〈番人〉がやってくるからだった。
 ぼくは毛布の中で体をちぢめる。頭まですっぽりもぐりこんで息をひそめていれば、もしかしたらぼくの体がどんどん小さくなって、見つからずにすむんじゃないかと考える。
 小さく鍵をはずす音がする。牢屋のとびらを開ける音がする。
 ぼくはどうしようもなく震える体を自分で強く抱きしめて、毛布の外にもれないように息を止める。…………
 何も起こらない。
 息が苦しくなってくる。もう少し、もう少し……。まだ〈番人〉は動かない。
 とうとうがまんできなくなって、ぼくは毛布の外へ顔を出してしまう。すると〈番人〉は箱のそばに立って、だまってぼくを見下ろしているんだ。
「どうした、今日はもうギブアップか」
〈番人〉は歯を見せてにやにやと笑う。けれど目はぜんぜん笑っていなくて、ものすごく冷たい。その目で見つめられると、ぼくは体も頭の中も、かちかちに固まったような気持ちになる。
「それで隠れたつもりかよ。まったく毎度毎度同じまねをしやがって、学習ってものを知らねえのか、この阿呆」
 毛布の中にもぐりこんだって消えてしまえるわけなんかないことは、ぼくだって本当はようく分かっている。だけどぼくは何も言わない。口答えなんかしたらどんな目にあわされるか分からない。
「阿呆に何を言っても無駄か」
 やがて〈番人〉は舌打ちして、ぼくから毛布をむしり取る。
〈番人〉はカギをいくつか持っている。その中から一本選び取って、壁から出ている取っ手のどこかに差し込む。そしてぐるぐるとそれを回すと、ぼくの頭の上から水が降り注ぐ。
 ばしばしとすごい勢いで、水はぼくの全身をたたく。痛い。そして冷たい。すぐにあごが勝手に震えだし、かちかちと歯が鳴り始める。
「寒いか?」
〈番人〉が聞く。ぼくはうなずくけれど、〈番人〉がそれで水を止めてくれることはけっしてない。これもバツの一つだと〈番人〉は言うのだ。
「おまえがなぜここに閉じこめられているのか、分かっているか」
 ぼくはうなずく。毎日同じことを必ずきかれるから、〈番人〉が満足する答えを一言だってまちがわずに言える――頭の中では。
「言ってみろ」
 ぼくは口を開くが、声がなかなか出ない。やっとのことで声を出すのに成功しても言葉にならない。口の中で舌がからまってウワウワというような音が出るだけだ。
〈番人〉は手に棒を持っていて、いらいらと自分のてのひらに打ちつけている。あれがぼくにむけて振り下ろされるまでに、なんとしても答えなくてはならない。ぼくは必死に舌を動かす。
「ぼ く が、あ く ま、だ か ら」
 棒を持つ〈番人〉の手が止まる。うまく言えたのだ。ぼくは少しほっとする。でもこれで終わりではない。
「そうだ。おまえは悪魔の子だ。おまえは何をした?」
「ま……まを、こ ろ し、た」
 何度も言わされてきたこの言葉は〈番人〉の求める答えのはずだ。けれど〈番人〉はいきなり棒を振り上げ、ぼくの体を打つ。ぼくは床に転がって頭を抱えてかばう。
 何が悪かったのか分からない。けれど〈番人〉の怒りが怖くて、ぼくは何度もごめんなさい、とくりかえす。

「悪魔め、この化け物め。貴様なんかおれの……じゃない」
 それでも〈番人〉は息を切らし、さらに棒を振り上げながらぼくを責める。
「生かしてやっているだけありがたいと思え。だが、一生ここから出してはやらんぞ。外へ出ると貴様はまた必ずだれか殺すに決まっている」
 ぼくは恐ろしさに震え、ただ体を丸めて痛みをこらえる。

 ぼくが〝まま〟について覚えていることはほとんどない。思い出せるのは白くて長い指と、細くて高い声だけだ。顔も思い出せない。
〝まま〟はいつ、どうしていなくなってしまったのだろう。
〈番人〉はぼくが〝まま〟をコロシタのだと言う。ぼくもそうだと答えるけれど、本当はどういう意味なのか分からない。けれど、きっととても悪いことなのだ。だってもう二度と同じことをしないように、ぼくはここに閉じこめられているんだから。
 ヒルになると、外で人の声が聞こえることがある。たいていは何を言っているのか分からないけれど、たまに言葉が聞き取れることもある。
「ねえ、このおうちに近づいちゃいけないって、どうして?」
「ここにはね、怖い怖い男の人が住んでいるからよ。悪いことをされるわよ」
 あれはきっとぼくのことだ。みんなぼくが恐ろしい悪魔だって知っているんだ。
 ようく分かっているけれど、そんな言葉を聞くととても悲しくなる。
 外に人声がしても、けっして音も声もたててはいけないと〈番人〉にきびしく命令されているので、ぼくはじっと声をひそめている。
 人の声が聞こえなくなってから、ぼくは箱の中で泣く。

          *

 ある日から〈番人〉がぱったりと来なくなった。
 何度も何度も牢屋の中が青くなり、また暗くなった。それでもタイヨウは出ず、〈番人〉はやってこない。なぐられずにすむのはうれしかったけれど、同時に食べるものがなくなってしまった。〈番人〉が立ち去った後は、必ず洗面器いっぱいの食べ物――冷たくてげろのような見かけだったけれど――が置いてもあったのだ。
 はじめのうちはただ空腹をがまんしていたけれど、そのうちに動くことができなくなった。目を閉じると体がずるずると溶けていきそうな気がする。
 やがて、まだヒルのはずなのにあたりがまっ暗になってきて、ぼくは何も分からなくなった。
 最後におぼえているのは、今まで見たこともないようなたくさんの人が、聞いたこともないような大きな音をたてながら近づいてきたことだ。タイヨウがかがやき、牢屋のとびらが開き、やはり〈番人〉はもどってきたのだとぼくがちぢこまっていると、だれかが言った。
「君は――だね?」
 そう言ったその人は、声も顔も〈番人〉になんとなく似ていたけれど、〈番人〉ではなかった。見たことのない顔だった。
「間に合ってよかった。君のお父さんがね、車の事故で……」

          *

 ノックの音が聞こえて、ぼくは毛布の中に頭までもぐりこんだ。
 しばらく間があって、静かにドアが開き、足音が近づいてくる。やがてそっと肩に触れられる感じが毛布ごしに伝わってきた。
「シュンくん、寝てるの?」
 レイコさんだ。
 ぼくはおそるおそる、毛布から目だけをのぞかせた。レイコさんが来るはずだと分かっていて、待っていたくせに、ひとが来ると毛布にかくれるくせがまだ抜けない。
「ごめん。起こしちゃったかな」
 レイコさんはすまなさそうな顔でぼくの顔をのぞきこむ。レイコさんの大きな目にぼくが映っているのが見えて、急にほっぺたが熱くなった。
 あわてて首を横に振ると、レイコさんはやさしそうな顔をほころばせて笑った。
「よかった。ごはん、食べようか」
 レイコさんはぼくのひざの上に手早くテーブルを広げ、食事のおぼんをおいた。洗面器じゃない。お茶碗やお皿にきれいな食べ物が盛りつけられている、本物のごはんだ。
「今日は鱈の酒蒸しと里芋のそぼろ煮だよ。あとリンゴのゼリーもね。好き?」
 レイコさんはぼくの胸にナプキンをかけ、手にスプーンをにぎらせながら聞く。ぼくはうなずくけれど、本当はどの食べ物もあまり区別がつかないんだ。
「焦らないで、ゆっくりね。ずいぶん上手になったよ」
 レイコさんはぼくがスプーンで食べ物を口に運ぶのを見てほめてくれる。まだうまくいかなくて、ぼろぼろとこぼれるのだけれど、こんなに早く一人で食べられるようになったのはすごいと言う。
 ぼくが今いるここは、病院というところだった。ここへ来てからもう半年になる。
 どうしてとつぜん牢屋を出してもらえることになったのか、ぼくは知らなかった。〈番人〉がどこへ行ったのかも分からない。
 分かっているのは、ここにはあたたかくて乾いた毛布があって、ぼくはくさりでつながれたりはしていないということだ。そしてぼくをなぐる人はいないということだ。
 レイコさんはこの病院で働いている人だった。こうやっていろいろぼくのめんどうを見てくれるのが仕事なんだ。
 レイコさんのおかげでぼくはいろんなことを知った。ぼくの名前がシュンということや、年が十一歳だということ、それからいろいろなものの名前。ぼくが閉じこめられていたあの牢屋が「ヨクシツ」というものだったことも。
 食事が終わるとレイコさんはお盆を片づけ、何冊かの本を取りだした。
「はい、今日のおみやげ」
 あたらしい絵本だった。きれいな色でいろいろな動物や、子供が遊んでいる絵がかかれている。本当はぼくなんかよりもっとずっと小さな子のためのものらしいけれど、ぼくは字が読めないので、小さな子供と同じなのだ。
 レイコさんがいっしょにいて読んでくれないかと思ったけれど、今日はだめだと言われてしまった。
「まだ仕事があるの。終わったらね。それから、三時からアズマ先生が来ることになってるから――」
 その名を聞くと、ぼくはちょっと暗い気分になった。アズマ先生はぼくのシュジイで、レイコさんよりもえらい人だというのだけど、声や感じが〈番人〉に少し似ているのだ。
「アズマ先生、きらいだ」
 そう言うと、レイコさんは泣き出しそうな、困った顔になる。
「そんなこと言わないで。アズマ先生はね、シュンくんの体を一生懸命治してくれたのよ。そしてもっともっとよくなってほしいと思ってる。そりゃあちょっとぶっきらぼうで怖いところがあるから、シュンくんの気持ちは分かるけどね」
 ぼくはびっくりした。レイコさんはいつもアズマ先生と仲よくしているから、そんなふうに思っているなんて知らなかった。
「レイコさんも、アズマ先生のこときらいなの?」
「きらいじゃないわよ。尊敬してる。でもおっかないの」
 レイコさんはいたずらっぽい目をして笑う。
「私がこんなこと言ってたって、アズマ先生には内緒だよ」
 レイコさんは小指をたてて、ぼくの小指とつなぐ。指切りといって約束のしるしだ。これもレイコさんに教わった。
 レイコさんの指はぼくと同じくらい細いけれど、とってもやわらかい。まるで、かすかに覚えているママの指のようだ。
 レイコさんが部屋を出ていったあと、ぼくはレイコさんが触れていったぼくの小指に、そうっとくちびるを近づけてみる。なんだか指が熱いような気がする。胸がどきどきする。
 ぼくはレイコさんが大好きだ。
 レイコさんが持ってきてくれた絵本を開き、ぼくは絵の横に書いてある文字を指でたどる。スプーンを一人で使えるようになったら、レイコさんはとても喜んでくれた。字が書けるようになったらもっと喜んでくれるだろう。レイコさんのためなら、ぼくはどんなことだってがんばれる。
 けれど。
 棒を持った〈番人〉がいつの間にか部屋のすみに立っている。その冷たい目を見たとたん、ぼくの体も心も水をかけられたように震えだす。
 もちろんここに〈番人〉なんかいない。まぼろしだ。分かっているけれど震えが止まらない。
 ――おまえは悪魔だ。
〈番人〉が言う。
 ――あれだけいけないと言ったのに、外へ出たな。今にきっとだれか殺すぞ……。
 ぼくは毛布に頭までもぐりこんで耳をふさぐ。ぼくは何もしない。絶対にしない。するもんか。
 だけどもしぼくが悪魔だと分かったら、レイコさんは今までのようにぼくにやさしくしてくれるだろうか。このままここに置いてくれるだろうか。

          *

(「悪魔(下)」に続く)