『みっちゃん』
「何、入ってるんですか、これ?」
「キュウリだ」
「確かにキュウリのスライスですよね」
「当店特製、焼酎のキュウリ割りだ」
「特製って、思いつきのくせに……。でも意外と合いますね」
「だろ」
「うん、飲みやすい。すいすい行ける。……お代わりください」
「Jさん、よしざわみちこって、知っていますか?」
「誰だ? タレントか?」
「そんなんじゃない、と思うんですが」
「吉沢京子ちゃんなら知ってる。若い頃の、俺のマドンナだ」
「ちがいますよ。……待てよ。よしざわみちこ……って……みっちゃん……」
焼酎にしみ出た胡瓜の味わいが、私の、どこか深い記憶を刺激する。青い畑の向こうから――。
「あと俺が知ってるのは、美智子妃殿下くらいかなあ」
ぶつぶつとつぶやくJさんをやり過ごして、携帯を取り出し、誤配信とばかり思っていたメールを開いた。
〈あきこも保育園の年長となり、来年は小学生です。保育園で友だちから、訊かれるのでしょう。
「あきこちゃんのお父さんは、何をしているの?」と。
それを帰ってきて涙ぐんで訊かれると、なんと答えていいのか。わたしまで涙がこぼれ、あきこを抱きしめて泣いてしまう、そんな毎日です。〉
「あきこ……」
私がつぶやくと、Jさんが聞きつけて、
「今度は別の女か」
「いえ、私の娘です。私とみちこの」
口にした途端、古い記憶の奥から、まったく別の記憶が浮かび上がってきた。
はないちもんめ。
私が幼かった頃でさえ、ずいぶんと古めかしい遊びだった。だが、私には九つ上、六つ上と二人の姉がおり、仕事で忙しかった両親に代わって、幼い頃、祖母に面倒を見てもらっている時間が多かったらしい。
明治生まれの祖母は、その手の遊び、かごめかごめ、なべなべそこぬけ、おしくらまんじゅう、あぶくたった、ちゃつぼ、あんたがたどこさ、と教えたらしく、姉たちはよく覚えていて、幼い私に教えてくれたものである。
そう、私が姉たちに、はないちもんめの遊び方を教えてもらっていたとき、とつぜん現れたのが、彼女だった。最初に気がついたのは私だった。
懸命に遊び方を覚えようとしていて、ふと脇を見ると、近くの青々とした畑の脇から、顔を覗かせて、じっとこっちを見ている女の子が居た。
私が動きを止めて、そっちを見たものだから、姉たちも気づいて、
「誰? お友だち?」
と私に訊いた。私が首を横に振ると、視界の隅で、少女の顔が、かなしそうに曇るのが見えた。
「お名前は?」
九歳上の姉が訊いた。
「よしざわみちこ」
「じゃあ、みっちゃんね。ねえ、みっちゃん。こっちへ来て。いっしょに遊ばない?」
女の子の顔がぱっと明るくなり、しかし、すぐに曇って、その瞳を私に向けた。
幼かった私は、ごくっと生唾を飲み、なんとかしなくては、とあわてて、笑顔を作って、首を縦に振ると、女の子は弾けんばかりの笑顔を浮かべ、ちょこちょこと駆けてきて、姉たちに教わりながら、いっしょに遊んだ。
この話を、迎えに来た祖母に言うと、すでにみっちゃんの姿は見えず、祖母はとたんに顔を硬くした。姉の体に顔を寄せ、くんくんと匂いを嗅いだ。祖母は、脇の畑を見やり、
「胡瓜か……」
とつぶやく。
「どうかしたの?」
姉たちが訊くと、いやと首を横に振りながらも、祖母はしゃがみこみ、まず長女である姉に、次に次女、そして最後に私に向かって、同じ質問をした。
「あなたはだあれ?」
姉たちが自分の名前を告げた、その間、祖母はじっと一人一人を見つめ、両手で手をしっかりと握りながら、その度に、
「よかった。T子(長女の名前)にまちがいないね」
と言い、次女そして私にも同じことをしたのだった。
しかし、あのとき私は、自分の名前を言えず、とっさに浮かんだ名前を口にした。
「みっちゃん。よしざわみち……」
待てよ、その頃、祖母は脳溢血で倒れ、まもなく死んだ。迎えに来られたはずもないのに、記憶の中ではまちがいなく祖母だった。それに、みっちゃんと遊んだだけでなく、会ったのは、この一回だけ、のはずである。それなのに……。
「みっちゃんって、いったい……」
そうつぶやいたとき、Jさんが経営する阿佐ヶ谷のガード下の飲み屋〈梟〉のガラス戸が開いた。幼い少女と女が手をつないで立っている。
「みっ……。よしざわ、さん?」
私が言うと、女の目から涙がにじむ。少女は女の手を振り払い、私に向かって、駆けてきた。立ち上がった私の足に抱きつき、顔を寄せ、つぶやいた。
「だぁれだぁ?」
『少女と牛丼』
「落とし物だよ」
私はポケットから取り出したTマウスのキーホルダーを少女に見せた。
「わたしのじゃない」
「名前だって書いてある。ええと……」
思いついた名前を口にすると、
「別の人のよ」
「ええと、君の名前は?」
「よしざわみちこ」
「みっちゃんか」
私はほくそ笑み、キーホルダーをポケットに収めながら、
「みっちゃん。お腹が減ってるんじゃない?」
少女はうつむいた。
「さっきから見ていたけど、元気もないし、体だってふらついてる。そうなんだろ?」
誘導するように訊ねると、少女は弱々しく首を縦に振った。
「やっぱり。実は、おじさんもなんだ。それで今、君が見ていたこの店へ入ろうと思ってたんだけど、いっしょに来るかい?」
「でも……」
「でも?」
「知らない人に……って、ママが」
「ママは、どこにいるの?」
「ちょっと用事を済ませてくるからって」
「じゃあ、お店の中で待っていよう」
「でも……」
「このお店だったら、ガラス張りだから、外からもよく見える。ママが来てもわかるから」
「でも、知らない人に……」
「だから、いっしょにママを待ってるんだよ。ねえ、みっちゃん。おじさんが、変な人に見えるかい? それにもしおじさんが何かしようとしたら、大声で叫べばいい。どこか行こうって、言ってるんじゃないし、ほかの人たちが見ているんだから」
噛んで含めるようにやさしく言った私の言葉、態度に少女は安心したらしい。何よりも空腹に負けたというべきか。
「わかった」
「それじゃ、さあ」
第一段階はクリアーした。少女の気が変わらないうちに。
「ああ、お腹減ったね。さあ、すぐに、温かいご飯を食べようよ」
わざとらしく言いながら、足早にその店へ入る。
彼女は、とぼとぼと私に付いて、店に入った。店はUの字の大きなカウンター席、窓際には二人がけのテーブル席が三つ、奥にも大人数で座れるテーブル席があるようだが、私は入り口から一番近くのテーブル席に坐った。
数秒遅れて、少女は私と向かい合うかっこうで腰を下ろした。第二段階クリアー。少女はテーブルの脇に立てられたメニューに手を伸ばし、何を食べようかと品定めにかかる。私は水を持ってきた店員に言った。
「牛丼並とお椀」
「並はおいくつお持ちすれ……」
「一つ。それにビール」
私は水に口をつけた。
一分と経たずに注文した品が届いた。丼の上に乗った牛肉をすべて、お椀に入れ、飯だけになった丼を、少女の前にさしだした。
お椀の肉の上に大量の紅生姜、七味をかけてから、コップにビールを注ぎ、ごくり喉を鳴らし、牛肉をつまんだ。少女を見ると、どうすればいいのかわからないという顔つきで私を見ている。
「遠慮せずに食べなさい」
汁で茶色く染まった丼の飯を指した。
「でも……」
「子どもに肉はよくない。さあ、はやく」
私は、脇から醤油の小瓶をつまみ、飯の上で〈の〉の字を書いた。少女はじっと丼を見ている。
「人の好意を無駄にするのか」
それまでとは態度を一変、語調をきつくすると、少女はその小さな肩をぴくっと揺らし、箸を取った。戸惑ったのは一瞬、一口食べると、後は雪崩のごとく、口に飯を入れる。
私はビールを飲み、つまんだ牛肉をくちゃくちゃしながら、その姿を見た。似ている、面影がある、少女から女への成長を想像させる。
「君のママは、美人だね」
「ママを知っているの」
米粒が唇からぽろり出て、あわてて押し込み、咀嚼をくりかえした。
「何度か、見かけたことがある」
それって知っているんじゃないんじゃない、くりっとした目で私を見たけれど、すぐにうつむき、箸で米粒の塊をつまみ、口へ運ぶ。
「お父さんは、何をしているんだい?」
「知らない」
少女はうつむいたままつぶやいた。
「自分の親が何をしているのか、知らないのか」
「会ったこともないし」
「そうか。ママと二人きりか」
予想していた通りだ。わくわくと弾む気持ちを、ビールと牛肉で流し込む。
「伏せなさい。はやく」
私が叫ぶと、何事かと驚いた様子ながら、少女は、まるで地震に襲われたときのように、テーブルの下に身をかがめた。ウインドウの外を見ると、自転車で通りかかった女には気づかれなかった。だが女は私に気づいた。
どうしてここに? なぜ?
私はにやりと笑い、ビールの入ったコップを掲げた。バケツに入った冷水を頭から掛けられ、悪寒に襲われたように、女は自転車を走らせて行った。よほど混乱したのか、女は盲点に気づかなかった。
マサカムスメガココニイルトハ。
これでまだしばらくは安心だ。否、油断は禁物か。懐から取り出した粉を、このときばかりは、周囲から見えないように、空いている方の手で隠しながら、少女の食べている途中のご飯にぱらぱらとかけた。闇ネットで買った即効性のある薬。
「もうだいじょうぶだよ、みっちゃん」
テーブルの下から顔を覗かせた少女に言った。
「何が……?」
「いや、予知能力があってね」
「予知能力?」
「これから起こることがわかるんだ。『地震がくる!』と感じたから、叫んだんだが、今回は外れたみたいだ」
点在する客や店員に聞こえる声で言い、やおら店内を見回すと、不審そうな顔を向けていた者も苦笑いして、食事をつづけた。
「ほら、まだ残っている。全部、食べていいんだ。そうしたら――」
「そうしたら?」
「いや。食べなさい。さあ」
私はコップのビールを飲み干し、箸で肉と紅生姜をつまみ、くちゃくちゃ顎を動かしながら、言いつけ通り、残りのご飯を口に運ぶ少女を見た。
即効性のある薬。まだほんのりと赤い頬の色が、もうじき白蝋のように変化するのを楽しみに。
遊び疲れたみたいだ、会計を。もうすぐ店員に言うだろう言葉を脳裏に浮かべながら。
『スナックあきこ』
「ママ、ママはみちこなのになんで、店の名前が『あきこ』なわけ?」
ママは私を見やり、微笑みながら、テーブルにあったボトルをつかんだ。私の手にしたグラスは氷だけになっている。グラスを置くと、それにボトルに入った琥珀色の液体を半分ほど注ぎ、ボトルをテーブルに戻した。
口を運ぶと、喉が焼ける。ウイスキーのロック。あれ、ウイスキーは焦げ臭いからと、麦焼酎に変えたはずなのに、いつの間にか、ウイスキーに戻っている。
「あなたが焼酎は飽きたからって」
ママが言った。
「焼酎に飽きたって?」
「阿佐ヶ谷で飲んだとき、キュウリを入れられて、最初はおいしくて、飲みつづけたら、いつしか臭いが鼻について、吐くようになったって。それがトラウマになったって」
そうか。私が言ったのか。言われてみると、そんな気もする。ちびりちびり口に運ぶと、喉も慣れたか、麻痺したのか。
はてさて、私はいつから、この店で飲んでいるんだろう。辺りを見回した。店? これが?
狭い和室だった。四方も天井も、霧がかかったように霞み、その向こうは暗くて、どうなっているのか見えない。向かい合って坐る、みちこママとの間に小さなテーブル、テーブルというよりも卓袱台(ちゃぶだい)といった方がぴんと来る。あぐらをかいた尻の下には、薄い座布団、尻を上げて引き抜くと、紺の布地に白で文字が書いてある。
「桜座、か」
「あなたが、持ってきたんじゃない」
私が? そうか、桜座から、がめてきたか。まわりを見ると、畳の上、卓袱台を囲むように、桜座の座布団がならんでいる。
「ぜんぶ、おれが」
「シャツのお腹と背中に隠して」
「ありゃりゃ」
自分のことながら恥ずかしいと思うより、酔った私ならやりそうだ。
「それにしても、変わった店だね」
私はまわりを見ながら言った。
「どんな風に変わってると思うの?」
「ふつうスナックって言えば、テーブル席があって、カウンターもあって……」
「スナック?」
「そうでしょ。スナックあきこ」
「そうね。スナックあきこ」
女は苦笑しながら、うつむいた。
酔いが覚めたわけではないが、曇っていた頭の中、ぽっと灯がともるように、理性のかけらが戻った気がした。スナックというよりも、貧乏学生の、それも一昔、二昔前の、下宿に来て、飲んでいるみたいだった。
卓袱台の上だけ見れば、ウイスキーのボトル、アイスボックス、水入れ、グラス、それに乾き物が入ったガラスの皿と、スナックといえなくはない。しかし……。
辺りを囲っているのは編み目の、目隠しなのか。その編み越しに、天井からぶら下がっているのは、どうみても裸電球だ。
目をこらして、網の外を凝視したけれど、酔いのせいだけでなく、暗さでどうなっているのかわからない。ただ目の前にいる女、誰だ。みちこって誰だ。あきこって誰だ。
「蚊帳よ」
女に顔を向けると、女は私が見ていた網を見ていた。
そうだ、蚊帳だ。私が相生町に格安で借りているぼろアパート、訳あって家族と別れ、六畳間に三畳の台所、風呂とトイレがいっしょ、古びた二階建て一階の角部屋で、甲府・桜座まで、歩いて五分ーー。
ということは、ここは、
「スナックあきこ、なんて店じゃない。私が借りている相生町のおんぼろアパートの台所」
独り言のようにつぶやき、改めて辺りを見た。ここに住み始めて、いつからか気がつくと、深夜の台所に蚊帳がつられていた。そしてその中に、とうに死んだ母さんが、すわって、黙って私を見ているのだった。その蚊帳の中に、私と……。
女を見た。女を見て、私はまたしてもつぶやいた。
「よしざわみちこ。みっちゃん」
女は苦笑するが、黙っている。
「いつから、ここで店を?」
「もう何年、何十年になるかしら」
「あきこ……いや、子どもは?」
「さみしがっているわ。ずっと、ずっと」
言葉が心にしみ、気がついたら言っていた。
「育てよう」
「ほんとに?」
「親子三人で、いっしょに暮らそう」
「ああ、やっと」
やっと? 待っていたのか。いつから、どれくらい。みちこ。好きで、強引なやり方で、この手に収めた気持ちになったときもあった、はずなのに。
三人で暮らすか。できるか、どうか、と思ったのまでは、口にしなかった。みちこは泣いている。むせび泣きながら、
「ほんとうにいいのね?」
と、うつむいたまま言った。それまでと違う語調、雰囲気を感じながらも、気圧されるように、私は、ああ、とうなずく。
「それなら」
こんこん、こんこん。
ん?
不意に脳裏に映像が浮かぶ。「狐が呉れた赤ん坊」昔の映画だ。だが、どこから狐で、どこから私の人生で、どこから妄想、アルコールの幻想なのか。
スナックあきこでも、相生町のぼろアパートでもない場所で、私は女と女の子と、卓袱台を囲んでいる。卓袱台の上、炭火コンロの上、鍋が置かれ、中でぐつぐつぐつ、煮えているのは肉、白菜、豆腐、白滝。
女の子が、肉に箸を伸ばした。
「待て」
私は言い、子どもに肉は良くない、と思ったが、口に出せなかった。
子どもは煮えた肉を箸でつまみ、卵につけ、口に入れ、笑顔で咀嚼した。笑顔で咀嚼。あのときは笑顔はなかったのに。あのとき?
現実なのか、妄想なのか。
女が肉を鍋に入れた。私はすぐにそれを箸でつまみ、まだ赤い肉を口に入れた。咀嚼し、女と子どもの視線を感じながら、小皿の生卵をずずっと飲み、くちゃくちゃと咀嚼をつづけた。
女と子どもだけでなく、蚊帳に覆われた室内もぼやけていく。私は夢中で咀嚼し、ウイスキーを飲み、飲み干し、肉を食い、グラスに注ぎ、飲んでをくりかえす。
くちゃくちゃ、ぐび。くちゃくちゃ、ぐびびび。くちゃくちゃくちゃくちゃ、ぐびぐびぐびぐび……。
自分と他人。現実と幻想。この世とあの世。わからない。区別なんて、実はもともと無いのだろうか。あるいは、区別しなくていい時が私を訪れたか。(了)