「星」井上史

 夜明けの砂浜に、君は横たわっている。ぐったりと脱力して動けない。ああ、これで最期なのか。だとしたら、思いの外、呆気ないものだと拍子抜けする。
 海水に洗われる砂の上には、君が苦悶して引っかいた痕跡がある。けれど、生命が去りつつある今、感覚は薄れ、苦痛は遠のいている。寄せては返す波が時折、君の身体を洗っていく。二メートルほど先の乾いた白い砂の上にはヒトデが落ちていた。色褪せたその体色からして、干からびて死んでいるようだ。
 砂浜は、生命と生命だったものの気配に満ちている。打ち上げられたヒトデや貝、海草など。横たわる君も、ごく自然にその一部となっている。と、森の方からひらひらと一匹の蝶が飛んできた。黒地に青い模様の浮かぶ美しい羽を動かして、ひらひらと砂浜の一角を旋回する。しかし、そこに蜜を吸うべき花がないことに気づいたのだろう。蝶は森の入り口まで戻って、咲き乱れる赤い花のうちの一輪に留まった。
 蝶は、死者の魂の象徴とされる。そのため、昔、蝶を凶兆と見なす文化もあったという。果たして砂浜に現れた蝶は、吉凶いずれの予兆なのか。そんな疑問を抱いたとき、森から何匹もの蝶が現れた。赤い花に留まった個体も合流して、無数の蝶が砂浜を乱舞する。
 その光景をじっと見守る。
 君は自分が眠らない子どもだったことを思い出す。

 修学旅行の夜のこと。ホテルで同室の友人たちも、ふざけあうのに疲れて、ひとり、またひとりと眠りに落ちてしまう。いつもの夜と同じように目が冴えている君はひどく焦る。明日も楽しい予定が組まれているのに、日中に船を漕ぐことになったらどうしよう。一向に眠気が訪れず、自棄になった君は大人たちの目を盗んでこっそりと部屋を抜け出す。
 と、廊下で顔見知りに遭遇した。別クラスの男子生徒だ。
「そっちも眠れないのか? なら、星を見に行かないか?」彼は言う。
 二人で外へ出ると、頭上に無数の星が輝いていた。これほど多くの星を、君は今まで目にしたことがない。思わず歓声を上げる。その歓声が聞こえたわけではないだろうが、星の一つがわずかにこちらへ近づいてきた。
「知ってるかい? ほとんど動かない星があるんだって」
「星は動くものよ。ほら、今も動いてる」
 君は頭上を指で示す。そこでは青白く瞬く星たちが不規則な軌道を描きながら、流れ去ろうとしている。
「嘘じゃないよ。レーダーやソナーがない時代の人々は、その星――北極星を旅の目印代わりにしたんだって。それに、動く他の星たちもそれぞれの位置関係は変わらないから、昔の人は星と星をつないだ星座というものを夜空に見いだしていたそうだよ」
 この同級生の言葉は、真実なのだろうか。君は内心、彼のことを疑わしく思った。動かない星や、不規則に漂わない星なんて、今まで目にしたことがないからだ。
「たとえば、北斗という俺の名前も星座にちなんだものだ。もうその星座を観察することはできないけどね」
「北斗……。どんな星座なんだろう……?」君は星に興味を覚える。
 後に、彼――北斗はそのときのことを、不器用な子どもながらの作戦だったと語った。名前を覚えてもらって、友達になってほしかったのだ、と。
 そう、北斗。北斗七星。子どもの頃からともに過ごして、成長して後は最愛の人となった彼の名にちなんだその星座を見てみたいというのが、君のささやかな願いだった。
 やがて、君は大人になって、北斗とともに暮らしはじめる。間もなく妊娠が判明した君は、彼と幸せに満ちた生活を送っていた。
 とはいえ、君個人の幸せとは裏腹に、君の暮らす都市では不穏な空気が漂っている。都市を覆うドームが老朽化して修理の必要性が出てきたのだ。君は空調システムのエンジニアをしており、設計に関わっている。都市が建設されたのはもう百年も昔のことで、当時の技術や材料の中には失われてしまったものもあった。システムを更新する計画はゆっくりと進んでいる。しかし、時折、地震が起きるとドームが歪んだり破損したりして補修が必要になり、計画がどんどん遅延していくのだった。
 この上、自分が出産で計画の前線から抜けたら、いっそう混乱が起きるのではないだろうか。そんな不安を抱きながら空を見上げると、ドーム越しに星が淡く輝いている。揺らめき、点滅しながら泳いでいく星の群れ。君は流れ星の言い伝えを思い出す。かつて、星がほとんど空から動かなかった時代に、流れるように動く星は貴重だったという。そのため、流れ星が消える前に祈ると、その願いが叶うと言われていたのだとか。
「……このまま平穏に暮らせますように」
 君は珍しくもない、強化ガラスの向こうを流れていく星に願いごとをささやきかける。もちろん、星は君の切実な祈りなど知らぬ素振りで、視界から流れ去っていった。
 けれど、その希望は叶わない。君は脳裏に我が家の風景を思い浮かべる。北斗と二人の家で過ごした最後の記憶は、不安と恐怖と罪悪感を伴う。
「今すぐ逃げるんだ」
 大きな地震が起きたあの日、逃げまどう人々で混乱が起きる最中、君のいる避難所に迎えにきた北斗は、怖い顔をして君に言ったものだ。君は恋人の姿に戸惑いを覚える。政府の職員である彼が、この非常事態に自分の傍にいてもいいはずがない。いったいなぜ戻ってきたのかと不審に思う。
「逃げるっていっても、今、北斗はこんなところにいちゃいけないはずでしょう?」
「いいから」北斗は君の手を引く。「自分の役目は分かってる。でも、君を――君とお腹の子を放っておけない。少しだけ様子を見てきていいと、上司に許しをもらったんだ。だから、行こう」
「逃げるって、どこへ行くの? 私たちはどこにも逃げられないはずでしょう」
 君は頭上を見上げる。今はちょうど『夜』の時間。太陽代わりの人工照明が最小限まで絞られて、ほのかに輝く星が一つ、揺らめいていた。北斗も君の視線を追って、上に目を向ける。
「ああ、そうだ。君の言うとおり。俺たちは海底のドーム都市で暮らしているんだから、普通なら逃げ場はない」
 揺らめく星――頭上の強化ガラスの向こう側の深海で青白い燐光を放つ星がゆったりと泳いでいく。細長い帚星(ほうきぼし)のようなその形は、深海魚のホテイエソだろうか。海底ドームは強化ガラスになっているため、『夜』の時間になると青白く発光するクラゲやイカ、ヒトデ、オキアミなどの輝きを見ることができる。それらの光はいつからか、ドーム都市の人々に『星』と呼ばれるようになっていた。万が一、強化ガラスが砕けでもすれば、たちまち降ってくる『空』に浮かぶ『星』だ。
 もともと、人類は地上で暮らしていた。その人類の一部が海底都市へ移り住んだのは、温暖化の影響で頻繁に感染症が流行するようになったからだ。永久凍土の氷が溶けて広まったものもあれば、生態系の変化によってより深刻な症状を呈するようになった既存のウィルスもある。
 温暖化は科学を以ってしても止めることができず、疫病対策のためにせめて地表の人口を減らして社会的距離を広く取ることになった。そうして海底ドームが建設され、人類の一部が海底へ移住したのだ。海底ドーム内の家畜や植物は人間の管理下に置かれるため、きちんと検疫を行えば病が侵入することはない。もちろん、海底ドームの住人も同じだ。ただ、地表と行き来すれば病が持ち込まれる可能性が高まるため、海底ドームと地上の行き来はなしとされた。だから、海底ドームで生まれた今の世代は誰ひとり、地上の空気を吸ったことがない。もちろん、本物の空を目にしたことも。
 君たちが空を見上げている間にも、ぐらぐらと大きく足元が揺れる。地面が隆起しはじめて、転倒しそうになる君を北斗が支えた。ギギギギと金属が軋むような物音とともに、透明なドームにヒビが走る。天井は今にも崩れ落ちそうだ。北斗は君を庇うように抱きしめた。
 どれほど経っただろう。せいぜい五分間くらい。
 顔を上げて安全を確認した北斗は、君の手を引いて立ち上がらせる。
「行こう。……絶対に安全とはいえないが、政府の施設の奥に脱出装置がある。君をそこへ連れて行く」
 海底ドーム建設時の法律により、一度でも地上に出た者は感染症を持ち込まないため、二度と海底ドームに立ち入れない。つまり、脱出装置を使えば地上へ逃げることは可能だが、帰って来られなくなる。それに。
「脱出装置って……確かそんなに数はないはずよね?」
 君は空調システムの設計者として、ドームの設計図の一部を見たことがあった。脱出装置が幾つかあることも知っている。その数は、ドーム内の都市の人口に比べて絶望的に少ないだろうということも推測できた。
 ――北斗は私に、この都市に住む人々を見捨てろと言うの?
 それはあまりに残酷で、君は胸が苦しくなる。自分も他の皆と同じように避難所にいると言いたかった。それが平等というものだ。そう思ったとき、お腹の中から微かな衝撃が伝わってきた。胎児がお腹の中で動いているのだ。君は腹部に触れて息を呑む。都市の他の市民を出し抜くようにして脱出するなんて卑怯な行為だ。でも、自分の生命はともかくお腹のこの子だけはどうしても守りたい。生き延びさせてやりたい。
 君は罪悪感に打ちひしがれながらも、北斗とともにアパートを出る。途中、避難所へ向かう人々とすれ違った。皆、何万トンという海水を頭上に載せて生きている。その恐怖に、閉塞感に、誰しも顔が強張っている。
 不意にドォンという重低音とともに地面が揺れる。海底地震に似た衝撃が走った。道を行く人々は、その揺れで立っていられず地面にしゃがみこむ。歩道に膝をついた君は震えながら頭上を見上げた。ギギギギと低く軋(きし)むような音とともに、頭上のドームに蜘蛛の巣のようなヒビが広がっていく。
 太陽代わりの人工照明が不規則に明滅する。照明が完全に落ちてしまえば、辺りは『夜』の時間帯どころではない暗闇に包まれるだろう。このまま脱出装置にはたどり着けないかもしれない。お腹の子を守れないかも。恐怖に息が詰まって、君は北斗に手を伸ばした。伸ばした君の手を、北斗が掴む。その力の強さ、手の熱さに君ははっとさせられる。顔を上げて見れば、彼の目はまだ諦めていなかった。北斗はほとんど君を引きずるようにして立たせ、走りだす。混乱して思い思いの方向に向いだした人々の間を、時にすり抜けるように、時にぶつかりながらも走っていく。君は呆然としながら、後を付いていくしかない。
 走る最中にふとデパートのショーウィンドウに飾られた広告が目に留まる。花に留まる蝶の線画をあしらったシックな瓶のオーデコロン。いつかの誕生日に、彼がくれたものを思い出す。香水瓶の後ろには線画のモデルらしき蝶の画像。その繊細な青い羽根が目に焼きつく――。

 次第に明るくなっていく砂浜で飛び交う蝶たちを、君は眺めている。そうして、捨ててきたもののことを考える。北斗が贈ってくれた香水。祝えなかった彼の昇進。その他の多くのもの。
 日常のすべてから突然、切り離されて君は真昼の砂浜にいる。蝶が飛び交う美しい砂浜に。
 水底から浮かび上がる泡のように、君の意識の奥底から『胡蝶の夢』という言葉が浮上してくる。その古代の有名な故事を君は聞いたことがあった。荘子がうたた寝をして蝶になった夢を見たが、目が覚めると自分自身だった。荘子は、自分が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が自分になった夢を見ているのか、区別ができなかったという。
 君にその話をしたのは北斗だった。頭上にいただく海水の重さで崩壊しようとしている海底ドーム都市の中で。

 もはや、誰も、どこにも逃げ道はない。
「これが夢ならいいのにな。胡蝶の夢の故事のように、俺は地上の森にいる蝶で、海底で死んでいくのは蝶が見た悪夢だったらいいのに」
 絶望してそう呟く北斗の手に触れて、君は首を横に振る。熱かったはずの指先は、絶望に冷えていた。
「北斗が蝶なら、海底に住む私とは出会うことができなかったでしょう? あなたは私の憧れ――星のようなもの。出会わなければ、今の私があったかどうか」
 北斗は泣きだしそうに顔を歪めて、君を抱きしめた。リンゴに似た爽やかな香水の匂いが嗅覚に触れる。彼は身を離してふたたび君の手を取った。海底ドームの一角にある緊急脱出スポットに入っていく。
「これに乗って脱出するんだ」
 使えそうな救命艇は一艘しかなかった。残りの幾つかは、扉が開かなかったり、地震の衝撃で故障していたりした。北斗は有無を言わせず、君を救命艇に押し込んだ。
「どうか無事に逃げてくれ」
「待って! 北斗も別の救命艇で脱出するのよね……?」
「俺は行けないよ。持ち場に戻って自分の仕事をしないと。君に会いに戻る時間をもらえただけでも感謝だな」
「そんな……! この子にはあなたが必要なのに!」
 北斗は困ったように笑って、身を乗り出した。短いキスをして離れていく。
「ごめん。どうしても君と子どもに生きてほしいというのは、俺のわがままだ。許してほしい」
 君に有無を言わせぬまま、北斗は扉を閉ざす。次の瞬間、救命艇が射出された。君は小さな窓に縋りついて、ドーム都市を見つめる。聞こえないとは知りながら、何度も北斗の名を呼んだ。けれど。不意にドームと地底が大きく揺れ出す。真っ暗な海底が裂けて赤いマグマが流れ出すのが見えた。高温のマグマは海水に冷やされながらなおも赤く熱を帯びたまま、ドームへ向かっていく。間もなくドーム都市の明かりがちらちらと明滅して消えた。
 海底地震の衝撃で、救命艇は遠くへ流されてしまう。絶望にうなだれて君はひとり涙を流した。けれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。愛する人に生き延びろと言われたのだから。君は救命艇を操作して、進行方向を海上に設定する。たとえ海上に出たところで、真水の湧く陸地に上がらなければ生き残る道はない。それでも、足掻いてみるつもりだった。
 救命艇は浮上しつづける。しばらくの間、君は眠っていたようだった。救命艇内に鳴り響くアラームで、目が覚める。コンソールを確認すると、海面まであと十五分のところまで上昇しているようだ。しかし、急浮上による急な気圧の変化と、海底地震の余波の衝撃による損傷とでそろそろ艇が保たないらしい。ギギギと不穏な物音が聞こえてくる。
 どうにか陸地まで保ってくれますように。君は不安と緊張で息を詰める。永遠のような時間の後に、祈りが通じたのか救命艇は海上へ出たようだった。救命艇は海面に出た圧力で壊れたようで、アラートとともにバチリと音を立ててコンソールの明かりが消える。
 このまま救命艇にいても、波に飲まれて沈んでしまうかもしれない。
 君は救命艇を放棄することを決意する。備え付けのウェットスーツを身に着け、酸素ボンベを背負った。両手に収まるサイズの水中スクーターを持って救命艇の扉を開けると、耳や頭部にズキンと疼くような痛みを覚えた。救命艇から外へ出ることで急激な圧力の変化にさらされたからだろう。本来なら救命艇の内部の気圧が保たれているはずが、故障したことで変化が生じてしまったらしい。
 お腹の子が心配だが、今は確認する術がない。扉から顔を出して周囲を見渡すと、夜明け前の空が見えた。空にまたたく本物の星――その中に、図鑑で見慣れた形を見つけて君は息を呑む。点々と並ぶ北斗七星の姿だ。その星から視線を下げていくと、かなり近い場所に陸地が見えた。砂浜の後ろには森が広がっている。
 ――北斗が見守ってくれているんだわ。
 君は背中を押された心地で、海へ泳ぎ出した。波に揉まれながら、それでも少しずつ陸地へ近づいていく。やがて浅瀬に入ったようだった。島から二十メートルほどのところで、海底に足が届くようになった。君は砂浜へ向かって歩きながら、残り少ない酸素ボンベを捨てた。頭痛は相変わらず続いている。耳の辺りもズキズキと痛い。目眩(めまい)による吐き気を誤魔化すように大きく息を吸いこんで――そこで気づく。
 上手く呼吸ができない。深呼吸をしても、肺が上手く空気を取りこまないのだ。
 君は溺れる。大気の中で、胸いっぱいに空気を吸い込んで溺れる。高圧の海中から急浮上したことで、身体が高気圧障害を起こしてしまったのだ。君は窒息し、苦しみ、悶えながら波打ち際に倒れ込む。自然にあふれた島の美しい砂浜で喀血(かっけつ)し、砂を引っかいて苦悶の痕を刻んだ。君の身体から、急速に生命が失われていく。母体である君がこの有様では、お腹の子の生存は絶望的だろうか。もはや胎動は感じられなくなっていた。
 もがく力さえなく、君は砂浜に横たわって明るくなっていく空を見上げる。涙が頬を滑り落ちていく。走馬燈のように、過去の様々な記憶が脳裏を流れていった。ここには北斗がいない。青白く発光しながら泳ぐ海中の『星』たちも。北斗七星さえも、空が明るくなってきて見えなくなってしまった。
 君は、君の星を失ったことを悟る。
 そのときだ。ふと唇に軽い感触を覚えた。恋人からの、挨拶のキスに似た柔らかさ。薄く目を開ければ、黒地に青く輝く紋様の羽根を閃かせて一匹の蝶が君の上を飛んでいる。そういえば、蝶の中には人の汗や涙を吸うものがいるのだったと思い出す。
 それとも、あれは北斗の魂を運んでいる蝶だろうか。
 ――私とこの子も、あなたとともに。
 声を発することはできず、君は心の中で語りかけてふたたび瞳を閉ざす。波の音が子守歌のように意識を満たし、潮の香りが君を包み込む。君の意識はゆっくりと闇に溶けていった。