「不幸を拒否した詩人・エリュアール―大島博光による評伝にふれて」服部伸六

●はじめに(岡和田晃)

 服部伸六採録企画の第三回は、「詩学」1989年9月号に掲載されたエリュアール伝についての書評です。大島博光(1910~2006)はその後、『アラゴン』(1990)を同じ新日本新書から刊行しているのですが、自分のエリュアール伝の新規性に触れたこの書評には、勇気づけられる部分もあったのではないかと推察します。エリュアールの言う「自由(リベルテ)」は、詩の社会性を扱う際にも頻繁に取り上げられる概念ですが、そちらをきちんと解きほぐしているのが重要ですね。ちなみに、この号の「詩学」には中村稔、福井桂子、長谷川龍生といった寄稿者がいました。

不幸を拒否した詩人・エリュアール
     ——大島博光による評伝にふれて——       服部伸六

 大島博光は一九一〇年の生れだから、一九九〇年には八十歳になる筈だ。まだ、元気で、昨年の暮れには「エリュアール」(新日本新書)を出した。詩人エリュアールについては、すでに多くの書物が出ているので、今更らという向きもあるかも知れぬが、大島の本は、ほかの誰にも書けない視点があるので、のちのちのために一筆書いておかねば、と私は考える。

 《自由》というレジスタンス期のエリュアールの詩くらい、敗戦後の日本で愛誦された外国の詩はないだろう。敗戦後の十年あまりを故郷の市で過していた当時、この日本訳の詩が同人詩人のサークルで朗誦されるのをしばしば聞いたものである。だが、その訳は誰の手になるものだったのか、私はしかと記憶していないが、たぶん大島のそれもあったに違いない。

    小学生の ノートのうえに
    机のうえに 樹の幹に
    砂のうえ 雪のうえに
    わたしは書く きみの名を

 で始る有名なこの詩は、若い詩人たちの震える声で歌われていた。ところが、私は、フランス文学を専攻したはずのこの私は、それが「自由」という抽象概念に向けて歌われていたものだと思っていたのだ。無知も甚しい。大島によると、ドイツ軍の占領下で「絶望、屈服、卑屈さが生まれ、自由は奪われ、失なわれていた。その自由という言葉が、エリュアールのこの詩によってふたたび生きいきとした内実(2字傍点)をもって、人びとに呼びかけた」エリュアールの叫びだったという。私は「内実」という語に傍点をつけたが、それはその内実とは、詩人の内心にあった妻ニューシュへの愛だったことを知らされて驚いたからである。この「内実」を大島はエリュアール自身の書き残したものから、この詩が妻ニューシュにささげられることを証し出している。そうすると「樹の幹」や「机」という語が生きいきとして来るのだ。樹の幹にハートにささるキューピッドの矢の絵を刻み、その傍に恋人の名と自分の名を刻みつけているペイネの優しいデッサンを誰でも覚えているはずである。
 そんな誰でも覚えている少年時の記憶にエリュアールは「自由」を重ねたのだ。するとレジスタンス期のフランスの若ものの想像力に力強く「自由」が刻みこまれることになる。だが、ここで忘れてならぬことがある。自由とはフランス語では「リベルテ」である。すなわち、日本語の自由気ままという言い廻しにあるノンシャランスではなく、それは束縛から解き放たれたいという「解放」という力づよい言葉だ。日本人はリベルテを翻訳するとき、このニュアンスをすっかり捨ててしまった。だから、過去の旧習から脱する代りに、過去をよみがえらせようという自由が存在することを許すことになったのである。

 《女性》エリュアールの生涯には、三人の女性が登場する。最初の妻でロシアの金持ちの娘のガラ、それに若死をするニューシュと、彼の最後をみとるドミニック。
 「自由」の詩人がスイスの療養所で結ばれた女性ガラは「ぼくの顔は 愛されるためにある ぼくの顔は 幸福になるためにある」と歌われたガラだったが、シュールレアリスムの女神となって、ちやほやされるころになると、持ち前の性格が出て来て、大島が「むしろ彼女は抜け目のない打算家だったらしい」と書く女に変身していて、男遍歴の末スペインの変な画家ダリへと入れ挙げることになる。ニューヨークへ行ってから、ダリを押し出してカネもうけに専心させるのは彼女である。
 二番目のニューシュはピカソのデッサンに見られる線の細い女性だが、エリュアールにとってはシュールレアリスムと当時のヨーロッパの現実との間に挟まれた苦悩から脱け出すための脱出口の役目を果したらしい。「ぼくは驚嘆する 未知の女となったきみに きみに似た ぼくの愛する者に似た未知の女に  彼女はつねに新鮮だ」つまり、「未知の女」とは、エリュアールにとって情熱を捧げるに足るもので、それがニューシュを通して民衆への道を用意するものであったことを大島はさり気なく暗示する。最後のドミニックは戦後十年にも足らない詩人の生存期間の中の、ただ三年間の道づれだった。彼女の南仏の故郷の近くのペリゴールに「貧乏人の城」という小作地があった。そこで詩人夫妻は毎夏をすごしたが、そこで生れたのが詩集「貧乏人の城」だった。これが詩人の最後の詩集となった。「十字架が太陽を隠していた」という句がある。宗教によって目隠しされた民衆の姿を明らかに暴いているのである。そして、このような擬制はエリュアールの国だけではなく、世界のどこでも通用していることを端しなくも言い当てている。
 ドミニックによって詩人は孤独から解放される。「人間は生れついている 互いに共鳴するように 互に理解し合うように 愛し合うように」と歌われている詩集「フェニックス」は、前世紀のボードレエルの男からする身勝手な愛ではなく、「互いに」という連帯から生れる愛であることで前世紀の世界観との際だった差異を示している。エリュアールによって進歩への一歩が踏み出されたとすれば、このことの他にはないだろう。

 《善意》エリュアールの詩が生気を得ているのは善意への信仰、別の言葉でいえば、正義の存在への信念の故である。
 だが、このような信念は、シュールレアリスムの洗礼を受けたこの詩人のうちで、どのようにして培われたのだろうか。一九二四年に出版された「死なないために死なう」というシュールレアリスムの時代の詩集には、青春の血の滾る若者の苦悩が渦巻いている。

 「絶望には 翼がない
  愛にもまた 翼がなく
  顔もなく
  語りかけない……」

 出口のない袋小路に追いつめられた姿が浮んでくる。その故だったのだろう。この詩集が刷り上る前日、エリュアールは父親あてに速達便を出したのち、汽車に飛び乗ってマルセイユへ行き、そこから世界周遊の旅に出てしまう。だが、それは周遊というような暢気なものではなく、「すべてを単純化するためぼくの最後の(3字傍点)本をアンドレ・ブルトンに捧げる」というこの詩集の献辞にも分るように、まるで自殺の予告のようなものがある。
 この失踪の旅についてエリュアールは後年「奇妙な旅」とだけ言って一切沈黙したという。「彼の作品にも、旅のイメージはほとんど反映されていないのである」と、大島は書いている。
 これは私の推測であるが、晩年の「善意」への信仰は、この絶望の裏返しではなかったのかということだ。絶望と孤独とを克服する自分との闘いのあとで、光あふるる善意の大道を発見したのだと私は思う。「しかもぼくは きみたちをよろこばせようと語りかける自分に驚く」(「詩は実践的な真理を目的としなければならない」)彼がフランス・コンミュニスト党を選んだのは、そのためだったのであろう。
 この稿を書きながら私は今、ガールスヴィンの音楽を聞いている。この音楽家はサティと共に古典音楽とモダン音楽の国境を取り払ったといわれる人だ。エリュアールもボードレエルの戦慄を新しい戦慄に取り代えた詩人だったのである、と私は納得する。そして、このことを教えてくれたのが大島博光だった。

註:末尾の「ガールスヴィン」は「ガーシュイン」のことだと思われる。(大和田始)