最先端の問題をかかえた女性の、ひとつの「回答」
(『女わざ 東北にいきづく手わざ覚書』(森田珪子著・新泉社・2018年)に対する書評記事)
宮野由梨香
著者の森田珪子さんは、1933年生まれとのことである。
たぶん、ごくお若いときに、当時の「最先端の問題」をかかえこみ、そこから目をそらさずに生きていらした方なのではないかと思う。
「最先端の問題」をかかえこむことは、様々な難事を呼び寄せる。
「女わざ」という言葉ひとつを使うにも、相当の熟考と覚悟を必要としただろう。
50年たって、問題はようやくわかりやすくなってきている。
育児支援を充実させれば、少子化は止まるのか?
罰則を強化すれば、痴漢・セクハラはなくなるのか?
本書の著者は、もう50年も前に、これらの質問の答えが「NO」であることを知っていた。
そして、「では、どうすればいいのか?」を考え続け、ひとつの「回答」を自らの活動によって示したのだ。
「男女平等の教育」とは、「女も、男と同じように教育すること」であって、その逆ではなかった。それを是とする社会で育つ女性にとって、自分の身体は「賞味期限つきの商品」である。それは決して「自分」ではないのだ。かくて、自分の身体からの声さえ聞き取ることのできない人間ができあがる。
著者は、そういった状況に対して、声高に叫んだりはしていない。彼女はただ、自らの生きる姿勢を示すだけだ。
彼女は、声なきものの声を聴こうとする。
それらを生かしながら、自らも生きる道を模索している。
彼女はずっとそうやって生きてきたし、これからもそうしていくのだと思う。
その人生に対する姿勢そのものの美しさが結晶したかのような本だ。
本書のページを繰るうちに、「那一点(ないってん)」という言葉が私の頭に浮かんできた。「永遠を内包する、絶対の現在」というような意味だ。花芸安達流においては「巨大な時空の中で、生命が輝き 燃え上がった瞬間を、手のひらにのるほどの作品に凝集させたもの」というような意味で用いられる。
本書は137憶年の宇宙の歴史の蓄積の中にきらめく「那一点」だと、私は感じた。
私が、この本の著者のことを知ったのは、1994年のころである。
当時、私は『海のトリトン』に関する論考を仕上げるために、小説家の光瀬龍氏のご指導を受けていた。
光瀬氏はおっしゃった。
「あの戦争で、『父さんや爺ちゃんの言っていたことは嘘だった。母さんや婆ちゃんが守ってきたものだけが本当だった』ってことになってしまったからさぁ、だから、戦後、男はダメになったんだよ」
私は、なぐさめるつもりで次のようなことを口走った。
「でも、その後、高度経済成長で、その母さんや婆ちゃんが守ってきたものまで奪われていきましたから、ダメになったのは女も同じですよ」
当時、30代だった私の言い方を、小賢しくシニカルなものに感じたのだろう。
光瀬氏は「森田珪子さんの活動」について、私に話し始めた。 いかに彼女が「ダメにならない」ための努力をしているかを、語ってくれた。
「簡単なことじゃないんだよ。いくら彼女が『これは、すぐれたものです。素晴らしいんです』って言っても、『ボロつづりなんて』って、貧しさのあらわれのようにしか見ない人には、話が通じないんだよ。だから、苦労している。本当に苦労して、でも、やり続けているんだよ。そういう人もいてね。だから……」
かつて同じ職場に勤めていた彼女のことを、光瀬氏はとても尊敬しているようだった。
本屋でこの本を見かけて手にとったのは、この時のことを思い出したからでもある。
本書は、近代化や高度経済成長によって失われようとしている生活技術の保存や再実践のための本ではない。むしろ、新しい生き方を模索して未来を拓くための本だ。
それでいて、全篇が強い鎮魂の情念に満ちているのは、亡き夫への思いとともに、彼女が「声を聴きながら、生かしきれなかったものたち」への哀悼がこめられているからだろう。
赤と黒の表紙は、生も死もお互いに縁どられていることを象徴的に示しているのかもしれない。