「チュティマの蝶(中編版)1/4」伊野隆之

*本作は、2018年7月20日にSF Prologue Waveに掲載されたショートショート「チュティマの蝶」に大幅に加筆したものです。

 リバーサイドのホテルのテラスで、チュティマ=ウィッタラパヤットは、クライアントのティラポン=サドックヤーンを待っていた。時刻は午後五時を過ぎたところで、夕陽を見るにはまだ早かったが、川に近い席は埋まっていた。
 周囲のテーブルにはフルーツで飾られたカクテルや、ワイングラスが並び、ファラン(西洋人)の観光客たちが思い思いにくつろいでいる。そんな中、グレーのビジネススーツに身を包み、ろくに化粧もしていないチュティマは悲しいくらいに場違いだった。
「準備は順調ですか?」
 彼女に声をかけたのは、ティラポン本人ではなく、秘書のナライだった。真っ白な髪をしたナライは、もう七十を過ぎているはずなのに姿勢が良く、椅子に座ったままのチュティマは、ずいぶん上から見下ろされているような気がした。
「ティラポンさんは見えないのですか?」
 ナライは、立ち上がろうとしたチュティマを制して、向かいの席に腰を下ろした。後についてきたウエイターに、一言声をかけてから、チュティマに答える。
「申し訳ございません。ティラポン様は来られなくなりました」
 そんなことになるのではないかと思っていた。きっと明日の準備で忙しいのだろう。
「そうですか」
 わざわざこんなところに呼び出しておきながら、この対応だ。
「お忙しいところ恐縮です」
 慇懃(いんぎん)に謝ってみせるのは、チュティマの顔に不満そうな表情が出てしまったからだろう。
「セッティングはほとんど終わっています。心配があるとすれば、明日の天候ですね」
 ナライの前に水の入ったグラスが置かれた。長居をするつもりはないということだろう。チュティマの前のフレーバーティーはもうぬるくなっている。目が飛び出るほど高いお茶も冷めてしまっては台無しだったが、ここでの費用は全てクライアント持ちだし、そもそもホテル自体がクライアント一族の持ち物なのだ。
「今は乾期ですよ。それに、お坊ちゃまのご結婚式です。晴れない理由はありません」
 まだ三十代のティラポンは、ナライから見ればお坊ちゃまなのだろう。ティラポンの祖父に長く仕え、祖父が企業グループの経営から引退した以降は、半ば後見人のような形でティラポンの秘書として働くようになったと聞いている。
「そうですね。期待しています」
 チュティマはチャオプラヤ川の水面に目を向けた。水かさを増した川は茶色に濁り、手を伸ばせば手が届くほどに近い。上流では季節外れの雨が降っている。
「取材の申し込みがまたありました。チャペルから出るところを撮影したいのだそうです」
 良いニュースでもあり、悪いニュースでもある。蝶のプロモーションのためにはメディアの露出が多い方が良いが、不注意なクルーが歩き回り、配線をダメにしてしまう可能性があった。蝶を起動するための配線が、植え込みの中を何本も走っており、踏まれると断線してしまう可能性があった。
「立ち入り制限を徹底していただけますか?」
 メディア対応はクライアント側の責任だったが、どこまでやってくれるだろうか。
「できることはしますが、ああいう人たちですから」
 ティラポンはタイ有数の資産家であるサドックヤーン一族の御曹司で、一族が所有する企業グループの将来の総帥に目されている。しかも、その妻になるのは去年ヒットした映画のヒロインを務めたダーオとなれば、メディアの注目を集めるのは当然だった。
「きっちり対応してください。単に式を盛り上げるだけじゃないんです」
 ティラポン=サドックヤーンは投資ファンドのオーナーでもあった。伝統的なグループ企業は、まだ親の世代が仕切っていたが、自身の名前を冠したファンドを任されたティラポンは、エンターテイメント分野で成功を収めていた。
「わかっています。あなたの会社の将来がかかっている。そうじゃありませんか?」
 したり顔で言うナライに、チュティマは少しがっかりする。
「そうおっしゃるのなら、七百万バーツの資金もです」
 チュラポンのファンドはチュティマの会社に出資している。ファンドの規模からすれば微々たる額に過ぎないが、お金の話であればナライにも理解できるだろう。
「そうですね。ちゃんとリターンを上げていただかなければなりません」
 チュティマは改めてティーポットからお茶を注ぎ、口をつけた。ぬるくなったお茶が妙に苦く感じたのは、抽出しすぎたからだけではない。明日の蝶の演出にはもっと大きなことがかかっている。会社の将来や、七百万バーツがどうなるかだけではなく、もっと大きなこと。そのことをナライは想像もできないのだ。
「大丈夫です。必ず評判になります。そうすれば、出資分は十分に元が取れます」
 チュティマは、ティラポンとの会話も似たようなものだったことを思い出している。結局のところ、人の想像力には固有の限界があるし、評価の尺度も人それぞれだ。
「メディアには改めて伝えておきます。お坊ちゃまも楽しみにしておられますから、不手際がないよう、お願いしますよ」
 立ち上がったナライに向かい、ウエイターが顔の前で両手を合わせた。高位の者に対するタイ式の挨拶(ワイ)だった。

 あの日、実験が終わったのは深夜だった。忙しいことで有名な先端工学部でも、こんなに遅い時間まで大学に残っている学生はいない。パソコン上でのシミュレーションでは構築できたナノサイズのベアリング構造を、液相中で構築する実験で、実験液の調製に思いの外、時間をとられてしまった。翌日からタイ正月(ソンクラーン)の休みに入るため、作成したサンプルを固相定着しなければならない。休み明けに電子顕微鏡で調べられる状態まで準備しておかなければならなかったのだ。
 普段の四月とは違い、雨が多かった。排水の悪い大学の敷地内は広く冠水しており、寮に帰るために踝(くるぶし)ほどの深さの水の中を歩かなければならなかった事を覚えている。
 いつもなら静まりかえっている深夜の寮がざわついていた。寮生が何人も廊下に出ていて、中には泣いている者もいる。
「なにかあったの?」
 チュティマが声をかけたのは、廊下に出ていたプーイだった。チュティマと同じ北タイの出身で、同じように奨学金で学んでいる。
「知らないの?」
 そう言ったプーイは、チュティマに手にしたスマートフォンを差し出す。
「あなたの村は大丈夫なの?」
 文字を追ううちに、渡されたスマートフォンを落としそうになった。画面のニュース速報は、チャオプラヤ川の支流の一つに作られたラムタバンダムの崩壊を知らせていた。
「……ラムタバンダムって」
 聞き覚えがあるだけではなかった。小さな頃、学校の遠足で行った記憶があった。チュティマが生まれた村は、そのダムの下流七キロほどの位置にある。

翌日、チュティマはチェンマイ行きの高速鉄道に乗っていた。バンコクのフアランポーン駅からは四時間ほど。いつもの年と同じように、チェンマイ行きの高速鉄道は、ソンクラーンの帰省客で混み合っていた。
 そこから先はバスに乗り換えた。いつもなら混み合っているはずのバスが、乗客が集まらず出発が遅れた。雨は小降りになっていたものの道の状態は悪く、バスの進行はうんざりするほど遅かった。
「どこまで行くんだ?」
 乗客が数えるほどになった時、運転手が目的地を聞いてきた。チュティマは、バス路線の終点に近い自分の村の名を告げた。
「ルートが少し変わってね。バス停がなくなっちまったよ」
 結局、チュティマが下ろされたのは、村まで二キロほどの距離に設けられた仮設のバス停だった。村の中のバス停は、土砂崩れによって使えなくなっていたのだ。
 バスを降りたチュティマは、雨上がりの道を一人で歩いた。村へと続く道路はところどころで路肩が崩れており、何人もの兵士を乗せた軍用トラックがスタックしていた。
「この先、どうなってるんですか?」
 兵士の一人に声をかけた。
「まだ危険だ。近づかない方がいい」
 チュティマが声をかけた兵士ではなく、年かさの兵士が答えた。
「でも、祖父母が住んでいるんです」
 そう告げたとたんに、年かさの兵士の表情が曇ったことを覚えている。
「軍が設営した連絡所に行きなさい。無事が確認されているなら、避難している場所がわかるようになっているはずだ。すぐに会えなくても、気を落とさないようにな」
 村に入ると道は冠水しており、泥水の中を歩く羽目になった。ぬかるんだ道を、強い日差しと猛烈な湿気に悩まされながらたどり着いたのは、彼女が学んだ学校のあった場所だ。
 川沿いにあった学校の校舎は濁流に押し流されていた。建屋は跡形もなく、上流から流されてきた流木やゴミが、建物を支えていた柱に引っかかっている。
 水田の稲は泥にまみれて倒れていた。腹の膨れ上がった水死した牛が、昼間の熱気の中で腐臭を放ち始めている。村では行方不明者の捜索が続いており、髪を短く刈り上げた若い兵士たちが、スコップを持って右往左往していた。
 チュティマは、彼女が育った家を目指して学校から川沿いに下る。家があったはずのところには、泥と瓦礫と上流から押し流されてきた木や廃材……。
 彼女の記憶は、そこでいったん途切れている。後で聞いた話では、チュティマはそこでへたり込んでしまったようだった。
 チュティマは、小高い丘の上の連絡所に運ばれ、看護兵の手当を受けた。連絡所にいるのは兵士ばかりで、知った顔はない。
 あの年は季節風の吹き出しが早く、普通なら雨の降らない四月に雨が多かった。例年よりもアンダマン海の海水温が高く、大量の水蒸気を含んだ雲が次々に南西からの季節風に運ばれ、タイ北部に多量の降雨をもたらしたのだ。ラムタバンダムの貯水量は上限に達していたし、雨で川の水位も高かった。洪水を警戒し、放水の判断が遅れたのだろう。警戒が呼びかけられることもなく、老朽化したダムが崩壊したのは夜十時をすぎた頃だった。
 寝静まっていた村は土砂を大量に含んだ濁流に一気に押し流された。
 丸一日たっても、具体的な被害状況はわかっていない。軍が出動し、被災者の救援に当たっているものの、被害の全体像の把握すらできていなかった。
 連絡所で休んでいたチュティマは、看護兵に、そんな話を聞かされた。
「生存者は見つかっていないんですか?」
 若い看護兵は無言だった。
 誰もが薄汚れ、疲れた顔をしていた。それだけははっきりと記憶している。

 故郷の村から、さほど時間をおかずにバンコクに戻ったのは、居場所がなかったからだけではない。変わり果てた故郷の現実を見ることに耐えられなかったからだ。かといって、大学に戻っても研究には手が着かない。何かがチュティマの中から抜け落ちてしまったかのような気分だった。
「大丈夫?」
 チュティマの部屋にケーキを持ったプーイが訪ねて来ていた。フルーツでデコレートされたケーキは、屋台で食べるヌードルの何食分の値段だろう。奨学金をもらっている立場では、気軽に手を出せるものではない。
「……ええ、大丈夫」
 そう答えたものの、チュティマの声には力がなかった。テレビは連日被害状況を報道しており、誰もがチュティマの故郷の状況を知っている。ダムの下流にあったいくつもの集落が壊滅し、確認された死者は百人を越え、それ以上の行方不明者がいる。
「百年に一度の大雨だって」
 いろいろなことが言われていた。ダム自体の老朽化や、設計上の問題、メンテナンスの予算不足、もちろん、適切に警報を出せなかった運営管理上の問題も大きい。それでも、最後に行き着くのは想定外の降雨量ということになる。
「おじいちゃんと、おばあちゃん、早く見つかるといいね」
 プーイの目には涙が浮いていた。もはや生存が期待できる状況ではない。回収された遺体も損傷がひどく、DNA鑑定の結果が待たれていた。
 祖父母だけではない。村に残っていた友達も、チュティマに大学進学を勧めた先生や、奨学金獲得のため何度もバンコクまで足を運んでくれた校長先生、進学が決まったときに、勉強に専念できるようにと村中から寄付を集めてくれた村長さんも見つかっていない。
 チュティマは村の希望だった。いい農地が少なく、村は貧しい。大学に進学する者はほとんどいない地域だった。中学生の時、先生の薦めで参加した学力コンテストの科学部門で県一番の成績を取って以来、村全体がチュティマを応援してくれていたのだ。
 だからチュティマは故郷の人々に大きな借りがある。でも、その借りはもう返せない。
 いつかは村のために働きたい。そんなチュティマの希望もまた、ダムを壊した濁流に押し流されてしまっていた。
 プーイが帰った後、チュティマはウィラシット教授のメッセージに気づく。チュティマを気遣いながら、明日、研究室に来るかどうかを確認するものだった。
 チュティマはあわてて返事を送る。指導教官のウィラシット教授には、これまでもずいぶん世話になっていた。これ以上、心配をかけるわけにはいかない。

 式の当日、天気予報通りにバンコクは晴天だった。透けるような空を見上げ、チュティマはひとまず安堵するのと同時に、苦々しい思いを覚えた。お金があれば天候ですら思い通りにできるとでも言うような、昨日のナライの物言いを思い出したのである。
 チュティマは蝶の準備状況を改めて確認していた。昨日の夜も遅くまで作業し、完璧に仕上げたつもりでいても、朝の陽の中では不十分なところが目についた。本当なら、チュティマの蝶は植え込みの中に目立たないように隠しておかなければいけない。
 羽根を開いたときに十分な陽光が当たり、かつ、チャペルの前を行き来する人々の視線からは隠されている必要があった。もっとも、他に見るべきものがある以上、ホテルのセキュリティスタッフの他に、誰も植え込みの中を気にしたりしないだろう。
 臨時雇いのスタッフの仕事にはむらがあった。たるんだ配線が植え込みの中でぶら下がっており、チュティマは黒いテープを使い、配線を椰子の幹に貼り付ける。
 結局、最後はチュティマ自身がやらなければならないのだった。会社は立ち上げたばかりで、信頼できるスタッフは足りていない。
 植え込みの奥まったところに小さな東家(サーラー)があり、蝶の操作をするために、チュティマが使うことになっていた。配線を確認していたチュティマは、立ち入りを制限しているはずのそこに人影を見つける。
「誰なの?」
「ああ、僕だよ」
 柱の陰から林明幹(Lin MingGan)の顔がのぞく。蝶の共同開発者で、チュティマのビジネスを一緒に立ち上げたパートナーでもあり、今は蝶の製造を担当していた。
「わざわざ来なくても良かったのに」
 林は、いつもは工場のある中国の杭州にいる。バンコクに来るとは聞いていなかった。
「元気そうで良かった。君のことだから働き過ぎてるんじゃないかと思ってね。それに、僕もあれだけの数の蝶が飛ぶところを見てみたい」
 今回使う蝶の数は二万。今までで最も数が多い。そのため、チュティマ自身も蝶が飛ぶ様子をイメージできているわけではなかった。
「この程度じゃ、まだ足りないわ」
 繰り返す悲劇を止めるためには、もっと多くの蝶を空に放たなければならない。
「今日は、そのためのプロモーションだろ。いい絵を撮らないとな」
 左手に持ったタブレットをかざした林は、二年前に出会った時と変わらない。
「そうね。自前の絵の方が良いわね」
 蝶のPRには自前の映像の方が使い勝手がいい。実際、チュティマは自分で撮影するつもりでいたが、林が撮影してくれるならその方が良かった。
「任せてくれていいよ」
「お願いするわ」
 チュティマと林の境遇は似通っている。二人とも祖父母に育てられ、災害で祖父母を失っている。そんな二人が、留学先で出会ったのは、必ずしも偶然とは言い切れない。二人が出会った年は、極端な気象災害が多かった。
 二人の祖父母を奪ったモンスーンアジアの豪雨、北米やオーストラリアを襲った干魃(かんばつ)と森林火災、欧州の異常な寒波。南太平洋の島々は高潮によって壊滅的被害を受けている。気象災害による直接の被害者だけでも一万人近い死者を数えた年だった。
「バッチリ撮影させてもらうよ」
 屈託のない笑みを浮かべて林は言った。でも、チュティマは知っている。林をつき動かしているものは、チュティマと同じ静かな怒りだ。

(続く)