「チュティマの蝶(中編版)2/4」伊野隆之

「今回のことは……、どう言えばいいのか」
 チュティマは指導教官のウィラシット=ウイッタヤポーンの研究室を訪ねていた。大きなデスクは整然と片づけられ、余計なものは何一つない。壁の棚には優れた研究成果に対して与えられる楯やトロフィーが並んでいた。
「ご心配をおかけしました」
 教授はデスクの前に置かれた椅子に座るよう、手振りで促した。
「アチャラー先生も、まだ見つかっていないようだね」
 ウィラシット教授が言ったのは、チュティマが通っていた高校の校長先生である。バンコクに来た際にチュティマの元を訪れ、ウィラシット教授とも言葉を交わしたことがあった。災害から一週間、チュティマの祖父母を始め、多くの人がまだ見つかっていない。
「村の家は、ほとんどが川沿いに建っていたんです。それがみんな土石流に流されて」
 ラムタバンダムの貯水量は、二十億立方メートル程度で、特別に大きいものではなかった。それでも、ダムの崩壊に伴って一気に流れ出した水は周囲の山を削り、谷を埋め、地形を変えた。本流であるチャオプラヤ川の水位も急上昇し、一部では洪水も起きている。
「今、国内のダムの一斉点検をしているところだそうだよ。いくつかのダムでは、緊急放水も始まっているらしい」
 ダムの施工上の問題や老朽化、管理の杜撰さを指摘する声は、降雨の異常さがはっきりするにつれ、下火になっていた。一時間当たりの降雨量は、観測史上最大級。そんな雨が夜通し続いた。テレビでは気象学者が声を揃えて地球の温暖化が原因だといっていた。
「やっぱり、温暖化が原因なんですね」
 死者・行方不明者は四百人を越え、大きな地震のないこの国では、史上最悪の災害の一つに数えられる。
「そういうことになるな。地球温暖化が指摘されたのはもう四十年近く前になる。その意味では避けられたはずの災害だよ」
温暖化によって予想される異常気象への対策もできたはずだ。
「そうですね」
 ダムの崩壊を回避する手段はあったはずだ。いくつもの事象が連鎖的に発生し、災害に繋がったのだったら、どこかでその鎖を切ることで災害は防げる。
「残念ながら科学的には自明のことでも、必ずしも政治家は行動しない。問題は知られていても、優先度が低いと判断されれば、対策は先送りになる。そういうことだ」
 ウィラシット教授は大きく息を吐いた。教授は、学生たちに優れた研究は世界を変えると教えている。その言葉からすれば、今の現実は受け入れがたいのだろう。罪もない多くの人たちが突然に命を奪われるような世界を、変えられるものなら変えたいとチュティマは思う。
 ウィラシット教授は、おもむろにタブレットを手に取ると、スクリーンをタップした。
「そう、これだ」
 メールの画面を見せる。
「ラティマー教授のところに行ってみないか。いい学生が集まっていて、刺激になる」
 突然の教授の言葉に、チュティマは驚く。
「どういうことですか?」
 メールのテキストをズームする。そこにはチュティマの名前があった。
「先生からのご指名でね。分子ベアリングの合成シミュレーションを見てもらったんだが、ずいぶんエレガントなやり方だとほめていたよ」
 チュティマのシミュレーションは、微小な作動部品を実際に作動する「その場で」作るin situ合成法に関するものだ。
「本当ですか?」
 そう応じた言葉に、ウィラシットは大きく頷く。
 アラン=ラティマー教授には、留学中のウィラシット自身が師事していたし、帰国してからの共著論文も多い。ナノエンジニアリングでは、世界的に著名な研究者の一人だった。
「でも、実験はまだ中途半端ですし……」
 ソンクラーン前に取り組んでいた実験は、合成シミュレーションを再現するためのものだった。分析評価を行うために固定処理をしたところで、実験は中断している。実際に電子顕微鏡で見るまでは、成功したとは言えない。
「論文にするのはどこでもできる。それに、先方で奨学金を用意できると言っていたよ。生活するにも十分な額だし、返済の必要もないそうだ。まあ、君自身に研究を続ける意志があるかどうかにもよるが」
 指導教官の視線が、チュティマを見据えていた。教授の言葉はチュティマ自身の問いでもある。大学で学ぶことで故郷に恩返しをすることはもうできない。ならば、学び続ける意味は何なのか。
「行かせてください。私になにができるのか試してみたいと思います」
 チュティマは自分の言葉に驚いていた。
「そうか。それは良かった。ラティマー先生には伝えておくよ。手続きはいろいろあるけど、手伝えるところがあったら何でも言ってほしい」
 ウィラシット教授が満足そうに頷いたことで、チュティマは気づいた。研究は、誰かのためにやるものではない。

 アメリカの新学期が始まる九月、チュティマはロサンゼルス郊外にある留学先にいた。アジア系の学生が多く、キャンパス全体では四分の一、ラティマー教授の研究室では、八人中五人がアジア系だった。
「なにかあったら彼に聞くといい。半年前に中国から来たばかりだ」
 教授から紹介された林明幹は、チュティマと同じ二〇代前半の学生で、同じ奨学金を使っている。彼もまた、ラティマー教授が才能を見込んで呼び寄せた一人だった。
 身長は低かったが、引き締まった体つきをしている。軽薄でもなければ冷たくもない第一印象は、悪いものではなかった。
 林は、最初にキャンパスを案内してくれた。公園のように広大なキャンパスを、電気で動くトロリーが巡回している。
「この大学はカーボンニュートラルになってるそうだよ」
 どうでもいいことのように言う林に、チュティマはちょっとした違和感を感じた。
「それって、すばらしいことじゃないんですか?」
 二酸化炭素の排出と吸収をバランスさせるカーボンニュートラルを実現しているということは、大学が独自に植林のような取り組みを進めているということだ。
「所詮、大学レベルの話さ。この国もそうだし、僕の国も大量の二酸化炭素を吐き出している。このままじゃ、もっと酷いことになるのはわかっているって言うのに」
 そんな会話がきっかけだった。チュティマは、自分を育ててくれた祖父母を、集中豪雨によるダムの崩壊で失ったことを林に話す。
「ラティマー先生から聞いてる。僕も同じだよ。今の研究はナノマシンの制御だけど、将来は温暖化対策に使えるような成果を出したいと思ってる」
 林は杭州の出身だったが、福建省の田舎に住む母親の両親に育てられた。その祖父母を、一年ほど前に集中豪雨による土砂崩れで失っていた。
「国際社会が温暖化対策に取り組み始めてから、もう三十年以上になる。それなのに、状況はもっと悪くなっている」
 全地球レベルでの温暖化への取り組みは、一九九二年の地球サミットでの気候変動枠組み条約の採択から始まっている。この条約を強化するために、世界の国々は、膨大な時間と労力をかけて、一九九七年に京都議定書に合意し、二〇一五年にパリ協定に合意した。にもかかわらず、削減義務を負った国が少ない京都議定書は明らかな失敗だったし、アメリカの一時的な離脱によりパリ協定も失敗を運命づけられたようなものだった。
「毎年、大きな国際会議をやっているのにね」
 世界中の国やNGOが参加する気候変動枠組条約の締約国会議(COP)は、毎年のようにニュースになっている。参加者も多く、会期も二週間と長い。それなのに、得られる成果は膨大なテキストだけで、行動に繋がるような具体的成果に乏しい。
「結局、温暖化対策の歴史は、らちのあかない国際交渉と、膨大なテキストによって築かれた挫折の歴史なんだ」
 あきらめたように林が言った。
 林に教えられた気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第六次評価報告書は、三千ページを越える膨大なものだった。チュティマが目を通したのは、要約に当たるエグゼクティヴサマリーのみだったが、最後まで読み通すのは難しかった。
 読みづらい文書ではなかった。サマリーの中には、温暖化の状況や予想される影響が明確に書かれている。それを読むうちに、ここまでわかっていながら、なぜ効果のある行動がとれなかったのかという想いが強くなっていく。
 果たされなかった約束は、多くの犠牲者を生む災害を防ぎようがない。時間をかけて書き上げられた国際的な合意文書も、実施が伴わなければただの紙屑だ。
「どうしてなのかしら」
 二人の間では、温暖化が何回となく話題になっている。
「対策はコストになる。追加のコストは産業競争力を弱くする」
 林明幹は、まるで自明のことのように、淡々と言った。
「でも、対策をしなければ、後でより大きな損失になるわ」
 温暖化による悪影響は経済的損失だけではないのに、経済的要因で対策が進まない。
「だから国際合意だったんだけどね」
 林は黙り込んでしまう。
 国際合意がさほど役に立たないことは、事実として認めざるを得ない。一方で、世界全体で取り組まないことには、効果が望めない。それが、温暖化問題の難しさだった。
「本当は、僕たちが行動し、僕たち自身の手で世界を変えるべきなんだ」
 林明幹はチュティマが書いた論文を読んでいた。ナノサイズのベアリング構造は、分子モーターの基本構造になりうる。その分子モーターをどう使うか。二人が出会った時点で、まだ具体的なアイデアにはなっていない。

 ティラポン=サドックヤーンとダーオの結婚披露はリバーサイドの五つ星ホテルにとっても大きなイベントだった。招待客だけでも八百人を越え、巨大なバンケットホールのある二階のフロアは全て貸しきりになっていた。
 支配人は落ちつかなげに歩き回り、スタッフに何かと声をかけている。ティラポンはホテルのオーナー一族の御曹司だし、ダーオは売り出し中の女優だ。招待客には、親族の他に政治家や財界人、映画関係者や有名な俳優もいる。メディアの注目が集まるのも当然で、招待客への対応だけでなく、傍若無人なテレビクルーが招待客や何も知らない観光客とトラブルを起こさないよう目を光らせている必要があった。
 チュティマのいる中庭にもテレビクルーは陣取っていた。撮影チームは目に入るだけで四つもある。主要なネットワークに加えて動画配信サービスのクルーもいるらしい。それぞれが複数のカメラを持ち込み、絵になるシーンを撮影しようとカメラの位置やアングルの確認に余念がない。ナライが配置したスタッフが、余計なところに足を踏み入れないよう注意して見ているが、手が足りているようには見えなかった。
「中は順調に進んでいます」
 ナライは小さなディスプレイを持ち込んでいた。チャペルは小さく、外部の撮影チームを入れる余裕はない。ホテルのカメラマンが撮影した映像が、チャペルに入りきらない招待客のためにバンケットホールにあるスクリーンに投影されており、同じ映像がナライのディスプレイにも映っている。
「そのようですね」
 画面の中の着飾った人々とは対照的に、チュティマは黒い髪を後ろで縛り、地味なスーツに身を包んでいる。ここで、彼女自身は目立つ必要がない。目立つべきは、新郎と新婦であり、彼女が作り出した蝶だった。
「ダーオ様が希望されたのですよ」
 ホテルは結婚披露の会場だった。早朝から始まった伝統的な結婚式はすでに終わっており、これから八百人を越える招待客を迎えた大規模な結婚披露パーティーが始まる。その合間に、ホテルの中庭にある小さなチャペルで行われているのは、新婦の希望で付け足されたキリスト教スタイルの式だった。
「おかげでいい宣伝ができます」
 画面には、白とシルバーを基調にしたタキシードの姿の新郎と、純白のウエディングドレスに身を包んだ新婦が映っており、ちょうど結婚指輪を交換するところだった。
「ティラポン様も期待しておられます。ご自身の式で使おうというくらいですからね」
 実際は、チュティマが売り込みをかけたのだった。蝶をPRするには、注目の高いイベントで使ってもらうのが一番いい。
「ええ、ありがたいと思っています」
 すべてがスケジュールどおりに進んでいた。この調子であれば、パーティの料理が冷めてしまうこともない。あと十分もすれば新郎新婦と列席者がチャペルから出てくる。チャペルからパーティへ会場への移動はせいぜい三分ほどだ。
 ディスプレイの中で結婚証明書に新郎がサインをする。あれと同じ署名を出資契約書にしてもらったのが三ヶ月前だった。その資金は今回の蝶の準備にも使っている。この先、資金を回収し、事業を軌道に乗せるには、販路拡大のためのPRが必要だった。
 今日の結婚式は、そのための格好の舞台だった。取材メディアもチュティマの蝶を宣伝してくれるだろうし、林明幹も、杭州から連れてきた助手と一緒に中庭を見下ろす回廊から撮影している。
 中庭の木々には二百本の導電性テープが目立たないように貼り付けられ、チュティマのすぐ近くに置かれた電源装置に繋がれていた。一本のテープには百個のナノエンジニアリングで作られた蝶が取り付けられ、起動シグナルを待っている。シグナルは蝶をテープに留めている分子フックを開くためのものだ。
「そろそろです」
 チャペルの扉が開き、列席者が出てくる。有名人もいるが、チュティマには関心がない。重要なのはタイミングだった。
 ……まだ早い。
 彼女は緊張した面もちで人の流れを見据えている。起動装置のスイッチを押すのは、新郎と新婦がチャペルを出る直前だ。
 扉を出る人の流れが途切れたその一瞬、チュティマは起動装置のスイッチを押した。
 微弱な電流が電線を流れ、導電性のテープに伝わる。蝶をテープに留めていた分子フックが次々に外れ、連動して蝶の羽根が左右に開く。
 中庭に降り注ぐ陽光が、蝶の羽根の受光面に密に植え込まれた分子モーターを動かし、回転するスパイラルコイルが空気中の分子を吸い込む。無数の分子モーターとスパイラルコイルが作り出す微弱な気流が、蝶をゆっくりと浮上させる。チャペルを出た新郎と新婦が、出迎える列席者の背後に見るのは、空に向かって舞い上がる二万個の白い蝶だ。
 その光景に息をのむ新婦。なにが起こるか知っていたはずの新郎ですら、驚いた表情を見せていた。二人の様子を見て振り向いた列席者たちも、その光景を目にする。さらにカメラクルーも、カメラの先の視聴者も。
 映像は繰り返して再生されるだろう。無数の白い蝶が天に向かって舞い上がる光景は、予想以上に美しく、なにが起こるか知っていたチュティマですら感動させられる。
「すばらしいですね」
 そう言ったのはナライだ。チュティマとナライは東家(サーラー)を出て、無数の白い蝶が舞う中に踏み出す。二万の蝶は、彼女が計画したとおりに中庭をゆったりと飛翔し、晴れ渡ったバンコクの空に向かって昇っていく。
 新郎新婦や列席者のみならず、ホテルの従業員すら蝶を見ていた。分刻みのスケジュールに遅れが生じ、前菜のスープの温度がわずかに下がったとしても、誰も気にしない。突然目にした予想外の光景に、誰もが目を奪われていた。

 アジア系のメニューが充実した大学のカフェテリアで林とランチを食べながら、チュティマはぼんやりとテレビの画面を眺めていた。ラティマー教授のアドバイスで始めた光駆動分子モーターの構築は順調に進み、シミュレーションでは完璧に動くようになっている。ねじ状のスパイラルコイルを組み合わせてモーターの回転力を推力に変える目処も立っていた。
 どちらが先に思いついたのか、今となっては判然としない。テレビでは有名な女優の結婚式が放送されていた。純白のフラワーシャワーが舞い、その中を幸せそうな新郎新婦が手を取り合って歩いていく。画面はまさに映画の一場面のようで、世界中で起きている気象災害は、まるでないことにされているようだった。
「こういう事にはお金をかけるのよね」
 二人が真っ白なリムジンに乗り込むまで、無数の花びらが舞い続けていた。
「ドローンを使ってる」
 林が言うとおり、画面の隅にドローンが見えた。上空を旋回しながら無数の花びらをまき散らしている。
「こんなにばらまいて、片づけが大変そうね」
 そう口を挟んできたのは、同じ研究室のリタだった。小柄でグラマラスなメキシカンのリタは、分子スイッチングの開発をしている。
「あの花びらには生分解性素材もあるようだ。何枚くらい使ってるのかわからないけど、結構な値段になるよ」
 林がタブレットをいじりながら言った。
 一瞬しか使われないフェイクの花びらにはお金をかけられるのに、災害を防ぐための投資には及び腰になる。それがこの世界の現実だった。
「なかなか落ちてこないわね」
 走り去るリムジンを撮(うつ)すロングショットに映り込んだ、宙を舞い続ける花びらを見て、リタが何気なく言った。
 あれを作ればいい。その時、確かにチュティマは思ったのだ。地面に落ちることなく、空に舞い上がった無数の花びらが、地球に降り注ぐ太陽の光を柔らかなものにする。そんなイメージがチュティマの脳裏に浮かぶ。
 いや、花びらではなく、蝶だ。空に向けて蝶を放つ。無数の蝶が、大気の上層部をゆったりと飛ぶ。
 突然、林が席を立った。驚いた様子のリタをカフェテリアに残し、二人は研究室に向かっていた。
「君の分子モーターが使えるはずだ」
 羽ばたくのではなく、分子モーターのダウンブロウで浮上する蝶を作る。
「ええ、使えるわ。たくさん作って、たくさん飛ばす必要があるけど」
 最初の試作片はラティマー教授のラボで作られた。厚さ数ミクロンの薄くて軽いナイロンのメッシュに光で駆動する分子モーターを組み込む。in situで分子モーター上にスパイラルコイルを成長させる手法は、チュティマが独自に開発した手法だった。
 暗室で合成した試験片に当てたLEDランプの光がコイルを高速回転させ、メッシュを抜ける下向きの空気の流れを作り出す。
 最初の一インチ角の試作品は、光を当てるとテーブルの上でわずかに浮き上がり、テーブルの傾きによって滑るように横に流れた。
 分子モーターの密度を高めた次の試作品は、まっすぐに浮上して光源に張り付いた。
「ちゃんと制御しなきゃだめね」
 屋外での実験は、風にあおられてうまく行かなかった。
「たぶん、軽すぎるんだ。制御用のチップでバランスできると思う」
 分子モーターの出力は、当たる光の強さで変わる。光の強さは変えられないから、光が当たる角度を変えればいい。その意味でも蝶の形が適している。
 デザインを固め、必要な機能をリストアップする。長さ二センチほどの蝶の胴体には、制御用のマイクロチップと光センサーを組み込むことになるだろう。蝶の形は、空中での姿勢の安定性の面でも都合が良かった。
 チュティマは羽根の角度を調整するためのマイクロアクチュエーターの開発に取り組み、林明幹は制御アルゴリズムの開発を進めていた。全体の組み立てについてはラティマー教授にアドバイスをもらった。
 試作品の蝶は、細い円筒形の胴体と差し渡しが五センチほど二枚の羽根でできていた。屋内では優雅に飛ぶが、外に出したとたんに、カリフォルニアの空に向かって飛んでいった。
 光が当たるとすぐに飛び立ってしまうという問題は、リタに手伝ってもらって開発した分子フックで解決した。羽根を閉じた状態で導電性テープに分子フックで固定し、外れると同時に羽根が開くようなメカニズムを採用した。
 この段階で、蝶は完成形になった。

 二年の留学を終えて帰国したチュティマは、タブレットに納めた設計データと映像、学生向けのクラウドファンディングで作ったデモンストレーション用の蝶を持ってウィラシット教授の元を訪れていた。
 大学での研究に戻るつもりはなくなっていた。ウィラシットは休学を勧めたが、なるべく早く蝶を市場に出したかったチュティマは退学を選んだ。
 チュティマはウィラシット教授に蝶を見せる。蝶は研究室の中を優雅に舞った。
「すばらしい成果じゃないか」
 林は制御アルゴリズムにランダム性を組み込んでいた。まっすぐに空に向かって飛んでいっては商品にならない。そのランダム性が、より蝶らしい動きを実現している。
「先生のおかげです。でも、これからしっかり売り込まないと」
 ウィラシット教授には、屋外イベント用という触れ込みだけではなく、蝶の本来の目的も説明してあった。
「そういえば、サッドクヤーンの跡取りが結婚するらしい。相手は女優のダーオだから注目も集まるだろう」
 今までの実績は、ショッピングモールの開店イベントくらいしかなかった。人は集まるとはいえ、メディアへの露出は限定的で、宣伝効果は限られている。有名人の結婚式ともなれば、メディアの注目度は高い。
「サドックヤーンの跡取りというのはティラポン=サドックヤーンですか?」
 チュティマは、蝶に投資をしてくれそうな投資家を探していた。その中に、ベンチャー企業向けの投資ファンドを率いるティラポンの名前があった。

(続く)