「「わが願は世のつねの願にあらず」~国木田独歩のススメ~」粕谷知世

        
上・「この宇宙ほど不思議なものはない」
        
「この宇宙ほど不思議なものはない。はてしない時間と、はてしない空間、凡百の運動、凡百の法則、生死、そして小さな星の一つとしての、この地球における人類、その歴史、まったく、われわれの生命ほど不思議なものはないだろう」*1 
 
 この言葉、『果てしなき流れの果に』の野々村のものでも、『百億の昼と千億の夜』のあしゅらおうの台詞でもありません。明治の文学者、国木田独歩による掌篇『岡本の手帳』の一部を口語体にしたものです。
 
 明治の文豪、しかも自然主義の先駆者とされている人がSFの面白さの根源を語るような言葉を残していたって、なんだか不思議。このSF Prolougue Waveという場で、国木田独歩とその作品を紹介したくなった理由です。
 独歩は明治四年(1871年)生まれで、夏目漱石(1867年生)とは4歳違い。言文一致を説いた二葉亭四迷(1864年生)とも7歳違うだけ。そのため、文語体の作品も多く、社会の厳しさや人間のエゴをみつめた自然主義的作品をたくさん書いています。
 
 SFではありませんが、代表作とされているだけあって、『武蔵野』はオススメです。雑木林や川沿いを歩く心地よさ、空を走る雲や風、時に花、あるいは鳥の声が描写されていて、生気のみなぎる、とてもすがすがしい文章です。散歩がしたくなってきます。
 コロナ禍の間、遠出の代わりに、近所をぐるぐる歩き回って気晴らしをしていました。季節によって植木や道ばたの草が移り変わるのが面白いし、家が並んでいるのを見れば、瓦屋根やトタン張りは懐かしく、こちらの家はサイディングだから新しいよね、と思いを巡らせることができて楽しかったです。若い頃は、何が面白くて散歩なんてするんだろうと思っていましたから、『武蔵野』を読み返して、いいなあ、素敵だな、とうっとりできたのは、先の三年間のおかげかもしれません。*2
 
 でも、今回、SF好きの方にオススメしたいのは、独歩のもう一つの側面、『牛肉と馬鈴薯』と『岡本の手帳』です。
 『牛肉と馬鈴薯』は、東京のとある倶楽部に集まった友人知人が人生論を交わしている、という話です。そこで、「理想を追って馬鈴薯を食うより、現実と折り合って牛肉を食べるほうがいいと思わないかね」と問われた岡本は、自分は現実主義でも理想主義でもない、「喫驚したいというのが僕の願なんです」と答えて、場を白けさせてしまいました。*3
 その岡本が手帳に書きつけた心情告白、それが『岡本の手帳』です。冒頭の抜き書きは、以下のように続きます。
 
「(われわれの生命ほど不思議なものはないことは)誰もが知っているが、しかし、千百億人ものうち、ほとんど一人もこの不思議を痛感することは出来ない。友人が死んだ時、独りで蒼天の星を仰いだ時など、時には驚異の念に打たれる事があるのは、(多くの)人が経験するところだ。しかし、これはしばしの感情であって永続しない。我が願いは、絶えず、この強くて深い感情のなかにあることだ」

 幼い頃、満天の星空を仰いで、あの星の一つ一つに、もしかしたら人間に似た生き物がいて、こちらを見ているのかもしれない。そう思っていました。視力が落ちて何が哀しいといって、どんなに星空の美しい土地へ旅行しても、子供の時と同じ数の星が見られないほど哀しいことはありません。
 ですが、数年前、それに近い体験を、深宇宙領域の写真から得ることができました。一枚の写真のなかに、数え切れないほどの光球が写っていたのですが、キャプションによれば、その光の玉一つ一つは、恒星ではなくて銀河でした。
 掌で隠してしまえるほどの写真のなかに、無数の銀河がおさまっている。
 これって、神様だけが見てもいい光景じゃない?
 宇宙へ飛び立つ力もない、一介のホモ・サピエンスであるわたしが、どうして、こんな光景を見ることができたんでしょう。科学の発達のおかげと思ってみても、不思議の念はおさまりません。数々の災害、戦乱を乗り越えて、こんなものが見られるほど科学が発達したってこと自体が、相当に不思議です。
 実際に生きているんだから、自分が生きているのは当たり前のことですが、それでも、あらためて(わたしって、どうしてここにいるんだっけ?)と考え出すと、じたばたしたくなります。動物の身でありながら、そんなことまで考えられることすら不思議すぎです。
 SF好きの方なら、この気持ち、分かってくださるのではないでしょうか。*4
 
 それにしても、この岡本の告白は激烈です。
 宇宙の神秘に驚く気持ちを大切にしたいというだけなら、おおいに賛成できますし、傑作SFがたくさん世に出た今となっては、それは珍しくない気持ちかもしれません。でも、岡本は「我が願いは、絶えず、この強くて深い感情のなかにあることだ」と断言しています。『絶えず』です。
「あのう、岡本さん、宇宙や生命の神秘って、ときどき感じる程度だから、日常からの気分転換になっていいのであって、いつも宇宙の不思議に感じ入っているような気分でいたら、おちおち仕事もできなければ、人と会話もできないんじゃありませんか」と反論させてもらいたいところですが、そうした反論は、そんなふうに世俗のことにかまけているから、我が願いがかなわないのだ、と逆の立場から封じられてしまいます。
 「世俗は世俗で大事にしないと、牛肉どころか馬鈴薯だって食べられなくなるでしょう?」 と再反論はしてみますが、果たして岡本さんに聞き入れてもらえるかどうか。
 なにしろ、彼にかかると、この不思議を感じていない、あるいは忘れてしまったが最後、宗教家も哲学者も科学者さえも愚者扱いです。
 でも、もし、この岡本の願いがみんなに共有されて、当たり前になったら、面白いかもしれません。朝、起きて、「あれ、今日も生きてる。不思議だなあ。夜の間に死んでしまってもおかしくなかったのに」と思う世界。それから、学校や会社へ出かけていって、クラスメートや同僚に会った時「あ、この人も生きてた。さっきまでは別のところにいて、生きているか死んでいるかも分からなかったのに、今この瞬間は、ここにいて話をしたりできるんだ。凄いなあ」と、お互いに驚き合うような世界。
 明治から今日までの変化、あるいはコロナ禍前と後の変化を思うと、そんな世界が来たっておかしくないような気がしてきます。

下・「独りで蒼天の星を仰いだ時」

 上のパートを書き上げてしばらくして、それにしても、独歩はなぜ、驚異を感じる例として、「友人が死んだ時」に並べて「独りで蒼天の星を仰いだ時」を挙げたのだろう、という疑問が湧いてきました。人が亡くなった時は悲しみとともに強く人生の不思議に打たれますし、それは古今東西を問わないかと思います。けれど、星への関心度合いは文化によって異なっていて、江戸時代までの日本では、月を愛でる気持ちこそ強くても、星への関心は高くなかった、という説を聞いたことがあります。星空を仰ぐことが人の死と同じほど不思議に感じられる、それはSFが世に現れる前であっても一般的なことだったのでしょうか。
 振り返ってみれば、幼い頃のわたしが、星空を見上げて宇宙の神秘に感じ入ることができたのは、田舎育ち、かつ視力が良かった、というだけでなく、時代の雰囲気のおかげでもあった気がします。アポロの月面着陸で宇宙の話題がおおいに盛り上がった影響でしょう、小学校の図書室にも、小さな棚の学級文庫にも少年少女向けSFシリーズが置かれていました。そのなかの『宇宙戦争』や『火星のプリンセス』などを読んだことがきっかけで、夜には頭上にあるのが当たり前の星空に対して、ことさらに興味をもつことができたのです。
 でも、独歩は? 一体、独歩は何に影響されて、蒼天の星を仰いで驚異の念に打たれる心持ちを得ることができたのでしょう。彼の親や幼少期の先生たちは江戸時代に教育を受けた世代の人なので、そうした人たちの影響とは考えにくいです。
 SFの祖と言われるH・G・ウェルズ(1866年生)とは同時代人ですが、ウェルズがSF作品を発表する前に独歩は亡くなっています。とすれば、SFそのものではなく、SFとして結実する前の何かしらを探してみる必要がありそうです。*5
 
 独歩自身が影響を受けたと明言している人物は何人もいます。代表作『武蔵野』の描写はツルゲーネフの作品を二葉亭四迷が訳した「あいびき」の影響を受けていると作中で語っていますし、ほかのところでは「外国の作物にて余が耽読せしは、露のツルゲーネフ、トルストイ、仏のユーゴー、モーパツサン等なり。しかも余が思想上の感化は、英のカアライル、ウオヅオース(ワーズワース)」と言っています。また、ワーズワースへ長い言及をした後、カーライル、ゲーテ、プラトー(プラトン)、クリスト(キリスト)、ルーソー(ルソー)、シエクスピ-ア(シェイクスピア)の名を並べています。ほかに、エマソン(エマーソン)の名も見かけました。
 プラトン、キリスト、シェイクスピアを除けば、18世紀後半から19世紀の人たちです。
生年別に並べ直し、作風の傾向をメモしてみました。
 ルソー(1712年生 ロマン主義先駆け)ゲーテ(1749年生 ロマン主義)カーライル(1795年生『英雄崇拝論』)ユーゴー(1802年生 ロマン主義)エマーソン(1803年生 超絶主義)ツルゲーネフ(1818年生)トルストイ(1828年生)モーパッサン(1850年生 自然主義)(ざっくりですが、ここでは感情や個性を重視し、自然との一体感、神秘へのあこがれを描くのがロマン主義、現実を重視して美化を避けるのが自然主義と考えます。大作家たちを一つの作風にくくってしまう乱暴をお許しください!)
 
 国木田独歩がいちばんよく話題にするのはワーズワースなので、まず『対訳 ワーズワス詩集』(岩波文庫 山内久明編)を読んでみました。山や谷、雑木林といった地上の自然への愛が強烈で、独歩へ与えた影響は確かに多大なものがありました。ただし、星空といえば、そうした自然への愛を語る流れのなかで一緒に描写しているだけで、この詩集のなかには星だけを特別視する表現は見当たりませんでした。
 では、他の人たちは? ゲーテの『ファウスト』、シェイクスピアの『テンペスト』あたりには神秘としての星空が出てきた気がしていたのですが、なかなか思うような文章がみつかりません。ですが、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』には、次のような箇所がありました。
 「ロッテ、ぼくは窓辺に歩み寄って、空をながめる、荒れ模様の、脚の速い雲間にまたたく永遠の天空のまばらな星をながめます。そうだ、あの星は落ちはしないのです。永遠なる神はあの星を胸に抱いているのだ、そうしてこの私をも」*6
 ずばり「星空」ではなくても、名のあがった人たちの作品には、丘や森といった自然のなかにいると高揚する、高貴なものを感じるという描写が多かったです。(自然主義とされるモーパッサンでさえ同じトーンで故郷の自然を描いています)なるほど、『武蔵野』を書いた独歩が好きなわけだ、と納得できたので、ここまでにしておこうかな、と思ったところ、エマーソンの解説書のなかで、以下のような文章に出会いました。*7
「都会の街路上で見る星はなんという素晴らしいものであろう。もし、星が一千年に一夜だけしかあらわれないとしたら、人びとはどれほど喜んで、それを信仰し、礼拝し、目の前に示されたこの神の國の記憶を長く後世に伝えることだろう。しかし、実際にはこれらの美の使節は夜ごとにあらわれて、訓戒するような微笑をうかべながら宇宙を照らすのである」
エマーソン『自然論』の冒頭近くの文章だそうです。
 一読してアシモフの『夜来たる』が思い出されましたが、それもそのはず、『夜来たる』のアイデアとなった文章だそうです。国木田独歩から『夜来たる』にたどりつくことができて嬉しくなりました。*8

 以上は、文学的な星空の話ですが、さて、彼が理系的科学的な星空に詳しかったのかどうか、それは分かりませんでした。独歩の全集には『天気の話』(『家庭雑誌』収録)が収録されています。雲の種類を科学的客観的に説明するようでいて、独歩の文章によくある高揚感も感じられる、という不思議な読み心地の文章なのですが、本人のものとは確定できないようです。お詳しい方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。
 
 SFに隣接するホラーとの関係で面白かったのは、最晩年の『病牀録』のなかに「聊斎志異は余の愛読書の一なり」と言い切っている箇所があったことです。我ながらおかしいと思うほど、怪異譚が好きで、これを読むのに徹夜しても惜しくないというほどだったようで、実際に4篇を翻訳してもいます。実作には怪奇的なところが少ないのが不思議なほどです。
 国木田独歩は、『病牀録』でもずっとロマン主義的死生観、信仰を書き綴っています。最後まで「驚異」の感覚を失わないまま、自然主義的な作品を書いていたように思えます。独歩のなかではロマン主義と自然主義は分かれておらず、驚異の念をもって地上の自然を見た時はありきたりでなく、とても美しく見え、人間社会を見た時には、当たり前だと見過ごしていた現実の厳しさがよく見えた、そういうことなのかもしれません。
 初期には、男星・女星が登場する、お伽話のような『星』という作品もあるので、もっと長生きしていたら、いずれは怪異や空想に満ちた作品も書いてくれていたのではないかと思うと、三十七歳という早すぎる死が惜しまれます。*9

*1 原文は以下のとおりです。
「この宇宙ほど不思議なるはあらず、はてしなきの時間と、はてしなきの空間、凡百の運動、凡百の法則、生死、而して小さき星の一なるこの地球に於ける人類、その歴史、げにこのわれの生命ほど不思議なるはなかるべし」
『岡本の手帳』(『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』(新潮文庫)収録)
*2 『武蔵野』を読み返したのは、夢のためです。
 先頃ハヤカワ文庫で刊行されたアンソロジー『地球へのSF』の企画を知った夜、薄暗い沼だか水辺だかの倒木の上を、トカゲらしき小動物がちょろちょろ走っていく夢を見ました。(わたし、普段はちゃんと、人間が出てくる夢を見ます! 得体の知れない小動物だけが出てくる夢は見ません)
 覚醒していく意識のなかで(へんな夢)と思ったとたん、耳元で「国木田独歩!」と叫ばれました。ほんとうに大きな声でした。寝起きの悪いわたしが、びっくりして跳ね起きるほどの。いったい、なにゆえに、国木田独歩だったのか、いまだに謎です。『文豪ストレイドッグス』に登場すると知ったのも、ずいぶん前だったのに・・・。(笑)
 結局、アンソロジーには『独り歩く』という作品で参加しました。独り歩く。はい、独歩です。
*3 『牛肉と馬鈴薯』では、開拓の志をもって北海道へ行ったことが馬鈴薯(=理想に燃えて北海道の原野で暮らすと馬鈴薯しか食べられない)、開拓に挫折したことが牛肉(=現実にめざめて東京へ戻って牛肉を食べる)として描かれています。実際に独歩は開拓を志して北海道へ出かけたことがあり、この作品や、そのときの体験をもとにした『空知川の岸辺』において、アイヌが描かれないことには「アイヌの不可視化である」という批判もあります。
もし書いていたとしたら、どのように描いたか、気になります。
*4 この文章を書くために『国木田独歩 岡本の手帳』で検索したら、『岡本の手帳』に対して、ずばり、「センスオブワンダーの哲学」と名づけている方がいらっしゃいました。『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』のAmazonレビューにも幾つか熱のこもった感想がありましたので、そちらも合わせて、お勧めします。
*5 『編集者 国木田独歩の時代』(黒岩比佐子 角川選書)によれば、『海底軍艦』の押川春浪やジュール・ベルヌ紹介者と交流があったようです。
*6 『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ 高橋義孝訳 新潮文庫)より引用
*7 『エマスンとソーロウの研究』(尾形敏彦著 (株)風間書房)より引用
*8 星空にこだわらず、国木田独歩の「驚異」の感覚そのものに注目すると、カーライルの英雄論における「シンセリティー」の影響が強い、もっといえば、権威的になってしまったキリスト教ではない、新しい精神規範を求めたロマン主義の神秘主義、汎神論の影響を受けていると言えるようです。
*9 独歩には、もともとは政治家志望だったこと、「国民新聞」の記者として日清戦争に従軍していること、キリスト教の洗礼を受けていること、前妻との関係破綻が有島武郎の『或る女』の題材になったこと、「婦人画報」の創刊者であることなど、興味深いエピソードがたくさんありますが、今回は省略しました。関心をもっていただけたなら作品や解説書などに手を伸ばしてもらえれば、と思います。

参考図書:武蔵野 新潮文庫
     牛肉と馬鈴薯・酒中日記 新潮文庫
     定本 國木田獨歩全集 第九巻 (株)学習研究社
     国木田独歩の文学 北野昭彦 (株)桜楓社
     文学熱の時代 木村洋 名古屋大学出版会