くそ、やられた。スマホを盗まれた。正確に言うとすり替えられた。今回のクライアント、怪しいとは思っていたんだ。
リモート会議が当然のこのご時世に、初めてだから直接会ってお話がしたい。そう言い出したのはまだ良い。しかし会ってみると、どう見ても日本人が外国人と偽っているとしか思えない口調に雰囲気。
俺も正直警戒はしていた。しかし今回は顔合わせだけ。仕事についても具体的な金額や納期は明示されず、今回はお互いの信頼関係を築くに留めましょうというので、その警戒感も緩んでしまった。
昼間だというのに軽くビールを引っかけた後、突然、俺のスマホに電話があった。最近、スマホに電話してくる奴も珍しいなと、着信を見ると知らない番号。そのままにしておくかと思ったが、クライアントは『ドウゾ、デンワ、デテクダサイ』と言った。そう言われると却って電話に出ざるを得ない。
電話はよく有る不要品買い取りのセールスだった。今にして思えば、目の前にいたクライアントとグルだったのだろう。
早々に通話を切ると、クライアントがすぐに話しかけてきたので、俺はスマホをテーブルの上に置きっ放しにしてしまった。
それが失敗だった。
しばらくしてクライアントは自分のスマホを取り出してスケジュールを確認。テーブルに戻そうとした時、落としてしまった。当然、俺は『取りますよ』とテーブルの下を覗き込んだ。
その時、スマホをすり替えられたらしい。
程なくして顔合わせは終了。俺たちは型どおりの挨拶をして店を出た。タクシーを使うというクライアントに『今の東京の暑さは災害ものですよ。地下鉄でホテルまで向かわれた方が良いのでは?』と提案したが、クライアントはわざとらしい片言の日本語で『ツギのクライアント、オマタセしてます。タクシーの方がハヤイ』と答えた。そう言われては無理強いも出来ない。
俺はこのクソ暑い中、わざわざ屋外へ出て、配車サービスで到着したタクシーに乗り込むクライアントを見送った。
しがないフリーランスだ。相手の心証も良くしておかないといけない。
タクシーを見送り、さて次の予定はとスマホを見て、何かがおかしい事に気がついた。待ち受け画面はもともとデフォルトのままだが、見慣れないアイコンが幾つかある。見覚えのあるアイコンも位置が違っていた。
そこでようやくすり替えに気づいたわけだ。時刻だけは表示されているものの、アイコンをタップしてもまったく反応がない。見た目だけスマホの玩具みたいな代物だ。
まずは警察だ。警察に被害届を出し、クレジット会社にも連絡して利用停止にして貰わないと……。
ダイヤルキーを呼び出そうとして気がついた。これはすり替えられたスマホだ。使えるのは時計機能くらいで、ネット接続も通話も出来ない。当然、警察やクレジット会社への連絡も出来ない。
「まいったな、これは」
俺は真夏の町中で途方に暮れた。生まれた時から当たり前にスマホがあった世代だ。カメラやゲーム機、PCも買った事はない。すべてスマホで済んでいた。受話器のある電話を使ったのも一度か二度。
周囲を見回す。残念ながら視界に交番はなかった。マップで捜すか? いやそもそもマップを表示させるスマホがない。
じゃあどうやって……。
俺はしばらくあてども無くさまよったが、結果的にそれが失敗だった。町中にアナウンスが響いた。
「緊急高温避難勧告です。気温が摂氏45度を超えました。命の安全に関わる気温です。ただちに屋内または耐暑シェルターに待避して下さい。気温はまだ上昇すると予想されます。ただちに涼しい場所へ避難して下さい。命を守る行動を優先して下さい」
すでに真夏の都心は気温40度前後も珍しくないが、さすがにそれを越えると屋外を歩いていては命の危険がある。俺の生まれる前から熱中症指数というのは発表されていたが、夏の暑さが災害級とされる数年前から、地震、台風と同様に政府機関から避難命令、勧告が出るようになったのだ。
そう、猛暑による避難勧告だ。
俺はスマホを盗まれたというショックで、暑さまで気が回っていなかったようだ。いつもは高温避難警報の時点でスマホにアラートが届く。スマホを盗まれたせいで、それも分からなかったのだ。
周囲を見回すと店舗やビルの入り口には、もうシャッターが下ろされている。その辺の店舗やビルに逃げ込む訳にはいかない。こんな時に備えて、政府があちらこちらに地下耐暑シェルターを確保してくれている。まずはそこへ向かおう。耐暑シェルターから地下街へ出られるはずだし、そこから交番を捜せば良い。
命の安全に関わる施設だけに、案内図はそこかしこにある。俺は一番近いシェルターへ向かった。
ビルの一角に設けられた耐暑シェルター入り口には、何人もの通行人が避難の為、並んでいる最中だった。俺もその列の最後尾に並び、スマホを取り出そうとして……。しまった、盗まれたんだったと、またここで思い知らされた。
スマホが必要なのには理由がある。命の危険がある為、耐暑シェルターは誰でも利用できるのだが入れる人数には限界がある。家族連れや団体観光客などが別々のシェルターに入らざる得なかった場合、どこに居るかをすぐに把握出来るよう、避難する際に日本全国民と在留外国人、訪日外国人に向けて発行されている公共身分証明番号を入力しなければならないのだ。
無論、避難する時にいちいちキーボードから番号を入力するのも煩わしいので、大抵はスマホで暗号化されたバーコードを提示する事になる。
しかし今の俺には、そのスマホがない。シェルター入り口の警備員に事情を話したところ、無言でタブレット端末を取り出した。それで直接、公共身分証明番号を入力しろという事だ。
国民身分証明番号は15桁の数字と五つの英字の組み合わせで構成されており、これだけでも覚えるのに一苦労なのだが、セキュリティの関係上その一部や全部をプリントアウトしたりメモ書きする事は禁じられている。幼児や高齢者、記憶能力に障碍のある人以外は、すべて暗記しろという訳だ。さらにこの公共身分証明番号、一年に一度、更新される。更新直後は誰もが15桁の数字と五つの英字の組み合わせとにらめっこになる。おかげで暗記法の本やサイトが大人気だ。
俺もご多分に漏れず、必死に暗記した口だ。無意味な15桁の数字と五つの英字を、タブレット端末から入力した。
しかし画面には『ERROR』と表示されたでは無いか。そんなはずはない。もう一度、記憶に従い入力する。駄目だ。何度やっても駄目だ。表示されるのはエラーだけだ。
「おかしいですよ! この番号で間違い無いはずです!」
暑さと焦りでだらだらしたたり落ちた汗に濡れたタブレットを警備員に差し出した。警備員も首を傾げる。
「おかしいな。公共身分証明番号の入力は単なる確認で、シェルターは誰でも利用できるから、エラーなんて出る訳がないんだが」
そう言うと誰かと連絡を取り、タブレットを操作する。タブレットに問題は無さそうだ。首を傾げながらもまた俺にタブレットを差し出した。もう一度、記憶していた公共身分保障番号を入力するが、やはりエラーが出るだけ。さらに繰り返しても結果は同じだ。
「もういいじゃないですか。入れて下さいよ」
進退窮まった俺は警備員に懇願した。
「いや、ちょっと待って。……駄目だ。もう一杯ですよ」
警備員は壁のモニターを確認してから言った。
「一人くらい大丈夫でしょう?」
「人数が多いと過呼吸など不調を訴える方もいますからね。シェルターごと利用者数は法律で上限が定められているのは貴方も知っているでしょう」
その通りだ。しかしすでに外気温は45度を超えている。このまま屋外に居るのは自殺行為だ。
「三丁目に誰でも使えるフリーシェルターがあります。混み合っていて女性やお子さん向きではありませんが、そちらを利用されてはどうですか」
警備員はそう勧めてきた。何らかの理由で公共身分証明番号を発行されていない、あるいは使いたくない人向けの耐暑シェルターだ。不法滞在者や何かと後ろ暗い人々向けに用意されている。そんな人たちでも、暑さに対する人権的配慮は必要だという事だ。
だから一般人は余り使わない。俺だって入った事は無い。公になる事は少ないが、何かと犯罪まがいの行為も行われていると噂されている。
しかし今は贅沢も言っていられない。高温退避勧告が解除されるまでの一、二時間の辛抱だ。俺はフリーシェルターに向かう事にした。そんな俺の背に警備員が声を掛けた。
「急いだ方がいいですよ。雨の予報が出ています」
三丁目は三ブロック先だ。俺は駆け出したが、なにしろすでに気温は45度を超えている。アスファルトや窓ガラスからの照り返しを考えると、体感温度は50度いや60度くらいは行っているだろう。おおよそ人が運動できる温度ではない。
あっと言う間に汗が噴き出し、足ももつれてくる。
まずいな、いま熱中症で倒れたら命に関わる。自動販売機を見つけ、水分補給をしようと考えるが、現金は持ち歩かない主義だ。スマホが無いと購入も出来ない。
そんな事をしていると、突然、空気を揺るがす衝撃が走った。雷だ。空を見上げると、徐々に黒い雲が浸食を始めている。
再び雷鳴と稲光。同時に来たという事はすぐ近くだ。
夕立なんて風情のあるものでは無い。次に来るのはゲリラ豪雨だ。どこか身を隠す場所がないかと探しているうちに、アスファルトを雨滴が叩き始めた。取りあえず近くのビルの入り口にある庇(ひさし)の下に隠れる。心許ないが何もないよりはましだ。瞬間的に降る雨量は、この数年間増加の一途をたどっている。今やゲリラを通り越して、マスコミはテロ豪雨、爆撃豪雨などと呼んでいる始末だ。
滝のようなという表現すら生やさしい。あっと言う間に洗車機へ突っ込まれたような勢いで雨が降り始めた。目を開けているのも、息をするのもままならぬ程の勢いだ。
あっと言う間に水かさも増していく。排水設備も日々改善されているが、瞬間的に記録的な降水量となる近年のゲリラ豪雨には対応し切れていない。数時間後には落ち着くだろうが、排水が待ち合わない分の雨が、俺の足下をぬらしていった。
店舗やビルが入り口を閉ざす理由がこれだ。この雨量では、中があっと言う間に水浸しになる。止水板を使うか、閉ざした入り口に土嚢を積んで、水が入り込む事を防いでいるのだ。
俺は増えていく一方の水かさに、命の危険すら感じていた。大げさではない。ここ数年、ゲリラ豪雨の度に数人の死者が出ているのだ。水に足を取られて転倒。水勢で立ち上がれぬまま溺死というパターンだ。時には排水溝まで流されて衣服や足が挟まり動けなくなるという事も有る。
まずい、何とかしないと……。取りあえず気温は下がったので、熱中症の危険からは逃れられたが、今度は都会の真ん中で溺死する可能性が出てきた。
すぐ側には手すりがある。俺はそれに捕まり、勢いを増す一方の水に流されないよう抵抗した。
なんで都会の真ん中でこんな目に遭わなきゃいけないんだ。どれもこれもスマホを盗んだあいつがいけない。もっとも隙を見せた俺も悪い。俺は自分を呪いながら、大都会の真ん中で水に流されぬよう命がけだった。
ゲリラ豪雨は瞬間的な雨量こそ桁外れだが長時間は続かない。続いても一時間。大抵はものの十数分で収まる。今回も例外では無かったようだ。
程なくして雨が収まり、嘘のように雲も切れてきたが、俺としては何時間も手すりにつかまっていたような感覚だった。
晴れ間が覗くと同時に、また猛烈な陽光が周囲を照らし始めた。水は見る間に引いたものの、気温と湿度がどんどん上がっていくのが体感できる。雨はともかく、この気温はまだしばらく高いままだろう。耐暑シェルターへ逃げ込まなければならないのは同じだ。
俺はフリーの耐暑シェルターへ向かった。しかし湿度が上がり、服も濡れて重くなっている。さっきよりも暑さが応える。急いでいるつもりなのに、足が全く動かなくなっていた。
めまいもする。吐き気もしてきた。頭がふらふらしてまともに歩けなくなっている。
完全に熱中症だ。すぐにどこか、涼しい所で身体を冷やさないと……。頭の中でそう考えてはいるが、身体が思うように動いてくれない。
ビルの壁に捕まりながら、よろよろと前に進むだけで精一杯だ。その時だ。耐暑シェルターの入り口が目に入った。
『命の危険がある気温です。すぐにシェルターに入って下さい』
デジタルサイネージにそう表示されていた。こちらのシェルターなら余裕があるかも知れない。俺はふらふらになりながら入り口にあるインターフォンで係員に連絡を取った。
係員は目の前のタッチパネルで公共身分保障番号を入力するよう促す。
またか! しかしもう悪態をついている余裕は無かった。俺は薄れる意識の中で、慎重に公共身分保障番号を入力した。
どうせまたERRORだろう。しかし係員が気を利かせてくれれば中には入れる……。そう思っていたのだが、あっさりと公共身分保障番号は承認された。
開いたドアの向こうに、倒れ込むと同時に俺は意識を失っていた。
「軽い熱中症です。運が良かった。あのまま外に居たら命に関わる事になっていましたよ」
その日の夜、俺は病院で医者からの説明を受けていた。結局、最初の耐暑シェルターで公共身分保障番号にエラーが出たのは、案の定スマホを盗んだ奴が俺の番号で別のシェルターに入っていたからだ。
普段、俺が立ち寄らない場所だったので、警察のサイバー犯罪監視システムが『盗難品の可能性有り』と判定。別の場所から俺が公共身分保障番号を入力したので、完全に事件と認定。一時、公共身分保障番号の使用が制限されたのだ。
おかげで俺からスマホを盗んだあいつは、即刻、逮捕されて取り調べを受けている最中だ。ざまぁみろだ。
「スマホの生体認証をちゃんとオンにしておけば良かったんですけどねえ」
俺は医者にそう弁明した。普段から人前では使わないのでオフにしていたのは、今にして思えばうかつだった。
「今のスマホは個人情報と最新テクノロジーの塊ですからね。プライバシーもさることながら高価だ。一個売ればかなりの額になるから狙われやすいのでしょう」
医者の言うとおりだ。今やスマホは乗用車一台分かそれ以上の価格になっている。しかし生活にはどうしても必要な為、誰もがローンを組んで購入している。払い終える前に、バージョンアップで次のモデルが必要になる為、借り換えで新しいローンを組み、新しいスマホを買う。その繰り返しだ。
俺だってスマホのローンだけで、家が買えるくらいの金額が残っている。しかしそれは誰しも同じ事なのだ。
「まぁそんな高価でプライバシーの塊であるスマホなんて、うかつに持ち歩いては駄目ですね。今日のように命に関わりますから」
「ははは、そうですね」
違和感を覚えながらも、俺は医者の言葉に笑った。