「黒いオルフェたち」服部伸六

●はじめに(岡和田晃)

 服部伸六採録企画の第一回「国境なき時代のナショナリズム」は幸いにして好意的に受け止められたようで、特に福島亮氏をはじめフランス語圏アフリカ文学を研究されている方々からの反応は嬉しいことでした。
 そこで今回は、服部氏の初期の代表的な論文たる「黒いオルフェたち」を採録しました。初出は「詩学」1964年11月号。
 非常に早い時期に、日本の詩誌において、エメ・セゼールやフランツ・ファノンといったネグリチュード研究や植民地主義批判において重要な思想家たちの仕事が本格紹介されていることに、驚きを隠せませんし、論の強度は60年後である今日の観点からみても、充分に刺激的でしょう。
 なおサルトルの「黒いオルフェ」が繰り返し引かれていますが、これはマルセル・カミュ監督の映画『黒いオルフェ』(1959年)への(おそらくは批判的な)目配せがあるのかもしれません。
 文字起こしと注釈は大和田始氏の仕事になるものです。忍澤勉氏には校正協力もいただきました。深く感謝します。

「黒いオルフェたち」服部伸六

    1  黒人世界のあけぼの

 一九六〇年が「アフリカの年」と呼ばれた理由は、この年に新しく旧宗主国フランスから独立した十指に余る国々が続々と国連に加盟したからであるが、この年以前に黒人文化のルネサンスはすでにその胎動を開始していた。
 一九四八年にはすでにジャン・ポール・サルトルが「黒いオルフェ」という一文を書いて、レオポルド・セダール・サンゴールの編んだ「アフリカ詩華集」の巻頭を飾っている。このことは、その時すでに黒人の文学活動が盛大に向っていたことを示すものであり、サルトルが黒いオルフェと呼んだ黒人詩人たちが注目を浴びつつあったことを示すものである。
 長い間「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカのサハラ以南の肌色の黒い人びとの住む大地は、もともと西欧の文明に犯されることなく独自の平和境を形づくっていた。ところが西欧との接触がはじまった十五世紀のころから、この平和はかき乱され、奴隷貿易の陰惨な蔭がアフリカ大陸をむしばみはじめた。アルコールや愚にもつかぬ小間物や布地と取引された黒人奴隷は、生地獄の船旅を終えて西印度諸島やアメリカの砂糖や綿花のプランテーションで奴隷労働を強いられることになった。
 アフリカから連れ去られた奴隷の数は奴隷貿易がはじまって以来、禁止されるまでのあいだほぼ四世紀を通じてじつに一、五〇〇万人にも及んだといわれている。しかも「一人の黒人を新大陸にもたらすまでには五人の黒人が途中で死んだ」とデュ・ボイスはいう。アフリカから新大陸へ運ばれる途中で、非人間的な待遇で死ぬものを数え、また奴隷狩りやアフリカの港にたどりつくまでの黒人犠牲者の数を入れるならば、アフリカが失った人間の数は六、〇〇〇万人にも及ぶだろうと計算されている。マルチニック島生れの、これもやはり黒人奴隷子孫の詩人、エーメ・セゼールはその「帰国手帳」※のなかで奴隷船のあり様を次のようにうたっている。

 「オレは聞く 船底につながれたものらの呪いの声を、断末魔のひきつけの息づかいを、海にほおりこまれるものの音を……産褥にある女のうめきを……咽喉をひっかく瓜の音を鞭うちのあざけりの声を……死人のようにぐったりとなったものたちのあいだを這いまわる虫けらどものガサガサという音を.……」

 セゼールは百年まえに彼の祖先たちが経験した地獄を、あたかも現在の自分の苦しみのようにうたうのである。栄養失調や伝染病で死ぬ奴隷は、夜の海のなかへ放り棄てられる。こういう運命を一体だれが嘆いてくれただろう。アウシュヴィツで灰にされたユダヤ人にも比すべき悲惨である。

 「飢えた人間、無頼漢、せめ木にかけられた人間、こういう男はいつ何どきでも滅多打ちにたたいて殺してもいいのだ――誰にことわるまでもなく、誰にいい訳することもなく――殺していいのだ

 ユダヤ人間
 虐殺されるユダヤ人間
 野良犬
 ものもらい」
       (セゼール「帰国手帖」)

 もしも六、〇〇〇万人の人間がそれぞれ生きながらえて子孫をふやして行ったとしたら、現在の時点で、何億人になっていたことだろう。われわれはそのように人口稠密なアフリカを知らない。われわれが知っているのは、ただ一キロ平方あたり四人とか五人とかいうような稀薄な人口をもつ遅れたアフリカである。だからもし、奴隷貿易がなく、アフリカがその人口増加を正常に発展さしていたなら、もっと早く眼覚めの時が来ただろう。何故なら、人口増加の要請によって経済活動は刺激されただろうからである。
 われわれの主題に返えろう。二十世紀になってから、人類学者の眼、民族学者の研究がアフリカ大陸に向けられるようになった。そして次々と古代アフリカの姿が明らかになった。しかし、これもまたわれわれの主題ではないので、そのような歴史のことについてはバズル・デビッドソンの書いた書物についてみていただきたい。彼の書物はきわめて平易に、アフリカという概念を提供してくれるからである。
 民族学者たちの本が出たとき、それを夢中で読んだ青年たちがいた。この青年たちが、すなわちいまわれわれがここで「黒いオルフェたち」と呼んでいる詩人たちだったのだある。
 いまやセネガル共和国の大統領として国づくりの先頭に立ってる著名な詩人レオポルド・セダール・サンゴールは、このときパリの寒い冬のもとで毛布にくるまりふるえながらこれらの書物を読みふけっていた。

 「このヨーロッパの怖しい夜のなかで
 白い毛布のとりことなって
 苦しみに耐えていた……」
      サンゴール「サバの子孫の呼びかけに答える」

 そのあいだにパリに留学生として来ていた黒人学生(その多くはフランス政府の給費生であった――フランス政府はその同化政策を推進するために黒人インテリの養成を行なうようになったので――)たちのあいだで、黒人としての自覚が生れるようになる。そしてこのような空気のなから「正当防衛」というバンフレットが生れることとなる。
 この雑誌は、シュールレアリストたちが大挙してフランス共産党に入党した短かい政治的季節のあとで、アンドレ・ブルトンがフランス共産党にむけて書いた「正当防衛」という同名の書物の名を冠していることからも察せられるように、シュールレアリズムの影響のきわめて色濃い傾向がみられた。「この運動はネグロ・アフリカ奴隷の子孫であるアンチイユ諸島の人間を発見し、三世紀のあいだプロレタリアートの境遇におとしめられていた奴隷を発見したのである。そして彼らをタブーから解放し、その連帯性を表明するには、ただシュールレアリズムあるのみと断定した」(サンゴール「黒人詩華集」)と、あとになってサンゴールがかいているように黒人解放の武器としてフランスの若い詩人たちが開始していたシュールレアリズム運動に心からの共鳴をあらわしたものであった。それは幾分子供らしく狂的な運動であったが、まさに黒人世界のルネサンスを告げる鐘の音であり、夜明けの光りであった。

    2 奇跡の武器・シュールレアリズム

 サルトルは「黒いオルフェ」のなかでこう書いている。
 「とはいっても黒人が『外国』の言葉で意志を表わすというのはほんとうではない。なぜかといえば彼らは子供のころからフランス語を教わるし、技術屋となっても、学者となっても、政治家となっても完全に自由自在にフランス語をあやつるからだ。だがひとつここでいっておかねばならないのは、彼らは自分のことを語る場合、語りたいと思うことと実際に語ることとのあいだにいつでもある軽いずれについてである。北方のエスプリは彼らの思想に一杯食わせるように思われるし、彼らが思っていることをいくらかでもあらわそうとすれば軽いゆがみが生じるようである。白人の言葉は砂が血を吸いとるように彼らの考えを吸いとってしまうようにみえる。そこで彼らは突然われに返り、自分を反省し後しざりすることになるが、そのとき言葉は彼の前面に冷たく、半分は意味をもちながら半分は物体のように横たわっている……彼らのおのおのは直接表現の手段と考える言葉を前にしてのこの坐折感が詩を作る際に生じることを知っているのである。」
 サルトルは、黒人がフランス語で詩をかくときに覚えるこのような坐折感からシュールレアリズムの詩運動へ共感して行った原因を説明しようと試みている。サルトルは「……暗示の言葉でもって、決して直接に名ざすことなく、沈黙の物体を呼び起し、それを同じ沈黙のなかに打ち静まらせること」(マラルメ「呪法」)、つまり詩とは言葉が終ったとき、その消失によって実在が暗示されるという呪法のこころみである、とするのであるが、黒人たちは自分たちの言葉として肉体化するに至っていない外国語(フランス語)を使用するにあたって、物体化された言葉をあやつることになるので、このことがシュールレアリズムの詩運動との親近な関係を生み出すのだとしている。
 黒人たちが学ばされ、押しつけられた言葉を分解し、それを逆用して植民主義者たちへの反抗を実践するのである。

 「毛虫の雨が小股で走る
 牛乳一ぱいが小股で走る
 ビー玉ゴロゴロ小股で走る
 地震のなえが小股で走る
 地中のイモが星の抜け穴から大股で走る」
      (セゼール「奇跡の武器」)

 セゼールは言葉を分解し、形骸のみとなった空っぽの言葉を「詩」とすることに成功し、シュールレアリズムのことを「奇跡の武器」と呼んだのである。
 しかし、サルトルのこのような理解の仕方のほかに、別の理解の仕方がないわけではない。サルトルは外の誰よりも政治的であるので、「ヨーロッパの詩の運動であったシュールレアリズムは……ヨーロッパ人から黒人によって盗まれたが、黒人はそれをヨーロッパ人に向って用い、きわめてハッキリした役目を附与することになる」(サルトル「黒いオルフェ」)とのべるが、彼はこのとき、アフリカ人自身のなかにもともとからある「言葉と行為の同一性の原理」を見落している。

 「そしてオレは語る。
 そしてオレの言葉は平和
 そしてオレは語る そしてオレの言葉は大地……」
     (セゼール「奇跡の武器」)

 セゼールの詩認識であると同時に行為である。「これは美学以上の存在しうる詩的形態であり、まったく稀有な価値をこの形態に与えるものである。シュールレアリズムのモラルと呼びうるのはかかるものであり、『シュールレアリズム的人間』とはこのようなものである」と、G・ピコン※は「現代思潮パノラマ」のなかでセゼールについてのべている。
 エーメ・セゼールの詩には「言葉=行為」という概念をあらわすような多くの例が存在している。ランボオの「地獄の季節」と比べられる「帰国手帳」から二、三の例をひいてみることとする。

 「オレは偉大な伝達と偉大な燃焦の秘法とをもう一度みつけ出してやろう。オレは嵐といおう。河といおう。旋風といおう。木の葉といおう。樹といおう。オレはあらゆる雨を浴び、あらゆる露にぬれるだろう。オレは言葉の眼のゆるやかな流れの上を熱狂した血のようにころがって行くだろう。気狂い馬となり、新鮮な少年となって小さな石ころとなり 火屋となり 寺院の廃墟となり 探鉱夫をガツカリさせるほど遠くにある宝石となって おれはころがって行こう。オレが理解できない奴には しょせん虎の吼え声はわかりはしないだろう」
     (セゼール「帰国手帖」)

 彼がコトバをとなえたトタンに物は現出するのである。行為は完了するのである。

 「ブーム ルーフ オ*
 ブーム ルーフ オ
 蛇に魔法をかけ 死人に
 お祓いをするように
 ブーム ルーフ オ
 雨を呼び津波を手に入れるために
 ブーム ルーフ オ
 闇がめぐらぬよう邪魔するように
 ブーム ルーフ オ このオレに空が
 ひらけますように」
     (セゼール「帰国手帖」)
     *黒人のまじないの呪文であろう

 言葉は音声となり、音声は行為となって実現するのである。このような信念は黒人たちの幻想となる。いや、というよりも幻覚と現実は分ちがたいカオスの状況を現出する。夜更けまでジャズに合せて踊り狂う黒人たちは、このような現実のカオスを証明するものにほかならぬであろう。
 シュールレアリズムは西欧人にとっては精神革命の武器であったが、黒人にとってそれは植民主義者に対する政治的反抗の武器であり、かつアフリカ人の遠い祖先の反合理的な直観的認識法の再発見のための武器でもあった。このことを具体的に明らかにしているエピソードについて語ることにする。しかしそのまえにアンドレ・ブルトンとエーメ・セゼール夫妻の出逢いについてのべよう。
 一九四一年、ヴィシー政権の支配するフランスを逃げ出したブルトンは、アメリカに渡るまえにフランス領土であるマルチニック島を訪れている。そのとき彼はフオール・ド・フランス市(マルチニツクの首都)の近くの集中キャンプに入れられたらしい。だが一週間目にはそこを出されて町にあらわれる。そのときのことを彼はこう書いている。
 「一週間たってキャンプを出たとき、ぼくは好奇心で胸をふくらませて町に飛び出した。はじめて珍らしいものを探そうと、眼のくらむような市場、音たててうなる蜂雀、それからポール・エリュアールが世界一週の旅行から帰ってきたとき、世界のどこの女よりも美しいとぼくに言明した女たちを探しに出かけた。
 だがすぐ……この町には何もないことがわかった。ショウインドーには商品があるが……動きはゆっくりしており……遠くで警報の鐘が鳴っていた。
 こういう状況の下で、ぼくは偶然ぼくの娘の土産にリボンを買おうと店に立寄って店頭にあった出版物をめくっていた。その本はきわめて質素な表装であったが、これがこの町で出たばかりの『トロピック』と名づけられた雑誌の創刊号であった。そこには、この一年来の思想の貧困がのべられており、マルチニックでは反動的官憲からの干渉で何もできなかったことがのべられていた。ぼくは大変興味をもってその論文を読んだのだった。
 そこに書かれていることは、いわるべくしていわれたことでありしかも声を大にしていわねばならないことであった。渋面の闇の影はずたずたに引きちぎられ、やっつけられていた。あらゆる嘘や物笑いの種が、ぼろぼろにやっつけられていた。このように人間の声は防ぐことはできないのだ。人間の声はここでもまた光のすじのように立ち上っているのだ。エーメ・セゼールというのが、そういう話をしている人の名であった……
 ここのところ数ヶ月というもの、フランスで出版されていたものが、媚びへつらいのものか、さもなければマゾヒズムの印のついたものばかりであったのに比べると、トロピックは全く対照的で堂々たる大道を切りひらいているようであった。『われわれは闇にむかって、ノンというところのものたちだ』とセゼールは宣言していた」(アンドレ・ブルトン「帰国手帳」への序文。「フオンテーヌ」誌に一九四四年に掲載された)
 ここで言及されている「トロピック」という雑誌が出たときの背景はこうである。フランスは対独協力のヴィシイ政府の下にあり、マルチニック島はその代表者の支配下にあった。言論取締りはきびしく圧政下に自由の空気はみられなくなっていた。当時フオール・ド・フランス市の高等中学で教鞭をとっていたセゼール夫妻は、朝礼のときヴィシィ政府の国旗掲揚式に立ち会わねばならなかった。二人ともこの式に出席しなかったので、セゼールの妻のシュザンヌは首にするぞと脅かされた。セゼールもまた同じ目にあったが、彼の父親から総督に嘆願書が出されて事なきを得たという事件があった。セゼールの勇気は学生たちの崇敬をうけた。彼らにランボオやマラルメの詩の講義をする先生は彼らのあこがれの的となることになった、という。
 「トロピック」の評判は高くなり、セゼールの名はキューバやハイチまで有名になるが、紙の不足、官憲の妨害で出版はいよいよ困難になる。そこで、こういう状況のもとで、官憲の眼をごまかすために、いよいよシュールレアリズムの難解な語法が「奇跡の武器」としての威力を発揮することになるのである。「トロピック」は政治には関係しない。ただ民俗をとりあつかうだけだという約束をさせられているのである。しかし官憲や島のブルジョアジーは、そこにどういうことが書かれているかをうすうすとは感じているので、印刷屋に手をまわして「トロピック」を刷ると罰するぞ、とおどす。そこで三年目にはついに出版が不可能になる。しかし、その間セゼールは多くの若い作家や詩人を育てていた。有名な「黒い肌、白い顔」や「大地の呪われたもの」を書いて、アメリカで不慮の死をとげることになったフランツ・ファノンも、作家のエドアール・グリツアン※も、詩人のジョルジュ・デ・ポルトもセゼールの弟子である。
 セゼールが「帰国手帳」を書いたのはパリの学生時代のころで、まだ完全にシュールレアリスト詩人とはいえない。彼の詩のうちでもっともシュールレアリスト的なものは「奇跡の武器」におさめられている詩群である。現状を公然と批判することができなかったセゼールは、同時に黙っていることもできなかった。こういう状況下で「奇跡の武器」は生れたのである。
 「近代世界が私たちに残してくれた戦いの強力な武器のなかで、われわれはシュールレアリズムを撰び、それは成功の機会を確実に与えてくれた」(ジュザンヌ・セゼール「シュールレアリズムとわれら」)

    3 ネグリチュードの誕生

 一九三〇年一九四〇年のあいだに、アフリカとカリブ海出身の黒人学生たち、とくにサンゴールとセゼールとレオン・ダマの三人はネグロ・アメリカの作家クロード・マッケイ、ジャン・トーマー、ラングストン・ヒューズ、カウティ・キュレーンなどと交友をもった。
 何世紀もまえにアフリカからアメリカに連れ去られた黒人奴隷の子孫のあいだから多くの詩人・作家を生んだことはあまねく知られているが、これらの詩人との交流はパリの黒人学生に多くの影響を与えることになった。
 カウンティ・キューレーンの次の詩をみてみよう。疎外された黒人の自覚である。

 ある日のことオレはバルチモアでとびはねていた
 胸も頭もうれしさで一ぽい
 ところでひとりのバルチモアの子が
 オレを穴のあくほどみてるじゃないか
 その子はオレよりそんなに大きくはなかった
 そこでオレはその子にほほえみかけた
 ところがそいつは
 舌をペロリと出して、オレにいった
 黒ん坊め
 三月から十二月まで
 オレはバルチモア中歩いていたが
 オレのおぼえていることはたったひとつ
 そのことだ。

 クロード・マッケイは白人世界で疎外されている黒人の姿をその小説「バンジョー」のなかで、ありのままに描いている。彼はこうものべている。
 「フランス人という奴はこの地上でもっとも文化のすすんだ国民だと宣言してはばからない。彼らは黒人が女郎屋に行くこともゆるしている。彼らは黒人から愛されていると思っている。しかし……セネガルのサンゴールは私にいった。フランス人という奴はアフリカにいるヨーロッパ人のうちで、一番勘定高い奴らだと」
 こういう証言は、いまセネガルの指導者となり対仏協力を軸とし国の発展をはかっているサンゴールにとっては、具合の悪いものかも知れない。が、しかし、一九三〇年代には、そういうことであったのだろう。
 このような「のけもの」である黒人が人間として尊厳を要求することは当然のことである。
 「猿と間違われぬように片時も手から本を放すことのない」(クロード・マツケイ)黒人インテリ、「肌の色を抜いて、ちぢれ毛をのばす方法」(同)の出ている新聞広告に飛びつく黒人女。
 しかし、そのような黒人の運命から脱れようとするものたちばかりではない。その条件を正面から肯定し、運命を切りひらこうとしている若ものたちもいる。

 神様ありがとう、黒ん坊に生んでもらってありがとう
 ぼくの頭の上に
 世界を
 あらゆる苦しみのありったけを
 のせてもらってありがとう。
 ぼくはそれをサントールから取り返えし
 最初の朝からぼくは世界を支えている。

 白というのは間に合せの色
 黒というのは常の色
 そして最初の宵からぼくは世界を支えている。
 ………………………………………………
     (ベルナール・B・ダディエ「神様ありがとう」)

 サンゴールは白人がくる前のアフリカの平和な姿を回想している。がしかし、現代においてむかしへ帰ることは不可能である。「われわれは二〇世紀のパリの学生である。われわれがよりわれわれ自身であるためには、二〇世紀の現実のなかでのネグロ・アフリカ文化に肉体を与える必要がある。われわれのネグリチュードは博物館の一片の陳列物であってはならない。それが解放のための有効な一手段であるためには、それのカスを取り去って、現代の世界の具体的な運動のなかにそれを当てはめてみなければならない。これが一九五六年九月、ソルボンヌに象徴的に集まった黒人芸術家および作家第一回会議の結論であった」(サンゴールのアフリカ結集党党規約決議会議における「党の原則および宣教に関する報告」)
 サンゴールはまた彼の平和なアフリカでの幼時と対照して、

 「あ! いく度となくお前はわたしの心をおどらせたことであろう、狭い檻のなかの豹のように。
 夜よ、理性や サロンや 詭弁や 豹変やいいわけや 計算づくの憎しみや うわべを飾った人殺しなどからわたしを解放してくれる夜よ
 夜よ、あらゆるわたしの矛盾を、お前のネグリチュードの最初の統一にある矛盾を落しこんでしまう夜よ
 十二年のわたしの放浪も老いさせることのできなかった児どもをいつまでも若い児どもを受けとっておくれ
 わたしはヨーロッパからこの友だちの児どもだけを連れてくるのだ ブルターニュの霧のなかの明るい眼の児どもを連れてくるのだ。
     (サンゴール「コーラとバラホンの伴奏で」)

 サンゴールがアフリカの夜と呼んでいるのは、白人と接触せぬ遠い村で幸せに生きていたころの夜である。グリオと呼ばれる一種の吟遊詩人がバラホンを手に奏でながら古来の詩伝説を歌っていたころのアフリカの夜である。
 サルトルはネグリチュードを、ヘーゲル弁証法をつかって、白人文明を否定する契機であるとしている。そしてその次にくるシンテーゼとして人種差別のない「人間」の文化社会を考えている。サンゴールは彼の評伝作家のアルマン・ギベールとの対談の際、こういうことをのべて、ネグリチュードの理想を描いている。
 「まったくそうです。機械と原子のヨーロッパ二〇世紀文明の侵入は、黒人の物質生活ばかりでなく――この方はまだいいのですが――精神生活も破壊しようとしています。この文明は黒人の魂から神聖という概念をなくしてしまいつつあります。思弁的理性が力を得て、そのために神秘な直観力が犠牲にされやせぬかと、わたしは惧れているわけです。……わたしは、つまりヨーロッパの真価をそこなわずにネグリチュードの源泉に導き入れようとしているのです。ヨーロッパ文明をアフリカ人のネグリチュードの源泉に導き入れるというのは、先に引用した「ブルターニュの明るい瞳」の見どもに象徴せられているが、かかる混血文化が、サンゴールの考えている明日の黒人文化の姿であると考えていいであろう。
 しかしサンゴールがはじめからこういう温和な混血文化を考えていたかは疑問であることもつけ加えておかねばならない。「ネグリチュードは他のものの拒否であり、他のものと同化することの拒否であり、他のもののなかに自分を見失なうことの拒否である」とものべているからである。ここではサルトル流の歴史の弁証法のなかでの否定の契機という考え方があきらかだからである。

    4 パノラマと未来への展望

 黒いオルフェの群れのなかに、レオン・ダマのユーモレスクな歌声を聞きわけずにおくわけには行かないだろう。
 なぜなら彼は植民地の土着民の姿をプロレタリアートとして捕えた最初の詩人だったからである。「これらの詩は植民地のプロレタリアートの巨大な群れの栄誉である。これらの地は、われわれの土地と同様うばいとったものではない。住民たちもまたそうである。ではペンと良識とに従って少しばかり見てみよう。わが友ダマによって、これらの詩は白人の兄弟に向って与えられた友情の歌であるといえるだろう。これはサバンナから工場への、農園から農家への赤道の工場からヨーロッパの工場への贈りものである……」と、デスノスはダマの詩集「色素」の序文で書いている。
 ダマはユーモラスな詩句で黒人の抒情をうたっている。そこには自嘲の調子がみられるが、しかしそれにもまして、黒人性を掘り下げた独得の抒情は多くの仲間たちの共感を呼んだだけでなく、心あるヨーロッパ人の注意をひいたのである。

 名づけようもない夜だ
 月のない 夜だ
 口のつまったトロンペットから
 噴き出す血のむごい匂いで
 息づまって死にそうな夜だ
 沼のように
 深く
 嫌悪がぼくのなかにイカリを下す夜だ。
     (レオン・ダマ「夜があった」詩集「色素」)

 これは黒人の音楽につれて白人が踊るキャバレーの夜の嘔吐をもようすような光景である。口のつまったトロンペットの音色は、ダマにとって黒人の血と嘆きにきこえるのである。ダマは教養のある黒人であるが、「おれの上品な振舞いも、文学の知識も、量子理論の学識も、何もかも役に立たない……黒人の神話という奴があるのだ。耳にタコができるくらい聞きあきた。やれ人食いの風習だ。遅れた心情だ。偶像崇拝だ。人種の欠陥だ、……」(フランツ・フアノン「黒い肌、白い顔」)という疎外感からどうしたら抜け出ることができるのか。
 ドイツで、ヒットラーのユダヤ人圧迫がはじめられたころ、彼はこううたう。

 セネガルの旧兵士に
 セネガルの未来の兵士に

 ぼくは彼らにたのむのだ
 セネガルに
 押し入るようにと

 こうしたダマの「色素」は、セネガル人に奮起をうながしたものであったが、皮肉なことに、象牙海岸で反響を生んだのであった。一九三九年の動員令に拒否をもって答えたアフリカ人の愛誦するところとなったのであった。そこで、フランス政府はこの本を発禁処分に付したということである。
 彼のユーモレスクな面をあらわした詩を少しく紹介してみよう。

 ある晴れた日にぼくもまた
 浮浪者のよごれた
 古着を取りだした
 ぼくもまた手助けの
 眼をもって
 貧しい淫売を助けてやった
 ………………………………
 そしてぼくは
 十銭おくれといえると思っていた
 へこんだぼくのお腹のためにめぐんでおくれと
 ぼくもまた
 どこまでも続く通りの涯まで
 めぐんでおくれと
 夜ごと夜ごと
 歩かねばならなかったことだろう
 凹んだ眼をして
 ぼくもまた眼を凹ませて飢えていた
 そしてぼくは
 十銭おくれといえると思っていた
 ぼくの浮浪者のぼろ服を
 あざけり笑う奴らをみるのは
 もう沢山
 凹んだ眼と凹んだお腹の
 黒ん坊をみて
 眼をまわすのはもう沢山だという日まで。
      (レオン・ダマ「ひとりの浮浪者が十銭おくれといった)

 サンゴールの温和ではあるが決然とした黒人の美質の主張、セゼールの反抗の激烈な叫び、ダマのあきらめに似たユーモアの調子、黒いオルフェの三人の代表者にはそれぞれニュアンスの違いはあるが、そこには一様に非西欧的な文学を生まうという体度が貫ぬかれている。そこには「芸術のための芸術」という余裕は生れていない。いずれも参加の文学の匂いがしみついている。美学と倫理とは分裂せず、美と有効性とが密着している。

 反仏暴動を扇動したという理由で八年間を獄中に送ったマダガスカルのラベマナンジャラは、獄中から美しい讃歌を故国マダガスカルに送っている。彼の詩篇はフランス文学の美の伝統を受けつぎながらも、断呼たる愛国の抒情がみなぎっている。しかも「ほんとうのところ、われわれの主人の言葉と同時に、マダガスカル語を、アラブ語を、バンツー語を話すという運命にあるのです。われわれは同一の言語はもっていないにしても、同じ言葉をもっているのですから、タマタブからキングストンまで、ポアン・タ・ピートルからゾンバまで、完全に理解することができるでしょう」(ラベマナンジャラ「植民地時代につちかわれたわれわれの統一の基礎」プレザンス・アフリケーン)とのべているほど、愛国心をより高次な反植民地のたたかいに昇華させることができたのである。

 しかし、いまや黒人の住む多くの国はそのほとんどが独立している。かつての反植民地主義と独立の熱情は、今では国づくりに向けられねばならなくなっている。そこには黒いオルフェたちにとっての共通のテーマが存在するのである。
 コンミュニスト詩人ルネ・デペストルはうたう。

 オレたちは知っている、おおわが黒人民衆よ
 皮膚の色素は
 色のない顔色をした資本に隠されてしまわないための
 防御物であることを、
 ………………………………
 オレたちは知っている
 奴隷商人の腐った眼と
 金銭の仲間たちの
 腐敗した舌の上だけに人種があるということを。
    (ルネ・デペストル「沖から」パリ、セゲルス社刊、一九五二年)

 「白人が黒人をつくる」と端的にいってのけたのはフランツ・ファノンであった。だが、彼も公正さをもたねばならぬと反省する。「ぼくには、有色人種のこのぼくには、アゴの先で使われていたあの祖先たちの弁償をしろと言い張る権利も義務もない。
 ぼくはいつかは世界のなかのぼくを発見するだろう。そしてたったひとつの権利を見出すだろう。人間らしく取り扱ってくれという権利を。……
 白人の世界というものはないのだ。白人の倫理というものもないのだ。それにまた白人の知性というものもないのだ。
 探しもとめる人間たちの世界があるだけだ」
       (ファノン「黒い肌、白い顔」)

 ここでもまた白人世界対黒人世界の対立が問題とされている。サルトルは黒人は白人に対する否定の契機であるといった。だから、ネグリチュードというものは過渡的なものであって、到達点ではなく、手段であって目的ではないとするサルトルの見解は、黒いオルフェたちによっても肯定されているようにみえる。「黒いオルフェたちがしっかりとそのユーリディスを抱いているうちに、ユーリディスはその腕のなかで消えてなくなるものと思う」といったことは正しいと思われる。人種差別がなくなって黒人が一人の人間として存在するとき、そのときこそ、「色のついた人間に、そしてこの色のついた人間にのみ色のついていることを誇りとすることをあきらめろ、と要求することができる」(サルトル)のである。
 黒人世界は独立を達成したとはいえ、相変らずの貧しさから解放されるにはいたっていない。相変らずアメリカでは黒人差別がある。そして黒いオルフェたちのまえには、多くのなすべきことが山積している。
 「淀みのなか ここに太陽に清められた
 百もの純血がある。
 あ! オレは観喜の地獄を感じる」
       セゼール「純血」詩集「奇跡の武器」)

 (付記)このささやかな紹介文はフランス語で詩をかく黒人の、しかもネグリチュードを中心にしてしかかくことができなかった。フランス語の黒人詩人のほかにも、英領植民地の詩人、ポルトガル領のアンゴラ、モザンビイクの詩人たちがいる。だがこれらすべての詩をかく人たちにはすべて、やはり同じく黒人性の主張という共通の主題が脈うつていることはいうまでもないことである。

「詩学」1964年11月号掲載


エメ・セゼール「帰国手帳」⇒『帰郷ノート/植民地主義論』砂野幸稔訳、平凡社、1997年 サルトルの序文も訳載されている
バズル・デビッドソン『アフリカの目覚め』西野照太郎訳、岩波書店、1959
バズル・デヴィッドソン『古代アフリカの発見』内山敏訳、紀伊国屋書店、1960
フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』海老坂武他訳、みすず書房 みすず書房からは著作集が刊行されている
エドアール・グリツアン⇒エドゥアール・グリッサン『レザルド川』恒川邦夫訳、現代企画室、2003年
『マホガニー 私の最期の時』塚本昌則訳、水声社、2021年 他
ガエタン・ピコン『現代フランス文学の展望』白井浩司訳、三笠書房、1954 他