
少年はイヌに向かって一生懸命話す。
「その星は遠い宇宙にあって、そこの人たちは、一人残らず船に乗って暮らしてるんだ。大きい船や小さい船があって、家も畑もお店も工場も学校も何もかもが船の上にあって、嵐が来そうになっても、すぐに天気のいいところに移動できるから、とっても便利で……」
*
惑星メアの表面は完全に海水で覆われていて、猫の額ほどの陸地も無い。数世紀前まではいくつかの小さな島々が国として栄えていたのだが、その僅かな突起も、無限に打ち寄せる荒波と雨で削られて、跡形もなく海中に没してしまった。
もともと暮らしの大半を海からの資源で賄い、舟に寝泊まりするのが当たり前だった人々は、大した混乱もなく、役所や議事堂など、最後の最後まで陸にへばりついていた施設を巨大な艀(はしけ)の上に移築すると、何事もなかったかのように生活を続けた。大小様々の船が緩くまとまった海上都市は、気象条件の良い場所や魚群を求めて移動するので、常に位置と形を変え続けた。二つやそれ以上の都市がくっついて一つになったり、また分裂したりも珍しくなかった。
メアの赤ん坊は歩くより先に泳ぎを覚える。今年七つになるアディだってもちろんそうだった。けれど、五つの時、浮桟橋と漁船の隙間で溺れかけてから、アディは海に入るのが怖くてたまらなくなってしまった。
「泳げない子は学校来ちゃいけないって」
アディがぐずると姉ちゃんが慰めてくれる。
「大丈夫だって。指使わないと足し算ができない子も、字を裏っ返しで書いちゃう子も学校には来てるんだから。それに、アディは本当は泳ぐのとっても上手なんだから、そのうちまた平気になるよ」
「うん……」
船倉は薄暗く、布団の敷かれた寝棚は二人が並んで腰掛けるには狭いけれど、暖かかった。船のきしむ音も、波の音も二人の耳には馴染みすぎてほとんど聞こえず、アディが鼻をすする回数も次第に減ってきた。姉ちゃんはアディに海のない世界の話をしてくれた。
「砂の山がずーっと連なってて、どこまで行っても砂ばっかりなの。砂はサラサラに乾いてて熱くて、風が吹くと舞い上がるんだよ。商人たちは大きな獣に荷物を積んで何日も何日も旅をする。それで持ってきた水を全部飲み干して喉がカラカラになった時、砂山の向こうに小さな真水の水溜まりとその周りの町が……」
*
ジャミールは、しがない土産物屋の店主で、まだ若いのに子どもが六人もいたから、うんと稼がなきゃと思っていた。店は貧弱なオアシスの町にある。昔は水も豊富に湧き出て大層栄えたものだが、今はめっきり水量が減り、観光ルートからも外れ、客足は遠のくばかりだった。
かろうじて岩塩を運ぶラクダのキャラバンが通るたびに幾らかのまとまった売上があるものの、政府が建設中の内陸に海水を送るパイプラインが完成すれば、ジャミールも塩商人も飯の食い上げになってしまう。
「まったく、やってらんねえ」
眼下の小さくなってしまったオアシスは、水の美しさだけは昔と変わりなく、青い空を映している。申し訳程度に生えた椰子の葉を揺らす風は穏やかで、その向こうに広がる砂漠には、ただ砂、砂、砂ばかり。いや、ちょっと見えにくいが窪地のような谷があって、そこには岩をくり抜いた二つ三つの部屋からなる貧相な遺跡があるにはある。
あれが首都のでっかい古代遺跡の、せめて十分の一ほどの価値があればなあ……。と、ジャミールが夢想していたその時、店の前にジープが止まり、自分は考古学者だと名乗る、ヒョロッと背の高い外国人が現れた。
「この近くに古墳があると聞いてきたんだが」
考古学者は現地ガイドを探していると言った。
「私が案内しますよ」
ジャミールは店の奥に声をかけ、まだ八歳の長男に店番を任せた。
「こっちです。こっち。崩れやすいから足元に気をつけて。なに、見てくれは地味だけど、首都の遺跡の三倍は古い時代のものだって話ですよ。こういうのは古いほど価値があるんでしょ? ここら辺一体を治めた王女の墓だと……」
*
狭い石段を登ったところに王女の部屋があり、その入り口のすぐ外に大きな水瓶が置いてあった。婢女(はしため)の目下の仕事は、日に三度、その水瓶の水をいっぱいにすることで、そのためには泉との間を何度も何度も行き来しなければならなかった。
部屋には、女たちや呪い師(まじないし)が大勢詰めかけて、王女の病を治そうと必死になっていたが、薬湯も呪いも効かないばかりか、王女の側仕えから順に同じ病に倒れていき、今では集落全体が病に侵されているようだった。どの住まいからもうめき声が聞こえ、火葬台では火が堪えることなく燃え続け、やがて薪が足りなくなって、変色した遺体が直に土に埋められるようになった。
日が昇る前に婢女は朝一番の水を汲みに、泉へと降りていく。まだ暗い天頂には半円の白い月が浮かび、泉の向こうに広がる金色の麦畑は刈り手を待っている。普段なら農奴たちが働き始める時間なのに、人っ子一人いなかった。
婢女は石段を登り、頭に乗せてきた壺から水を移そうとして、王女の部屋の前の水瓶がまだいっぱいなままなのに気づいた。いつもなら朝には空っぽになっているのに。
「……誰かいるの?」
入口の豪奢なカーテンの向こうから、か細い声がした。
「水を……、水をちょうだい」
婢女はかなり長い間躊躇(ためら)っていたが、部屋が静かなままなので、カーテンを少しだけ開けて中を覗いた。薬草とオリーブ油の匂いがする。お付きの者は一人もおらず、王女の小さな身体は布で包まれて寝台に横たえられ、ピクリともしないので、婢女は王女が死んでしまったのだと思った。
「水をちょうだい」
王女の目が開き、婢女を見つめた。婢女はそろりと部屋に入り、そこら辺にあった器に壺の水を少し入れて王女の口元にあてた。王女は夢中でそれをすすり、「ああ、おいしい」と言って目を閉じた。
「お前は誰なの? 名前は?」
少しして、王女はまた目を開き、そう尋ねた。
婢女が答えずにいると、王女は「外国人……奴隷なのね」と呟いた。
「お前にも心があるのかな? どこから攫(さら)われてきたの?」
「私は……」
婢女は口を開いた。
「私は、ずっと北方にある島から連れて来られました。父は私をアロと呼びました。未来の光という意味です。父は預言者でずっと先の未来を見ることのできる人でした」
「未来? 未来のことがわかるのに、お前……アロが攫われるのを防げなかったの?」
「父が見る未来は、もっとずっと先のことです。何百年も、何千年も。そこでは皆が平等で、王も奴隷もいません。病気も怪我も無くて、誰も彼もが安全で幸せなのです……」
*
カイトはゴーグルを外すと、白いソファに身を沈めた。古代の野蛮な世界でカルタゴがローマ軍に焼き払われるシーンを体験して、ちょっと疲れたのだ。
ここは高層住居の三八四階で、窓の外には全く同じ形の白い針のような住居が無数に、天に向かってニョキニョキ生えている。部屋の一つ一つにはそれぞれ一人ずつの市民が住んでいて、一歩も外に出ずに快適に暮らしている。住居は、あらゆる危険――天災、人災、感染症、事故、紛争から住民を守ってくれるのだ。
カイトのバイタルの乱れを検知して、ウィボットがすうっと近寄り、冷えたボトルを「ドウゾ」と差し出した。
身の回りの世話をしてくれるナニー型ロボット「ウィボット」の配合する飲み物には、精神に作用する成分が絶妙に配合されていて、飲み干したカイトはたちまち幸福な気分に包まれる。
これを飲み続けることに多少の疑問を抱かないでもないのだが、飲まずにいると「他の人間に会ってみたい」とか、「窓を割って外に出たい」とか、危険な考えが色々浮かんできてしまうから、結局いつも飲んでしまうし、得られる幸福感は何ものにも代え難い。
ご機嫌になったカイトは、そばにウィボットを呼んで、何か話をしてとせがんだ。
「退屈なのは嫌だ。うんと残酷で可哀想なやつがいい」
「ワカリマシタ」
ウィボットはデータベースにアクセスし、適合するエピソードを組み合わせて話し始めた。
「イヌガ、ヒジョウニ凶暴ニ進化シタ世界デノコトデス。ヒトビトハ満月ノ晩ガ来ルタビニ、コドモヲ一人生贄トシテ、イヌニ捧ゲナクテハナリマセンデシタ……」
*
少年が話し終えると、巨大なイヌは牙を剥き出してひとしきり笑った。垂れてくる涎(よだれ)を浴びないように、少年は身をよじる。イヌの涎は強酸で、ちょっとでも皮膚に付けば焼けただれてしまうけれど、足を縛っている鎖をうまく溶かせれば、もしかして逃げられるかもしれない。
幸い、イヌは退屈していて、少年のする話を意外なほど面白がって聞いてくれている。少なくとも今のうちは。
「どうした、もう終わりか。じゃあ、食うとするか」
イヌが口を開けると、ひどい匂いに目と鼻と喉が痛む。少年は「待って! まだだよ!」と叫ぶ。満月はまだ天頂にも達していない。あの月が西に沈むまで話を続けられれば、きっと鎖が溶けるはず。
少年は声を振り絞ってまた話し始める。
「あるところに、茶色い毛の生えた小さいイヌと……」
*
昼過ぎまでは晴れていて、とても暑かったのに、急に暗くなって冷たい風が吹き始め、空が鳴っている。
茶色い小さなイヌは雷が大嫌いで、遠くで雷が鳴りだすとクローゼットに入りたがる。
飼い主の少年も実はちょっと雷が怖いから、イヌと一緒にクローゼットに入り込んでドアを……本当はぴったり閉じたいけれど、真っ暗になるのも怖いので、ほんの少しだけ開けておく。
クローゼットの中はホコリと防虫剤の匂い。イヌは日向の土の匂い。母親のコートと父親のスーツの間に潜り込んで、少年はイヌの首を抱きかかえ、雷が鳴り止むまでイヌを安心させようと、長い話を始める。