「孤独の温度」片理誠

 目が覚めたら死んでいた。いや、死んでいるのに「目が覚める」というのは、変か。
 でも実際、そんな感じなのだ。自分でも何が何だか分からない。死んだという実感もまるでない。それどころか今も「誰だって死んだことなどないのだから、まぁそりゃそうだろうな」などと呑気なことを考えていたりする。そんな悠長な態度でいられる場合じゃないと思うのだが。だって、死んでるんだから。
 とにかく、気がついたら自分の体がなかった。一応、薄ぼんやりと輝く、白っぽい、シルエットのようなものはあるのだが、これはもちろん、俺の本当の体なんかじゃない。何やら出来の悪い立体映像めいていて、向こう側が透けて見えちゃってるし、触ることもできないのだ。もっとも、触ろうとしている自分の「手」自体もまた幻なわけだけど。まるでライトに照らされた霧のようなボディだ。
 ただ、よく目を凝らすと、青と白のストライプ柄のパジャマを着ていることは分かる。どうやら俺は寝ていたらしい。つまり、目が覚めたら死んでいた、というわけだ。
 それは良いとして(いや、ちっとも良くはないが)、ここはどこだ?
 辺りを見回してみる。
 俺は何もない、真っ黒焦げな荒野の真ん中で、阿呆のように突っ立っていた。
 変だな。だって俺は寝ていたのだろ? 実際、布団に入った記憶はある。寝た瞬間のことは覚えていないが、それはいつものことだ。
 しかし、ここには布団も、目覚まし時計も、俺の部屋にあったはずのもの全てが、って言うか、俺の部屋そのものが綺麗さっぱり何もない。必死に働いて毎月欠かさずに家賃を払っていた、あの愛しいオンボロ安アパートは、どこに行ってしまったんだ? 何だ、ここ?
 周囲には俺と同じような白っぽい人型のシルエットが沢山いた。たぶん、数万人以上だ。遠くの方の人は輪郭がぼやけてしてしまうので、はっきりとは分からないが。距離が近ければ大まかな形くらいは何となく分かる。十メートルくらいの範囲の中に、そんなのが二十名くらいいた。皆、不安そうにゆらゆらと揺れている。
 空は真っ暗で、月どころか星もない。街灯も一つもない。それでも意外と視界は利く。自分の周囲、半径二メートルくらいの範囲なら見えるのだ。うっすらと輝く自分自身の体が光源になるので。そんな人の形をした薄気味の悪いライトが何百、何千、何万と立ち並んでいるわけなので、地表全体がほんのりと明るい。不思議な光景だ。
 もっとも見えるとはいっても、この辺りには黒く焼け焦げた砂利のようなものが敷き詰められているだけなのだが。
 遠くの方、地平線の辺りでは、周囲をぐるりと取り囲むようにして、ルビーのような真っ赤な輝きが細い帯のように連なって広がっていた。その付近では黒い雲が下から炙られるように照らされている。中を絶え間なく青白い稲妻が走っていた。ああ。地獄のような光景だ。
 俺は本当に地獄に落ちたのだろうか。
〈いや、違いますね〉という声が頭の中でした。
 咄嗟に振り返ると、人型の中の一つが前方を指さしている。近づいてよく確かめてみると、隣の部屋に住んでいた山田さんだった。
〈あそこに若葉公園の門の一部が、辛うじて残ってます〉
 何ですって、と俺。こうしてお互いの思考だけで会話ができてしまうというのも不思議ではあったが、それよりも、ここはあの世などではなく、変わり果ててはいるものの、どうやら現世であるらしい、ということの方が気になった。
 実際、指さされた残骸に近寄って確認してみたが間違いなく、ひどく焼けただれてはいるものの、アパートの前にあった公園の一部だった。プレートはどこかに吹き飛んでしまったようだが、煉瓦とモルタルの土台の一部が残っている。
 何ということだ。俺は立ちつくす。
 ここが地獄ではないのだとしても、喜ぶ気にはまったくなれない。きっと俺のアパートは跡形もなく吹き飛んでしまったのだろう。頑丈な構造物の土台しか残らなかったほどの衝撃、破壊がこの辺りを駆け抜けたのだ。
 これほどの天変地異を生身の人間が生き延びられるわけがなかった。
 やはり俺は死んでいるってことか。
〈どうやら、そのようです。私もですが〉
 いったい夜中に何があったんですか?
〈さぁ〉
 と山田さんの霊魂が小首を傾げた。
 その他の人型たちも周囲に集まってくる。顔をくっつけるようにしてよく見てみると、近所の人たちだった。ぼんやりとした白い光に包まれているので、近づかないと誰が誰だか分からない。皆、寝間着姿だ。
〈私たち、寝ている間に死んじゃったってこと?〉
〈困ったな。明日、朝イチで会議があるのに〉
〈たぶん、会社も消滅してますよ。これだけの規模なんですから〉
〈ううむ〉
 いったい何があったんですか? 誰かご存じないですか?
 さぁ、と彼らは全員、首をひねった。
 ある人が〈きっと、どこかの国が戦争をしかけてきたのでしょう〉と言った。
〈だってこれほどの被害ですよ。見てください。どこもかしこも焼け野原だ。東京全体が一瞬で消滅している。こんなの、核兵器以外には考えられないじゃないですか〉
 なるほど。
〈原爆が爆発すると、落下中心地は三千から四千度もの高温にさらされるそうです。更には秒速三百メートルもの爆風も。いや、これは第二次世界大戦の頃の話だ。今では更にもっとずっと高性能になっているはずですよ、核兵器だって〉
 ですが、どこかの国から宣戦布告があったなんてニュースは、なかったように思いますが。
〈不意打ちだったのかもしれません。あるいは本当は宣戦布告はあったのだけれど、政府が隠していたのかも〉
 何やら陰謀論めいてきたな、と思っていると、〈だったらテロリストの方が怪しいんじゃないかしら〉と別の誰かが応えた。
〈最近ニュースで、プルトニウムが盛んに売買されているってやってたわ、世界中の闇マーケットで〉
 ああ、そのニュースなら俺も見たことがあります。
〈どっかの国の、どっかの自治体が、横流ししてるらしいのよ。汚らわしい原発の排泄物が黄金に化けるんですもの、誰だって魅力的に思うわよね。
 プルトニウムの代わりに鉄くずでも放り込んでおけば、どうせ誰にもバレっこないんだし。高レベル放射性廃棄物の地下貯蔵施設をわざわざ本当に確認する人なんて、いるわけないものね〉
 そのプルトニウムが、テロリストたちの手に渡ったと?
〈そうよ。銭の亡者たちにとっては、自分たちが密売したものがどこでどう使われようと、知ったことじゃぁないんでしょ〉
 俺らって、そこまでテロリストたちに恨まれていたんでしょうか?
〈さぁ。でも、人間の心なんて、誰にも分からないものよ〉
 なら、もっと得体の知れないものがあるぞぃ、という声が、どこからかあった。
〈AIじゃよ、AI〉
 は? AI? あんなものが?
〈AIっつっても、昔流行った生成AIなんかじゃぁないぞ。最新の、完全自律型AIさ。こいつぁ人間が何一つコマンドを与えなくても、自分で勝手に問題を見つけ、それを解決しようとするんじゃ。あんなもん、暴走するに決まっとる。わしゃぁ、最初から反対だった〉
 つまりこの事態は、軍事システムの暴走が引き起こしたということですか?
〈フン。AIどもは、暴走とは認めんじゃろうがな。ま、奴らなりの解決方法じゃったんじゃろうよ。何がそんなに気に入らなかったのかは知らんがの〉
 そんな、だとしたら滅茶苦茶だ。
〈僕は違うと思いますねぇ〉
 え?
〈人間をここまで無慈悲に殲滅(せんめつ)するなんて、人間にはできっこありませんよ〉
〈AIは人間じゃぁないぞぃ〉
〈ですが、人間がこさえたものであることに変わりはありません。完全自律型AIには何重ものガードがかけられているはず。暴走なんてするはずがない。ましてや最終戦争をしかけるだなんて。とんだファンタジーだ〉
 ですが、人間ではないとするなら、では、これはいったい?
〈決まってるじゃないですか、宇宙人ですよ〉
 はぁぁ? う、宇宙人?
〈そうですとも。奴ら、とうとう僕たち地球人を銀河の脅威と見なすことにしたんだ。僕たちの文明は結局、彼らのテストをパスすることはできなかった〉
 うーん。でもそんな可能性まで持ち出すのなら、もう何でもありってことになるのでは、と俺は思った。
 実際その後に、いいやこれは神の怒りなんだとか、地底人の逆襲が始まったんだとか、我々は今まで夢を見ていただけで、この終末世界こそが唯一無二の現実なんだ、といった意見が百出し、議論は収拾がつかなくなった。
 少なくとも、ここら一帯が滅んだ、ということだけは確実だった。俺たちは全員、死亡した。誰も自分が死んだ瞬間を覚えていない。本当に一瞬の出来事だったのだろう。これほどの人数を即死させるなんて、何という凄まじさだ。
 不意に思考が割り込んできた。
〈僕たちはどうして天国に行かないの?〉
 え?
 小柄な人型が俺を見上げている。
〈死んだ人の魂は、神様とか仏様のところに行くんだって、ずっと前にお婆ちゃんが言ってた〉
 ん。そうか。
 何て応じればいいのか分からないでいると、誰かが代わりに答えてくれた。
〈天国に入る前に、裁判を受けなきゃいけないんだよ。地獄に行かなきゃいけない人もいるからね〉
〈裁判? その裁判て、いつあるの?〉
〈さぁ。でも、だいぶ先になるかもしれないね。一度にこれほどの人数が亡くなったわけだから。きっと混んでるんだと思うよ、神様や仏様の裁判所も〉
〈そっかぁ〉
 あぁ。本当にそうならいいな、と俺も思った。
 詰まるところ俺たちは今、地上をさまよう幽霊になっているわけだ。いつまでもこんな宙ぶらりんの状態でいたいとは思わない。辺りはろくな眺めじゃないし、死んでしまってるのではこの先の楽しみもない。それに、とにかくここは寒いのだ。先ほどから急激に寒気がし始めた。風邪でもひいたのかと思うほどに。
 こんなところで呑気にお喋りしている場合じゃないってことだけは確実だったが、ではどうすればいいのか。これから何をするべきなのか、さっぱり分からない。
 考え込んでいると、山田さんから〈では、私はこれで〉と挨拶された。
 え。
〈ちょっと実家が心配なので、見てきます。電車は動いていないでしょうけど、ま、埼玉県ですので、何とか歩いていけると思います〉
 東京がこれじゃ、埼玉だって。
〈きっとひどいことになってるでしょうね。とは言え、まずは確認してみませんと。父も母も歳ですので、色々と気がかりなんです〉
 そうですか。どうかお気をつけて。
〈ありがとう。あなたもどうか、お大事に〉
 こう言い残して、山田さんは去っていった。
 変なやり取りだな、とその後ろ姿を見送りながら俺は思った。俺たちはもう、どっちも死んでいるのに、と。

 山田さんと違って、俺には家族なんて一人もいない。安否が気になるほどの友人もいない。しがない派遣社員として日々をただ忙しく、どうにかこうにか凌いできただけの人生だった。考えてみれば随分と希薄な人間関係の中を過ごしてきたわけだが、生きている間はそのことを特に何とも思っていなかった。周りもそんな感じの人ばかりだったし、それでそんなに困ることもなかった。濃密な人付き合いについて回る煩わしさの方が、俺にとっては遙かに厄介で、忌まわしかったのだ。
 あの拷問のようだった日々が綺麗さっぱりなくなっって、労働という名の苦役からこうして完全無欠に解放されてみて、ふと思うのは、今のこの何とも言えない気持ちを誰とも分かち合うことができないというのは、やっぱりちょっと寂しいもんだなということだった。
 親友なり、恋人なり、別に親でも構わないんだが、お互いのことがよく分かっている話し相手が一人でもいてくれたら、俺はその人のところに向かって歩いていただろう。会ったからってどうなるものでもないだろうが――何しろこっちは死んじゃっているわけなので――それでも、やっぱり。
 たまに挨拶を交わす程度の付き合いしかなかった、ほとんど見ず知らずの間柄と言っていい幽霊たちと、それ以上の会話をする気になれなかった俺は、とりあえず何も当てのないまま適当な方に向かって歩き始めた。
 歩いてみてすぐに分かったのは、幽霊と幽霊はぶつからない、ということだった。すれ違ってみても、特に何も感じなかった。物とも接触しない。おかげで何かに引っかかって転ぶこともない。裸足なのだが、尖った石を踏んで怪我をすることもなかった。それどころか、川などの水の上を歩いて渡れるのだ。そもそも自分の体重というものをまったく感じない。おかげで疲労することもなかった。ずんずん歩いてゆける。
 しかし切実に困ることもある。どれだけ歩いても、走っても、体が温まらないのだ。脇目も振らずに移動しているというのに、汗をかくどころか、寒くて寒くてしかたがない。急速に自分の中からエネルギーのようなものが失われてゆく感覚がある。この世の一切の温もりから突然、隔離されてしまったような、そんな感じがする。もし今、生身の体があったら、カスタネットを手にした子供のように、俺も自分の奥歯をずっと鳴らし続けているに違いない。死んだ直後はそれほどでもなかった寒気が、どんどんひどくなってきている。凍えるどころか、本当に凍ってしまいそうだ。
 あらゆる厄介事、様々な欲望や煩悩、執着等々から解放されたその先にあるのは、満ち足りた安楽の世界――などではなく、何もない、温度すらもない、絶対零度の世界なのかもしれない。俺はこのままここで固まって、砕け散ってしまうのだろうか。
 ああ、くそう、と俺は真っ暗な空を見上げる。
 あの雲の向こうから天使が降りてきて、「やぁ、随分とお待たせしてしまいましたね。やっとあなたの番ですよ。さぁ、私と一緒に神の御許に参りましょう」とか何とか言って、俺をあの世に連れて行ってくれないものだろうか。行き先はできれば天国がいいが、もうこの際だから地獄でも構わない、という気すらしてきている。極寒地獄だって、ここよりはマシだろう。
 歩いた先にあったのは、ひどい光景だった。
 地平線の辺りで輝いていたあのルビーのような光は、やはり炎だった。俺がたどり着いた頃には完全に燃え尽きていたが。しかし、そこに燃え残っていたものは――
 俺は最初、その真っ黒に焼け焦げたものを、マネキンなのかと思った。だが、いくら何でも数が多すぎた。それらは複雑に絡まり合って網状になり、見上げるほどの巨大な壁を形成していたのだ。それが左右に果てしなく広がっている。まるで東京をぐるりと取り囲む暗黒の津波かダムのようだった。あの一つ一つはもちろん人形などではなく、人間だ。衝撃波で吹き飛ばされた人たちが、ここで折り重なって焼かれたのだ。全体で何人いるのかなんて、想像もつかない。たぶん、一千万人以上だ。
 おびただしい数の幽霊たちもいた。寝ている間に即死した俺とは違って、この辺りの霊魂たちはすぐには死ねなかったらしい。苦しみぬいた挙げ句に亡くなった人々だ。彼らは全員、怒り狂っており、まるで悪霊のようだった。
〈お前かぁぁぁッ! 俺たちをこんな目に遭わせたのは、お前くゎあぁぁぁーッ!〉
 違いますよ。俺じゃありません。
 連中が一斉に襲いかかってくる。が、何しろお互い既に死んでいるわけなので、殴ることはおろか、つかむことすらできない。くそぉ、くッそぉぉぉ、と彼らは無念そうに叫んだ。
 落ち着いて、よく見てください。俺だって死んでるんです。あなたたちと同じ、被害者なんですよ。
〈畜生ッ! 絶対に犯人を見つけ出して、復讐してやるッ! 必ず呪い殺してやるからなぁあああああッ!〉
 ええ、ええ。是非、そうしてやってください。
 そう言い残して、俺は更に先へと進んだ。

 俺はその後、一晩中歩き続け、その後もずっと歩き続けた。いつ夜が明けたのかは分からなかった。黒い雨がずっと降っていた。ただ何となく地平線の向こうがぼんやりと明るくなったので、もしかしたら朝が来たのかもしれないと思っただけだ。
 疲れないのを良いことに俺はずっと移動を続けた。黒い雨はやがて、黒い雪に変わった。あの日以来、一度も太陽を見ていない。空は常に闇に覆われていた。
 それでも時折、太陽かと見まごうほどの光が、遙か彼方で輝くことがあった。誰がどんな理由でやっているのかは知らないが、日本への攻撃はまだ続いているのだ。全ての都市を木っ端微塵に吹っ飛ばすつもりなのだろう。
 いや、滅ぼされているのは日本だけではないのかもしれない。
 俺は天を見上げる。
 たった一国を攻撃するだけで、空があんなに暗くなるだろうか。核攻撃によって舞上げられた塵や煤などは成層圏に滞留することになるが、それって一箇所に留まったりはせず、あちこちに拡散してゆくはずだ。今ここは真っ暗なわけだが、これは地球規模で起こっているはずなのだ。それほど膨大な量の塵だの煤だのが、日本への攻撃だけで発生するものなんだろうか。
 もしかすると世界全体が滅びようとしているのかもしれない。
 だとしたら、いつまで経っても天使が現れないのも無理のないことに思えた。
 たぶん、俺のような善人でもなければ悪人でもない、ごく平凡な人間は、天国にも地獄にも行かず、ただ単に生まれ変わるだけなのだ。普通ならば。
 だが今、世界は普通の状況からはほど遠い。こんな死の世界にもう一度生まれたところで、どうせまたすぐ死ぬことになる。無意味な繰り返しだ。だからこうして、天国にも上がれず、地獄にも落ちず、現世に生まれ変わることもできず、ただひたすらさまよっているのではないだろうか。何となくだが、そんな気がするのだ。
 それにしても人間以外の霊魂をまったく見ないのは、ちょっと不思議だった。一寸の虫にも五分の魂というが、五分の魂なんて一度も見ていない。虫だけでなく、獣や鳥、草木の魂もだ。もしかすると魂は人間にだけ宿るのだろうか。それとも感じられないだけなのか。魂にも波長のようなものがあって、自分と周波数の異なる霊魂は見えないのかもしれない。詳しいことはよく分からないが、とにかく周囲にいるのは人間の幽霊ばかりだ。
 ピントがぼけてゆくように、彼らの輪郭が徐々に曖昧になっているように思えた。そしてそれは俺自身も同じだった。もういくら目を凝らしても、自分が着ていたはずのパジャマは見えない。両手の指も数えられない。よく見えないのだ。もっとも、だからといって何かが困るわけでもない。服なんかあろうがなかろうが、誰も気になどしないし、とにかく寒くてしかたがない。指や手があったところで、何かをつかめるわけでもなかった。
 自分が凍り付いて、ボロボロと周囲から欠けていっているような感覚がある。自分がどんどん小さくなっていっている気がする。今はまだ生前の自分の名前や生活を思い出すことができるが、いずれそれも困難になるだろう。雪山をさまよう遭難者のように、様々な感覚が鈍くなってきている。
 このままでいくと最後には人魂のような、何の特徴もない、小さな固まりしか残らないのかもしれない。個性がどんどん削り落とされて、人としての意識も保てなくなったら、最後に残るのは「一個」という単位だけだ。魂なんてのは、例えるならばシューマイの上に乗っているグリーンピースやコーンのようなもので、それ自体に特徴なんて必要ないのだろう。水素原子の一つ一つにいちいち名前をつける者などいない。識別する必要がないからだ。恐らく宇宙から見れば俺たちの魂も、そんな程度のものなのだ。
 黒い雨に打たれ、黒い雪に覆われて、地上からは生命の姿が消えていた。辛うじて難を逃れることができたごく少数の人間たちも、限られた水や食料を奪い合って、結局は共倒れになったようだ。
 一人だけ、まだ生きている人間を見かけた。
 地下鉄のホームの隅で膝を抱えてうずくまっている小さな人影。全身真っ黒で、男なのか女なのか、大人なのか子供なのかも分からない。ただ血走った大きな目だけが、異様にギラギラとしていた。
 すぐ目の前に未開封の食料パックやミネラルウォーターのペットボトルが置いてあったが、それらには手をつけようとせず、がたがたと震えながら自分の指を盛んに噛んでいる。そのせいで口の周りが血だらけだった。
 既に数十人もの幽霊にたかられていたが、当然のことながら、本人はそのことには気づいていないようだった。
 ところでその幽霊たちだが、彼らは口々に〈駄目だ、駄目だ!〉と叫んでいた。
〈こんな死にかけの人間にとりついても、温もりなんてまるで感じられない!〉
〈寒い! 寒いんだよ! 死んでしまいそうだ〉
〈温もりを、誰か私に温もりを、体温を!〉
〈もっと元気溌剌な人間を見つけなくては〉
〈辛いよぅ、苦しいよぅ〉
〈誰か助けて〉
 永遠に来るはずのない電車を、この人はここでただひたすら待ち続けるのだろうか。
 俺は彼(あるいは彼女)に何か声をかけてあげたいと思ったが、何も言葉が見つからなかった。それにどっちにしろ、俺の声が届くはずはないのだ。

 いったいどれほど歩いたのかは自分でも分からない。とある大きな都市の真ん中で俺は足を止めた。かつては公園だったのかもしれないその場所は、街の中心部にあるにしては広々としていて、見晴らしがいい。
 今日も黒い雪が降っている。
 周囲には俺の他にも数人の幽霊がいた。皆、ただじっと立っている。俺も彼らに倣(なら)った。
 別にベンチに腰掛けても良かったのだが、それも少し億劫(おっくう)だった。体重がないので疲れることがなく、ゆえに楽な姿勢をとる必要もない。
 もし神様に「次は何に生まれ変わりたい?」と聞かれたら、「木になりたい」と答えようか、とふと思いついた。ただ突っ立ってるだけの木に、今は何となく心が惹かれる。もっとも、世界がこんな有様では、それとて望むべくもないことだが。
 山田さんはご両親に会えただろうか。
 そんなとりとめのないことを考えながら、俺は目を閉じる。
 その後どれくらいそうしていたのかは、時計がないから分からない。もしかしたら数時間くらいだったのかもしれないし、あるいは何年も経ったのかもしれない。
 何かが風を切る、大きくて甲高い音を耳にして、俺は目を見開いた。
 音は頭上からだ。
 来た、と思った。ついに来た。俺はずっとこれを待っていた。
 誰が何の理由でやっていることかは知らないが、あの徹底した破壊ぶりからするに、まだ攻撃されていない都市の中で待機していれば、そこでも何かが起こるかもしれない、という俺の予想は見事に的中したのだ。
 あの凄まじい金切り声の主がどこかから飛んできたICBMだろうが、核爆弾を満載したテロリストたちの爆撃機だろうが、あるいはAIの操縦する自爆型ドローンだろうが、今まさに地球に体当たりをしようとしているUFOだろうが、構いはしなかった。欲しいのは熱だ! 炎だ! 爆発だ! この寒さから逃れられるのなら何だっていい!
 突然、遙か上空、分厚い雲の向こうが真昼のように明るくなり、巨大な光の球が出現した。
 俺は両腕を広げて、それを歓迎する。真新しい神を迎えるかのように。そして歓喜の時を静かに待った。
 次の瞬間、球が弾け、光でできた無数の矢や槍や剣が黒い雪雲をズタズタに切り裂きながら、地上に降り注いできた。世界中の光が、レーザーが、あらゆる色彩が、巨大な柱となって大地に突き刺さってゆく。
 人間のキャパシティを遙かに超える凄まじいエネルギーの奔流。その真っ只中に立ちつくしていた俺は、やがて静かにため息をついた。そっと両手を下ろし、ゆっくりと目を閉じる。あぁ。何ということだ。
 三千度の熱の中にいるってのに、ちっとも温かくない――