愛宕山みはらし台のベンチに腰を下ろして、眼前に広がる甲府盆地を見ていると、飯野さん、と声をかけられた。いつの間にか、ベンチの脇にセーラー服姿の少女が立っている。
「赤池聡美さん?」
私が訊ねると、少女はほほえみ、私の隣りに腰を下ろした。
「わたし、ここ、好きな場所なんです」
胸まで伸びた黒髪が、風になびく。想像していた以上の、清楚な、美少女だったので、私は、その横顔を見ながら、鼓動が高鳴った。
ひさしぶりに著書『甲府物語』を出版したのを期に、地元新聞〈山梨日日新聞〉の文化面に、私は取り上げられ、それを読んだ読者から、新聞社に手紙が届いた。記者の方が転送してくださり、一度会って話を聞いてほしい、とあった。その手紙の主が赤池聡美である。今日の日付とこの時間が都合良いと葉書を送ると、すぐに返事があり、彼女がこの場所を指定したのである。
話っていったい……沈黙の気まずさ、そう誘い水をと思ったのだが、それより先に聡美は「歩きながら話しません?」そう言うと、私の返事も待たず、愛宕山に向かって、歩を進める。やれやれと思いながらも、しょうがなく後につづいた。
どうしてなのかわかりませんけれど、ある日私は不思議な特技を持ちました。卵の中にいるんです。いつも食べている鶏の卵です。何しろ卵ですから、その中に私がいるなんて、誰も気づきません。
最初はとっても便利だと思いました。だって私がそこにいるのに、周りの人はちっとも気づかないんですから。何だか透明人間になった気分でした。たとえば私は何食わぬ顔をして、食卓の上にいるわけです。しかし父も母も私がいないと思っているのです。
夕食の後でした。父と母がぼんやりと食卓で向かい合い、会話もせずに、父はお茶を啜りながら新聞を読み、母は母でお煎餅を取りだしてきて、雑誌を見ながら、ぽりぽりと食べています。そんな風景は数限りなく見てきましたから、いつもこんな風なんだろうなって、勝手に思いました。ところがちがったのです。ふだんはさり気なくしていても、子供の私がいる前では、演技していたんです。
「聡美は?」
「友だちの家で夕飯をご馳走になるって、電話があった。まだ帰らないんじゃないかしら」
「それじゃあ、だいじょうぶなんだな」
「ええ」と、そこまではふつうに会話していたんです。私はというと、この時までは、うふふ気がついていないんだ……などとほくそ笑んでいました。かくれんぼをしていて、こちらからはオニが見えるのに、向こうはちっとも気がつかず通りすぎていく。あのときの、ぞくぞくするような気持ちに似ていました。
声をかけてみようかしら。まさか卵の中にいるとは思わないだろうから、二人ともすごくびっくりするはずだわ。なんて思うと、ますます愉快になってしまい、本当に、そうしてみようと思ったのです。ところが、とてもそんなことは、できなくなったのです。私がいないことを確認した父と母は、ほとんど同時に大きなため息をつき、読んでいた新聞や雑誌を放り出しました。
それまでごくごくふつうに、椅子に腰かけていたのです。それがとつぜん、両腕をすとんと落として、食卓の下で見えなかったけれど、足もだらしなく投げだして。どうしたらこんなに呆(ほう)けた姿ができるのかと、一目見ただけで信じられないくらいでした。
それは顔も同じです。目尻や唇の両端が、だらんと垂れ下がって、今にも涎(よだれ)が滴り落ちてきそうなのです。目つきも虚ろで、それまで灯りのついていた豆電球の電池が切れてしまったみたい。どんよりと濁って、何も見えていないかのようでした。
「隣のババアさ。うぜえな」
品の欠けらもない声は、父の口から出ていました。酔っぱらって帰ってきたときなどに、近い声を出すことはありましたけれども、ここまでひどくありません。
それよりも驚いたのは、母のほうです。子供の私が言うのもなんですが、母は極めて上品な人でした。いえ、そう思っていた、信じていたと言ったほうがいいでしょう。いつも聴くのはクラシックばかりでしたし、趣味は絵画鑑賞や読書。好きな銘柄の紅茶を入れ、蓄音機でモーツァルトを聴きながら、好きな小説を読む。そんなイメージが娘の私から見ても、とっても似合っていました……。
息が上がり、私は脚を止めた。彼女もそれに気づいたのだろう。立ち止まり振り返る。
「もう疲れたんですか。お酒ばかり飲んでるから」
新聞の記事だけでなく『甲府物語』を読んでくれたのなら、私がアルコール中毒であることは知っているはずだ。だからといって、面と向かって言われると面白くない。何だよ今時、蓄音機だなんて。それだけでなく彼女の話に矛盾を感じた。たとえば夕食後の両親の会話だ。娘が居なかったら、この会話は食後ではなく、食前に行われているのが筋だ。食卓の上に置いた卵に入っていたと言ったが、どうやって、そこに置いたのか。無理がある。単に勘違いか、それとも何か意図があってなのか。
よし、探りを入れてやる、と思い、口を開けかけたのだが、振り返った彼女を改めて見て、言葉が出なくなった。彼女の着ているセーラー服を見たことがある。古くさいデザイン、九歳上の姉が高校のときに着ていたものと同じだ。母と姉がふざけて小学生だった私に着せた事があり、そのときの複雑な胸の高鳴り、セーラー服の細部、デザインが薄ぼんやりと脳裏に浮かび、目の前のセーラー服と重なる。しかし姉の通っていた女子校はとうに男女共学となり、制服もセーラー服からブレザーに変わっている。
「もう少し、登ってみたいんですが」
「……わかった」
私は額の汗を拭い、彼女を追い抜くように歩を進める。追いつき、並ぶなり、彼女はやや息を弾ませながら、
「決して声を荒らげることもなく、いつも穏やかな笑顔を浮かべているんです」
「いや、君だって、息があがっているよ」
「私じゃありません。母のことです」
「ああ、そうか」
話のつづきに戻っていたのか。
「私も大人になったら、あんな風になれたら……と憧れていたのです」
けれども、その母が、だらけきった姿で「そろそろシケイだ」とふだんとは別人の、ガマガエルの鳴き声のような声で言うのです。それを聞いた父は「おう、リンチだリンチだ」と言い、やはりガマガエルのような声で笑いました。すぐに共鳴したかのように、母も同じ声で笑います。
最初、母がシケイだと言ったときには、人を殺す死刑のことかと思ったのですが、父の言葉からリンチ、つまり私刑のほうだとわかったのです。わかったけれども、とても信じられませんでした。隣に住んでいるのは、老夫婦でとても品が良く、特に奥さんのほうを母は自分の実の母親のように慕っており、いつも互いの家を行き来する仲だったからです。
愕然とする私などにはまったく気づかず、父と母は口から唾を飛ばし、下品に笑いつづけます。笑いがあと少しつづいていたら、あまりのおぞましさに、私はおかしくなっていたでしょう。何しろ卵の中にいるのです。手もありませんから、耳を覆うこともできません。瞼さえなくなって、醜い二人の姿から、目を逸らすことすらできなかったのです。
そのとき、玄関のチャイムが鳴りました。呼び鈴ではなく、誰かが玄関の扉を開けると、自動的に鳴るようになっているのです。てっきり防犯のためにつけていると思っていたのですが……。
「やべ。誰だ?」
「聡美でしょ」
そこからの二人の変化は、三秒とかからなかったでしょう。だらけていた身体を起こして、ピンと坐りなおし、両手で顔をぱんぱんと叩いて、咳払いすると、いつもの二人に戻っていました。何もなかったように父は新聞に、母は雑誌に目を落とし、そこに制服姿の私が入ってきました。
「ただいま」
何も知らない私は、いつものように二人の横を抜けて、父を左、母を右に見る席に坐りました。母はいつものおだやかな顔つきで、
「遅かったじゃない。どこへ行ってたの?」
「電話で言ったでしょ。美鈴のとこ」
「晩ご飯は?」
「だから、ご馳走になったってば」
「いつも悪いわ」
「今度うちに呼んで、ご馳走するといい」
父が笑顔で言うと「そうね。そうしましょう」と母も笑います。もちろんあのガマガエルのような笑いではなく、いつもの朗らかなほうです。
私は母の食べていたお煎餅の器に手を伸ばしながら、父と母に怪しまれないように食卓の端に置いてあった卵をつかむと、頭の後ろをさするような振りをして、押しこみました。
ええ、そうなんです。卵は私の後頭部に押しこんだり、またそこから取り出せるようになっていたのです。そうして何食わぬ顔でお煎餅を頬張ったのですが、一口バリッと噛んだところで、雷に打たれたような衝撃を受けて、身動きできなくなりました。卵の中の私が見た出来事が、帰宅した私の中にも流れこんだからです。
いきなりでしたから、何が何だかわからずに混乱し、それは吐き気となって現れました。お煎餅の欠片を吹き出し、口を押さえ、とてもトイレまで間に合いそうもなかったので、流し台に駆け寄って吐きました。
「聡美、だいじょうぶ」
母が寄り添い、背中をさすってくれました。けれども私は、片手をあげて払いのけ「さわらないで」と叫びました。
「聡美、どうしたんだ?」
父が声を上げました。さっと振り返った私を、父も母も目を細め、心配そうな顔で見ていました。けれども私は欺(だま)されませんでした。こいつらは獣だ。いつもは取りつくろっているけれど、一皮剥けばおぞましい獣なのだ。
私はその場で、二人と同じ空気を吸っているのも汚らわしく、倒れそうになる身体に力を込めて、台所を駆けだし、階段を駆けあがって、自分の部屋に閉じこもりました。
少しして母がやってきて、扉をノックし「聡美、だいじょうぶ?」などとしおらしい声をかけてきましたが、無視して答えず、部屋の鍵も開けませんでした。やがてあきらめたらしく「何かあったら、呼んでね」と言い残して、立ち去りました。
その日からできるだけ父とも母とも、顔を合わせないようにしました。いっしょに食事を取るのも嫌だったので部屋にいました。母が食事を運んできたけれど、ほとんど手をつけることもありませんでした。幸いというべきか、食欲はなくなり、やたらに匂いが鼻について、吐き気をもよおしてしまうので、食べないというよりも食べられなかったのです。
それでも一週間もすると、体調はすぐれなかったものの、あれはすべて幻だったのではないか、と思うようになりました。母は物凄く親身に心配してくれましたし、父も同様です。お酒を飲んで来ることもなく、仕事が終わると真っ直ぐに帰宅し、まっ先に二階の私の部屋の前まで来て、だいじょうぶかと声をかけてくれたのです。
そんなこともあって、次第に私の気持ちも落ち着き、警戒心を解くまでは行きませんでしたが、部屋を出て父や母と食卓をともにするようになりました。父も母も、幼い頃から知っている二人と、少しも変わっていませんでした。むしろ私を思いやって、より優しく接してくれました。
一カ月もすると、あの日の出来事は昔見た夢のように朧気(おぼろげ)になっていました。父とも母とも依然と変わりなく、接するようになったのです。それでもやはり心のどこかに、しこりが残っていたのでしょうか。ときどき発作のように吐き気に襲われました。気持ちもどこかイライラぴりぴりとして、自分でありながら自分ではないような感じなのです。
じっと椅子に坐っていても、自分だけ嵐に揺れる舟の中にいるようでした。世界がぐるぐると回っている気持ちになることもあり、とても通学などできず、部屋のベットで寝ていることもありました。
そんなときです。隣に異変が起きたのは。小火(ぼや)騒ぎを起こしたのです。実は前から隣の家の火の始末については、危ないなと感じていました。二階の私の部屋から見ると、庭越しに隣家の台所が見えるのです。換気扇をつけるのが面倒なのか、それともわずかな電気代をケチっているのか。ガスコンロを使うときに、いつも窓を開けるのです。
その日もそうでした。むしむしとした日だったので、私も窓を開けて網戸にしていたのです。風向きのせいでしょうか。私の部屋までガス臭い匂いとともに、煮物のやけに醤油臭い匂いが漂ってきて……。
敏感になっていただけに、それだけで吐き気がしてしまい、溜まらず窓を閉めたのです。しかし理不尽な思いがこみあげてきました。私は悪くないのに、なぜ窓を閉めなくてはいけないの。私は暑いの、気分が悪いの、だから窓を開けたいのに。もし、あの窓からひょいと何か燃えるもの、タオルでもいい、オイルを浸した新聞紙でもいい。それらを投げ込んだら、かんたんに引火して燃え上がる……。
前々からそんなことを思っていたのですが、ふと気がついたら、それが本当になっていたのです。はっとなって私が気づいたときには、隣の家の台所が明るく、窓からも炎が見え、取り乱した叫び声が聞こえてきて……。
すぐに誰かが通報したらしく、消防車もやって来ましたが、それより早く、向こう隣の××というおじさんが駆けつけて、消火器で消してしまった後でした。
向こう隣のおじさんは、お節介でほんとうに嫌な人です。私の大嫌いな男です。小火で消えたものの、変化は私の中にありました。その火が消えたはずの疑念に引火して、思いを新たにさせたのです。あのとき父と母は、隣家の悪口を言っていた。私刑だと言っていた。もしかして火をつけたのは……。
まさかと思ったのですが、いったん浮かんだ考えはかんたんには消せません。それなら探るしかない。そう思った私は次の週末、一階にある父と母の寝室に忍び込みました。そうして寝室の隅に置かれた飾り棚に、後頭部から取りだした卵を置いたのです。ちょっと見ただけでは気づかれないように、それでいて二人の行動が、しっかりと見える場所です。
これでよし。後は自分の部屋のベッドに横たわって、ぐっすりと眠りました。もちろん眠ったのは、私の抜け殻のほうです。肝心の私は卵の中から、父と母の寝室を監視していました。この頃になると、卵がカメラで、見聞きした出来事を、私の抜け殻にも伝えるようになっていました。
寝室に鍵をかけた二人は、はなから誰にも見られていないと思ったのでしょう。何のためらいもなく出し抜けに、けだものの本性を剥き出しにしたのです。自ら皮を剥ぐように寝間着を脱ぎ去り、産まれたままの姿になると、からみ合い、もつれたままベッドに横になりました。言葉なんてありません。呻(うめ)き声、叫び声だけです。互いの身体をむさぼり食わんばかりになりながら乱れる姿は、とても正視に耐えるものではありません。
「やめて。やめてええ」
けれども声は、卵の中にいる私から発せられません。二階の自分の部屋で眠っている、私の抜け殻が叫んでいました。耳を済ませば聞こえるはずなのに、常軌を逸した二人は勘づきもしません。剥き出しの欲情をぶつけ合うばかりです。代わりに私の悲鳴は、隣家に聞こえたのです。後でわかったのですが、私はベッドから抜け出して、窓を開けて、外に向かって叫んでいたのでした。
「この間の放火の犯人は下にいるわ。下にいる二人が、窓から新聞紙か何か燃える物を放り入れたのよ。警察を呼んで。早く捕まえて」
聞きつけた隣人が通報したのでしょう。我が家に警官がやって来ました。二人はチャイムを無視して、もつれ合っていました。汗にまみれた裸体はじっとりと溶け合って、ひとつの醜い塊のようになっており、自分たちでも離せないかのようでした。それでも執拗にチャイムが鳴り、互いの動きが止まったときに、警察です、との怒鳴り声が聞こえ、やっとのこと二人の身体が離れました。
「何事かしら?」
「さあ……」
何をしらばっくれているの、私が真相を話したのよ、観念しなさい。あわただしく汗を拭い、寝間着を身につける二人を見ながら、私は悪者を成敗した気持ちで、うれしくてうれしくて笑ってしまいました。
父が玄関に出て、警官と対応し、すぐに母も玄関に呼ばれていきました。その間に二階にいた私の身体は、こっそりと階段を下り、寝室に行って、卵を回収したのです。ところが手にした瞬間「聡美、聡美いらっしゃい」と母の叫び声が聞こえました。あまりに激しい剣幕だったので、ついついあわててしまったのです。だから抱えていた卵を、うっかりとそのままお腹に押し当ててしまいました。
卵がお腹の中にすっと吸い込まれたとき、寝室前の廊下に立っていた私は、母に見つかりました。
「聡美。あなた、お隣の小火が私たちの仕業だって叫んだって本当なの?」
「それは……」
「ちょっと来なさい」
腕をつかまれて玄関に連れていかれました。警官は険しい顔で私を問いつめるのです。父と母も私を睨んでいます。追いつめられた私の口から、ぽろりと言葉が出ました。
「ほんとうの犯人は××さんです」
そう、向こう隣の××さんのせいにしました。一度口にすると、涙がぽろぽろとこぼれてしまい「私、見たんです。でも恐くて……」と泣き崩れてしまいました。
こうして向こう隣に住む××さんは捕まりました。素直に認めたそうです。
「聡美ちゃんがそういうなら」
いい気味だわ。私、あの人大嫌い。だって私に……。
赤池聡美は言葉を止めて私を見た。
「ひとつ質問して良いですか?」
「質問?」
「お腹に埋めた卵。どうやったらつぶせるんでしょう? 徐々に大きくなってきて、このままじゃ親に見つかる前に、今度の修学旅行で、友だちにばれちゃいそうなんですけど」
私は答えられずに、うつむいた。なんと答えればいいのか。なぜ、私なのか。ただ手遅れにならないうちに……。
「処女(をとめ)にて身に深く持つ浄(きよ)き卵(らん)秋の日吾の心熱くす」
「えっ?」
顔を上げた。ところが、隣りにいたはずの彼女の姿がない。見回すと、近くの看板に〈夢見山〉とある。〈甲府市夢見三〉それが彼女の住所、そんな住所があるのか知らず、調べるのも難儀、葉書を投函したところ、今回の出会いとなったのだが。
「赤池さん。赤池さん」
さらに辺りを見回したけれど、私は一人、赤池聡美という少女は吹き抜ける風に飛ばされたかのように、姿を消している。大きな石や木々に遮られて、視界の利かぬ山道を歩いた。赤池と表札のある家を探して、否、家など一軒としてない山道、と、とつぜん木々が途絶えた。眼下にモノクロームの甲府盆地が広がっている。(了)