「私にとって「(ネオ)ゴシック」とは何か――「故郷喪失」の表現として~『トーキング・ヘッズ叢書 TH96 特集・ゴシック再興~闇に染まれ』書評~」 前田龍之祐

私にとって「(ネオ)ゴシック」とは何か――「故郷喪失」の表現として
~『トーキング・ヘッズ叢書 TH96 特集・ゴシック再興~闇に染まれ』書評~
前田龍之祐

 一九三三年、デビューからおよそ六年が経ち、「現代文学の不安」を徐々に感じ始めていた文芸批評家の小林秀雄は、「故郷を失った文学」というエッセイのなかで次のように書いていた。


 私の心にはいつももっと奇妙な感情がつき纏って離れないでいる。言ってみれば東京に生まれながら東京に生れたという事がどうしても合点できない、また言ってみれば自分には故郷というものがない、というような一種不安な感情である。
[中略]何らかの粉飾、粉飾と言って悪ければ意見とか批評とかいう主観上の細工をほどこさなければ、自分の思い出が一貫した物語の体をなさない、どう考えても正道とは言い難い、という風に考え込んでしまう。

 要するに、ここで小林は「故郷喪失」に対する不安、あるいは〈私が私自身を信じられない〉とでも言ったような、自己同一性(アイデンティティ)の懐疑について吐露しているのだが、注意すべきなのは、小林のデビュー作である「様々なる意匠」において標的とされていたものこそ、マルクス主義を始めとする「意見とか批評とかいう主観上の細工」にほかならないという点であり、そうした「意匠」を排して、みずからの直観に批評の根拠を見出したという小林が、しかし自身の「思い出」については、「主観上の細工をほどこさなければ」、「物語の体をなさない」と語ってしまう矛盾である。
 彼にとって「故郷」は自明なものではなく、確かな足場を求めようとするかのように、「主観上の細工」を拵え(こしらえ)ようとする。それがけっきょく〈粉飾=意匠〉に過ぎないとわかっていても、動揺する感情を落ち着かせるために、時にそれを必要としてしまう。小林は言う、「自分の生活を省みて、そこに何かしら具体性というものが欠如している事に気づく」と。
 無論、ここで後年の彼が選んだ伝統回帰の問題の是非は措く。が、私がゴシックについて考えるとき、常に念頭にあったのが、このような‘‘具体性の欠如’’という「故郷喪失」の問いであり、その問いは、そのまま自分自身に対しても向けられるものであった。
 個人的な話を少しすると、文章を書いているとき、私の批評的立場、言い換えれば、どうしても書きたいテーマや問題意識の所在について、悩むことが時々ある。それは私の書き手としての基盤の弱さ、すなわち「故郷」の不在と関係しているのだと考えている。小林と同じく、都会生まれの私は、昔から自分の生まれ育った土地について深く思いを馳せることなどなかったし、本を読む以外にやりたいこともなく(それゆえ決定的な挫折の体験もなく)、批評対象と自分の人生を関連づけて考えることも、これまであまりないままだった。端的に言えば、なぜ文章を書いているのか、その理由が判然としない――こうした‘‘具体性の欠如’’を誤魔化すように、「主観上の細工」によってある程度の整合性をつけることもあるが、そんなものは所詮自意識の産物だろう。だが単なる無意味(孤独)に耐えられないがゆえに、ひとは意味づけをやめることができない。言うなればこれは批評の病である。この病は、ものを書く人間なら嫌でも付いてまわるのではないだろうか。この文章を書いている今でも、そうした疑念はぬぐえないでいる。

さて、ゴシックの話に戻せば、『TH96 特集・ゴシック再興~闇に染まれ』の拙稿(岡和田晃氏との共著)でも取り上げた「ネオゴシック」と呼ばれる文学ジャンルに、私が惹かれた理由もおそらく、小林の抱いていた「故郷喪失」という不安と無縁ではないのだと思っている。
 改めて確認しておけば、ネオゴシックとは、SF作家の山野浩一が「サイエンス・フィクションとネオゴシック」(一九八二年)という評論のなかで紹介した言葉であり、二十世紀以降の現代人の無意識的な不安感を、ゴシックロマンスに見られる中世的な闇(底部)の感覚に重ね合わせ、「現代社会に遍在するゴシック性」を描いた小説を総称したものである。そこに属する範囲は幅広く、トマス・ピンチョンの『V.』やJ・G・バラードの『沈んだ世界』、ラテンアメリカ文学の諸作品など、「二十世紀の前衛文学」全体を指す言葉として用いられている。ひとことで言えば、「カフカ以降の不条理」の表現と、「アイデンティティの底」の探究、大きくこの二点が、ネオゴシックを特徴づけているというわけだ。
粗雑な言い方を許してもらえるのなら、このような小説とは、ある種の「故郷を失った文学」ではないだろうか。登場人物が翻弄される不条理な世界に巻き込まれる快楽は同時に、自分もまたその世界に囚われている事実を意識させられ、自己の内省を促す契機になりうる。ネオゴシックの作品は、「何度も現実へ戻りかけたり、底へ降りたりという彷徨をくりかえ」しながら、‘‘具体性の欠如’’という現実に読者を直面させ、そこから思弁的な小説世界を立ち上げていくのであり、こうした「故郷喪失」(異邦人感)の表現こそ、強く私が惹きつけられるものにほかならない。学生時代から私がよく読んでいた「スペキュレイティヴ・フィクション」の作品群も、その例外ではないと考えている。

 しかし、そもそもゴシック自体が、「故郷喪失」に端を発するジャンルであったと言えはしないか。ゴシックの歴史については、本特集に掲載されている、沙月樹京「ゴシック精神とは何か――反理性の闇を愛でよ」に簡潔に纏められているが、そこで語られている「ゴシック精神」とは以下のようなものである。


 つまり「ゴシックな精神」というものは、合理主義的・科学万能主義的な思考に常に懐疑を抱き、神秘的なもの・超常的なもの――特に心の内面に渦巻くもの――を肯定し、そのうごめきに常に耳を傾ける精神、そしてその意思を読み解き、それに従順に生きようとする精神、とでも定義できるのではないか。

 当然ここには、先のネオゴシックとも通底する態度が見られる。その基本姿勢はきわめて重要なものだが、ゴシック建築への記述で沙月も指摘しているように、こうした「反理性の闇」(近代的価値観に対する批判意識)の背景には、キリスト教の思想が色濃く反映されていた。ゴシック建築の嚆矢(こうし)であるサン・ドニ修道院のように、それらがキリスト教会として建てられている事実は言うまでもないものの、重要なのは、そうした様式は、「故郷」を失った人々による信仰の拠り所として存在していたということである。
 周知の通りゴシックとは、均整を欠いた粗野な‘‘ゴート人の’’様式だとルネサンス期の文化人から蔑視されたことに由来する語だが、その無秩序な体系は、中世人にとって「大自然の反映」そのものであった。自然崇拝の念こそ、ゴシック建築ブームの原動力にほかならず、十二、十三世紀頃、都市へ移住してきた農民たちが、彼らの「故郷喪失」の不安を埋め合わせるように、「新たな共生の原理」を求めて、かつての〈故郷=大地〉への憧憬をゴシック大聖堂の荘厳な雰囲気に重ね、新たな信仰の対象としてその建造に乗り出したのだった。
酒井健は『ゴシックとは何か――大聖堂の精神史』(ちくま学芸文庫、二〇〇六年)のなかで、ゴシック誕生の経緯を次のように要約している。


過疎化の極にあり不活性の底に沈んでいた都市を興隆させたのは、彼ら農村からの移住者たちだった。言い換えれば、活性化した都市の大方の住民は農村出の人間だったということである。だがその彼らには聖性の体験の場が欠如していた。[…]巨木の森と母なる大地にもう一度まみえたい。深い左極の聖性のなかで自分たち相互の、自分と自然との連帯を見出したい。このような宗教的感情を新都市住民が強く持っていたことにゴシック大聖堂の誕生の原因は求められる。

「ゴシック精神」とは、愛するふるさとをやむなく捨てざるをえなかった都市民が、「聖性の体験の場」、または「自分と自然との連帯」を望んだ結果として誕生したものだった。その意味でゴシックとは、「故郷喪失」の人間たちが、しかしその喪失に耐え切れず、どうしても生きるために必要だった信仰心をその基軸として生まれた芸術様式と言えるのである。
そうした精神は、近代以降の「ゴシック・リヴァイヴァル」にも引き継がれていった。一八世紀のロココ調に代表される軽やかな貴族趣味に反発する風潮のなかで、かつてのゴシックの魅力が再発見されていくのだが、その先駆けとなったのは、ホレス・ウォルポールという一人のイギリス人の小説『オトラント城綺譚』(一七六四年)である。
重要なのは、ウォルポールもまた、「自然の体験」や「崇高さ」を求めてこの作品を書いたということだ。後に彼は書簡のなかで「冷ややかな理性しか欲しない今の時代」を腐していたが、かつて旅の途中で遭遇したアルプスの山々を観た衝撃をこのように表したという、「無神論者の心を打ち、理屈抜きで信仰を抱かせるように至るような風景がそこにはある」と。
なるほど、このようなゴシックにおける信仰の追求とは、ついに果たされることのない懐古趣味(現実否定)に過ぎないのかもしれない。だが、ウォルポールのエピソードが示すように、近代以降のゴシックロマンスにはまだ、中世的な「自然」への信憑(リアリティ)が残されていた点は強調していいだろう。「故郷」を失ってもなお、ゴシックの作家たちは「聖なるもの」を内に宿す芸術様式に支えられていたのであり、そこに俗世を相対化する信仰の在処(ありか)を認めることができた。近代化のなかでその信仰を保持できたのは、彼らが「自然」の記憶を確かに持っていたからである。

 しかし、ここで問わなければならないのは、果たしてネオゴシックには、こうした信仰の痕跡を認めることができるのかということである。批評家の笠井潔は、SF論集『機械じかけの夢』(講談社、一九八二年)の序章「SFの起源あるいは幻想文学の遍歴史」において、幻想文学からSF小説へ至る一連の流れを、「聖なるもの」の探究の歴史という観点から描き出しているが、それによれば、第一次大戦をひとつの契機に、「西洋の没落」が叫ばれ始めた二〇世紀あたりから、古城や廃墟、修道院などのゴシック的モチーフは徐々にそのリアリティを失っていったという。その喪失の過程は、当時の人々にとって〈故郷=自然〉が完全に遺物となってしまったことを意味していた。
笠井は次のように書いている。

ゴシック小説の時代、作家は都市や貧民街に住む貧しい労働者などという散文的で卑俗な世界、つまり近代の現実から身を遠ざけ、作品の外に押し出してしまうことができた。したがって作品世界の支配的な雰囲気は、中世的懐古趣味、ゴシック趣味、保守的な貴族趣味で満たされていた。ドイツ・ロマン主義の時代になると、もはやそうした作為は不可能になり、ノヴァーリスやホフマンは作品世界の内部に二つの世界を二重化する以外なかった。[…]しかし、森や川や古城という中世的自然性そのものが幻想文学の舞台としてはレアリテをもって存在しえなくなる時、聖と俗の対立を中世的自然と近代都市の二重性として作品化したロマン派の方法もまた、避け難い危機に陥っていく。

 ここには『ドン・キホーテ』以来、〈聖と俗〉、〈中世と近代〉、〈自然と都市〉のあいだで何とか均衡を保ってきた幻想文学の運命が端的に描写されている。だが、笠井が言うように、「聖なるものの渇望」こそ、ゴシックから始まる幻想文学の推進力であったとすれば、ネオゴシックもまた、「故郷喪失」を嘆くだけのものではあり得ず、そこから「聖なるもの」を見出すことができないとは限らないのではないか。
 拙稿ではネオゴシックの意義についてこう書いていた、「「聖性」への希求を「底部」に対する批評意識へと読み替えること」だと。言い換えればそれは、「故郷喪失」の現実に直面したみずからの不安(非合理な内面)を見つめながら、同時に俗世を超えた信仰の在処(不安定な自己を支えるもの)を、現代において探し求めることにほかならない。注意したいのは、その探究は、ゴシックロマンスのように「森や川や古城」ではおこなわれず、むしろ、ゴシックの作家たちが遠ざけた「都市」を主な舞台にするということだ。「中世的な不安を与える城や僧院のイメージは、トマス・ピンチョンの『V.』では現代都市のありように生まれ変わ」るのである。
 ここで興味深いのは、先に描かれた幻想文学の潮流に棹差す作家として、笠井が挙げているのが、「都市を舞台に神話的世界を打ち立てた」というディケンズやユゴー、そしてポーの探偵小説だという点である(またポーは、SF小説の起源としても紹介される)。笠井は言う、「神話的世界は中世的自然という過去にではなく、都市的現実の現在のなかに甦る」と。こうした「都市の神話」において描かれた群衆が、犯罪小説や探偵小説のモチーフとなるのであり、そこで起こる事件とは、近代の市民社会に内在する「亀裂」(不気味なもの)として立ち現れてくると、ここでは指摘されているのである。
 笠井は明言していないが、このような小説世界の延長線上に、ネオゴシックも連なるはずだと私は考えている。「都市的現実」のなかにある種の「聖性」を読み込んでいこうとする態度――その現代的な表現こそ、ネオゴシックが担うべきものではないだろうか。
 しかし、だとすれば、ネオゴシックにおいて希求される「聖性」とは一体何だろうか。ここでそれを具体的に指し示すことはできないが、ふたたび拙稿の言葉を使えば、ピンチョンの『V.』における都市をめぐる表象、あるいはバラードのSF小説の描く終末世界に、山野浩一が「恒常的な安息」(エントロピーなき世界)を見ていたのならば、そこに存在するのは、言うなれば現代特有の「自然」の風景である。山野がカルペンティエールらのラテンアメリカ作家を、ネオゴシックに含めているのも、おそらくそこで描かれる土着性に、二〇世紀以降の「自然」を感じていたからだろう。
「故郷を失った文学」としてのネオゴシックは、その喪失の穴を徹底して見つめる作業を通じて、現代においての〈聖性=自然〉を発見していく。この態度が、「二十世紀の前衛文学」の通底した精神なのだと、ここでは言っておきたい。俗世を超え、「聖性」を志向しうる文学概念――これこそ、(ネオ)ゴシックを規定するものであり、その姿勢において、私たちは今なお、そのような表現に惹きつけられるのではないだろうか。

 後に、もう一度個人的な話をすれば、私がネオゴシックの作品に触れたいと思う動機も、結局のところ、そこに単なる「故郷喪失」を超えた何かを求めているからだろう。いや、そもそも文学を読むという体験自体、ある種の「聖性」に導かれる行為なのだと、私は考えている。意味と無意味、自意識と孤独のあいだで揺れ動いてしまうのが人間であるのなら、そうした動揺や不安を治めるものとして、それらの作品は、少なくとも私にとってなくてはならないものなのだ。
繰り返せば、私にとって(ネオ)ゴシックとは、「故郷喪失」を自覚する者による、ある種の信仰への回路としてある。その意味において、本稿で紹介した『TH96 特集・ゴシック再興~闇に染まれ』もまた、その道筋を示す手掛りとして、今の時代に読まれるべき一冊となるに違いない。