「何かが起きた(上)」青木和

 がちん、と鈍い金属音がして、玄関のドアが開いた。
 彼が帰ってきた。
 ごとんごとんと靴を脱ぎ落とす音がする。明かりの消えた真っ暗な部屋で、あたしは布団を目の上まで引っ張り上げると、持ち込んでおいたスマホで時間を確認した。
 午前五時。いつもよりちょっと遅い。
 いつもといっても、あたしが知っている中では、だ。いつの間にか眠ってしまっていて気がついたら朝、ということも一度や二度ではなかった。昼間普通に働いていれば、朝の五時前に目を覚ましているのはつらいことだ。
 けれど、今日は特別だった。緊張して何度か目を覚ましたくらいだ。いつもはベッドの中で彼の気配を聞いているだけだけれど、今日こそ勇気を出してみようと決めたのだ。
 やがて廊下をきしませて、足音が近づいてきた。いつものようにまっすぐロフトの方へ行くかと思ったけれど、いったんキッチンへ向かう。ガラスのぶつかる音、水栓をひねる音、コップに水が溜まる音。
 あたしはベッドの中で息を殺して、その音に耳をすませていた。
 水を飲み終えた彼がキッチンから出てくる。狭いワンルームマンションだから、ロフトの梯子へ向かうにはベッドのすぐそばを、それこそ触れるほど近くを通るはずだ。
 もう一歩、あと一歩。
 足音がちょうどベッドの真横あたりに来たと思ったところで、あたしは布団をはねのけて起きあがった。すかさずリモコンで部屋の灯りをつける。急に明るくなった部屋の真ん中には、眩(まぶ)しさに目をしばたたかせた彼が、驚いた顔で立ちつくしている――ことを期待したけれど、皓々(こうこう)とともった照明の下には誰もいなかった。
 たった今まであたしのすぐそばを歩いていた彼の姿はどこにもなかった。
 〝姿〟は。
 あたしのほかに誰もいない部屋の中を、足音だけがまだゆっくりと横切っていた。やがて梯子をぎしぎしときしませながら、徐々に上に登っていき、ロフトのあたりまで移動して、そこで消えた。
 あたしはベッドから抜け出して、足音のあとを追った。あたしも梯子を登ってロフトをのぞき込んだら、何か変わったものが見えるだろうか。
 そんな考えにとらわれてしばらくたたずんでいたが、やがて思い直してベッドへ戻った。
 ロフトはきっといつも通り、この部屋に引っ越してきたときにあたしが放り込んだ段ボール箱がしらじらと積み重なっているだけだろう。
 キッチンには彼が使ったコップもなく、玄関には靴もないだろう。
 ここはあたしの部屋だった。あたしが契約して、あたしが家賃を払って、あたしだけが住んでいる。彼の姿を見たことは一度もない。彼は音だけの人だった。

 レジの鍵を交代の女の子に渡し、店のバックヤードに戻る。更衣室のロッカーからバッグを取り、財布と出そうとファスナーを開けると、スマホの着信ランプが点滅していた。
 それを見て、反射的に心臓が躍り上がった。けれどすぐに思い直してロックを外す。このスマホは、今のスーパーマーケットで働くようになってから新しく契約したものだった。前に持っていたのは解約してしまった。本当は二度と持ちたくなかったのだけれど、シフトの変更や急な連絡をするのにどうしても必要だというので仕方がない。かわりにキャリアを変えた。メールアドレスもLINEのアカウントも全然違うものにした。
 液晶画面には、新着メッセージのお知らせと、久保真知子の名前があった。

〈おひさー! メッセージサンキュー。またスマホ持つ気になったんだね。また理香とLINEできてうれしいよ。それで突然なんだけど、よかったら今夜会わない? 久しぶりに一緒に呑みたいよー〉

 真知子は、以前働いていた会社の同期だった。同じ部署に配属されたのはあたしたち二人きりで、しかも実家が偶然にも隣町だというので、個人的にも仲よくしていた。真知子とだけは切れてしまいたくなくて、迷ったけれどアカウントを教えた。さっそくその返事をくれたらしい。
 液晶から真知子の声が聞こえてくるような気がして、あたしは思わず微笑んだ。ずいぶん長いこと音信不通同然にしていたのに、変わらない調子でメッセージをくれたことが嬉しかった。
 幸い今日はシフトが早番で、六時には店を出られることになっている。真知子にOKの返事を送ると、あたしは財布とスマホを抱えてうきうきと社食へ向かった。ふと、真知子に彼のことを話したらどんな顔をするだろうと思った。

 初めて彼の足音を聞いたのは、半年くらい前のことだ。引っ越してきてまだそれほどたっていなかった。
 最初は、上の部屋か隣の部屋から聞こえてくるのだと思った。ロフトつきワンルームと言えば聞こえはいいが、築年数は十五年もたっているし、入ってみて分かったことだが設備がとにかく安物だった。ガワだけお洒落に作って、見えないところはあちこちケチったんだろう。要するに安アパートなのだ。足音くらい響いても仕方がない。
 それにしても人が眠っているような時間ばかりなのは気にはなっていた。
 音が実はあたしの部屋の中から聞こえるのだと気づいたのは、ガラスのせいだ。
 その夜、あたしはベッドの中でずっと起きていた。表紙の絵が気に入って中身も知らずに買った外国のファンタジー小説が思いのほか面白くて、夢中になって読んでいたのだ。時間はどんどん過ぎて、いい加減切り上げて眠らないと翌日の仕事に触ると思いながら、やめられずに、いつの間にか明け方近くになっていた。
 ストーリーがいよいよクライマックスにさしかかったところで、キッチンから音がした。ガラスが砕けるような音だった。コップか何かが落ちたのだと思った。
 あせって本を放り出し、キッチンに駆け込んで灯りをつける。床の上には砕けたガラスが散らばって悲惨なことになっているだろう――と思ったが、床にはかけら一つ落ちていなかった。夕食に使った食器は、シンクで水に浸かっていた。そういえば、早く本の続きが読みたくて、明日洗えばいいやとそのままにしておいたのだった。シンクの中の食器が床に落ちるはずはなかった。
 けれど、隣や上の部屋の音にしては大きすぎた。だいたい、足音ならともかく、食器の割れる音まで響いてくるものだろうか?
 呆然としているあたしの背後で、ぎしぎしと足音が聞こえた。背中に氷を押し当てられたような気がして、あたしは動けなくなった。
 足音はロフトの階段を伝わって下りてくる。
 部屋の中にあたし以外に誰かいる――?
 床に張りついたようになっている足を無理やりひっぺがして振り返った。
 梯子には誰もいなかった。どこにも誰もいなかった。探し回る必要もない狭い部屋だった。それなのに足音はだんだん大きくなり、あたしのすぐ横をすり抜けて、キッチンに入っていった。ガラスのかけらが踏まれてさらに砕ける音がした。何もないのに。
 あたしは無言で身を翻してベッドに潜り込んだ。そして頭の上まで布団を被って、あたりがすっかり明るくなるまで震えていた。
 次の日はアルバイトを休んで、このワンルームを仲介してくれた不動産屋へ直行した。幽霊とか、そういったものはあり得ないとそれまで思っていたけれど、自分の頭がおかしくなったと思うよりは幽霊を信じる方がハードルが低い。
 どう切り出そうかとベッドの中でずっと考えていたから、迷いはなかった。あたしの部屋の家賃だけほかの部屋に比べて格段に安いと聞いたんですけど――と言うのだ。もちろんそれは嘘で、それどころかご近所さんとは挨拶くらいしかしたことがなかったけれど、幽霊が出るようなことが過去にあった部屋は事故物件といって、格安の家賃で貸し出すのだと、どこかで聞いたことがあったのだ。
「そんなはず、ないですよ」
 不動産屋の店員は、あたしの話を聞くと、むっとした様子で即答した。
「誰がそんなこと言ったんです? 冗談か、からかわれてるんじゃないですか」
 それでもあたしが引き下がらないでいると、ちょうどいい、ちょうど貸しに出ている部屋があるから見てくださいと言って、ぱたぱたとパソコンのキーボードを打った。画面に、有名な賃貸物件サイトが現れる。
「ね?」
 店員が示したのは確かにあたしの住むマンションの一室で、あたしが払っているのとほとんど変わらない賃料が表示されていた。むしろこっちの方が安いくらいだ。
 動かぬ証拠を示されると、もともとが嘘なだけにそれ以上反論できず、あたしは不動産屋をあとにした。誰もいないのに足音がするんです、とはとても言えなかった。
 その日は一日街をぶらぶらして過ごした。けれど日が暮れてきて、夜をどうするか決めなくてはならなくなった。安く夜を明かすならネカフェだけれど、薄い板一枚隔てた向こうに知らない男の人が寝ているかもしれないと思うと気が進まなかった。
 結局あたしは部屋へ帰った。
 そしてそのまま住み続けることになった。
 部屋を引き払ってよそへ移ることは当然考えたが、引っ越したばかりでそんなお金はなかった。前の会社をやめてから収入も格段に減っている。実家はというと、会社をやめる理由で両親といろいろ揉めたせいで、帰りづらくなっていた。
 最初の一週間くらいは、びくびくして過ごした。けれどこの部屋に住み続けるしかないと決めて腹をくくると、急に心に余裕が生まれた。
 冷静になって考えてみれば、あたしに何の害があるわけでもないのだ。よく話に聞く幽霊のように血まみれの顔でおどかしたりするわけでも、首を絞めたりするわけでもない。ただ物音が聞こえるだけだ。
 しかも彼――彼だと思うようになったのは靴音からだった。女の靴ならあんなに重たい音はしない――彼のたてる物音は、ごく日常的なものばかりだった。歯を磨いている音だったり、ラーメンか何かをすすっている音だったり、あきらかにヘッドホンからの音漏れと分かるシャカシャカ音だったり。
 そんな音ばかり聞いて過ごすうちに、だんだん彼とルームシェアでもしているような気になってきた。
 あたしは、彼がどんな人だったのか想像してみた。ワンルームマンションに一人で住んでいたのだからきっと若い人だろう。明け方近くにドアを開けて帰ってくるところを見ると、深夜の仕事をしていたのかもしれない。コンビニだろうか。ガソリンスタンドだろうか。どんな顔をしていて、どんな服を着ていて、どんな話し方をしたんだろう。
 背が高くて細面で、笑顔がちょっと子供っぽい人なんてどうだろう。服装はお洒落に懲りすぎず、でも無頓着すぎず、さりげないカジュアルさがいい。普段はあまり喋らないけど時々ぽつんと面白いことや心に響く言葉を言ってくれる。それから……それから。
 空想の中の彼は、いくらでもあたしの好みのタイプになる。自分でもそれに気がついて、そんなはずないよねと笑い、それから彼がもういない人なのだと思うと悲しくなった。

「でもびっくりしたよお、理香」
 真知子が予約しておいてくれたスペインバルで落ち合い、お店おすすめのカヴァワインで乾杯してひととおり旧交を温めあったあとで、しみじみと真知子が言った。
「いい意味でだよ。思ったよりずっと元気そうだったんだもん。よかった」
「そう? 最近寝不足なんだけどな」
「バイト? きついの?」
「会社にいた頃よりずっと楽だよ。その分少ないけどね」
 あたしは親指と人差し指で丸を作って、時給が安いことを示した。
「寝不足なのは仕事のせいじゃないんだ。実はね……」
 あたしは真知子に彼のことをうちあけた。笑われるか、頭の具合を心配されるか、それはちょっと気になったけど、真知子が少しでもそういう態度を見せたら冗談か怪談だといってごまかそうと思っていた。が、意外にも真知子はあっさりと話に乗ってきた。
「それって、幽霊と一緒に暮らしてるってこと?」
「普通の幽霊とはちょっと違うかな。向こうは向こうで生活してて、その音だけが聞こえてるって感じ」
「こっち側のことはその彼にはどう見えてるのかしら」
「分かんない。でも同じような感じなんじゃないかと思う。あたしがすぐそばにいても全然無視して通り過ぎるし。急に電気つけても変化ないし」
「男の子なんでしょ? 見えてないって分かってもお風呂入ったりするとき気を使わない? トイレの音とかさあ」
「彼が帰ってくるのたいてい明け方頃だもん。生活がすれ違いだからお風呂はあんまり気にならない。まあトイレの音は……ちょっとはね。彼は気にしてないみたいだけど」
「トイレも行くのか。生活感のある幽霊さんだねえ。で、理香はほんとに全然怖くないの?」
「ない。だって何もしないもん。生きてる男よりずっとましだよ」
 できるだけさらりと言ったつもりだったが、真知子は顔を曇らせた。
「高杉主任、まだ……?」
「ううん、今は平和。真知子にも心配かけたよね。ごめんね」
「理香が謝ることはないよ」
 高杉主任というのは、前の会社の上司だった人だ。三十はとうに過ぎているのに年齢よりずっと若々しくて結構イケメンで、奥さんも子供もいたけれど、仕事で親しくしているうちになんとなく男と女の関係になってしまったのだ。「妻よりも先に君に出会っていたら」とか「本当に愛しているのは君だけだ」とか、浮気する男にお決まりの言葉をささやかれて、子供だったあたしはすっかり舞い上がっていた。
 不倫は二年ちょっと続いたけれど、真知子に諭されてやがてあたしは目を覚ました。あたしから別れを切り出すと、それまでのらりくらりと奥さんとの離婚の話を避けていたくせに、主任は急にあたしに執着してくるようになった。夜も昼も関係なくLINEに溢れかえるほどメッセージをよこしたり、ひっきりなしに電話をかけてきたり、社内や帰り道であたしを待ち伏せしたりするようになった。
 そんなことが何度も続いたので、やがて不倫のことが会社にばれた。直属の部長はことを必要以上に荒立てずにすませてくれたけれど、あたしは退職せざるを得なくなった。主任はというと、馘首(くび)にこそならなかったものの病気療養とやらの名目で資料室に転属になった。
「主任のこと、会社で見かける?」
「社食とかでたまーに、ね。でももう前みたいにパリッとはしてないよ。奥さんと離婚したとかなんとか、噂だけど。……まだ気になる?」
「もうきっぱり忘れたよ。ほんとだよ」
 真知子の目が咎めるように険しくなったのに気づいて、あたしは慌てて言った。本音だ。
 気持ちが通じたのか、真知子の表情はすぐにやわらいだ。
「信じるよ。今日の理香見てたら。やっぱり彼のおかげかな」
「彼の?」
「そう、彼の。知ってる? イギリスなんかでは幽霊の出る物件って意外に人気があるっていうよ。向こうの幽霊は怖いのもいるけど優しいのもいてね。住人と仲よくなったり守ってくれたりするんだって。守護霊っていうの? うん、だから理香の部屋もそんな幸運の物件だったのかもしれないね」
「幸運ねえ……でもちょっと寂しいんだ」
「何が?」
「だって彼のことなんにも知らないし。会いたくても会えないし」
「へえ、会いたいんだ」
 ストレートに聞き直されて、あたしは戸惑った。彼がどんな人か想像してみることはあっても、はっきり〝会いたい〟と自覚したことはなかったのだ。無意識に言葉にして、初めて自分の気持ちに気がついた。
 あたしは彼に会いたい。
 今でこそこうして真知子とお喋りしているけれど、彼が現れた頃のあたしはひとりぼっちだった。家族とも疎遠になり、LINEや電話でやりとりする友達もなくて、人とのつながりはバイト先での「おはようございます」と「お疲れさま」だけ。たとえ幽霊だろうとなんだろうと、彼だけがあたしのそばにいる人だったのだ。
「うん、会いたい。それに彼のこともっと詳しく知りたい」
「ねえ、理香の部屋に出るんだから、理香の部屋に住んでた人だよね。そこに出るってことは、やっぱり部屋で死んだってことよね」
「不動産屋は否定したけどね」
「そりゃ言わないよ。損するじゃない。直後に入居する人には知らせる義務があるらしいけど、その次の人にはもう何も教えなくてもいいらしいよ。まあ知らなきゃ知らない方が入る方も幸せだしね」
「そういうものなの?」
「調べてみようか。昔その部屋で何があったのか、さ」
「調べてどうするの」
「彼のことが少しは分かるじゃない。それに何が起きて死ぬはめになったのか教えてあげられれば、死なずにすむんじゃない?」

「何かが起きた(下)」に続く