「女の魂の旅物語――奥間埜乃『さようなら、ほう、アウルわたしの水』書評」真鳥

女の魂の旅物語――奥間埜乃『さようなら、ほう、アウルわたしの水』書評
 真鳥

 言葉とは声で発されたものと文字で書かれたものがある。更に分類すると、顔面を付き合わせて肉声で話す言葉と電子媒体を通す言葉、手書きで書かれた言葉、Wordで打ち込まれた言葉。また更に分類すると、聞いたのか、話しているのか、紙か、画面か。人々はその言葉の性格についてやや敏感に反応する。「お手紙はメールよりも手書きの方が思いが伝わる」、「大切なことは電話ではなく直接話しなさい」。言葉の性格の価値は無意識に我々の身体に染み付いている。しかし、これが本の形なるとその感覚が鈍る時がある。短編集を読む時に、最初から最後までしっかり順番通りに読む人と興味がある話しか読まない人がいる。前者の中にも一話目を読んだ後、二話目に入る時は、一話の内容とは乖離して読む人もいるだろう。もちろん、書き手側もそのように書いている場合がある。一話一話ですっきりと完結する。それは「短編集」になった言葉の性格であるから、最初から読もうが途中の話から読もうが楽しめる点は短編集の醍醐味の一つである。
 しかしそこには、「1冊の本にまとめられた」言葉というアイデンティティも持っていることを見逃してはいないだろうか。いくつかの話が独立せず、1冊の本に印刷してまとめられ、題名を付けられていることも、また一つのアイデンティティではないだろうか。詩集『さよなら、ほう、アウルわたしの水』(書肆山田)にはその性格が色濃く出ている。一遍一遍を読み進める度に、その前の詩の残響がうっすらと聞こえる。それが何十にも重なって、この詩集は成り立っている。

 『さよなら、ほう、アウルわたしの水』は一つの物語だ。女の魂の旅物語だ。『ビュレット-Ⅰ』でまず、題名にある「アウル」=owl=フクロウを飛ばす。フクロウは空から俯瞰する。首をクルクル動かして物語を多元的に映し出す。魂はまだ闇の中だ。
*を挟み、「女の魂の物語」。さあ、旅が始まる。彼女はマンホールの中から出てくる。人々が生活した残骸である汚水に身を任せていた彼女は「無題の塊」を拾う。それを水の渦へ「書きつける」。言語に落とし込む。「書いてみることはうつくしい」では彼女の視点になる。この彼女は魂でありながら肉体を感じることがある。この作品の中の彼女は軟体動物のようにふにゃふにゃと姿を変える。「私、溶け込んでしまって 踏まれるといけないから あたま襞に隠して わたし、ここでいい と 思って」いる状態から「内臓のふわふわっと」「女、だったの!」「産毛、ぞぞ」と具体的な人体が生成されていく。しかし、この詩の最後で「(主語は優雅に身体を棄てた)」。解脱する。魂は軽やかに紙面をめぐる。

 その次からはリズミカルな詩が続く。『 蹄鉄の脚韻 』ではパカラッパカラッと一定のリズムで疾駆する馬のようなスピード感がある。しかし裏腹に、それに追いついていかない彼女の筆記。置き去りにされそうだがズルズルと馬に引っ張られている速度のギャップがある。『呼気のリズム』ではまた彼女の肉体が形成される。「らせんの拍動 すぐり水に濡れて滑り照り」で、心臓に滴る冷たい水でその輪郭が浮き上がるような光景が思い浮かぶ。まるで紙に一筆で絵を描くように「鼻腔」、「繊毛」、「口蓋垂の信管」が生まれる。そこで一度息を吐き終え、また吸うと、今度は「経穴」「肺」「指」が形成された。二篇の詩から小川のような流動を感じる。女の魂はその流れに身を任せながら次の*に手を伸ばす。

 『花殻』は歌う様に始まる。ここでは柔らかな言葉が並ぶ。「きはちすの花」「香」「くねくね」「白」「たらちねの丘」。冒頭の暗闇とは打って変わり真っ白な世界だ。しかしそこで「途絶の談の白」と暗闇に隠れる事のない、確実な無が語られる。「花」や「たらちね」の生命を感じる言葉と「空砲の空蟬」という虚無感のコントラストが光っている。(註)では、本編では「、」が印象的なのに対し、言葉の区切りが無い。フォントも小さくなり、囁くように書かれている。ここにも作品の流動的で滑らかな様子が伺える。

 『刻、哭し、時へだて、なぜ?訊いた 』は流れが変わる。小川は石でせき止められ、断続的にちょろちょろと隙間から漏れる。
「あなた、ややあって土足で、一歩出し制、止され、近づ、く、黒、黒い、翻るころも、も、喪、その前」
 不穏な空気だ。白のすぐ後に「黒」が出てきた。「あなた」も登場する。魂は先ほどまでの滑らかさとは程遠く、ガチガチに緊張しているようだ。言葉を反芻し、同音の別の言葉を連想させている。
「身、ぐるん、廻り、痙攣、か、彼、は、はは、気遣う、か、彼、岸」
「彼」とあるから「あなた」は男だろう。そこから「彼岸」へ結びつく。魂の緊張は次第に彼女をギリギリと縛り、息も絶え絶えになっていく。そこに
「突然の白光、瞬時の発光!」
 白が差し込む。せき止められられた小川も決壊し、溜まった水が激流となって一気に流れ出る。そこに魂は溺れてしまう。喘ぎ喘ぎ言葉を紡ぐ。その様子を「復路アウル」、戻って来たフクロウが見ていた。

 『ガーダ』はフクロウの俯瞰視点だ。「イニシャルの詮索」「引用の羅列」「述語のタイピング」と無機質なイメージの言葉が並ぶ。そこに入り込む男と女の触れ合い。夢のように曖昧だ。

 『震動の丘―月浮かぶ無辜に闇が』と『舎房の息の緒―鬼線内の無患子』は対になっている二篇だ。この二篇にはかなりはっきりとしたモチーフがある。社会において「封ぜよ」と蓋をされてきた現実が描かれる。それは生々しくもあるが、詩の形態を用いることで、人間の心の隙間に流れ込むように入る。なだれ込むような強い圧力でも包むような柔らかさでもない。人間の歪みに容赦なくするりと入り込む。そしてその中で嵐を巻き起こす。魂の怒りは世界を震わす。

 次は『抒情の花』。また花が出てきた。「秒速、微々の、風」。穏やかだ。「彼岸に吹く」とある。魂は彼岸にたどり着いた。ということは、前の『舎房の息の緒―鬼線内の無患子』で魂は死んだのだろうか。ここで彼岸に来たということは、『花殻』はこの世界の予知夢であるようにも感じ取れる。しかしここに虚無感は無い。もう夢ではないからだろう。以前の空白がここでは埋まっているのだろう。女の考えが至らなかった「未知」があったのだ。魂はまた滑らかな形を取り戻し、流れ動く。

 『散る、ソウルの雨』にも具体的なモチーフを感じる。ここでは一人の日本人としての魂の視点で描かれる。世界との交信が自在になった現代で、日本人としての自意識の感覚を捉えているように感じた。
『てりうそ』とは鳥のウソの雄の呼び名だ。
「届かない、てと、諦めるな、もっと!に放って、宙空に視線、とき、リーブ・ミー・アローンの転、回」と、手からするりするりと逃げていく鳥の姿が思い浮かぶ。この鳥を掴もうとして手を伸ばす姿は、『呼気のリズム』の最後のシーンを思い出させた。「そこに行きたかったの?」という質問は、まるでなんだ、そんなところか、という拍子抜けの言葉に感じた。てりうそは*に飛び立ったのだ。
 
 『夕暮れ』『トラスト・ミー・ハイヤー』『痕跡』の三篇は今までの旅路の記憶が描かれている。『さあ、[わたし]しかいない』。十五篇の詩が共鳴する。

 「もう何もかもの言葉、ここにあるすべてを丸ごと呑み、たがえて首をもたげ、粘膜は文字の形をしっかりと強く結び、時を待てば、粘り気強くすきずきに方ぼうに這い出し」た詩たち。ツギハギのようで、強い絆があった詩たち。彼女が出会った物語。書き記した旅物語。きっそれは「無題の物語」であろう。「さあ、ゼロベースへ」。魂は再出発に向かう。彼岸から此岸へ。
 『アウル、ほう、往路へ涙が譚』でこの物語は幕を閉じる。此岸へ向かう女の魂。「したたるは枷、からだ、かたく、結ばれ」。旅路を終え、軟体動物からしっかりと形を持った肉体を得ることとなる。だから幾百年共に流れていた「私の水」とさよなら。俯瞰するアウルともさよなら。アウルは悲しげに、しかし背中を押すように「ほう」と鳴く。

 このように、詩集『さよなら、ほう、アウルわたしの水』はすべての詩が互いに共鳴し合って一つの作品となっている。それにより思考の奥行が広まり、言葉を噛み締めて出る深みが生まれる。

 この詩集には付録として藤原安紀子氏の『詩のみでできる言語の運動が、ある』が別紙で付いている。このような現代詩を読むにあたって困難に感じたら、この文章を読むことをおすすめする。この世界を見つめる為の指針になるだろう。現代詩について明るくない私がこの文章を書く際にも非常にお世話になった。その中に、この作品について、「これらの詩が孕む言葉の脈動は小説やエセー、論考などの散文にも、型を強いられる日本古来の短詩にも不可能であり、まさに詩(現代は付けなくてもいい)でのみ可能であった」とある。詩は、日常で使う為の言葉を紡ぐ際に割愛された感情や感覚のニュアンスを拾い、何とか言語化したものだ。『さよなら、ほう、アウルわたしの水』はそれを流れるような、踊るような、ダイナミックでありながら繊細な言葉で紡がれている。

(初出:シミルボン「真鳥」ページ2020年2月6日号)

※本作は東海大学文芸創作学科で岡和田晃が2019年度秋学期に開講したSF・幻想文学論で提出された春学期レポートの優秀作を改題したものです。真鳥氏は当時の受講生。