「羽化した記憶」吉澤亮馬

 そのゴミ屋敷の前に来ると、僕のお腹はぎゅっと痛んだ。
 こじんまりした木造建築で、手入れさえされていれば趣ある雰囲気だったのだろう。しかし、庭に膨大なゴミが溢れている。自転車に家電類、雑誌にゴミ袋などが散乱しており、その一部は歩道にはみ出ていた。
「せっかく、感染症も落ち着いたってのになあ」
 隣にいる田中さんはため息交じりに呟き、マスクを取り出した。
「こればっかりは仕方がないですよ」
「伏倉(ふしくら)さんが素直に聞いてくれるといいんだけどな。お前も調子悪そうだし」
 田中さんに続いて玄関へ向かう。扉は開きっぱなしになっており、田中さんが中を覗きこんだ。
「不用心だな。これじゃあ空き巣に―――うおっ!」
 田中さんは叫ぶと身を引いた。代わりに僕が覗きこむと、外観の印象とは違って、物が散乱しているわけではなかった。
 だが、廊下の奥に蠢(うごめ)いているものが見える。大量の蛾が飛んでいたのだ。
「す、すごい数だな。確かに宝名(たからな)の報告通りだ」
「え? 報告ですか?」
「何をすっとぼけているんだ。伏倉さーん、ごめんくださーい」
 少しの間を置いて廊下の先に人影が現れた。手すりに捕まってゆっくり歩いてきたその人こそ、家主の伏倉さんだった。
「何かご用かい」
「市役所の田中です。今日はね、おばあちゃんとお話したくて来たんです」
「いらないよ。私はね、そんなに暇じゃないんだ」
「玄関でちょっとだけでもいいから。ね? お願いしますよ」
「しつこい奴だね。おや、あんたは」
 伏倉さんは僕を見てにやりと笑った。
「あんたも懲りずに来たんか。まあ、いいよ。居間まで入ってくることができたら、話とやらを聞いてやる」
 そう言って伏倉さんは中に戻っていった。僕たちは深くため息をついてから、玄関で靴を脱いだ。
 廊下を歩いていると、そこら中で飛んでいる蛾が気になった。いわゆるカイコガに似た蛾で、白く柔らかそうな体毛があり、ほんの少し可愛らしくも思った。しかし、聞こえる羽音が徐々に大きくなっていく。また足元を見ると、廊下には鱗粉と埃が重なりあっており、進むにつれて足跡が浮かび上がるので気味が悪かった。
 急に田中さんが足を止めた。どうしたのだろう、と思って前を見た途端、立ち止まった理由が見えた。
 夥(おびただ)しい数の蛾がリビングにいた。天井に、床に、机に、壁に――いくら可愛げがあろうと、この数となれば話が違った。
「た、宝名、悪い。これ、俺は駄目だ」
「ちょ、ちょっと、田中さん!」
「外で待ってる! 無理せず引き返していいからな!」
 田中さんは何度もくしゃみをしながら出て行ってしまった。僕もそうしたい衝動にかられたが、これも仕事だ。意を決してリビングに入った。
 リビングに立ち入ると羽音はさらに大きくなった。
「ほら、座って茶でも飲んでくれ」
 僕が椅子を引くと、蛾は離れていった。机に湯呑が置かれているものの、とても飲む気にはなれなかった。
「お、お心遣いありがとうございます。ただ、今日はお話がしたくてきましたので」
「つまらないねえ」
「電話でもお伝えしましたけれど、ゴミについてです。近隣の方々も心配されていますし、私たち市の方でもお手伝いできないかなと」
「ゴミ? なんのことだい?」
「庭にあるもののことです。テレビは一台で充分ですし、自転車もそうです。歩道まで散らかっていると通る人も危ないですし、少し減らしてみてはいかがでしょう」
 目の前でちらちらと蛾が飛び回る。気が散った。
「この蛾もそうです。民家からこんなに大量の蛾が出た、なんて分かったら近隣の方々も驚いてしまいますよ」
「出ないから問題ない。お前さんたちが来た時、外を飛んでいなかっただろう」
「それはそうですが……しかしですね、これからも出ないとは言えないじゃないですか」
「この子らは私の一部。勝手に飛んでいくことはありえないんだよ」
 伏倉さんがおもむろに両手を広げた。すると、蛾が一斉に伏倉さんの全身に止まって羽を休めた。蛾は顔以外を覆っており、襲われているように見える。そんな状況になっていながら伏倉さんは満足げな顔をしていた。
「ほらご覧。私の言うことは何だって聞く。これは私の記憶なんだから」
「……何を言っているんですか? 蛾ですよね」
「これは羽化した記憶なんだ。何も分かっちゃいないんだね」
 伏倉さんがテーブルの端を指差す。そこに目を向けると一匹の幼虫が這(は)っていた。
「こいつある予感があったは人の記憶を食っちまう。腹いっぱいになると繭になって、羽化して飛び回るようになる。ここにいる蛾は皆そうさ」
「あのですね、記憶を食べるなんてありえないですよ」
「寝ている時、頭を突っつかれる感覚があるから、その時に食っとるんだろうよ」
 僕は伏倉さんの精神状態が気になった。あまりに非現実的な妄想に囚われており、正気であるとは思えなかったのだ。
「疑っているのなら、見てみるかい」
 伏倉さんが僕を指差した。すると、数羽の蛾がこちらへ飛んできた。思わず手で振り払ったものの、そのうちの一羽が左肩に止まった。
 鮮明な映像が流れた。
 どこかの街中である。建物はすべて木造であり、歩いている人もレトロな服装と髪型で、明らかに現代ではなかった。目線が低いので、どうやら子供の視点らしい。
 隣を歩く大人に手を引かれていたが、その人はこちらを一瞥してから言った。
『お前はさほど役に立たんのだから、出来ることは何でもやらんとな』
 男性の表情はとても気怠(けだる)そうだった。
 映像が終わる。はっと我に返ると、大量の蛾が舞うリビングに戻っていた。
「私の記憶だよ。羽化した蛾に触れると、そいつが食った記憶を見れるんだ。まあ一度食われると、頭の中からすっぽり抜けちまうがね」
「記憶がなくなるんですか? それって危険なのでは」
「触れれば思い出せるからねえ。自分にとって嫌だったり忘れたい記憶が食われると、頭がすっきりするもんさ。ふとした瞬間に思い出して、恥ずかしくなったり叫びたくなることもない」
 伏倉さんが誇らしげに語るのを聞いているうちに、ふと思い当たった。
 近隣の住民に聞き込みしたところ、伏倉さんは五年ほど前からおかしくなったらしい。五年前、同居していた夫が亡くなってから、徐々にゴミ屋敷化が進んでいき、近所の人とコミュニケーションを取らなくなったという。
 そこに解決の糸口がある気がしてならなかった。
「伏倉さん、もしかして旦那さんとの思い出も……」
「羽化させたね。見せてやろうか」
「もし良いのなら」
 再び伏倉さんが指差した。一羽の蛾が飛んでくると、僕の右手の甲に触れた。
 またも映像が流れた。
 場所はこの家のリビングだった。中年男性と向き合って食卓を囲んでおり、机には白米とみそ汁と納豆が並んでいた。朝食の光景かと思ったのだが、部屋の暗さから夜であることに気がついた。
 湯のみを口にした男性は、小さくため息をこぼした。
『もう少しでも、おかずは増えんもんか』
 映像が途切れた。かと思うと、また別の映像が流れる。
 どこかの広い公園にいた。隣を歩いている男性は先程の映像より若い。ふと視線が下に向けられると、その場でしゃがんだ。どうやら靴擦れをしてしまったらしい。視点の人物が持っていた鞄を開けていると、男性の声が聞こえた。
『靴擦れなんて放っておけば治る。さあ、行こう』
 そう言った男性は先を歩いて行ってしまった。視点の人物は立ち上がって歩き始めたものの、靴擦れした足をかばって歪んだ歩き方になっていた。
 映像が途切れる。気づけば二羽の蛾が手に止まっており、慌てて振り払った。
「どうだった。私の思い出は」
「えーと、ありがとうございます。今見えていたものって、伏倉さんが望んで羽化した記憶なんですか?」
「いや、私が選べるものでもない。でも、忘れたかった記憶が選ばれていくね」
「忘れたかった、って今見た三つがですか? それほどおかしなものには見えませんでしたけれど」
「記憶が羽化すると、同時に美化もされるんだ。それもとびきり脚色がついてね。だから本当の記憶は誰も知りえないんだよ」
 伏倉さんは口元だけをほころばせた。
 僕は愕然とした。伏倉さんの言うことが正しいのであれば、僕が見た三つの記憶は美化されているらしい。
 美化されて、なおもあの程度なのか。
 この人はどれだけ過酷な人生を歩んできたのだろう。驚いて思考が止まってしまい、何も言えずにいると、伏倉さんが口を開いた。
「記憶がどうなろうといいのさ。ここには私の家が、生きた証がある。それだけで事足りているんだよ」
「それは、こちらも分かっています。全てを処分してほしいというわけではありません」
「私が必要だと思ったものしかこの家には置いてないよ」
「少しだけでもいいので、整理をしませんか? 伏倉さんが物を大切にする方であるのは分かりましたので」
「偉そうに、人の話を聞いてないのかい? 証だからここにあるんだよ」
「しかしですね……」
 僕が言葉に詰まっていると、伏倉さんはすっと両腕を広げた。
「見せてやろうか、すべて」
 その言葉を聞いた瞬間、伏倉さんが何をしようとしているのかを察して立ち上がった。それとほぼ同時に部屋中の蛾が僕に迫ってくる。
 僕は玄関を目指しながら鞄を振り回した。しかし、無数の羽音が波のように襲いかかってきた。
 頭に映像が流れる。
 見知らぬ男性に、二千円でいいので貸してください、と頭を下げていた。
 友達から仲間外れにされて、独りで公園の砂場にいた。
 このままでは埒が明かないと思い、僕は背中を向けて一直線に走った。
 頭に映像が流れる。
 真夜中、陣痛で苦しんでいるのに、夫と思しき男性は我関せずと酒を飲んでいた。
 近所の人から笑われて後ろ指をさされた。
 制服姿の息子から、渾身の力で頬を叩かれた。
 どれだけ大声で叫んでも、喉も痛くならず、笑みばかりが浮かんだ――。
 ふと気がつけば、僕は玄関から飛び出していた。周囲に蛾の姿はなく、振り返れば家の奥まで引き返している。羽音が遠ざかると、全身から力が抜けた。
 敷地の外に田中さんの姿があった。心配そうな表情を浮かべていたので、意味もなく手を振って答える。
 とりあえず、今すぐに熱いお湯を頭から被りたくて仕方がなかった。

     〇

 伏倉さんの家を訪れてから一週間後のことだった。
 出勤するや否や、田中さんから「話がある」と耳打ちされた。非常階段の踊り場まで来ると、田中さんは小さな声で言った。
「伏倉さんの家、燃えたとさ」
「燃えた? どういうことです?」
「昨日の深夜に火がつけられたらしい。まだ捜査中だが放火の疑いが強いと」
「ふ、伏倉さんは無事なんですか!」
「不幸中の幸いだったみたいで、人的被害はなかったようだ。動画もある」
 田中さんがスマホを差し出した。スマホには一般の人が撮影し、SNSにアップしたと思われる動画が流れていた。
 真夜中、燃え盛る家が映っている。それは伏倉さんの家に違いない。消防車が到着して間もないようで、消火活動が始まったばかりだった。
『――とくれ!』
 どこからか伏倉さんの絶叫が聞こえると、カメラがそちらを映した。伏倉さんの頬は煤(すす)けており、消防士に体を押さえつけられている。それでもなお、燃える家に向かって手を伸ばしていた。
『離しとくれ! こ、このままじゃあ、全部燃えてしまう! あれは私のものなのに、私なのに!』
 爆ぜる音が続き、辺りは騒がしくなった。再びカメラが家を映すと、燃え盛る家の周りに何やら小さな火が浮いているように見えた。火の粉ではない。
 あれは羽化した記憶に他ならなかった。
「……被害はどうだったんですか」
「見ての通り全焼だ。家屋はもちろん、ゴミまで全て。伏倉さん自身は病院にいる」
「怪我はなかったのでは?」
「火事のショックで、一時的に記憶喪失になってしまったんだと。物を断片的にしか思い出せないみたいだ」
 一時的なものではない、と知っているのは、僕だけだ。
「まあ、伏倉さんには気の毒だが……こちらの問題は解決してしまったな。ここからは警察の仕事だ」
 田中さんは同情と清々しさが混ざったような表情を浮かべた。

     〇

 この日は仕事に集中できないまま終わってしまった。
 気の毒ではあると思う。ただ、田中さんが言っていたように、面倒な案件がなくなって安堵したのは事実だった。
 もやもやした気持ちを抱えたまま帰宅した。スーツを脱ぎ捨てベッドに倒れて、仰向けのままぼんやりと照明を眺めていた。
 蛾が、飛んでいた。
 それは伏倉さんの家にいた蛾と同じだった。訪問した時に鞄の中にでも紛れ込んでしまったのだろうか。もしそうであれば、これは世界に残った伏倉さんの美化した記憶なのではないか。
 僕が手を伸ばして待っていると、蛾が指先に止まった。
 頭に映像が流れる。
 視点の人物は古い家屋のチャイムを鳴らした。すぐに扉が開くと、温和な表情を浮かべた伏倉さんが迎えてくれた。視点の人物が名刺を差し出した。
 そこに書かれていたのは僕の名前だ。伏倉さんは言った。
『よく来ましたね。少しお茶でもどうですか』
 僕は廊下に腰かけて、伏倉さんの出してくれたお茶を飲みながらお喋りをした――。
 映像が終わってから思い出す。そうだった、僕が伏倉さんの家に訪れたのは一度じゃない。あの日が二度目だったのだ。
 そして、この記憶は美化されているらしい。当日、僕の身に何があったのか、事実を知る方法はない。ただ、初めて訪問してからの数日間、腹痛と吐き気が収まらなかったのだ。二度目に訪問した日も調子は悪いままだった。
 もしかすると腐ったものや変な薬を盛られた可能性がある。なんて危険なことをしてくれたんだ、と思うと、怒りが沸々と湧きあがってきた。
 ふっ、と影が見えた。部屋の中にもう一羽、蛾が飛んでいる。
 とても嫌な予感がした。あれには触れない方がいい。触れないままであれば、何も見ずに済む。
 だが、その蛾は僕の額に着地した。
 頭に映像が流れる。
 真夜中だった。視点の人物――僕が伏倉さんの家の付近を歩いていた。周囲の様子を入念に伺い、人気がないことを確認してから敷地内に踏み入った。
 庭には大量のゴミが散乱している。そこから妙な臭いがし、よくよく嗅いでみるとオイルのようだった。これは好都合だ、と思い、僕はポケットからライターを取り出した。
『ちょっと、あなた。何をしているんですか』
 心臓が跳ねた。恐る恐る振り返ると、そこに十数人の人々がいた。周囲は警戒していたはずなのに、どこからやってきたのだろう。その人たちの視線で胸がすっと冷える。
 すると、そのうちの一人が笑顔を浮かべた。
『安心してください、私たちは近所の者です。昔からこの家の人間には迷惑をかけられていました。私たちも我慢の限界です。今から跡形もなく燃やし尽くしてやりましょう』
 僕は胸を撫で下ろした。住民たちは程よく散り散りに分かれ、一斉に火をつけた。
 映像が途切れた。これは僕の羽化した記憶、同時に美化した記憶だ。
 あの夜、火をつけたのは誰なのだろう。僕か、住民か、それとも両方か。いくら考えようとも、美化された記憶の塗装は剥げ落ちてこなかった。
 額と指に止まっていた二羽の蛾が飛び立つ。
 ――僕は何を忘れたのだろう。玄関からノックの音がした。