「SF評論入門」岡和田晃

 SF評論入門
 岡和田晃

◯「入門」するはずのSFが、すでに過去のものだった

――やや堅苦しいタイトルなので、私的な思い出話から始めるといたしましょう。
 あれは1994年、中学校にあがってすぐのこと。学校図書館の片隅で、『SF入門』という場違いなタイトルが付された本を見つけました。ボロボロの表紙を幾重にも補強し、手垢で真っ黒になっていた本なのですが……なぜか、強烈に惹きつけられたのを憶えています。初版は1966年、私が手にとったのは1970年代の終わり頃に出た版でした。
 淡い憧れがあったのです。そう、SFという言葉の響きに、無窮の大宇宙を旅できるかのような……あるいは、未知なる驚異が待っている、といった具合に。それがセンス・オブ・ワンダーへの期待と言うべきものだったということは、後になって気づきました。
 『SF入門』を借りた私は、授業そっちのけで、夢中になって読みふけりました。出てくる作家や作品などの固有名について、それこそ編者の福島正実のものをも含めて、既知のものは一つもありませんでした。しかしながら、読み終えて何か自分が背伸びをして、他の同級生が知らない大事なことを掴んだような気がしたのです。知らない世界を覗き見てしまったような感慨。今でもはっきりと憶えているのは、アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』。この表紙やタイトルのインパクトは、それまで私が触れてきたフィクションには、ついぞ見られなかったものなのでした。

 つまり、「入門」するべきSFは、ワクワクする魅力的なものながら……すでにノスタルジックな過去の遺物とされていたわけです。なにせ、同級生に『SF入門』の話をしても、ポカンとされるばかりで、まったく相手にされなかったくらいなのですから。

◯初めて買った「SFマガジン」が「クズSF」の特集号

 もちろん、私は「SF」という言葉自体を知らなかったわけではありません。レンタルビデオ店で借りてきた藤子不二雄の短編アニメには、「SF=Sukoshi Fushigi」と付されていました。冒険物語のパロディのように風刺の利いた作品が多かったのですが、そこから原作へと進むうち、なかでも感銘を受けたのが、老い先短い老人が若者と肉体を取り替える「未来ドロボウ」という作品でした。
 小学生の頃に熱狂し、ファンクラブに入って自己流のスピンオフ小説を書き始めるくらいには好きだった那須正幹〈ズッコケ三人組〉シリーズで、私が初めて読んだのは『ズッコケ時間漂流記』(1982年)。小学生が江戸時代にタイムスリップして平賀源内や田沼意次と出逢う話で、シリーズで最初に、大きく「SF=Science Fiction」の設定を取り入れた作品でした。
 そうそう、思い返せば、同時期に遊んでいたゲームボーイソフトの『サ・ガ3 時空の覇者』(1991年)は、子ども心にもシナリオに張り巡らされた伏線の妙に大きく感心した作品でした。ステスロスと呼ばれるF-117 ナイトホークに似た戦闘機に乗って過去・現在・未来を行き来しつつ冒険を繰り広げるRPGなのですが、主人公たちが滅びの未来より現在へ送られたところから始まり、まもなく、自分たちを兄や姉のように慕っている目の前の子どもらが、やがては成長し、実は主人公たちを過去に送り込んだ張本人と連帯するということが、冒頭から示唆されます。
 それほどまでに、「時間とは何か」というSF的な問いが、前面に押し出されていた作品なのです。モンスターや街の設定等にクトゥルー神話の要素が散りばめられているという点では、ほぼ同時期まで出ていたロッテの食玩『ネクロスの要塞』と同様、クトゥルー神話との出会いにもなりました。
 こうして私は、それと意識することなしにSF的な発想に慣れ親しんでいたのでした。ここでは、タイムパラドックスなどの「時間SF」と言われる要素に注目をしましたが、宇宙をテーマにしたスペースオペラ(宇宙を舞台にした冒険活劇)のような世界観は、それこそシューティングゲーム等でお馴染みのものになっていました。
 SF=スペースオペラというイメージは、いまだ世間的には根強いようです。その代表格としては映画『スター・ウォーズ』が有名で、いま非常勤講師をつとめている大学でSFや幻想文学を教えていても、学生の口からSFのプロト・イメージとして『スター・ウォーズ』の名前は必ずと言っていいほど出てきます。ただ、私が小学生から中学生にかけての頃は、ちょうど『スター・ウォーズ』のリバイバル・ブーム「以前」だったので、同級生と『スター・ウォーズ』の話で盛り上がるようなことは、ついぞありませんでした。
 ちょうどその頃、コンピュータRPGの原型である会話型のRPG(テーブルトークRPG)の代表作『ダンジョンズ&ドラゴンズ』を解説する黒田幸弘『D&Dがよくわかる本』が再刊したのですが(1993年)、そこでは、プレイヤー演じるキャラクターの一人に悪役の「ダース・ヴェーダー」という名前が付いていました。一種のお遊びです。
 しかし、私は持ちキャラに「ダース・ヴェーダー」との名前を命名することに笑えませんでした。当時は『スター・ウォーズ』を知らなかったのですから、意味がわからなかったのです! むしろ私は、『D&Dがよくわかる本』を通じて、「ダース・ヴェーダー」を知るようになったのでした。
 むろんのこと、リアリズムから逸脱したフィクションは周囲に溢れているのですけど、SFへ自覚的に注目していようといなかろうと、すでにして商業的にSFというラベリングは回避されるようになってきていたのでした。
 私は時折、故郷の田舎町から、電車で1時間ほどのところにあった街に行くことがあったのですが、中学校の2年頃から、古本の楽しさに目覚めます。買った本の奥付には、独特のロゴで『SFマガジン』の紹介がよく載っていました。そこで、高校に入ってすぐ、版元から取り寄せて『SFマガジン』の購読を始めたのです。ところが、私が初めて買った『SFマガジン』は――1997年5月号の「特集・エイリアンのいる風景」でしたが――なんと実質的な第二特集が「クズSF論争」についてのものでした!
 「クズSF論争」というのは、今風に言えば、SFが「オワコン」になっている、という問題提起の妥当性をめぐる喧々囂々の論争でした。今やると、いかにもネットでは「炎上」しそうな話題なのですが、そのような議論が風発するくらいには、肌感覚でSFが敬して遠ざけられるようになっていました。地方の地味な高校1年生ですら、その雰囲気を感じ取ってしまう……。1990年中盤からは、そんな状況が続いていたのです(余談ですが、私はそこへ一石を投じるべく、『SFマガジン』の読者投稿欄(てれぽーと欄)に意見投稿を始めるのですが、それはまた別の機会に)。

◯「SF」評論を形作る「批評」の萌芽

 長々と私的な体験を綴ってしまいましたが……これが「SF評論」と、いったい何の関係があるのでしょうか。それは、批評的な思考がどこから生まれるのかを、皆さんに知っていただきたかったからなのです。
『入門』するはずのSFについて、それ自体を主題的に考える仕方が、すでに過去の遺物とされていたこと。初めて買ったSF専門誌が、SFが「クズ」かどうかを議論するものであったこと。この体験は間違いなく、私の批評家としての問題意識の一つの核を構成しています。まったく同じではないにせよ、皆さんにもきっと、どこかしらこの手のズレを経験したことがあるのではないかと思います。
 つまり、「理想」として思い描いていた光景と、「現実」のそれとが、なぜか深刻にズレてしまっていた場合、立ち止まって、なぜそうなっているのかを考えること。あるいは、こう言い換えてもよいでしょう。商業的な価値基準と美的な価値基準とはどう違うのか、自分なりにそのギャップを埋めていくことは――いたずらに現実を追認して済ませることがないという意味で――すでにして、「SF評論」のみならず、「批評」と呼ばれる思考型式の萌芽になりえているわけです。すなわち、「批評」は「現実」がそのまま「現実」であることのオルタナティヴを探るという意味で、SFと深くリンクするのです。
 他方で、もっと素朴な形で生まれる「批評」もあります。ある作品に深く打ちのめされたが、その理由がわからない。与えられた衝撃をなんとか言語化したいものの、単にSNSで「いいね!」をもらうだけでは、どうにもこうにも物足りない。自分自身を深く納得させ、願わくば、他者にその感動を共有させていくこと。誰しも一度は、そのように感動の内実を深く考えたいという欲求を抱いたことがあるのではないかと思います。
 ゆえに、こうも言えるのではないでしょうか。ネットサーフィンや居酒屋トークだけでは物足りなくなった時、人は「批評」を書き始めるのだと。これもまた「批評」の萌芽にほかなりません。ただ、そのためには、作品のどんな要素が感動をもたらしているのか、あるいは作品を育み、世に出した文脈にはいかなるものがあるのか、そこを調べ、考えていくという煩瑣な手続きが必要になります。

◯「批評」と「SF評論」の多様な形式

 それでは、「批評」にはどのようなものがあるでしょうか。SF小説の文庫本の巻末にはたいてい、著者とは別の書き手(多くは書評家)の手になる〈解説〉が付されています。内容は400字詰め原稿用紙換算で10枚前後の場合が大半で、多くの人は、これが初めての「SF評論」との出会いとなるものなのではないでしょうか。詩集や全集などの場合、本とは別に折り込みで収録された「栞」や「月報」に〈解説〉が付されることが少なからずあります。
 あるいは『SFマガジン』のような雑誌やムック本には、数百字ほどの〈ショートレビュー〉が付いていることもあります。また、新聞や書評紙には、800~2800字ほどの〈書評〉が掲載されることがあり、これも紛れもない「批評」で、SF作品を扱う場合は「SF評論」だとして差し支えがないでしょう。
 雑誌や共著、あるいはウェブジンには、400字詰め原稿用紙換算で15~50枚ほどの〈長編評論〉が出ることがあります。また、前月に出た新刊を、2000~3600字ほどで、串刺しで評していく〈文芸時評〉のスタイルもあります。これもまた、SFを扱う場合は「SF評論」でしょう。
 変わり種ながら目に留まる機会が多いものとしては、〈対談〉や〈座談会〉として、話し言葉での「批評」が行われることも珍しくありません。書き言葉では削ぎ落ちてしまうニュアンスを伝えるのと同時に、複数の論者による丁々発止のやりとりを記述し、また参加のハードルを下げることをも目論まれているように見えます。
 その他、各種文学賞の〈選評〉も見過ごせません。SFを対象とした文学賞のみならず、今はそれ以外の「ジャンル」でもSF的な方法論が採られることが珍しくありませんから、実質的に「SF評論」になっている選評が少なからず出るようになっています。選評の場合、「批評」をメインに活動している人よりも現役の作家が「批評」を行う方が多いほどで、「批評」が評論家専用の方法論ではないことを、明確に示しています。
 最後の〈選評〉的なものというのはやや特殊かもしれませんが、価値判断を明確に行うという意味では、「批評」そのものだと言うことができます。そして、〈解説〉と〈レビュー〉、批評と学術論文の違いは、しばしば話題にのぼる論争的な問題です。厳密に考えていけばいくほど、これらの境界は曖昧なものになっていってしまうのですが、ごく大雑把にいって、〈解説〉の場合には、解きほぐして説明されるテクストへの徹底した奉仕が求められます。それこそ、大元のテクストを読み解く場合の手がかりを提示することが、解説の目的なのです。
 他方で〈ショートレビュー〉の場合は、そこまでの紙幅が与えられないことがしばしばですから、読者に伝えたい、テクストの重要なポイントを1つか2つに絞って書くことになります。〈長編評論〉を書く場合は、例えばその作家の先行作と比較して変遷の是非を論じたり、同じテーマやモチーフの作品と比較して、作品の位置を示したり、同時代の社会状況に比して、いかなる問題提起をなしえているのかを語ったりします。〈時評〉においては、同時期に刊行された他の作品と並べられるため、「今、この時に読むべき意義」が重視されることが多いようです。

◯媒体によって変わる書かれ方

 もちろん、批評が掲載される媒体においても、書かれ方は変わってきます。広範な読者の目にさらされる新聞等の媒体では、できるだけ平易で具体的な説明が求められます。
 昨今では学術誌でも「SF評論」が掲載される機会が少しずつ増えていますが、学術媒体では記述形式はより厳密になっており、きちんと先行研究をふまえたうえで、引用元のページ数を明記するなど、書式の整理が要求されます。ウェブ・メディアでは逆に、リーダビリティ(読みやすさ)を向上させるために、できるだけ改行を増やすなどの処理が求められることもしばしばです。
 〈対談〉や〈座談会〉では、論文ほどに出典明記は先行研究の明示をはっきりと行うことができず、単独論考ほどに議論を突き詰めることは難しいので、そのぶん、価値基準のスタンスをきちんと押し出していくことが重要になります。
 このように、ひとえに「SF評論」といっても、形式は多様であることがわかるでしょう。あるいは、主題面からしても様々で、特定の作家・作品を集中的に論じたモノグラフィー(単一の対象を扱う評論書)もあれば、SFの歴史(作品、作家、理論、ファンダム、事件史……)を解説した本もあり、あるいは哲学の理論を用いて、SFを取り巻く状況の性質(コード)を浮かび上がらせるものも存在しています。
 時間とは何か、宇宙とは何か、それそのものを問う哲学的・自然科学的な内容のものもあれば、災害や未来の政治をシミュレーションするものも存在します。そればかりではなく、存在しない本や理論を分析したものすら珍しくないのです。
 ただ、これらは概ね、ある対象が存在し、それを客観的かつ論理的な散文において表現するという意味で、広義の評論文ということができます。しかし、「SF評論」とは何か、ということを突き詰めていけばいくほど、例えば小説や詩の形式をとっているのに、そこで表現されていることは「SF評論」にほかならない、というような事例が存在することを認識させられざるをえません。こう見ると、「SF評論」の幅は、意外なまでに幅広く、それこそ、何を「SF評論」と定義するのかはその人の恣意的な判断に委ねるしかない、とも思えてきます。
 ……よくわからなくなってきました。実際、文学賞の選考委員を務めるようなクラスのプロのSF作家や書評家でも、「SF評論」の基体となる「批評」とはそもそも何なのかを、きちんと考えている人は稀少なのです。
 ただ、SF専門媒体を離れれば、「批評」の歴史については語られることが多くあります。小林秀雄、吉本隆明、中野重治、江藤淳、柄谷行人、蓮實重彦ら、著名な文芸評論家の名前を見聞きした人もいるでしょうし、それこそ大学でも盛んに講義されています。あるいは印象批評、ニュー・クリティシズム、神話批評、構造主義批評、精神分析批評、といった「批評」の流派を軸に、「批評」のあり方を論じることも可能になるはずです。「SF評論」そのものについても、商業メディアがなく、ファンジン(同人誌)時代から連なる歴史というものが存在しています。それらをまとめた書物もあるのです。
 ただし、「批評」や「SF評論」とは何かを、あまりにも狭く規定しすぎると、すでに実績のある著名な「批評家」の発言であれば、自動的に「批評」ひいては「SF評論」として規定され、逆にジャンルの谷間にあるような形式をとったものが見過ごされてしまう悲惨な事態が起きかねません。
 ですから、こと「批評」や「SF評論」を書こうとしたり、あるいは評したりする場合には、各々の論者が、自分なりの「批評とは何か」といった定義を――曖昧さを残した形であれ――明確化しておかねばならず、そうしなければ目くらましに眩惑されてしまうことになりかねないのです。

◯「批評」の二重構造

ますますわからなくなってきた……かもしれません。そこで、私なりの「批評」の原理を、ここで説明してみましょう。私が最初に出した単独名義の評論集『「世界内戦」とわずかな希望 伊藤計劃・SF・世界文学』(2013)では、次のように書きました。

 批評という方法を通じて、「わずかな希望」を探ること。
 対象とするテクストへ正面から向き合い、その内在的論理を的確に汲み取りながら、より幅広い文脈へと接続を試みることで、テクストという他者との対話を深め、ひいては世界に対する視座を、「わずかな希望」として確保することになる。批評とはひとえに、そのような行為としてあった。
 裸一貫で世界のエッジを切り取ることで、自己の省察を深める営為。世界の痛みを全身で感じ取りながら、その痛みをもたらす巨大な「暴力」へ対抗しうる「知」を磨くこと、読者に洞察を与える創造的な挑発として、横断的かつパフォーマティヴに「知」のありかを提示し続ける行為。

 このように「批評」のあり方を、暫定的ながら定義しています。そのうえで、「SF評論」、「幻想文学評論」、「純文学・世界文学についての評論」、「会話型RPGなどのストーリーゲーム」の評論を、いずれも並列的に「批評」として取り扱うこととしています。
 なぜ、かくもまどろっこしい二重構造を採用したのかといえば、「批評」とは元来自由なものである反面、各々のジャンルの名の下に蓄積された言説の集積体がすでにして存在しているため、それらを「なかったこと」にはできないし、むしろ積極的に参照しなければ、すでに語られてきた議論を自覚なしで踏襲する「車輪の再発明」に終わってしまいかねないことに――「批評」を自覚的に読み続け・書き続けるうち――気づいたからです。
 そもそも「SF評論」と「幻想文学評論」とはどう違うのでしょうか。物事をありのままに書くという写実主義的リアリズムでは捉えきることのできない反リアリズムという意味において、SFと幻想文学は同じカテゴリーで捉えることに、何ら問題はありません。一方、SFとファンタジー(幻想文学)は、別ジャンルとして捉えられることもままあります。SFは未来世界を舞台にするが、ファンタジーは前近代を舞台にする、といった具合に、映画やゲームのモチーフとして使われる場合、それらは別個のものとして扱われることが多いからです。

◯「ファンタジー」は「SF」のサブジャンルなのか!?

 厄介なのは、日本のSF史においては、戦後にSFが1950年代の終わりから一つの独自の勢力と凝集性を有した「ジャンル」として確立したのに比して、J・R・R・トールキン『指輪物語』(原著刊行は1954~55年)のような本格的ハイ・ファンタジー(異世界ファンタジー)の成立は、1970年代を待たねばなりませんでした。もちろん、児童文学ファンタジーの歴史では、ファンタジーは重要な構成要素となっていますが、それは子ども向けの「メルヘン=おとぎ話」にすぎず、「大人向けの文学」ではない、とするような風潮が長らく続いていたのです。
 そのせいか、SF界の文脈では――あからさまではないにしろ――ファンタジーがSFの実質的なサブジャンルとして扱われる事態が起きてしまっています。世界的には、ヒューゴー賞やネビュラ賞といったSF賞と、世界幻想文学大賞のような幻想文学の賞は別個に区分されていますが、こと本邦においては、日本SF大賞はあっても日本ファンタジー大賞はなく(※なお、「日本ファンタジーノベル大賞」はありますが、こちらはあくまでも新人がデビューするための賞です)、優れたファンタジー作品がSFの枠内で評価されることで、その真意が十分に受け止められていない、という悲劇がまま起こってしまっています。
 こうしたズレは改善の傾向にあるとも言われていますが、私は楽観視していません。ただ、具体例をあれこれ述べるよりも、一つの歴史的な経緯を紹介したいと思います。この文章の掲載先が「日本SF作家クラブ通信」であることに着目してください。日本SF作家クラブを英語で書くと「Science Fiction and Fantasy Writers of Japan」となりますが、初期のSF作家クラブにおいて、略称に「Fantasy」は付いていませんでした。けれども、ファンタジー作家である会員たちからの要望を受けて、「Fantasy」の文言が加えられたわけです。少なくともそれ以前において、「ファンタジー」は「SF」の影に隠れてしまっていたと考える、作家たちや読者たちがいたというのは事実なのです。
 私は2010年に日本SF評論賞優秀賞を受けて、日本SF作家クラブに推薦人なしでの入会資格を得たため、それ以前の話を直接目撃しているはわけではないのですが、ファンタジーが自律したジャンルであるということを、日本においても、はっきりと打ち出す必要があると認識された時期があったのは確かなのです(そして私は、もっともっとファンタジーの重要性を押し出していってかまわないと思っています)。
 しかしSFとファンタジーの差異はどこにあるのでしょうか。ふたたび、『スター・ウォーズ』の話になりますが、これは典型的な「SF映画」だと思われがちで、「ファンタジー映画」だと言う人は、いたとしても少数派でしょう。けれども、いざ『スター・ウォーズ』のオープニング・スクロールを参照してみれば、「A long time ago, in a garaxy far,far away……(遠い昔、はるか彼方の銀河で……)」と、「未来」ではなく「過去」のものだと記されています。これを字義通りに捉えれば、過去の話なのだから、宇宙船のようなSF的な小道具(ガジェット)を含めて、広い意味での前近代的なファンタジーだと言えるのかもしれません。
 繰り返しになりますが、ジャンルの区分とは、内在的に捉え返していけばいくほど、曖昧になっていくのです。先ほど、文学賞の選評の話をしましたが、文学賞ではそのジャンルへの「奉仕」が暗に求められますが、境界そのものが解体されつつあるのが現状で、その先にしか「新しさ」は宿っていないとも言うことができます。そこには、「新しさ」をめぐる明らかなジレンマが存在しますが、通常、その矛盾は「大人の事情」で覆い隠されてしまっています。けれども「批評」とは、さまざまな矛盾の鬩ぎ合いを、可視化する作業でもあるのです。そして「SF評論」が厄介なのは、ともすれば「文学とは何か」という問い以上に、「SFとは何か」の本質と起源への問いを、幾度も繰り返し問うてきた分野だからなのです。

◯山野浩一によるSF定義の三分類

 ことSNSでは「○○がSFか」「○○はSFではない」といった意見が交わされ、しばしば議論の的になって「炎上」しています。排除の正当化に用いるのは論外とはいえ、ここには深刻なズレがあります。何かを「SF」だと規定しうる際に、あらゆる非リアリズム作品を包含するような視点も取り得る一方で、表出される異世界の論理的整合に対し、近現代の自然科学の成果および、そこから外挿(既知のものから未知のものを予測・推理すること)される方法論が、作品のテーマ性と渾然一体になっているようなSF作品もあるからです。「日本SF育ての父」と言われるSF評論家・編集者の柴野拓美氏(1926~2010)によれば、後者は「ハードSF」と呼ばれるものなので、その型式でしかなしえない独自性を持つものですが……どうして、このようなズレが生じてしまうのでしょうか?
 SF作家・評論家の山野浩一氏(1939~2017)は、平凡社『世界大百科事典』(1984年)における「SF」の項目を担当し、次のように「SF」を定義づけています。この分類が、重要な手がかりになるでしょう。

 もともとは科学小説を意味するサイエンス・フィクションscience fictionの略語であったが、いつか未来的なものや宇宙的なもの、または奇異なものの総称として用いられるようになり、映画、音楽、美術、建築、哲学、社会学といった現代 文化全域に広がったイメージ群の総体を指すようになった用語、それは大きく分けて次の三つに分類される。
 1:主として少年少女向けの娯楽としての冒険活劇やメルヘン風の小説、映画、テレビドラママンガ、演劇、音楽、玩具など、この方面では宇宙船やロボット、コスチュームなどの道具立てが重要な役割を果たしている。
 2:主として科学技術の予測、計画、普及、およびそれにともなう社会科学的な考察、ユートピア論、文明史など。この方面では情報と技術がさまざまの重要な役割を果たしている。
 3:主として理論科学的な真理探究や哲学的な思考に重点を置くもので、いわゆる文学活動に近いが、新しい世界認識や小説手法による文学の改革運動にもなっている。この方面では認識、理論、思考が重要な役割を果たしている。
 以上三つのSFはそれぞれまったく異なった方向へ発展しており、メディアにおいても1、2に関しては小説以外のものに中心が移行しつつある。
 このため、3に関しては英語圏でスペキュレーティブ・フィクション(speculative fiction)ということも少なくなく、日本においても、特に小説においては〈SF小説〉というように、二重にフィクションの語を使った表現をすることも多い。1~3を結びつけるものはあくまで小説であるが、1は主としてアメリカで、2はソ連、東欧、アメリカなどで、3はイギリスで発達した。
 現代でも、国によってSFの概念はかなり異なっており、日本の国内においても世代や職業、教養、趣味のあり方によって大きなギャップがあるといってよいだろう。(引用にあたり、適宜改行を施した)

 この『平凡社大百科事典』で山野浩一氏が記した定義は、1960年代から先鋭的・論争的な「SF評論」の書き手として鳴らしてきた氏の知見が、コンパクトに要約されたものとなっています。ここでは、英米・旧ソ連や東欧の動向が中心に据えられていますが、続く「歴史と現状」の段では、フランス・イタリア・ラテンアメリカ諸国の文学等も、「内容的に今日のSF作品と似た作品が、多く、世界的にSFとして読まれている」と総括されています。

◯アヴァンギャルドな方法論としてのSF

 もともと、山野氏は主として1960年から70年代にかけて世界的に盛り上がった「新しい波(ニュー・ウェーヴ)」と呼ばれる芸術の改革運動を、SFを積極的に導入した書き手であり、フランスのシュルレアリスム(超現実主義、目には見えない夢や無意識の非合理性を、積極的に作品へと昇華させた型式)、ヌーヴォー・ロマン(写実主義的なリアリズムでは捉えきれないものを捉えるために、単線的な時間軸・筋の通ったストーリー・内面を有した登場人物という「お約束」を廃し、小説の書き方自体を大胆に変容させること)もまた、SFと併走する文化運動として評価していました。
 そしてヌーヴォー・ロマンの方法論を経由し、「開発途上国」とされたラテンアメリカの政治的な現実を捉えた「魔術的リアリズム」の方法も、山野氏はSFに通じると考えていたのです。ラテンアメリカ文学研究者・寺尾隆吉氏の定義によれば、「魔術的リアリズム」とは、「フィクション化によって日常的現実世界を通常と異なる形で提示して「異化」し、同時に、現実世界に起こる、フィクションと見まがうばかりの異常な事件を「平板化」して受容可能にする、一見矛盾するように見える二つのプロセスを同時に達成」する方法を意味します。
 山野氏が監修をつとめていたサンリオSF文庫(1978~1987)には、ブライアン・オールディス(イギリス)、ミシェル・ジュリ(フランス)、アレッホ・カルペンティエール(キューバ)のような先鋭的な作家が収められていました。今、仮に山野氏自身が健在で、この定義を見直したとしたら、昨今注目を集めている中華圏SFをも、なんとかこの区分へと盛り込もうと試みることでしょう。サンリオSF文庫には、中華圏SFの古典である老舎の『猫城記』(邦訳1980年)さえも、収められていたからです。

◯山野浩一の三分類は再構築できる

 このように、アヴァンギャルドな方法論としての、先の分類では「3」にあたるSFを山野氏は推進していたわけですが、さりとて「1」や「2」を軽視していたわけではありません。「1」の普及を、山野氏はまさしく『スター・ウォーズ』や『スーパーマン』のようなヴィジュアル作品を通じてなされたものだと論じており、他方で「2」を、起源としてのメアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(1818)から、核兵器の危険とその抑止力を考察したH・G・ウェルズ『解放された世界』(1914)に至る、「科学ロマンス」(近代文学と不可分な表現形式としてのSF)の伝統のもとに位置づけていました。
 もちろん、古びている部分もないではありません。山野氏自身、アニメ『鉄腕アトム』や『戦え、オスパー!』の原作を務めていましたし、「1」を「主として少年少女向けの娯楽としての冒険活劇やメルヘン」と括ることすら、今はできなくなっています。あくまでも、そのような領域で蓄積されてきた「小道具・舞台装置としてのSF的要素」を取り入れつつも、表現形式の中心を、社会科学的な考察や哲学的な真理探究とは別個のものに置いている作品と、再定義しなければならないでしょう。さらに、山野氏がカヴァーできていない部分を付け加えるならば、1970年代半ばから、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』等、英語圏を中心に世界的な展開を見せるようになったRPGをはじめとしたストーリーゲームは、SFやファンタジーにも非常に大きな影響を与え、SFの新しい型式となっているばかりか、文芸批評や映画批評の方法論を応用させる形で、ゲーム・スタディーズという独自の「批評」様式を確立させるに至っています。もっとも、山野氏は競馬・囲碁・将棋等に通暁したゲームの達人でしたから、もし健在ならばこの定義を書き換えるにあたってストーリーゲームの潮流を取り入れることにも、きっと同意したろうと推察されます。
 いずれにせよ重要なのは、山野氏の三分類を大まかな潮流として意識しつつも、実際の「批評」においては、それらの「区分」を越えられない壁だと捉えるのではなく、積極的に越境できるように、評価軸を常に解体・再構築させていき、ゆらぎと運動性の渦中で「批評」を行うことなのです。

◯ローズマリー・ジャクスンの幻想文学批評

 こうした山野氏のSF観は、幻想文学批評の方法論に近似したものになっています。邦訳が1975年に刊行されたツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』は、幻想文学の根本にあるものを――「語りの不安定さ」を通し――語られる現実に「ゆらぎ」を与えるものだと考えました。そして、そのジャンル的な特徴を、論者の恣意ではなく、テーマやモチーフ別に、科学的な分類を施していくといったアプローチを採用しています。
 2018年に邦訳されたローズマリー・ジャクスンの『幻想文学(ファンタジー)――転覆の文学』(『幻想と怪奇の英文学Ⅲ』所収)では、トドロフの議論を引き継いだうえで、幻想文学の諸形式が持つ「政治性」に着目します。ここでの「政治性」とは、写実主義的なリアリズムでは覆い隠されてしまうものを暴露し、その欺瞞を打ち破るため、伏流のごとく流れていた潜在的な力を意味しています。
 そのため、ジャクスンは「複眼」的な視点をもち、さらに語りを攪乱させることを重視しました。当然、それは、表面的な形式の分類を、絶えず攪乱していく運動に繋がるわけです。
 ここでジャクスンが参照しているのは、ラディカル・フェミニストとして知られるジョアナ・ラスの述べた「否定的仮定性」こそが幻想文学の核である、というスタンスです。現実を取り巻く圧倒的な暴力があり、それが個々人を蹂躙してやまないのだとしたら、そこに有罪宣告を行い、暴力を退け、もう一つの現実を構築することこそを、ラスは重視したわけです。
 かような「トドロフ→ラス→ジャクスン」の系譜に連なる幻想文学批評は、山野浩一氏の議論を経由させれば、ほぼそのままSF批評のための方法論として適用させることが可能になります。そこからジャクスンは現実の秩序を「転覆(サブヴァージョン)」させる政治性こそが幻想文学の本質だと論じていくわけですが、どうして、このような闘争的なスタンスが、現在の状況において重要性を増してくるのでしょうか?

◯なぜ制度は「転覆」されるべきなのか

 率直に言って、今の文芸ジャーナリズムの現場において、商品広告を超えたレベルの「批評」が、なかなか求められることがなくなっています。私がデビューした時からその傾向はありましたが、ますます拍車がかかっており、「批評」の多くは、ファンジンや非営利の学術媒体等に、そのフィールドを移行させつつあります。「批評」全体がそうなのですから、「SF評論」に関しては、いっそう厳しい状況が続いているのは言うまでもありません。何が言いたいかというと、批評性の萌芽が芽生えても、それを形として載せる受け皿が圧倒的に不足しているのです。
 現に、私の出身文学賞である日本SF評論賞も2013年度の第9回で中止したままとなっており、「SF評論家」の肩書を引っさげて仕事をするうえで、専門の新人賞を経て登場するということが不可能になってしまっているのです。こういう状況が所与になっているなかで、かつて「SF評論家」としてデビューした人たちも、それこそ論者なりの問題意識を広げていく形で、「SF」以外のメディアへ活動のフィールドを移さざるをえなくなっています。
 さらにいえば、アメリカ文学者で「SF評論」も手掛ける長澤唯史氏が指摘しているように、SFや幻想文学を現実離れしているがゆえ表現として取るに足りないものとみなす傾向と、フィクションとしての空想性を重視することでその社会的な機能に目を背ける態度は、ジャンルの内と外で相互にSFを排除し、囲い込む力学として機能してしまっているのです(「TH トーキング・ヘッズ叢書」No.78)。
 それだけではありません。四半世紀前に「冬の時代」だと議論がされたSF界は、その後も高齢化が進んでいるとも言われますが、真に問題なのは書き手の実年齢ではなく――たとえ若手作家であっても――表出される世界像が、しばしば悪しき意味でのタコツボから出てこられていないように見受けられることです。そして、外側からは無理解な嘲弄が、常に投げかけられる始末です。
 こうした現実に対し、私は制度の内外で少しでも事態を改善すべく、微力を尽くしてきたつもりではありますが、それについて語ることは「入門」の範疇から外れてしまいます。何より私自身、ジャンルの内と外でSFが囲い込まれ、あるいは隅に追いやられてしまっている以上、新たな書き手を導き入れるだけではなく、むしろ囲い込む力学そのものを破砕する方へ力点を置くべきだと考えるようになってきています。それこそが、ラスの言う「否定的仮定性」、ジャクスンの言う「転覆」としての「SF=幻想文学」のあり方だとも思っているのです。
 極端な話、「転覆」された結果、将来的には「SF」が旧来的な意味での「Science Fiction」の略称でなくなっても、それはそれで構わないと私は考えています。実際、英語圏ではSFや幻想文学、シュルレアリスム、ヌーヴォー・ロマン、魔術的リアリズムの方法論等を、軒並み「思弁小説=Speculative Fiction」と総称していますから。日本においても、「Speculative Fiction」としてのSFを残存させ、あとは社会科学的な思考実験、あるいは小道具(ガジェット)として用いられる要素としてのSF的方法論の妥当性を、それぞれ厳密に突き詰めていけばよいのではないでしょうか。少なくとも私は、自分がクリエイターとして関わっているSFやファンタジーRPG作品の開発や考証あるいは翻訳紹介にあたっては、世界観の因果律をできるだけ重視していますが、他方で評論家としては、「Speculative Fiction」の意義を集中的に再検討する仕事を、長らく継続しています(「TH」誌に連載中の「山野浩一とその時代」など)。

◯これからのSF・幻想文学評論に必要な6つのポイント

 ただ、従来のSFに強い愛着があり、それこそSF作家クラブが体現しているような「コア」の部分を、できるだけ残存させていきたいという人が、作家のみならず読者にも少なからずいらっしゃることを、私は重々承知しております。私自身、オールドスクールなスペースオペラ作品も大好きですし、ハードSFにしかできない方法論があるのをも認めるスタンスをとっています。
 SF史においては、SF概念が多数のメディアへ「浸透と拡散」されていく状況で、それを是とすべきか、むしろ「抽出と凝固」を目指すべきかという立場での議論が繰り返されてきました。私個人は、この二項対立という構造自体を、そのままでは肯わないのですけれども……。よく使われた議論なので仮定的に持ち出すことにいたしますと、「浸透と拡散」および「抽出と凝固」のどちらの立場においても、ほとんど問題なく受け入れられるはずの提案を、私はここで示しておきたいと思います。

1:世界各地の紛争・連綿と広がる疫病や飢餓、貧困、その他の社会不安が、とりわけ21世紀に入ってからは、これまで見たこともないような規模において、ドラスティック(劇的)に進行しつつあります。新自由主義社会における高度化した資本主義がもたらしている暴力は言うまでもありません。こうした状況は表現形式の大枠についても、根本的な変容を強制的に促す重力として機能していますから、それにふさわしい想像力のあり方を論じるとともに、過去の作品を読み替え、その成果を具体的に示していく、持続的な「批評」活動の創出が必要になります。
2:性的・民族的マイノリティ等の、特権的な選良ではない虐げられた者の立場を理解しつつ――その視点へいたずらに「憑依」して抒情に淫するのではなく――マジョリティの歴史的な加害性を自覚する形で出発した「批評」を浸透させなければなりません。
3:同時に、自然科学や人文社会科学の発展によって、既存の「人間」理解が刷新され(ポストヒューマニズム)、あるいは世界の因果律が偶然的なものであることが明らかになっています。その徴候を、的確に指摘する「批評」が必要です。
4:既存の「批評」型式にはそれぞれ限界があり、それだけでは掬えないタイプの想像力が少なくありません。創作的な応答も「批評」として積極的に評価していくような、視点の柔軟化が求められます。
5:反面、「批評」は主観性ではなく客観的な論拠に裏打ちされていることが重要になります。そのため、専業的な批評家ではない作家にとっても、きちんと論にあたって論拠を明示する習慣を徹底する必要があるでしょう。もはや「小説は小説家にしかわからない、批評は批評家にしかわからない」という時代ではなく、両者を絶えず往還するようなリテラシーを培わなければならないのです。
6:SFは原理的には何でも扱えると吹聴しながらも、一例を出せばゲームシナリオ・現代詩等の分野でなされた仕事について、ろくな顕彰ができていないばかりか、それらをSFの文脈で評価することもできておらず、結果としてSFとして培われてきた言説の蓄積をまるで活用できていません(英語圏のネビュラ賞にはゲームライティング部門ができ、SF詩には専門の団体が主宰するライトリング賞があるというのに)。これらもまた、SFだとすることで――「領土拡張」とは別の、リゾーム(茎状組織)のイメージで――SFをめぐる言説空間の力学を再編成させていく必要があるでしょう。そのためには「理論」の重要性が増していきます。

 現在、「SF評論」の「場」はほとんどないと書きましたが、以上6点の批評的課題を達成しようするプロセスにおいて、必要な「場」はそれこそ、創発的に誕生していくのではないか……そのように、あえて私は楽観的に捉えるようになってきています。いずれにせよ、いまは「SF評論」は「SF評論家」の専売特許ではありません。この社会に生きる誰しもが抱く「むず痒さ」を少しでも解消させるものとして、「批評」および「SF評論」は位置づけられるべきものなのです。本稿をお読みの方々による、さらなる「撹乱」と「転覆」を期待します。

初出:シミルボン「日本SF作家クラブ通信」ページ2020年5月27日号、校閲:横道仁志・渡邊利道/編集:牧眞司