「こん、こん、こんこん」飯野文彦

「甲府物語」を読んだという方から、葉書をいただいた。その中にあった一文――。
〈途轍もなく恐ろしい背景が山梨甲府にはあるのではないか…という恐ろしさです。〉
 これを読んで、ぞぞぞっと鳥肌が立った。それは私自身の隠して、否、忘れていた過去をも見抜かれたのではないかと感じたからだ。 私自身、これを思い出したのは、つい最近のこと。苦悩し、隠しつづけるよりも、いっそ告白してしまえ、とばかり書いたのが、今回の作品である。
    ◇ ◇
 こん、こん、こんこん。こん、こん、こんこん。雪か、こんこん。霰(あられ)か、こんこん。
 ちがう、もっと、ずっとずっと、深い心の底から聞こえてくる、響いてくる。何かを突き崩すように、覆っていた殻を、奥から破ろうとするみたいに。
    ◇ ◇
 机上、右側に置いた単一の乾電池で動く旧い目覚まし時計、その時を刻む音だけが、しんしんと腸(はらわた)に響いてくる。時刻は数分で午前四時になろうとしている。夏時分だったら、あと一時間もすれば、うっすらと外が白んでくるものの、年の瀬間近の時期とあって、東の空がぼんやりしてくるのは午前六時過ぎ、まだまだ夜の闇が深まりつづけていく時刻だ。
 これほど深まった夜のひととき、これほど静かな神経で腰を下ろして居るのは、にわかに思い出せないほど、久方ぶりのことだった。恥を忍んで打ち明けるならば、私はアルコール依存症であり、このような時刻には、すでに寝こんでいるか、はたまた意識があったとしても泥酔している。それが今晩に限って、なぜこうして穏やかに、アルコールを口にしないでいるか。
 今晩に限って、というのは偽りだ。連続飲酒がどうにも止まらなくなってしまい、入院して、やっとのこと酒を切り、昨日退院してきたばかりである。退院してすでに二十時間近くが経つものの、アルコールは手にしていないし、今のところ、飲みたいという気持ちすら起きていない。むしろ飲まずにいれば、これほど静かで落ち着いたひとときを過ごせるというのに、なぜ好き好んで荒れ狂う海の中に飛び込む必要があるのか。自分のことながら、赤の他人の愚行を客観視するように、冷静に判断できる。月明かりが照りつける穏やかな湖のほとり、一人静かに佇(たたず)んでいるかのような心境ですらあった。
 相生町のアパート、六畳の和室で壁に向かって置かれた机に向かい、腰を下ろしている。照明は机の左隅に置かれたスタンドのものだけしか点けておらず、背後は闇、窓の外には夜の闇が綿々と連なっていることだろう。
 自分の前だけが明るく、ほかの部分が暗いほうが、より安らかな気分を得られるような気がし、事実その通りだった。酒に溺れている頃だったら、闇は何よりも怖く、一晩中、室内の灯すべてを点けっぱなしにしていたし、浴室兼トイレは夜に限らず、四六時中、点灯しておいた。そうしないとちょっとした隙をついて、邪悪なものが闇に紛れて忍び込み、私の神経を狂わせようとするからだ。もちろんアルコールに爛(ただ)れた神経の錯覚に違いなく、今ならそれらを愚かな行為だと冷静に判断できるが。
 午前中に退院した。
「どうせ一人なんでしょう。昼食を済ませてから帰ればいいじゃないですか」
 医師は呑気なことを言ったけれど、大きなお世話、私は固辞した。正午を過ぎてから町へ出たならば、すでに昼食時でビールなど、嗜(たしな)んだ輩(やから)が町をうろついているかもしれない。そうでなくても街角には酒を売る自販機があり、酒屋は店を開き、コンビニやスーパーにもアルコールがあふれかえっている。
 一般人が飲み始める時間に限りなく近づく昼下がり、街中に放り出されたら、有形無形の重圧に神経が圧迫されて、ぷつん、平静を保つ細い糸を引きちぎり、すべてを払いのけて疾走し、自販機、酒屋の店先、ラーメン屋かチェーンの牛丼屋、何でもかまわずに駆け込み、酒におぼれてしまう。それが怖かった。そのため、まだ世間の空気がアルコールに汚れていない午前中に退院し、呼びよせたタクシー、まっすぐアパートの真ん前まで戻り、料金を払うのもそこそこ、強烈な便意に襲われて駆け込むような姿で、帰宅に成功した。
 机の上にはノートパソコンが置いてあるものの、何も文字は連なっていない。何か書こうと開いたのに、何も思い浮かばない。そもそも書くということ自体、どうすればいいのか知れない。素面で世間に戻った私は、世の中がまったく変わってしまっていることに初めて気づく。
    ◇ ◇
 昔、演者は誰だったか忘れた、演目は、しわい屋(や)、けちな男の噺(はなし)の〈まくら〉で、目が二つあるのはもったいない、片方の瞼(まぶた)を縫い合わせ、何年か後、開いていた方の目が病気で見えなくなり、縫ってあったもう一方の目をひらくと、世間は見知らぬ人ばかりであった、という、あれか。
 この〈まくら〉に、すこぶる共感した。喩(たと)えになるだろう、両目で見るのが恐くて、縫い合わせこそしなかったけれど、片方の目で世間を見ていた。いつからだ? アルコール依存が進んでからか、否、もっとずっと、ずっとずっと以前。両目を開いていても、片方の目には神経を向けず、片方の目だけに向けた。慣れれば容易(たやす)い、しかしなぜ、そんなことをしたのか。
 こん、こん、こんこん。
 払いのけるように、これまでずっと閉じていたほうの目を開けた。と――。空白だったノートパソコンの画面に文字が浮かんでいる。
    ◇ ◇
 最後に〈梅見座〉へ行ったのは、ご贔屓のミュージシャン・堤広一さん、ソロライブだった。
 梅見座? 〈桜座〉だと思っていた。が、実は梅見座だったのか。机の端に置かれたチラシ、以前行ったときにもらった、それを引き寄せて見ると〈梅見座〉と書いてある。私が変なのか。否、そうではない、何者かが改ざんしたのだ。誰が、何のために。
    ◇ ◇
 こん、こん、こんこん。
 底から響く音が強くなり、振動を伴っている。押さえつけていたものが、殻を破り、懸命に外に出ようとしている。思考は、時間を遡り、幼い頃に住んでいた家の二階、子ども部屋にある机に向かって、鉛筆で、原稿用紙に文字を書き連ねている幼い私が居る。
    ◇ ◇
 健全なる精神は健全なる肉体に宿るなんて、ボクが通っている小学校の体育の先生が言うけれど、それならボクはぜったいにだめだ。ボクの精神は、まったくもって健全なんかじゃないからだ。何もこれはボクの責任じゃない。でも、それは誰にも言わない。言っても誰も信じてくれない、馬鹿にされるだけだ。
 悲しいことだけど、ボクは学校のみんなから嫌われている。それはボクが〈病気〉のせいだ。ボクの〈病気〉は人にうつるようなものじゃないんだけれど、みんなは勘違いして、ボクに近づこうとしない。ボクが気が弱くて、はっきりしない性格なのも、いじめられる原因だと思う。
 昼休み、みんなとなじもうと思って、前の日に考えていったギャグを言うと、それまで大笑いしていたクラスのみんなが、ぴたりと笑うのをやめてしまった。みんな冷たい目でボクを見るんだ。なかには声に出して、
「ばっかじゃねえの」
 と言う子もいた。どうやってその場の雰囲気を変えればいいのかわからなかったボクは、逆にそれがチャンスだと思って、
「ひひひ、ばっかでーす。ボクはおばかちゃんでーす」
 と下の歯を突き出し、右手で頭に、左手で顎(あご)にさわりながらお猿さんのまねをしたんだ。
 誰も笑わなかった。からかう子も「ばっかじゃねえの」と言う子もいない。気持ち悪いものを見るような目で、みんなボクから離れていった。どうしたんだよ、ボクだってふつうの小学生だよ、みんなみたいにギャグを言ったり、ふざけたりしてるだけなんだ。あふれそうになる涙を必死にこらえ、鼻の奥や目がじんと熱くなったけど、ボクは必死にお猿さんのまねをつづけた。うききうきききいぃって声をあげたとき、弾みで唾が前にいた女の子の腕に飛んだ。そのとたんに、女の子はボクの唾が飛んだほうの腕を突き出したまま、大声をあげて泣きだしてしまった。
 まわりにいた女の子たちが、その子を抱きかかえて連れていった。クラスで人気がある山根クンがボクの前に出てきて「いいかげんにしろよ」とボクをにらみつけた。
 ボクはなにも言えなかった。動くこともできなくて、その場に立ちつくしていたら、みんなは行こう行こうと言って、教室を出て行ってしまった。昼休みの教室にボクひとり。ボクは自分の席にすわって、じっとしていた。午後の授業がはじまる少し前に、みんなはいっせいに帰ってきた。ボクと誰も顔をあわせようとせずに、自分の席に着いた。ボクはみんなが戻ってきたら、謝ろうと思っていたんだけど、誰もひと言も口を聞かないで、しんと静まり返っていて、とても謝れるタイミングもなかった。そうしているうちに、先生が来て、すぐにみんなボクのことなんか忘れたように、元気に授業をはじめた。ボクがそこにいることすら、みんなの頭の中にはないみたいに。
 まあ、ほかにもいくつか似たようなことはあったけど、そういっぱいじゃない。それから少しして、ボクの〈病気〉は悪くなって、入院した。はじめのうちに、クラスの子が交代でお見舞いに来てくれたけど、みんな来たくて来てるんじゃないのが見え見えだった。ボクはつらくなったんで、母さんにお願いしたんだ。「もうお見舞いに行けなんて言わないでくださいって、先生に伝えて」って。お見舞いにやって来たクラスの子たちを見て、母さんも雰囲気を察していたんだろう。その次の日から、ぴたりとクラスの子たちのお見舞いは途絶えた。週に一回、担任の先生がやって来るだけになった。
 そんなときだったんだ、あの子が狐のお面をかぶってボクの病室にやって来たのは。背格好からいって、ボクと同じ歳くらいだったし、お面をかぶっているから、くぐもっているけれど、その声は間違いなく男の子のものだった。しかし、いったい誰かとなると、わからなかった。
    ◇ ◇
 こん、こん、こんこん。ダメだ、破られる。幼い私は、縋(すが)りつく思いで書きつづけている。幼い私? 本当に私なのか。
    ◇ ◇
 ただひとりの友人は、いつも狐のお面をつけています。病室に、ほかに誰もいないのを見計らって、遊びに来てくれる。彼と付き合ううちに、ボクはどうしても彼の顔が見たくてしょうがなくなります。しかし彼はなかなか見せてくれません。やがてボクは〈病気〉が重くなり、どうしても彼の顔が見たくてたまらなくなりました。どうせ治らないんだから、最期のお願い、と彼に頼みたい。ボクが寝ていると思ったらしいお医者さんと母さんが話しているのを聞いてしまったんだ。今度発作が起きたら助からないって。
「母さんに言って、ボクの玩具(おもちゃ)をすべて君にあげる。あ、欲しくないか……。それだったら、それだったら、うん、ボクが死んだら君の守り神になってあげる。これから君が困ったことがあったとき、ボクが守ってあげる。君はぜったいに不幸になんてならない。ボクが必ず幸せにするんだから。ボクと友だちでいてほんとうに良かったって、ずっとずっと大人になっても思っていてもらえるためにも。ね、ほかの友だちにはできないことでしょ。ボクしかできないことだ。ぜったいに君を幸せにしてあげる。だから君の顔を見せて!」
 お面の下から覗いたのは、ボクの顔。えっ、これがボクの顔、だってお面と同じじゃないか。気がつくと、ボクはひとり、病室の鏡の前に立っていました。
    ◇ ◇
 音が消えていた。かぶっていた殻が破られている。隠しておいた記憶が、奥からどろりどろりと溢(あふ)れ出て……想い出した。子どもの時、こんな話を書いたことはない、書けたはずもない、それともこれは、ふみひこ本人の記憶か。私が取り憑(つ)いてから、わずかな隙を見つけて、ふみひこが書いたのか。私ではない、私には書けない、私は檻の中に居た。見物人たちは私を見て、口々に言った。
「ほんとだ。尻尾が三本もある」
「尾三狐(おさんぎつね)なんて呼び方もあるんだって」
 太田町動物園、他の子どもたちは行儀良く見ていた中、一人だけ、なにかを持って、口に運んでいる子どもがいた。
「ほら、ふみひこ、お行儀、悪いでしょ。我慢しなさい」
 となりに居る母親らしい女が言っても、その子は、だってお腹減ったんだもの、とやめなかった。何を食べているんだろう、目を凝らし、それが稲荷寿司だと分かった刹那(せつな)、私はその子、ふみひこと呼ばれた子になろうと決めた。誰に何と言われても、自分の生理にまかせて、好きなときに好きなことをする。幸い長いあいだ骨休めをしたおかげで、霊力も戻っている。今がチャンスだ。その夜更け、こっそり檻から抜け出して、臭いを頼りに、家を探し当て、取り憑き、そして、なった。しかし――。
 どろりどろりと溢れる記憶は、湯村山でうっかり捕獲され、動物園に入れられる前の、旧い記憶さえも溢れ出てくる。
    ◇ ◇
「両親に会ってほしいの」
 智美がそう言ったのは、私たちが知り合って半年ちかく経った時分だった。それまで饒舌に会話を交わしていた私は、口を噤(つぐ)まざるをえなかった。どう答えていいのかわからなかった。そんな私を見て、智美は「いやなの」と不服そうに口を尖らせた。
「いや、じゃないけど」私がつぶやくと、その言葉尻を逃さないかのように「それなら会って」と、せがみつづける。私は半ば根負けする形で了承した。
「これから両親にそう伝えてくる。今晩、甚一さんを連れてくるって」
 私が惚れたきっかけである、まばゆいばかりの笑顔を残して、智美は姿を消した。
 その日の晩、私は智美に誘われて、彼女の実家へ向かった。「ただいま」と、明るい声で智美は、実家に入った。出迎えた両親は、顔をこわばらせ、私たちを迎えた。八畳の客間に通されても、話はいっこうに弾まなかった。私もなんと話しかければいいのかわからず、黙っているしかなかった。
「根津甚一さん。わたし、甚一さんといっしょになりたいの」
 智美が言った。それを聞いた母親は、むせび泣くばかりであった。母親のとなりに座した父親は、私の顔を見て「いっしょに、といっても」とつぶやいた。
「ちがうんです。これには訳が……」
 私はあわてて口を開いた。実はこのとき私は、面をかぶって智美の実家を訪れた。半年前、顔を強打してしまい、とても素顔を人前にさらすには忍びなかった。それで苦肉の策として、狂言で用いられる狐の面をつけて行ったのである。
 面をつけている訳を語った後、さらに私は自分の素性を正直に話した。両親の顔さえ知らぬ孤児で、施設で育てられたことを話した。
「そんなこと関係ない。わたし、甚一さんといっしょになる」
 智美が言った。父親の表情は、私のかぶっている面よりも硬く強張り、母親はこらえきれなくなった様子で、ハンカチを目に当てて、うつむいてしまった。
 私もいたたまれず、だが何と声をかけていいのかさえわからずに、口を噤んだ。重苦しい沈黙をやぶるのは、智美の懸命の説得と、母親のすすり泣く声であった。
「そんなにいうのなら」と父親が言った。
「あなた、正気なの」
 母親が顔を上げた。泣きはらして、目がまっ赤であった。
「お母さん、どうして、そんなこと言うの。わたしが幸せになるのを邪魔するの」
 智美が声を上げた。母親は目を見開いて智美を見た。その頬は血の気を失い、青みがかっている。何かに弾かれるように、腰を上げようとした。しかしすぐに智美が声を上げる。
「逃げないで。はっきり答えて」
 すとんと腰を下ろした母親は、父親にすがりついて、嗚咽を響かせた。
「わかった。わかったから……」
 父親がつぶやいた。智美は笑顔で私の手を握った。私は深々と智美の両親に頭(こうべ)を垂れる。すぐに辞去したのだったが、最後まで雰囲気が和むことはなかった。
 翌朝、まだ早い時間に、住職をともなって、智美の両親がすがたを現した。
「あの面です」
 うっかり置き忘れた狐の面を見て、智美の母親が声を上げた。
「あれは本堂に飾ってあった面だが、どうしてこんなところに」と住職が言った。
「智美が連れてきた男、根津甚一という男がつけていたんです」
 智美の父親は、さらに前夜のことを話す。私たちが六カ月前に知り合ったこと、私が孤児であったとのことを話す。
「そういえば六カ月前に、寺の前で野狐が車にぶつかったことがありました。顔がつぶれて――痛っ!」
 私は住職に面をぶつけた。しかしその言葉を耳にした智美は「狐って、どういうこと」と私に訊ねる。
 一度化けの皮が剥がされると、いくら霊力を持っていても、その力は煙のように消え失せてしまう。私は面を投げるべきではなかった。本来のすがたに戻った自らの顔を隠すために、しっかりとかぶりつづけておくべきだったのだ。
「お面なんかじゃなかった。それがあなたの、ほんとうの顔――」
 智美の悲鳴が朝の墓地内に響いた。万事休す。私はアパートと偽り、智美を閉じ込めておいた石塔のなかから抜け出して、一目散、近くの山、湯村山を目指して、三十六計、逃げた。
    ◇ ◇
 ああ、何ということだ。私は取り憑き、支配したと思って、いつしか忘れていた。しかし、ふみひこは居た。私の目を盗んで「甲府物語」を書いていた。
 待てよ、アルコールに溺れたのは、私を惑わす手段だったのではないか。幼い頃に書いた文章で〈病気〉と称したのは、私の存在、成人して〈病気〉つまり私を惑わすため、自堕落な性格のせいでもあるだろうが、アルコールに溺れて――。
 雪やこんこん、霰やこんこん……駄目だ、想い出した今、自分をごまかせない。
 私はどうなる? わからない。
 室内を探り、冷蔵庫の奥に宝缶チューハイ五百ミリリットルを見つけると、プルトップを開けるのももどかしく喉を鳴らす。さらに有り金をまとめ、この時間でも開いているコンビニへと走った。(了)