第2部
1時間後、体中汗にまみれ疲れ果てていたハムが目にしたのは〈友好的な木〉だった。命名したのは探検家のバーリンガムで、金星の生命体としては珍しく動きが緩慢なおかげで、人はその枝の上で身体を休めることができる。そこでハムは木に登り、最もくつろげる場所を探し出し、なんとか眠った。
目覚めて腕時計を見ると5時間が過ぎていた。〈友好的な木〉の巻き蔓と小さな吸盤がトランスキン全体に貼りついていた。それを慎重にもぎとり、枝を降りると、ハムは西に向かって歩き出した。
2度目の雨があがった後、ドーポットに出くわした。この生物は金星の英国領と米国領ではそう呼ばれている。フランス領界隈ではポッタ・コル、つまり「糊鍋」と呼ばれ、オランダ領では――オランダ人は慎み深くはないので、化け物と呼んでいる。まさにそれにふさわしい名前だ。
実際、ドーポットは吐き気をもよおさせる生き物だ。パン生地[ドー]をおもわせる白い原形質の塊で、その大きさは単一の細胞から、20トンにも達しようという柔らかく汚ならしい塊まで幅広い。定まった形を持たず、実のところ、プルースト的な細胞の塊に過ぎない――有り体に言えば、まとまりもなく、這いずり回る飢えた癌細胞といったところだ。[訳註 コレラ研究の病理学者アドリアン・プルーストのことか。作家マルセル・プルーストの父]
体組織も知性もなく、食欲を別とすれば、本能といえるものすらない。食べられるものが表面に接触すると、見境なくその方向に移動する。2つの可食性物質に触れると、音もなく分裂し、大きい方が常に大きいほうの供給源を攻撃する。
拳銃の弾丸では効果は無く、すさまじい熱風を放つ火炎拳銃の威力を下回るようなものでも、撃退はできない。根絶したといえるのは、熱風が細胞の一つ一つを余すことなく破壊した場合に限られる。ドーポットは地面を這いまわり、あらゆるものを食べ尽くすと、その跡には表面を剥がれた黒い土があらわれる。だがその土にも、あらゆるところに存在する黴[かび]がたちまち生えてくる――悪臭をはなつ悪夢のような生物だ。
ハムが脇に飛びはねたのは、右手のジャングルから不意にドーポットが姿を現したからだ。もちろんトランスキンが消化されることはないが、その練り物のような塊に捕らえられれば、たちまち窒息してしまうだろう。彼は駆けるように滑走するドーポットを嫌悪感まるだしに睨みつけ、火炎拳銃で吹き飛ばしてしまいたい誘惑に駆られた。そうしたいのは山々だが、経験を積んだ金星の辺境人は火炎拳銃の扱いには非常な慎重を期するものだ。
装填しなければならないのはダイヤモンドで、もちろん安くて黒い物だが、それでも一考に値する。発射されると、結晶はその全エネルギーを恐るべき爆風として一斉に放出し、稲妻のような轟音を立てて100メートルを薙ぎ払い、その通り道のものすべてを焼き尽くす。
ドーポットは吸いこむような音、飲みこむような音を立てて進んでいた。その後ろには食べ尽くされた広い道が現われる。這い回るクリーパー、蛇のような蔓、ジャック・ケッチの木――すべてが一掃されて、湿った土がむきだしになったものの、ドーポットが通過した痕跡を示すぬめりの上には、たちまち黴が噴き出すのだった。
その道の行く先はハムの進みたい方向とほぼ一致していた。ハムはこれ幸いと颯爽と歩き出したが、ジャングルの不穏な壁から警戒の目をそらすことはなかった。10時間もたつと、この開けた道もまた不快な生物で埋め尽くされることになるだろうが、今のところは、空き地から空き地へと渡り歩くよりも、はるかに早く移動できる。
その道を8キロほど進み、行く手に邪魔なものが芽噴き始めた頃、4本の短い脚ではねまわり、やっとこのような腕で道を切り開いている現地人に出くわした。ハムは足を止めて交渉した。
「ムーラ」とハムは言った。
〈集熱地帯〉の赤道領域の現地人の言語は一風変わっている。単語はおそらく200語ほどだが、商人がその200語を覚えたとしても、1語も知らない者に比べて、その言語に通じているとはいささかも言いがたい。
単語は汎用化されており、一つの音はおおよそ十から百に及ぶ意味をもつ。たとえば、「ムーラ」は挨拶の言葉で、「こんにちは」とか「おはよう」といったような意味である。同時に警戒――「油断するな!」――の意味を伝えることもある。さらには、「友達になろう」という意味でもあり、奇妙なことに「決着をつけよう」という意味の時もある。
さらには、名詞の意味もいくつかある。「平和」を意味し、「戦争」を意味し、「勇気」を意味し、また「恐怖」でもある。繊細な言語であり、その屈折が研究されて、人間の言語学者たちがその本質を解き明かすようになったのはごく最近のことだ。しかし英語にも「to」、「too」、「two」とか、「one」、「won」、「wan」、「wen」、「win」、「when」など、類似音の単語の例がいくつもあり、母音の区別について不慣れな金星人の耳には、奇妙に感じられることだろう。[訳註 屈折(inflection)とは、1つの語が文法的な意味機能に応じて異なる形を持つこと]
さらに言えば、金星人の顔には凹凸がなく横幅が広く眼が三つあり、人間にはその表情は読みとれないけれども、当然ながら、現地人の間では幅広い情報を伝えているはずである。
しかしこの現地人は、ハムの意図した意味を受けとめた。「ムーラ」と答え、一呼吸おいて、「ウスク?」と言った。これはいろいろある中で、「あなたは何者か?」とか「どこから来たのか?」とか「どこに向かうのか?」という意味だ。
ハムは最後の意味にとった。彼は遠く薄暗い西の方を指差し、それから円弧を描くように手を持ち上げて、山脈を示した。「エロティア」と彼は言った。これはともかくも一つの意味しかない。
それを受けて、現地人は黙ったまま考えこんだ。ようやく彼は、もごもごと不明瞭ながらも、ある情報を自発的に提供した。草を刈る爪を振って、道の先の西方を示したのだ。「カーキー」と言い、それから「ムーラ」と言った。後のムーラは別れの言葉だ。ハムは絡みあったジャングルの壁に身体を押しつけ、現地人を通らせた。
「カーキー」とは、他に20もの意味があるものの、商人を意味する。通常は人間に対して用いられる単語であり、人間の仲間がいるのかもしれないと考えて、ハムは楽しい期待を抱いた。人間の声を聞いたのはかれこれ6ヵ月も前のことであり、それも、住居もろとも沈んでしまった小さなラジオの音声にすぎなかった。
思いもよらないことに、ドーポットの跡をたどって8キロ進んだところで不意に出くわしたのは、泥の噴出が起きたばかりの場所だった。植物は腰の高さしかなく、開けた空地の400メートル先には構造物、商人の住居が見えた。しかし鉄板の立方体であった自分の住居よりもはるかに大掛かりで、部屋はなんと3室もあり、〈集熱地帯〉では耳にしたこともないほどの贅沢さだった。すべての物が手間ひまをかけてどこかの居留地からロケットで運ばれたものに違いなかった。莫大な費用がかかっており、禁断の行為と言えなくもなかった。交易商売はまさにギャンブルであり、ハムは幸運に恵まれて大きな利益を得てきたことを自覚していた。
まだ海綿のように柔らかい地面を彼は大股で歩いた。窓は永遠の昼の光を受けて翳[かげ]っており、ドアは――ドアは施錠されていた。これは辺境の常識に反している。扉には鍵をかけないものだ。道に迷った商人の命を救うかもしれないのだし、どんなに卑劣な者でも人の命を守るために開けてある住居で盗みを働くようなことはしないだろう。
これは現地人も同じである。金星の現地人ほど正直な生き物はおらず、嘘をつかず、盗みもしない。ただし、交易品をめぐっては、充分な警告をした後で、商人を殺すことがあるかもしれない。ただし公正な警告のあとに限る。
ハムは当惑して立ちつくした。そしてしびれを切らすと、ドアの前の空地を踏みしめ、ドアを背にして座りこみ、トランスキンの表面に群がる忌まわしい無数の小さな生物を叩きおとした。彼は待った。
30分と経たないうちに、空地をかきわけてくる商人が見えた――背が低くやせていて、トランスキンが顔に影をおとしていたが、ハムは翳りのある大きな瞳に気づいた。彼は立ち上がった。
「やあ!」と陽気に言った。「ちょっと立ち寄ってみようと思ってね。私の名前はハミルトン・ハモンド――あだ名は当ててみてくれ!」
新参者はすぐに足を止め、不思議なほど柔らかくハスキーな声を出した。明白なイギリス訛りだった。「あだ名は『ゆでた豚肉』といったところかな」その声のトーンは冷たく非友好的だった。「脇によけて、中に入れてもらおうか。おつかれ様!」
ハムは怒りと驚きを感じた。「何てことだ!」彼はぶしつけに言った。「親切心というものがあるんじゃないのか?」
「あいにくだが、全くない」もう一人はドアの前で立ち止まった。「アメリカ人だね。イギリスの領地で何をしてる? パスポートはある?」
「いつから〈集熱地帯〉でパスポートが必要になった?」
「交易商人だろう?」細身の人間は鋭く言った。「あけすけに言えば、密猟だ。ここで猟をする権利はない。出ていけ」
ハムの顎[あご]はマスクの裏で固まった。「権利があろうとなかろうと、私には辺境法の配慮を求める資格がある。存分に空気を吸いたいし、安全に顔を拭いたい。それに安全な食事も。ドアを開けたら、私も後について入る」
自動拳銃が視界に飛びこんできた。「やってみろ。黴の餌食になるだけだ」
ハムは金星にいるすべての交易商人と同じように大胆で計略に富み、合衆国では〈ハードボイルド〉と呼ばれるたぐいの男だった。ハムはひるむことはなかったが、見え見えに迎合するような調子で言った
「わかった。だが聞きいれて欲しい、安全に食事をとりたいだけなのだ」
「雨を待てばいい」もう一人は冷淡に言うと、身体を半分まわしてドアの鍵を開けた。
視線がそれたとみるや、ハムは拳銃に蹴りをいれた。銃は回転して壁にあたり、草むらに落ちた。相手はまだ腰に下がっていた火炎拳銃をとろうとした。ハムはその手首を強引に掴んだ。
たちまち相手はもがくのを止め、ハムは一瞬、トランスキンに覆われた手首の細い感触に驚いた。
「こちらを見てくれ!」彼は唸った。「私は安全に食事がしたい。その機会を何としても逃したくない。ドアの鍵を開けてくれ!」
彼は相手の両手首をつかんでいた。その手は不思議なほどに繊細だった。一瞬おいてうなずいたので、ハムは片手を放した。扉が開き、彼は続いて中に入った。
繰り返しになるが、このあたりでは聞いたこともないほどの豪勢ぶりだった。がっしりとした椅子に、頑丈なテーブル、それに本までもが、手間ひまをかけて保護されている。スクリーン・フィルターや自動スプレーを使っていても〈集熱地帯〉の住居に忍びこむことのある猛毒の黴に対しては、日蔭蔓で対処しているのが明らかだった。自動スプレーが稼働し、開いたドアから入ってきたかもしれないすべての胞子を死滅させようとしていた。
ハムは腰をおろし、相手から目を離さないようにした。取り上げていない火炎拳銃がまだホルスターに納まっていたからだ。しかし彼は細身の相手を打ち負かす腕力に自信があったし、室内で火炎拳銃をぶちかますものなどいるはずがない。そんなことをすれば、建物の壁の一面が吹き飛ばされるだろう。
そこでようやく彼はマスクを開き、背嚢[はいのう]から食糧を取り出して、湯気を立てる顔面を拭った。その一方、敵か味方か分からぬ相手は黙って見守っていた。ハムはしばらく缶詰の肉を眺め、黴が生えてこないのを確認してから口にした。
「いったいどうして、バイザーを開けないんだ?」枯れた声で彼は言った。相手が黙っているので、さらに続けた。「顔を見られたくないのか? こちらは顔のことなどに関心はない。警官ではないのだから」
返事はない。
彼は再び声をかけた。「名前は?」
冷やかな声が響いた。「バーリンガム。パット・バーリンガム」
ハムは笑った。「パトリック・バーリンガムは死んだよ。私は会ったこともある」返事はない。「そうか、名前を言いたくないのかもしれないが、勇敢な人物、偉大な探検家の記憶を汚さなくてもいいだろう」
「ありがとう」その声には皮肉がこめられていた。「パトリックはわたしの父だ」
「またまた嘘だ。彼には息子はいなかった。彼にいたのは――」ハムは急に口をつぐんだ。狼狽[ろうばい]が身体を駆けぬけた。「バイザーを開けろ!」彼は叫んだ。
トランスキン越しに相手のぼやけた唇が見えた。ひきつった辛辣な笑みを浮かべていた。
「何が悪いの?」柔らかい声がして、マスクが下がった。
ハムは息を呑んだ。覆いの奥には、繊細な目鼻立ちの若い女の顔があり、その涼やかな灰色の瞳は、頬や額が汗にまみれていても、愛らしかった。
男はまた息を呑んだ。金星で一か八かの苛酷な交易に身を投じる職についてはいるものの、究極のところ彼は紳士であった。大学教育を受けた――エンジニア――であり、手っ取り早い富の誘惑にひきつけられて〈集熱地帯〉にやってきたにすぎないのだ。
「す――すまなかった」彼は口ごもった。
「アメリカの勇敢な密猟者というわけね!」彼女は嘲笑した。「あなた達は皆、女性に自分の流儀を押しつけるほどご立派なの?」
「しかし――私にわかるわけないだろう? こんな所で何をしている?」
「あなたの質問に答える義理は無いけれど」――彼女は奥の部屋に向けて手をのばした――「わたしは〈集熱地帯〉の動物や植物の分類をしている。パトリシア・バーリンガム、生物学者です」
ようやく彼は、隣の部屋の研究室に、瓶に封じこめられた標本があることに気づいた。「若い女性が一人で〈集熱地帯〉に! あまりにも――無謀だ!」
「こちらもアメリカ人の密猟者に出くわすとは思ってもみなかった」彼女は反論した。
彼は顔を赤らめた。「私のことは気にしなくていい。すぐに出て行く」彼はバイザーの方に両手を上げた。
その瞬間、パトリシアはテーブルの抽斗[ひきだし]から自動拳銃を取り出した。「出て行くんでしょ、ハミルトン・ハモンドさん」彼女は冷ややかに言った。「でも、あなたのクシクティルはここに置いて行きなさい。それは王室の財産。英国領から盗んだものだから、没収します」
彼は目を見開いた。「何を言い出すんだ!」彼は激昂した。「このクシクティルを手に入れるために、あらゆる危険を冒したんだ。これを失えば破産――破滅だ。諦めるわけにはいかない!」
「でもあなたは渡すのよ」
彼はマスクを下げて座りこんだ。「ミス・バーリンガム。私を撃つ度胸があるとも思えないが、銃に頼らなければ手に入れることは難しい。それとも、きみが疲れてへたりこむまでここに座っていようか」
彼女は声を発することもなく、灰色の目で彼の青い目を見つめた。銃はしっかりと彼の心臓に向けられていたが、弾丸は発射されなかった。膠着状態だった。
ようやく若い女は言った。「あなたの勝ちだわ、密猟者」彼女は空のホルスターに銃を叩きこんだ。「出て行って」
「喜んで!」彼は叩きつけるように言った。
立ち上がってバイザーに指をかけたその時、突然、若い女のあわてた悲鳴が聞こえて、彼は再びバイザーを降ろした。何かたくらみがあるのではと疑って振りかえったが、彼女は目を見開いて、諦めきった様子で、窓の外を見つめていた。
ハムに見えたのはゆらゆらうごめく植物だった。さらに目で追うと、白っぽい大きな塊であることが分かった。ドーポットだった――醜悪で大きな塊が彼らの避難所に向かって着々と迫っていた。かすかな衝撃音が聞こえ、窓は練り物のような塊にふさがれた。建物をすっかり飲みこむほどは大きくないが、2つの塊に分かれて流れ、その先で合流した。再びパトリシアの叫び声。「マスクをしなさい!」きしり声で彼女は言った。「閉じるのよ!」
「マスク? どうして?」しかしそれでも、彼は反射的に従った。
「どうして? こうなるのよ! 消化酸よ――見なさい!」彼女は壁を指差した。実に何千もの細かな光の穴が出現していた。強烈極まりない消化酸は、ありつけるならばどんな食べ物でも消化できるほど強力で、金属をも腐食させる。住居は孔だらけになり、使い物にならなくなっていた。息を呑む間もなく、食事の食べ残しからはたちまち黴がもこもこと噴きあがり、椅子やテーブルの木材からは赤と緑の絨毯が噴き出した。
二人は顔を見合わせた。
ハムはくすくす笑った。「さて、きみも家を失った。私の家はとっくに噴き出した泥に沈められているがね」
「そうでしょうとも!」パトリシアは刺々しく言い返した。「あなたたちヤンキーには表土の薄いところを探すという考えもないのでしょうよ。ここは2メートル下に基岩があるし、この家は長い杭に支えられているわ」
「なるほど冷静沈着なことだ。それはともあれ、きみの家も泥に沈んだも同然だ。これからどうする?」
「どうする? 自分の心配した方がいいわよ。わたしならなんなく切り抜ける」
「どうやって?」
「あなたには関わりないことだけど、ここには月に一度、ロケットがやってくる」
「なるほど、きみは大金持ちだね」彼はコメントした。
「王立協会が」彼女は冷静に言った。「この探検に資金を提供している。ロケットの予定は――」
彼女は言いよどんだ。ハムは、マスクの奥の彼女の顔が少し青ざめているのではと思った。
「期日はいつ?」
「それが――2日前に回って来たばかり。忘れていた」
「わかった。それで、1ヶ月もこのあたりにしがみついてロケットを待とうと考えているのか。そうなのか?」
パトリシアは反抗的に彼を見つめた。
「わかっているだろう?」彼は話の穂をついだ。「ひと月ここにいたらどうなる? 10日たったら夏だが、きみの住居を見てみろ」彼が指し示す壁には、茶色く錆びた斑点ができかけていた。彼が移動すると、皿ほどの大きさのものが音を立てて落ちた。「2日もすれば、これは穴の開いた廃墟になるだろう。夏の15日の間、どうやり過ごす? 気温が60度――70度になった時に、避難するところもなくてどうする? 言っておくが――死んでしまうよ」彼女は何も言い返さなかった。
「ロケットがやってくる前に、君はふわふわした黴の塊になるのが落ちだ」ハムは言った。「そしてきれいな骨の山になって、泥の噴出があれば飲みこまれてしまうだろう」
「黙りなさい!」彼女は激しく言いつのった。
「黙っていても何の解決にもならない。きみにできることを教えよう。きみは荷物を持って、泥靴をはいて、私と一緒に歩くのだ。夏になる前に〈涼しい国〉にたどり着けるだろう――口が達者なように、足も達者なら」
「ヤンキーの密猟者と一緒に? ご免だわ!」
「そうすれば」彼は押しつけがましく続けた。「我々は難なく〈エロティア〉に渡れる。すてきなアメリカの町だ」
パトリシアは非常用パックに手を伸ばし、放り投げるようにして肩にかけた。トランスキンにアニリン・インクで書きつけた厚みのあるノートを手に取ると、わずかにはびこる黴を払いのけて、パックに滑りこませた。そして小さめの泥靴を拾い上げて、決然とドアの方へ向き直った。
「では、ついて来るんだね?」彼はくすくす笑った。
「私が行くのは」彼女は冷たく言い返した。「すてきな英国の町、ヴェノーブルよ。1人でね!」
「ヴェノーブル!」彼は息を呑んだ。「300キロメートルも南だよ! それに〈永遠の大山脈〉も越えなくてはならない!」
第二部 終