「思い出を振り返ることなかれ」青木和

 抜けるような青空だった。地面に落ちる影の色が濃い。
 土手の上に真っ直ぐな道が続いている。土手の左側は雑草が背丈よりも深く生い茂った斜面、右側は川だ。
 川は二本、すぐ近くを隣り合って流れ、海のそばで合流する。その合流点に橋が架かっているが、それ以外には目の前に見えている対岸に渡る術はない。
 河口なので川幅は広く、流れはのったりと平らかだ。撮影されたのは満ち潮の時間なのだろう、満々と水をたたえている。行く手に鉄橋が見える。
 ──ああ、この道だ。
 一度とっかかりを見つけてしまうと、後は芋づる式だった。とうの昔にどこかに消えたと思っていた、子供の時分の記憶が戻ってくる。
 小学生の足で片道一時間近くかかった長い長い通学路を、私は五十年後の今、パソコンの上で辿り直していた。
 あの頃、木製の電柱は、夏には表面に塗られたアスファルトが溶け落ちてきそうだったし、舗装されていない道は冬には霜柱が立った。そんな暑さ寒さまで甦ってきそうだ。
 もちろん今となっては電柱そのものがないし、地面はきれいに舗装されているが、道の形はほとんど変わっていなかった。
 ──道ってすごいな。まあ、何百年も昔の街道がまだ現役だったりするもんなあ。
 そんなことを思いながら、私はストリートビューの画面をクリックした。灰色のアスファルトが流れるように下がり、景色がぐいっと前に進む。
 実際にその場に行かなくても何百キロも離れた土地の様子が見られるというのは、ずいぶんと便利になったものだと、今更ながらに思った。

 子供の頃に住んでいた町を訪れてみようと思ったのは、半年ほど前、学生時代の友人に偶然の再会をしたことに遡る。
 十年前に夫と死別してから、生きるのに夢中だった。最近になって子供たちがようやく独立し、私も定年を迎え、生活に余裕ができた。それで、今まではなかなか足を運ばなかった小旅行などもするようになった。その移動の車中で出会ったのだ。お互い年齢相応に老けてはいたが、二十代の頃の面影は薄れておらず、すぐに相手が誰か分かった。そしてそれがきっかけで、今まで出席したことのなかった同窓会に出るはめになった。
 はめ、というのは言葉がきついかもしれない。同窓会に出なかったのは、単に昔のことに関心がなかったからだ。
 容姿も頭脳も、生まれ持ったスペックはごく平均的で、ごく普通の人生を送ってきたと思っている。大切な時間もそれなりにあったが、それは記憶の中のどこかにしまい込んでおけばいいのであって、事あるごとに引っ張り出してためつすがめつ愛で回すようなものではないと思っていたのだ。
 だから友人に是非にと誘われた同窓会も、最初は面倒くさいなあという気持ちだった。が、行ってみるとこれが意外に楽しかったのだ。
 若い頃は当然、人間関係や進路で色々悩みもあったし、それで嫌な思いもしてきた。その記憶を蒸し返すのは気が進まなかったのだが、いざ旧友たちに会ってみるとそんな憂いはどこへやら、何もかもが楽しかったことに変換されてしまった。
 なるほど、これが年をとるということなのだろう。祖父母や老いた両親が昔の話ばかりするわけがようやく分かった。
 自身に降りかかる老いに溜息をつきながらも、これはこれで悪くないと思うようになった。ならば少しはしまい込んだ思い出を取り出してみるのもいいだろう。どうせなら、覚えているぎりぎりの古い記憶を。
 それで選んだのが、小学校の前半三年を過ごしたこの町だった。
 私の父は転勤族のサラリーマンだった。単身赴任などという概念すら存在しない時代だったから、私たち家族も父の転勤に伴って二、三年に一度は引っ越しをした。
 短い間であっても、どの町でもそれなりに友達ができ、引っ越しはつらかった。中でもこの町には特別に親しい〝親友〟がいた。町を去る前日には、二人で泣いて別れを惜しんだものだった。あの頃あれほど離れがたく感じたのに、もう顔も名前も思い出せない。

 土手の上の道を延々と歩いた後、通学路は川を離れて住宅地に入る。当時は開かれたばかりの新興住宅地で、広大な空き地にぽつりぽつりとプレハブの建売住宅が並び始めていた。さすがに当時のピカピカの面影は今はなく、どの家も古びているが、ここでもやはり道の形は健在だ。
 住宅地を抜けたら、海沿いの大きな国道に出る。車に気をつけて歩きなさい、一列になってよそ見をせずに。しばらく行くと見えてくる小さな丘を登ればようやく学校だ……。
 記憶は驚くほど鮮やかに甦ってくる。気づくとすっかり当時の気分になっていた。コンビニや年式の新しい車が画面に映るとかえって驚いてしまう。
 これはこれで悪くない。世の中に思い出を愛でたがる人々がたくさんいるのが、なんとなく理解でき始めたちょうどその頃──
 それに気がついたのだった。
 丘の麓にいる、一人の子供に。
 子供は体格から見て、二年生か三年生といったところか。短髪で体操服を着ているので性別ははっきりしないが、ランドセルが赤いところを見ると女の子だろう。何かが妙に引っかかり私はしばらくその子を眺めていたが、少ししてようやくその違和感の正体に気がついた。
 顔にぼかしがかかっていないのだ。斜め後ろからのアングルだが、足下を凝視している大きな目、ふっくらした頬など見る人が見たら個人が特定できるレベルだった。
 ──これ、いいのかな……。
 心配にはなったが、あくまで他人だ。こういう場合どうにかするべきなのか、知識がない。もやもやとしながらも、私はそのまま先へ進んだ。
 ストリートビューは校門の手前で終わっていた。いつ建て替えられたのか、今時ふうのポップなデザインの校舎が見えているが、もう先へ進むことはできない。
 諦めて来た道を戻ることにした。当時住んでいた社宅のあたりは、今どうなっているだろう。
 丘の麓まで降りてくると、またあの女の子の姿が見えた。逆方向から来たので、今度は正面を向いている。余計に顔が鮮明だ。
 濃い睫(まつげ)に縁取られた、黒々とした目がまっすぐにこちらを向いている。実際に女の子が見ているのは車載カメラなのだろうが、まるでこっちが見えているかのようだ。
 ざわざわした気持ちのまま横を通り抜ける。と、女の子の首が回り、視線がつううっとついてきたように見えた。
 ぎょっとして振り返る。
 つい画面を振り回してしまい、自分の向いている方向が分からなくなった。モニターはほぼ全面で空を映している。
 なんとかして視界を戻して女の子の姿を見つける。女の子は相変わらず真っ直ぐこちらを向いたままで、首をひねってなどいなかった。
 ──なんだ、気のせいか。
 苦笑いをしながらその場を離れる。社宅は案の定なくなり、住宅地になっていた。ストリートビューもある程度近くまで来たところで途切れていた。

 それがとても奇妙なことだと気がついたのは、翌日になってからだった。SNSで、映像にぼかしを入れる方法を教えてもらうため状況を説明していたときだ。
 私は通学路を戻りながら、確かに一度女の子の横を通り過ぎた。女の子は学校の方に向かって歩いていたから、振り返ったなら背中が見えるはずだ。現に、最初に見たのは斜め後ろ姿だった。
 なのに、最後に見たときあの子は私の方に顔を向けていた。
 あの子の視線が追いかけてきたように感じた、あの時のざわついた感覚が蘇る。
 思い違いだろう、あの黒々とした目が印象的すぎたからそんな気がするだけだ。何度もそう考え、何度振り払っても、それでもあの子がこちらを向いていたような記憶が消えていかない。
 この違和感を払拭するには、もう一度あの画像を見て、錯覚だったことを確認するしかない。
 川沿いの道を進む。住宅街の中を抜け、国道を通り。
 丘の麓まで来る。女の子のいた場所に近づく。
 学校の方に向かって歩いている、赤いランドセルの背中が見えるはず……。
 女の子はいなかった。
 ここだと言い切れる目印は何もなかったから、場所を間違えたのだろうか? 視界をぐるっと回してみる。
 三百六十度回して元の方角に戻ったところで、目の前にずん、と姿が現れた。
 触れられそうな距離に立ち、長い睫の真っ黒い目で、真っ直ぐこっちを見ている。
 私は思わず、反対方向の矢印をクリックした。画面がざあっと流れ、私の視界は住宅地のあたりまで戻る。
 喉から飛び出してきそうなほど、心臓が激しく打っていた。
 最初はいなかった。いなかったはずなのだ。
 おそるおそる、もう一度視界を回してみる。
 いったい私は何をやっているんだ、と思う。わざわざ確認しに戻ってどうする。さっさとビューを閉じ、パソコンを落として、二度とこの画面を開かなければそれでいいのに。
 家と家の間の曲がり角にあの子が立っていた。
 今度こそ間違いはなかった。何か月も前に撮影されたはずの静止映像の中で、あの子だけが動いていた。そして私に近づいていた。
 固まってしまった視界の中で、あの子が私の方に手を伸ばす。
 見つかった? とその唇が動く。
 指輪、見つかった?
 その瞬間、頭の中でばしんと何かがはじけた。
 私がこの町から引っ越すその前日、〝親友〟は泣いていた。だがそれは私と別れるのがつらいからではなかった。
 私と〝親友〟はビーズでおそろいの指輪を作って持っていた。他愛ない玩具ではあったが、幼い子供にとっては代えがたい友情のあかしだった。
 それが、私が町を去る直前に紛失した。私は〝親友〟に渡した記憶があるが、彼女は私に預けたと言い張って譲らなかった。どちらかが思い違いをしていたのだろうが、結局真相は分からないまま私たちは別れ、うやむやになった。
 後味の悪い別れだったが、私は引っ越し先での新しい生活に馴染み、成長し、幼い友情の誓いもそのあかしの指輪のことも、やがてどうでもよくなった。そして忘れた。
 でも町に残ったあの子はどうだったのだろう。
 この女の子は〝親友〟なのだろうか。
 もしそうだとしたら、なぜ彼女はこんなところに写っているのだろう。
 子供のままの姿で。
 突然、首筋がひやりとした。
 私は成長し大人になった。だが〝親友〟もそうだとは限らないのではないか?
 この町に残り、私への恨みを抱えた心のままで、彼女の人生が早々に断ち切られてしまったのだとしたら。
 彼女の念が凝って地縛霊のようになり、カメラに拾われたのだとしたら。
 そんな非現実的なことあるわけがない。私はモニターを前に一人で笑った。ばかばかしい。ビューの画面を閉じるため、ポインタを×記号のところまで持って行く。
 彼女はまだこちらを見つめている。長い睫に縁取られた、大きな黒い目で。それは私を糾弾しているようにも見えたが、助けを求めてすがりついてくるようにも見えた。
 笑っていた頬がひきつるのを感じた。
 マウスに乗せた指が動かない。
 もう一度忘れてしまうことは、できそうになかった。

 その後私は、小学校に連絡を取った。が、顔も名前も分からない数十年も前の一人の児童の痕跡など探せるわけもなく、また当時の教員もほぼ鬼籍に入っており、何一つ情報を得ることはできなかった。新聞の過去の地方版で子供が犠牲になった事故の記事をいくつか見つけたが、被害者の名前を見てもピンとこなかった。
 現実にあの町へ行って確かめるしかないのだろうか。
 とはいえそれには相当な思い切りと度胸が必要で、ぐずぐずと逡巡(しゅんじゅん)しているうちに事態が変わった。
 その時私は、同窓会に誘ってくれた学生時代の友人と会う約束をしていた。あの女の子を見つけて以来ストリートビューは避けていた私だったが、友人のメールに添付されていた待ち合わせ場所のリンク先に映像が載っていた。はからずも踏んでしまい知らない町が画面いっぱいに映される。
 交差点の横断歩道の真ん中、モザイクのかかった歩行者に混ざって、奇妙なほどの鮮明な姿で体操服に赤いランドセルのあの子が立っていた。こっちを向いて手を伸ばし、指輪、見つかった? と囁いた。
 それからはどこを映しても彼女が現れるようになった。あまりにもいつもいるので、最近は恐ろしさよりも疲れが先に立つ。
 まったく、昔のことなんて、本当に掘り起こすものじゃない。

                      〈了〉