「空に舞う」粕谷知世

 他でもない、ほこりの話です。
 ほこりって、誇りのことじゃありませんよ。漢字で土へんにムの下に矢って書く「埃」のほうです。
 そんなもんの話、聞きたくないよって言われればそれまでですが、まあ、わたしだって、埃のことが気になるなんて、我ながらおかしいと思ってるんですから、ご勘弁下さい。
 きっかけは今をさること四十年前、中学だったか高校でか、掃除当番をしてた時のことです。教室の床って、当時はまだ木板だった記憶がありますが、友達とどつきあったり、丸めた雑巾ぶん投げて箒ではたいてホームラン、なんてやってると真面目な女の子に叱られたりして、今思えば楽しかったですねえ。そうこうしているうちにチャイムが鳴ったもんだから、慌てて教室の後ろに集まった埃をちりとりに掃き入れましたが、その瞬間、毎日見慣れた、何の変哲もない、汚いだけのものが、やけに不思議な物体に思えたのです。
 人間の体なら皮膚が剥がれて垢になります。しかし、教室には、天井にも壁にも床や机、椅子にだって、こんな灰色の物体はくっついていない。しかも、毎日、掃除をしているのに、いったい、どこからどうやって、こんなものが集まってくるんだろう。
 今ならネットがありますよ。すぐに調べられるから、疑問はあっという間に解消されて、後生大事に四十年も謎のままなんてことはなかったでしょう。
 ですが、インターネットもスマホも、パソコンすらなかった時代、誰にどう訊きます?
「埃って何だ?」なんて、訊かれたほうだって困るでしょう?
 でもね、ほんとに埃って何なんですかね。
 
 そう訊かれたわたしは確かに困った。質問してきた当の谷川課長が、唐揚げや厚揚げ、ポテトサラダの並んだ卓上に突っ伏して寝てしまったから、なおさらだった。
 埃とは何か。
 ここにマリがいてくれたら訊いてみるんだけどな。
 いやいや、マリはいなくとも、手元にはスマホがある。検索すれば答えは出る。
 とある有名な清掃会社のホームページに曰く「埃とは、糸屑、人間の皮膚、毛髪、フケ、ダニの死骸、ダニの糞、カビの胞子、食品屑、土砂の混在したもの」とのことだった。わざわざググったことを後悔する単語が山盛りだ。あの灰色のふわふわは主に衣服から出てきた繊維らしい。
 係長に揺り起こされて、谷川課長は眠そうに眼をこすりながら起き上がった。「そろそろ締めましょうかね」他の人たちも荷物をまとめだして、さっきの話の続きをするような雰囲気ではなくなった。といって、週明け、いかめしい顔つきで課長席に座っているところへ、のこのこ出向いてスマホのご宣託をお伝えしたら、怒られはしないまでも「仕事に集中してくださいよ」って、お公家さん口調でやんわり注意されるだろう。
 埃の正体を課長に教えてあげられなかったのが心残りのまま、会社の人たちと別れて、家に帰った。埃のことが頭にこびりついちゃったから、夢にまで出てくるんじゃないかなあと思いながらベッドに入ったが、その心配はいらなかった。
 翌朝には、二日酔いの気配もない、素晴らしい目覚めが訪れた。
 たぶん、ものすごく素敵な夢を見たんだろう。それがどんな夢だったのか思い出せないのがもどかしい。
 気分がいいせいか、ベッド脇の窓のカーテンの隙間から差し込んでくる朝の光さえ、今朝は格別に美しく見えた。雪よりも細かな白い粉が朝日に照らし出されて、輝きながら空中を無数に舞っている。
 そうそう、こんな感じの夢だった。
 もう少しで思い出せそう、というところで、自分ツッコミが入った。
 何をうっとりしているの。だまされちゃ駄目。
 どんなに綺麗に見えても、あれは埃。つまりは、フケじゃん、ダニじゃん、カビじゃん、掃除してない証拠じゃん。
 うわああと思いながら眼鏡をかけてフローリングの床を見ると、あるある、部屋の隅にふわふわした綿埃が積もってる。髪の毛まで混じっていた。そう言えば、この部屋にワイパーかけたの、いつだったっけ? 四月に就職してから忙しかったからなあ。
 下の階の母上から、お叱りが飛んできた。
「いつまで寝てるの。今日は出かけるんでしょ」
 
 東京駅でマリと落ち合う。学生時代に仲の良かった三人組のうち、地方出身者だったエミは卒業と同時に地元へ帰った。それぞれに就職して、半年ぶりに三人でどこかへ旅行しようとなった時、エミが「うちにくれば? うちなら宿泊費かかんないし」と言い出した。富士山の見える温泉地へ行くのにホテル代なし? 行く行く、ということで、トントン拍子に決まった旅行だった。
 マリは学生時代と同じく黒一色の装いだった。ワンピースじゃなくてパンツではあるけれど、これで真珠のネックレスでもしたら礼服に間違われるだろう。列車の窓側に座ったマリの、黒のカットソーの半袖から伸びた白い腕は、女友達のわたしから見てもドキリとするほどなまめかしかった。
「それで、その後、何か面白いことあった?」
 出た。口癖もあいかわらずだ。他に思いつかなかったので、普段はにこりともしない課長が大真面目に、埃の思い出をしてくれた話をした。おかげで今朝は、朝日に照らされた空中の塵がとても綺麗に見えてしまったってことも。
「その話、次の飲み会で課長に話してあげれば? そういう人って意外に寂しがり屋だから、女の子と仲良くできたって嬉しがるんじゃない?」
「やだよ。酔っ払った時の話なんて絶対、忘れてるよ。蒸し返したら『そんなこと言いましたかね』って機嫌悪くなるかも。酔っ払いにつきあってあげたおかげで勉強になった、一人でそう思っとくしかないよ」
「あいかわらず、ハルカはいい子ねえ」
 おばあちゃんに褒められてるみたいで、まんざらでもないけれど、同い年にこういう褒められ方をして喜んでいていいものか、とも思う。
「減法混色って言ったかしらね」
 ゲンポーコンショク? また、マリが難しい話を始めるらしいぞ、と身構える。
「埃が灰色に見える理由よ。光が混じると白くなるのとは逆に、色が混じって明度が落ちる現象のこと」
「そんなこと、よく知ってるね」
「いろんな色の服を着てるのに、その繊維が集まって灰色に見えるのってヘンだと思って調べたことあるの」
 天をあおいで車両の天井を眺めてしまう。この世の中には埃に関心ある人が他にもいたのか、という驚き。もっとも、マリの場合、興味は埃に限らず、森羅万象に向かってるわけだけど。
 目的の駅で下りる。特急の停車駅だというのに、その駅の周辺にさえビルがなくて、遮るもののない青い空が広がっている。空気がおいしい。そして目の前に、どどーん、とそびえるのは、雪冠をかぶった富士の山だ。
 車で迎えに来てくれたエミは、容赦のないマリから「少し太った?」と訊かれて「そういうこと言わないの」とむくれた。「四年ぶりに実家に戻って、あれ食え、これ食えってお姫様扱いされたんでしょ」と追い打ちをかけるマリを無視して「ハルカも元気だったみたいでよかった」と言ってくれる。女の子らしい、エミのふんわりした雰囲気は学生時代と変わっていなくて、わたしも安心する。        
せっかくだし、まずは反射炉でも見物する? それとも疲れてるなら、昼間っから温泉でもいいよ、とエミが提案してくれるけれど、久しぶりに三人そろったんだから、どんな名所めぐりより先に、お喋りしたい。ランチには少し早かったけど、富士山の見えるカフェに入って根を下ろし、半年間の近況報告に明け暮れる。いずれお店を持ちたいエミはこの近くのホテルに就職、マリは母校の事務員におさまった。読書時間の確保を最優先した結果らしい。
「それにしても、ハルカが事務機器メーカーの総合職とはねえ」
「だいじょうぶかね、この子は。桁違いの伝票起こしたりしてない?」
「今どきは手書きの伝票なんてないよ。全部、電送されてくる」
 と言いながら、入社以来、やらかした大小さまざまな失敗を心の中でこっそり数える。
「昨日は課の懇親会だったそうよ。課長様と埃をめぐる会話で親睦を深めたみたい」
 何、それ、という顔になったエミのために、昨夜の話を繰り返す。   
「そうねえ。言われてみれば、塵とか埃とかって面白いよね。いつでもどこにでも静かに降り注いでて。この店内だって綺麗に掃除してあるんだから、空中の埃のことなんて普段は気にもとめないけど、実際は無数に飛んでるわけでしょ、いろんなものが」
 衛生管理に気を使っているお店の人が聞いたら「お客さま、そんなことを大きな声でおっしゃらないでください」と抗議しそうな問題発言だ。あわてて話題を窓の外へ移す。
「あの富士山のてっぺんにも、今この瞬間、何か降ってきてるのかね」
「春には中国から偏西風に乗って黄砂が来るだろうし、宇宙からもね。宇宙塵って、年間数万トンって単位で地表に落ちてきてるらしいから。埃にはそういうものも混じってるよね」
 宇宙かあ。
 こういう会話、学生時代は当たり前だったけど、会社に入って半年たってから聞くと、いかに我々が浮世離れしてたかが分かる。まあ、原因は主にマリとかマリとかマリとかで、エミはおっとりと聞き役、わたしは現実的な方へ話を戻す役だ。おいしいものの話とかね。
 ランチはエミお勧めの海鮮丼屋へ移動して、と言っていたのに、結局、カフェに居座り、焼きチーズカレーだの、パスタだの、海の幸山の幸に恵まれたところでわざわざオーダーするもんじゃないでしょ、というランチを済ませてからも、他のお客さんが少ないのをよいことに、腰を据えて二時間以上も喋り続けた。
「さすがにお店に迷惑だから、そろそろ出ようか。こうなったら、観光は明日にして、今日はうちで喋り倒そう」
 エミのしごく常識的な提案にうなずいて立ち上がる。
エミの車は大きな川を渡って西の丘陵地へ向かって走った。開けたところへ出ると、ほんとうに富士山が近い。山際の温泉街を抜けて山道へ入った。お寺と付属幼稚園の裏手を登っていく。エミが車を駐めたのは、外階段のついた二階建て木造アパートの前だった。
「下の温泉街で働く人たちが入ってた寮だったんだけど、お婆ちゃんが亡くなった時に閉めたの。今は一室だけ、わたしが衣装部屋に使ってる」
 そこへ荷物を置かせてもらう。
 アパートの奥にある、大きな日本家屋がエミの実家だった。その脇には漆喰塗りの土蔵があった。大壁上部の白い漆喰と下部に張られた黒い焼板のコントラストが美しい。
「立派な蔵ね。建ったのは江戸時代?」
「うん、そのころには村の証文を預かってたらしいけど、そういう文書類は明治の初めに役場へ移されて、その後は農機具を入れたり、ふつうに倉庫として使ってたみたい。今は閉め切っちゃってるけど。なか、見たい?」
エミ、マリには訊くまでもないと思わない?
「でも、こういう蔵って、妖怪がいたりするんでしょ。誰か閉じ込められてたり」
「ハルカ、それは漫画の読みすぎ。エミに失礼」
「外からは何も感じないけどね」
 そうだった。エミは交差点や廃屋のそばで「あっ」と声を上げる人だった。何かを感じることがあるらしい。「わたしは見えないから、まだいいよ。うちの親戚には、事故現場で血まみれの子供が見えちゃう人がいるから」と言っていた。
「いらっしゃい」
 背後からいきなり声をかけられて、びびってしまった。挨拶してくれたのは作業帽に作業着の男性だった。ちゃんと足はある。目尻の皺は深いけれど、若い頃にはもてただろうと思われる、彫りの深い顔立ちの人だ。
「お父さん、蔵の鍵貸して」
「こんなとこ、入るのか。何にもないぞ。やめといたほうがいい。鼻の穴んなかまで真っ黒になる」
「都会育ちには珍しいのよ。それに、この子たち、埃は気にしないから大丈夫」
 いえ、気にします。
 訂正しようとすると、マリが余計な口出しをしたら許さない、という顔で睨んできた。
「民俗学を学んでいまして、旧家の蔵には大変、興味があります。もし、さしつかえなければ」
 マリがにっこり微笑むと、渋っていたはずのエミのお父さんは鍵だけでなく、懐中電灯とエプロンや前掛け、着古しのシャツを持ってきてくれた。
 エミが小学校の劇で小道具に使うような、ものものしい鍵を大きな錠に差し込んで回した。観音扉が開く。頭が痛くなるような、強烈な埃の匂いに襲われる。
 手を離すと扉は勝手に閉じて、懐中電灯だけが頼りとなった。最後に放り込まれたのか、入ってすぐのところには自転車があった。サドルが革張りの、無骨な旧式の自転車だ。
 そのタイヤの下あたりを何かが走ったような気配があった。
「ネズミがいる」
「嘘でしょ」
 エミに懐中電灯を借りて、壁際に寄せられた和箪笥や唐草模様の大風呂敷を照らした。つくりつけの棚には新聞紙で覆われた木箱が並んでいた。何もかもが埃をかぶっている。この前、ここに外からの空気が入ったのはいつのことだろう。
 マリが自転車を避けて、その棚のほうへ動こうとすると、足下から、キュキュキュと音がした。バスケットシューズで体育館を走って急に止まった時のような音だ。その音は大風呂敷の上から和箪笥、和箪笥から棚の木箱へ移り、さらに梁へと登っていく。
 明かりを向けても、音ばかりで姿は見えない。
「何よ、これ。やっぱりネズミ?」
わたしの問いに、マリは黙っているし、エミも眼をつむって動きを止めている。
「それとも、どこかで警報装置が鳴ってるの?」
 音は大きくなるばかりだ。
「うるさい」
 わたしが怒鳴ると、音は一瞬、鳴りやんだが、すぐに前に倍する大きさで鳴り始める。剥き出しの小屋組の上を、たくさんのバスケットシューズが走り回っているようだ。
「出たほうがよさそうね」
 あくまで冷静にマリが言った。エミが扉へ後ずさりする。
 同じく後ろに下がったとたん、わたしの頭の上を、何かがジャンプしていった。
 ぐにゃりとした、コンニャクか水風船みたいな、冷たい感触。
「もう、いや。何よ、これ」
 わたしは掛けていたエプロンをはぎとって、右腕を大きく振り回した。
 とんでもない量の埃が蔵いっぱいに舞い飛ぶ。それと一緒に、何かが上下左右入り乱れて飛び交う気配があった。
「早く」
 光のほうからエミが呼ぶ。
 マリが逃れ、わたしも外へ出た。キュキュキュキュッという音がついてくる。
 エミが扉を閉めたけれど、音は明らかに蔵の外に出て、四方八方に散っていった。

 外はまだ、日没前の明るさだった。
 蔵へ入る前と何も変わっていない。漆喰の土蔵、屋根瓦の重そうな立派な母屋、駐車場へ下る私道。呆然と立ち尽くしている、わたしたち三人組。
唯一、蔵へ入る前と違っていたのは匂いだった。春先の梅、満開の薔薇、秋の風に薫るキンモクセイ、どれとも違う、どこか中毒性のある、甘いような苦いような濃厚な香りが蔵の前に漂っている。それも、やがて消えた。 
埃まみれのわたしたちは「だから言わんこっちゃない」とエミのお父さんに呆れられて、早めに焚いてもらったお風呂をご馳走になった。洗い髪を流した湯は真っ黒だった。
 夕飯にはお寿司の出前をとってもらって、もう少し手土産を張り込めばよかったと後悔した。エミのお母さんが座敷に三組の布団を敷いてくれた。客用布団が三組もあるなんて、わたしの家では考えられないことだ。エミはその布団を持って、木造アパートへ移動しようと言った。「わたしら、きっと夜通し喋るでしょ」
 木造アパートの一室に布団を敷き、ちゃぶ台に缶ビール、スルメ、ポテトチップス、チョコクッキーを並べる。エミの部屋に集まって、夜を徹した学生時代の再来が嬉しい。
「ねえ」
わたしはマリに催促した。
「分かってる」
 マリは缶ビールに口をつけたまま、珍しくぼんやりしていた。
「霊的なものじゃなかったのは確か」
 エミが言う。
「あんなうるさい霊がいる? 何よ、あれ」
 わたしはマリに問いただす。
「今ここで、三つの答えが成り立つわね」
 マリがわたしの眼の奥を覗き込んだ。
「そのうちの一つ。わたしとエミは動物の姿を見た。ハルカに見えなかったのは気が動転してたから。あれは、このあたりに生息する小動物が蔵の破れから忍び込んで繁殖していただけ。蔵に戻って床を探せば、その小動物の糞がみつかるはず」
「嘘でしょう。マリもエミも何を見たの? リス? イタチ? ハクビシン?」
 わたしの詰問にエミが首を横に振る。
「あるいは、わたしたちみんな、何も見なかったし、聞かなかった。蔵に入って、あまりの埃に咳込んで、慌てて出てきただけ」
「じゃあ、あの匂いは?」
「どこかで香水の瓶でも割った人がいたんじゃない」
「マリってば、ひどい。こんなときにふざけないで」
 マリは一呼吸してから話し出した。
「生命は宇宙で生まれたって説があるのよね。パンスペルミア説。これって、生命の起源を説明したことにはならなくて、単に発生場所を地球から宇宙に変えただけじゃないかって思うけど、発生時期を、地球形成以降じゃなくて、宇宙の誕生からに引き延ばせるってメリットがある。でも、この説を採用するなら、たった一回だけ生命の素が宇宙から地上に降ってきたなんておかしいと、わたしは思ってるの。一回あったってことは二回目も三回目もあるでしょう。あるいはずっと継続してなきゃ、変でしょう。
 たった五つの感覚しか持たないわたしたちが、自分と同じタイプの生き物だけを生命と認識するから、地上に宇宙生物が存在してても知覚できないだけで、わたしたちの感覚に引っかからない生命が、宇宙から塵と一緒に降ってきて、どこかで増え広がってたって、おかしくはないはず」
「それが、あの蔵ってこと? でも、あの自転車を入れたの、お祖父ちゃんか、お父さんかだと思う。閉め切ってたのって、きっと、ここ数十年の話だよ」
「江戸時代までは森の妖怪ってことで許容されて、ここらの森にたくさんいたんじゃないの。そのうちの何匹かが、あの蔵に紛れ込んで天敵がいないから生き延びた」
「ちょっと待って。あれが、もし宇宙生物だったら、地球の生態系はどうなっちゃうの? 同じ地球の植物でも国内で繁茂したら外来植物だって大騒ぎなのに、目に見えない生物が大暴れしたら、大変なことだよ。政府とか研究所とかに連絡しなくちゃ」
「それはあんまり心配しなくていいと思う」
「どうして」
「蔵の外にいたお仲間はもういないわけでしょう。それに、わたしたち、こうして生きてるじゃない」
 たしかに、あれが危険生物だったら、蔵へ踏み込んだ瞬間に殺されていただろう。
「わたしはむしろ、あいつらのために心配しちゃうな。イタチのすかしっぺっていうけど、逃げるためなら、あんないい匂いじゃ駄目でしょ。かえって追っかけられちゃう。スカンクを見習いなさいって言いたいわ。あんなに鳴いてたら、すぐに捕獲されちゃうし。近い将来、あの芳香が商品化されたとしても、わたしは驚かないわね」
「そうなったら、わたし、買う」
 エミが言う。
「でもまあ、四つ目の仮説を述べるとね、あの音は外の空気が急に入って、古い木材が鳴ってただけよ。家鳴りってあるでしょう。匂いは近くの温泉で、何らかの成分が地熱で気化して、こちらまで漂ってきたってわけ」
「そんな結論、つまんないよ」
 徹夜できない体質のわたしは、話し続けているマリとエミをおいて布団に入り、慣れない枕に頭を載せて思い出した。コンニャクか水風船が落ちてきたような、あのときの感触。
 ねえ、マリ、四番目の仮説は成り立たないよ。家鳴りで、触覚を刺激されるなんて、そんなことある? 
そうマリへ問い直したかったけど、体はもう眠りかけていた。綿の敷き布団がずっしり胸にのしかかってて起き上がるのが面倒だ。
 眠りの淵へと落ちていく。沈んでいく。それとも、これは浮かんでいってるんだろうか。
もくもくと雲のような灰色の塊が湧いてきたかと思うと、色とりどりの糸が一筋ずつほどけて広がっていった。今朝、起き抜けに見たカラフルな夢が始まる。
夢のおかわりってあるんだね。
 
上空から差し込む光によって輝く空間の、あちらこちらで蝶が舞っている。極小の蝶は、赤い羽根に緑の縁取りがついたもの、黒地に目の覚めるような青い紋章があるもの、金色の水玉模様のある白いものと色とりどりだ。
 蝶だけでなく鳥もいた。
 鳳凰みたいな極彩色の鳥が二羽、長い尾羽を垂らして飛び、光の空に舞っている。
 鈴が鳴るような声、それとも音が降ってきた。
 優しい、柔らかい、可愛い、ささやきのような声は、
 ようこそ、いらっしゃい。おかえり、またね。
 そんなふうに聞こえていた。