「桜の若葉」飯野文彦

 おだやかな昼下がり、舞鶴城公園へ足を向けていた。ほんの一週間ほど前までなら、ぜったいに近づかなかったはず、花見と称する馬鹿騒ぎ、もっともわたしの毛嫌いする場所だったはずなのに、ふと、芭蕉の句、
 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡
 桜が散って間もなく、まだ初夏ともいえない季節だが、強者ならぬ馬鹿者たちの夢の跡、見たく思ったか知れず、気がつくと足を向けていた。
 案の定、人けもなくがらんとし、気詰まることもなく、いつになく開放的な気持ちになる。と、思わず足を止め、見上げたそこに圧倒的なまでの美しさで迫る新緑があった。一瞬、何の樹か、と思い、すぐに桜だと知る。
 かつては桜の花が嫌いではなかった、世間のちやほやに耐えられず、いつしか毛嫌いし、見るどころか、ちらり脳裏に浮かんだだけで、蛇蝎(だかつ)のごとく嫌悪するようになって久しい。
 太宰の「春昼(しゅんちゅう)」、武田神社へ花見に行ったときのことを書いた随想。

「あたし、桜を見ていると、蛙の卵の、あのかたまりを思い出して、――」家内は、無風流である。
「それは、いけないね。くるしいだろうね。」
「ええ、とても。困ってしまうの。なるべく思い出さないようにしているのですけれど。いちど、でも、あの卵のかたまりを見ちゃったので、――離れないの。」

 桜嫌いになったわたしの好きな一節。だがしかし、この美しさは何だ。花から一変し、陽を浴びて、みずみずしいまでの新緑に輝いている。
 葉桜という言葉は、もちろん知っている、昔、俳句に興味を持った頃、
「葉桜のことを、桜若葉とも言うんですよ。初夏の季語にもなっています」
 と耳にしたことも思い出す。それなら今を初夏と言っても、まちがいではないか。
 葉桜、桜若葉、桜の若葉。
 光を求め、光を浴び、光と溶け合う若葉の味わいは、日々弱り、ボタンの掛け違いとなったわたしの生き方と比べて、何という違いだろう。
 人間として産まれたからには、もっと美しく、なにより恋に輝くべきだと、わたしは信じていた。それに間違いないのだから、今さら新緑の美しさをうらやむなんて、わたしのこころ、なんという醜さに染まってしまったのか。
    ◇ ◇
 どれくらい前だったか、何げなく入った錦通り沿いの食堂のカウンター席、隣りに女が座り、その女の半袖シャツから覗く腕が、透明なビニールテープで止めてあるのを見た。
 それは尋常ではなく、シャツから覗く二の腕、前腕から手の甲にまで連なり、わずかに覗いた指、右手で箸を持ち、温かい方のうどんを、葱が少々入っているだけだから、その店で一番安いかけうどんを食べている。
 テープは透明で、幅は五センチほどもある、一度貼り付ければかんたんに剥がれるような代物ではない。皮だけでなく肉までもが捻れ、薄墨で不規則な螺旋模様の刺青を施した、薄墨や黒だけでなく、赤黒くにじんでもいる。
 錯覚だ、そんな刺青を施す者はいない、百歩譲ってそうだとしても、なぜテープをここまで貼り付けなければならない。刺青の痛みに耐えられず、ガーゼや絆創膏代わりにテープで保護している、否、ありえない。
    ◇ ◇
 あれもいつだったか。岡島百貨店の近くにあるSという喫茶店に入ったとき、そこはわたしの学生時代の先輩が経営している店で、たまに顔を出していた。
 その店の奥まったテーブル席に、先客がおり、一つ置いたテーブルに座ったのだが、かすかに異臭が漂ってくる。胸近くまで伸びた髪は、たっぷりと使い古したモップみたいにべとりと張りつき、妖しく鈍く照っている。まだ若いのに、と、さり気なさを装って、ちらりちらり様子をうかがった。
 薄汚れた大学ノートに、鉛筆で書きつけているのは、家の間取り図だった。いつしか、つぶやく声が耳に入る。
「彼の書斎、大きな本棚を備え付けにして。寝室をいちばん広くする。大きなベッドを入れてもスペースに余裕があって。オープンキッチンで、浴室も広くて、しばらくは友だちやお互いの親が来た時に泊まれる部屋、子供が生まれたら子供部屋にして……」

 ふと思い出した。この女、見たことがある。甲府駅からほど近いコンビニの床にしゃがみこみ、ぶちまけた小銭を算えていた。店員に声を掛けられると、
「眠れないんです、眠れないんです。それなら、いっそ、いっそ、いっそ、いっそ……」
 メトロノームのように首を左右に振り出す。「いっそ、いっそ、いっそ、いっそ」
 その声が、カッチン、カッチン、カッチン、カッチン、リズムのようで、どんどん早まる。店員に肩に触れられた途端、ぴたりと動きを止めた。
「さわるな。こんなもの、くれてやる。ぜんぶ、くれてやる」
 叫びながら、コンビニを飛び出して行った、あの女だ。
 それより少し前の深夜、
「けっきょく逃げたんじゃねえか」
 と叫びながら、裏春日の店の前を歩いていた女だ。
 ある日の朝はやく、駅の改札近く、ベンチの裏にしゃがみこみ、改札の方をじっと見ていた女だ。
「しょうがねえな。野良犬かよ」
 駅員が排泄物を片づけ終わるまで、じっと息を潜めていた、あの女だ。

「ゆきこ」
 喫茶店Sの店内、いつの間にか女の傍らに、年配の女性が立っていた。女はテーブルに前屈みになって、両腕でノートを隠した。年配の女性は、そっと女の肩に手を置き、
「さあ、帰りましょう」
 とうながす。女は閉じたノートを両手で抱え、抵抗せずに素直に立ち、肩を抱かれるようにしながら店を出て行った。
    ◇ ◇
 酒場のおかみです。親に援助してもらって、開いた自分の店、裏春日の、Bというソープランドにほど近い場所にあったこじんまりとした居酒屋、廃業したその店を居抜きで借りて、細々とですが営業をはじめました。
 そうして開店して、一か月ほど経ったある日、あの人が、一人、ぶらりとやって来ました。
 下町吾郎(したまち・ごろう)。
 それからちょくちょく顔を出し、一人で静かに飲みながらも、気がつくと熱い視線をわたしに向けている。閉店の時間、ほかに客はおらず、送りだそうとしたわたしを抱きしめ、煙草臭い唇を押しつけられて、溺れました。
 わたしは空の瓶でした。これでいい、もうこりごり、と思っていたはずなのに、すとんと落ちました。どうして、わからない、縁としかいいようがない。すとんと落ちて、空の瓶は満たされ、その中で溺れたのです。

 着物が好きでした。店を開くとき、親がお祝いに、藍色の西陣織、薄物を買ってくれて。それを着て、わたしは店に出ていました。
「きれいだ」
 褒めてくれるのは、あの人。わたしを誉めそやし、抱きしめて、と、
「だが、その中にもっときれいな君がいる」
「中に?」
「ほら、名前の通り、雪のようだ」
 はだけた着物の衿(えり)、うなじに口づけされ、わたしはのけ反り、彼に誘われるまま、タクシーに乗りました。そして大好きな着物を、彼に求められるまま、脱ぎ捨てて。

 ところが二ヶ月ほど経つと、ぷつり縁という糸が切れたように、下町は店に顔を現さなくなった。
 そのときになってはじめて、わたしは彼の名前以外、何も、知らないことに気づいた。どんな仕事をしているのか、どこに住んでいるのか、家族は、電話番号すら知らない。電話帳をめくっても見つからず、市役所に問い合わせても、下町吾郎という人物は見つからなかった。
 親が迎えに来ても、いったんはいっしょに実家へ戻り、安心させるけれど、すぐに隙を見つけて、逃げだし、店に戻った。裏春日のその店で生活をするようになった。
 いつ下町が来ても、逢えるように。客が来ても、下町でないとわかると、断って、追い返した。あの人以外に、飲ませる酒も肴もない。相手をする女もいない。
    ◇ ◇
 わたしの中にある一線は、喩えるならば水面のようなものだと思ってしまう。水の中にいるときは、息ならぬ思考を止めているから苦しくなるし、無我夢中で足掻いているために、とても冷静に憶えてはいられない。
 止めているというより、魚の鰓呼吸みたいに、別の呼吸をしているのかも知れず、そうでなければ、そちらに行ってしまったら、生きて戻れなくなってしまう、そうならず、気がつくと、水上の日常生活に戻っている。
 まったく憶えていないわけではない、夢ではないかと思い出しもするし、しかしそれは、他人、わたしに似たところがあるのかもしれないが、それをわたしと認めたくはない、認めたら、水上で他の人たちと生きていけない、社会に受け入れてもらえなくなってしまう、それは恐怖以外、何ものでもない。
    ◇ ◇
 気がつくと、わたしは市役所へ足を運んでいた。いつしかわたしの中で、水中も陸上もなくなり、渦巻く混沌となった意識は、どこからかわからないものの、時として、ぴかりと輝くインスピレーションを与えてくれる。
 下町吾郎は、この街に住んでいる。そうでなければ、あれだけ頻繁に、通えるはずがない。市役所に知人がいて、結託して、正体を隠しているのだ。しかし、市役所のどの課へ行けばいいのか、わからない。入口に所在なく佇んでいると、わたしに気づいた受付の女が、近づいてきた。
「何かご用ですか?」
 二十代後半くらいの、割りと眉目麗(みめうるわ)しいといってもいい美人、釣られて、
「下町――」
 と言いかけたところで、口を噤んだ。女から視線を逸らして、受付を見た。受付にはもう一人の女、中年のどこにでもいる平凡な女。なぜ、彼女が来ない。なぜ、この女が来た。
 そこでカラクリがわかった。この女を差し向けたのは下町だ。なぜ、そんなことを。答えはかんたんだ、この女が下町の新しい女、わたしから彼を奪った張本人にほかならない。瞬間で沸騰したのは殺意、店から包丁を持ってくるんだった。なに素手で絞め殺してやる。
 と、実際にそうしようとしたのは確かなのだ、が、正直、そこからの記憶は曖昧で、わたしの中のわたしは消え、離れた場所から、木偶のごときわたしを見ている感覚すらあり、それでも完全な木偶(でく)ではなく、ピノキオのようにわたしの中にも魂が残っている。身体がぶるぶると痙攣し、堪えきれぬ吐き気に襲われ、女を目がけて、赤白い反吐をぶちまけた。それを見ているわたしは、
「イチゴミルクみたい」
 などと呑気なことすら思っている。そして、すぐに辺りを見まわした。どこかで下町が、この騒動を見ているのではないか。
 しかし下町の姿を見つけ出す前に、反吐を吐いたわたしが、警備員に取り押さえられようとしている。その場に倒れ、手足を痙攣させ、しゃーっと音が聞こえるほどの大量の放尿、大切な着物を濡らし、フロアに広がる。さすがにこのままではまずい、と思ったわたしは、携帯から母に電話した。
「今、市役所にいるの。迎えに来て」
 憶えているのは、そこまでだった。
    ◇ ◇
 誰かが誰かと話している。
「店なんかやらせるんじゃなかった」
「でも、言い出したら聞かない子だから」
「離婚の傷も癒えていなかったんだろうに」
「こっちに戻ってから、ずいぶん元気になったし、この子が『やりたい』って言うならって、あなたが」
「おまえだって、賛成したじゃないか」
「それはそうだけど……」
 瞼(まぶた)を開くと下飯田の実家、わたしは自分の部屋で寝ていた。枕元には両親が揃っている。
「どう、気分は?」
 母が言った。
 ええ、とつぶやいたが、何と言っていいのかわからない。ぼんやり天井を見ていると、父が言った。
「病院に行こう」
「なぜ? わたしはどこも悪くない」
「ゆきこ……」
 母は目を潤ませた。
「わしらのせいだ。世間体を気にして。でも、これ以上……」
 父の言葉の途中で、わたしは言った。
「疲れているの。寝かせて」
 そして目を閉じた。寝たふりをした。しばらく枕元にいた両親が、部屋を出ていったのを察し、わたしも部屋を出た。見つからないように、脱衣所に置かれた汚れ物カゴのところへ行き、中にあった着物を着ると、見つからないように家を出て。
 と、その前に、やっておくことを思い出す。いったん自分の部屋に戻ると、机に向かい、ノートを一枚破って、文章を綴る。
〈お父さんお母さん、ご心配おかけして申し訳ありません。ただわたしは、今の、あの店をつづけたいだけです。どうか、どうか、お許しください。もし店に居られないなら、入院などで居られなくなったら、即座に命を絶ちます。そうなったら犯人は、あなたがたであることを忘れないでください。雪子〉
 机の上に残し、ひっそりと実家を抜け出し、夜の闇にまぎれて、裏春日の店へと急ぐ。新荒川橋を渡り、母校・甲府西中脇から飯田グランド通りへ抜けて、県立大学の前、やはり母校の穴切小学校はすでに廃校、穴切神社を尻目にうす暗い狭い道、よほど四つん這いで走ろうと思ったけれど、またしても怪我しては、彼に申し訳ない。
 ただただ一刻も早く、裏春日の店へ。彼が来ている、市役所での一件で、深く後悔して、あの女を捨て、わたしを待っている。
 息が上がり、ますます混沌となったわたしの思考はぐるぐると渦を巻き、水面下にあった記憶も走馬燈のごとく浮かんでくる。ビニールテープで腕をぐるぐる巻きにしていたのも、喫茶店で家の見取り図を書いていたのも、コンビニで小銭を算えメトロノームのように首を振ったのも、深夜の裏春日を怒鳴りながら歩いたのも、駅で排泄したのも……。

「そうだ、盥(たらい)」
 居抜きで買った店の奥に、何に使ったのか知らないけれど、木製の大きな盥があった。古いもので、人一人座って入れる大きさ、業者の人は、すぐに始末しますと言ったが、よかったら、と譲ってもらい、店の奥に立て掛けておいた。
 珍しいものなので、お客さんの気を惹き、あれを天井から頭に落としたら、洒落にならないな、などと言う人も。かつてドリフターズがコントで、大きな盥を頭に落とすのがはやっていた。大きさは確かに同じくらいだったけれど、あちらはアルミなどの軽い素材なのだろう、店に置いたのを落としたら、首の骨を折りかねない。
「これで行水する君の姿を見てみたい」
 そんなことを言ったのは、下町だった。
「そしたら、背中、流してくれる?」
 わたしが言うと、彼はぎらり瞳を輝かせ、猪口を口に運んだものだ。
    ◇ ◇
 舞鶴城公園に佇み、なぜここに、と思い出した。下町が、
「あそこで花見をした」
 と話してくれた。数少ない、否、唯一の頼り、だから、ここに。それならなぜ我慢してでも、花見の季節に来なかったのだ。いくら厭でも、下町に逢えるのなら。
 いや、だめだ。今の今まで記憶のどこかに潜んでいて、今になって、ぷっくりと水面ならぬ記憶の表面に浮かんできた。しかし、これには何か意味がある。インスピレーションだ、きっと、きっと……。
「ああ、あの人は、わたしにこれを見させるために、話してくれたんだ」

 目に青葉 桜の若葉 初がつお

 わかりました。潜ってばかりじゃいけない。この青葉のように、わたしも輝きを取りもどして、生きていかなくては。
 わかったんだから、ぐずぐずしていられない。わたしが悟ったと知った下町が、やって来る、わたしを迎えに。それなら、はやく店に戻らなくては。
 わたしは両手をついて、犬のように甲府の町を走った。なぜなら犬の方が、人間よりもずっとはやく走れるから。虎や豹、チーターだって、そうだ、でもわたしは人間、両腕についた傷は、そのとき、何度も何度も転んで作ったものだ。転んだ拍子に、金属やコンクリートで切った傷が、かなりの数に上った。その止血のために、ビニールテープを巻きつけたのだった。
    ◇ ◇
 ずっとずっと、風呂どころかシャワーすら浴びていない、
 脱ぎ捨てた着物をつかみ、裸体を隠そう、彼がわたしの身体が醸しだす臭気に気づく前に。だが身を屈めるより先、彼が、そうさせなかった、わたしの腕をぐいとつかみ、
「おれに洗わせてくれるね」
 と言う。えっと見ると、いつの間にか、店内、床に大きな盥が置かれ、湯気立つ湯が満たしてある。
 あのときのように、あのときって、いつ?
 水面下でわたしは、この盥で行水し、下町の幻に、あのときは水で、冷たかったのを憶えている、お湯を沸かす気にもなれず、一人、冷水をかぶる修行のごとき気持ちで、行水したというのに、今回は。
「ああ、ありがとう。このときが来るのを、ずっと……」
 待っていた、とまで言葉がつづかず、涙をこぼすわたしをお嬢様抱っこ、だめ汚いわ、そっと降ろし、盥の中に座らせられる、温かな湯がこぼれるけれど、彼は気にせず、シャツの袖をまくり上げると、やさしく両の掌で、わたしの身体を洗ってくれる。
 なぜだろう、わたしの中にいたずら心が起きた。彼の手を振りはらい、盥から出るなり、ブリッジをすると、手足を巧みに動かして、彼から逃げる。レスリングの選手みたいに、上体を反らせて、両手と両足だけで身体を支え、その態勢で移動する。
 ふざけているのだ、逃げたいわけがない。ブリッジして動こうとしたのは、またしても両手両足に傷を負うのを防ぐため、速度が遅くなるから、彼が追いつけるようにするため。
 鬼さんこちら、這う音(ね)のほうへ。
 店を出たわたしは、裏春日の小径を、はあはあはあ、息弾ませながら、舞鶴公園方面へ進んでいく。桜若葉の美しさを、彼に知ってもらうため。今がその季節なのか、わからないけれど。新緑に輝く桜の若葉、それら一枚一枚の中に、全裸でブリッジして這い廻る、わたしの姿が浮かんでいる。(了)