その朝目を覚ますと、俺の左腕が消えていた。
昨夜は確かにあったから、夜の間にそうなったのだろう。目が覚めてもしばらくは分からなかった。目をしょぼつかせながらベッドから起きだし、洗面台の前でコップに突っ立ててある歯ブラシを手に取った。そしてそれを口元まで運んで来た。そこで鏡に映った自分の姿に目が行き、ようやく気がついたのだった。
歯ブラシだけが、ふわふわと宙に浮いている。
俺はしばらく、ぼけっとそれを眺めていた。たぶん、びっくりするのに時間がかかったのだろうと思う。脳みその神経がどこか切れていたのかもしれない。前の夜は記憶がなくなるほど呑んだせいで、ひどい二日酔いだった。
が、いくら二日酔いでも何かおかしいということはじわじわ分かってきた。歯ブラシがひとりでに宙に浮くはずはないのだ。
俺は目を閉じて、歯ブラシを握っている左手に意識を集中した。歯ブラシのグリップの感触は、確かに掌にあった。
目をあける。
歯ブラシは宙に浮いたままだ。
再び鏡に目をやると、ノースリーブのTシャツの、左の肩から先が斬り落としたようになくなっていた。しかし痛みや違和感はない。
おそるおそる体をひねって、腕と肩の境目を映してみる。骨や腱の断面が、きれいにのぞいていた。血管と思しきものの中は真っ赤な液体が詰まっており、それは多分血なのだろうが、断面からこぼれ出てくる様子もない。まるで模型を見ているようだった。
左腕を持ち上げて、いろいろ動かしてみる。動きにつられるように、肩の骨や筋肉の形が変わる。
ということは、左腕は生きて繋がっているようだ。ただ、見えない。
「困ったな」
自分でも不思議なほど落ち着いた声で、俺は呟いた。
「困った」
だがよく考えてみると、具体的にどう困るのか思いつかなかった。腕そのものは存在するのだから動作に不自由はないのだ。
なぜこんなことになったのか理由はさっぱり分からなかったが、原因が分からなければ解決法も分かるはずがない。もしかしたらそのうち自然に元に戻るかも、と考えて当分長袖を着て過ごすことにした。
「そりゃ正常性バイアスって奴だろな」
山崎は俺の話を聞いてそう言った。山崎はバイト仲間だが普通に友人としてもつきあっていて、どちらかのアパートになだれこんでは呑むことがよくあった。左腕が消える前の夜に一緒に呑んだのも山崎とだった。
「もっと早く言えばよかったのに」
「早く言えばなんとかしてくれたのか?」
「それは無理」
山崎は俺の冷蔵庫から勝手に出してきたビールをぐびっとあおった。同じく俺のサラミまで持ち出して、当たり前のようにかじっている。
しばらくして俺の視線に気がついたのか、半分かじったサラミを俺の方に差し出した。
「食うか?」
俺はそんなつもりで見つめていたわけではないのだが、山崎に大事なサラミを一方的に食われるのがいやだったので、黙って受け取った。腹も減っていた。サラミにかぶりつき、何度か咀嚼して飲みこむ。すると、
「げ。グロ」
山崎が顔をしかめた。無理もない。山崎の目には、くちゃくちゃに噛み砕かれ唾液と混ざった肉塊が、突然空中に出現したように見えたはずだ。そしてそれが、食道の蠕動(ぜんどう)運動でもみもみされながら空中をゆっくり落ちていく。
ある程度まで落ちると、肉塊はすうっと消えた。境目がどこなのかはっきりしないが、どこかを過ぎると〝食物〟から〝俺の体の一部〟に変化するらしい。
俺の体の透明化は、じんわりとしたスピードながら進行していた。左腕が見えなくなってから三か月。服を着ていれば外からは分からないのでまあまあ不自由なく過ごしていたが、さすがに消え残っているのが首から上だけになると隠すのが苦しくなってきた。
まだ暑い季節だった。上衣は必ず長袖、首元はタオルで隠し手袋までしていると、時々倒れそうになる。通りすがりの相手に不審そうな目を向けられるのもつらい。
そんなわけで、思い切って山崎に打ち明けたのだったが──。
「で、おまえはどうしたいわけ?」
山崎はビールを飲み干してしまうと、体を乗り出して俺の顔を見つめた。俺の体を見ても(見なくても、と言うべきか)平然としているあたり、肝の据わった奴だ。俺は山崎をちょっと見直した。いつもはへらへらして不真面目なくせに。
「どうって……」
「医者に行くか? 警察に行くか? それとも怪しい研究所にでも連絡するか?」
「何だよ、怪しい研究所って」
「こういう分野のことを研究しているところじゃないか。知らんが」
知らんのか。いい加減なことを言いやがって。見直したのは取り消しだ。
「ふざけてるわけじゃないぞ」
俺の不満が顔に出たのか、山崎は真面目な顔になって言った。
「何が原因でそうなったかとは分からないんだろ。だったらそれはひとまず置いといて、今の状態だからこそできることを考えてみたらどうだ?」
目の前でぱしんと風船を割られたような気がした。一理ある。
「昔っから、透明人間と言えばすることは決まってるだろ。ほら」
山崎は、悪そうな笑みを浮かべながら、肩越しに背後の壁を指さした。壁の向こうは隣家だ。
「なんてったっけ、あの──園田さんだっけ?」
俺はかっと耳まで血が上るのを感じた。園田さんは俺たちより少し年上らしい美女だ。隣人になって二年になるが、どんな仕事をしているとかどんな暮らしをしているとかはいまだに分からない。廊下で会って挨拶するたびにもう少し声をかけたいといつも思うのだが、本当に〝思う〟だけだった。
「だめだ、のぞきはだめだぞ。そいつは犯罪だ」
「そりゃそうだけど~」山崎はさらにニヤニヤ笑う。「おまえだって男だし?」
「やめろ、バカ」
俺は山崎をしたたかにぶん殴った。
「冗談、冗談だって。だっておまえじれったいんだもん。まだ〝こんにちは〟しか話したことないんだろ?」
山崎は冗談だと言ったが、それ以来俺は園田さんと顔を合わせるのが怖くなってしまった。どうしても変な想像をしてしまうのだ。
今はまだ首から上が見えているが、もし完全に透明になったら……。
着替えや風呂を見るわけじゃない、彼女の趣味とか知って話のきっかけにするだけなら……。
邪心が頻繁に頭に浮かぶ。そのたびに頭から水を被らねばならなくなった。
みんな山崎のせいだ。
そんなわけで、俺は山崎を驚かしてやろうと思った。山崎の住んでいるワンルームマンションは俺のところから五分ほど歩いた場所にあった。距離も手頃だ。透明人間活動の練習台になってもらうのににちょうどいい。
山崎がいるのを確かめた上で俺は奴の部屋の前に立った。カメラに首から上が映らないようにしてインターホンを鳴らしてやるつもりだった。山崎の部屋は何度も来ているから、どのあたりに立てばいいか知っている。
位置決めが終わると、俺はあたりに誰もいないことを確認して服を脱いだ。長袖シャツに手袋、ズボン、そして靴。調子よくパンツまで脱いだ途端、ものすごく頼りない気分に襲われた。
時刻は真っ昼間だった。ワンルームマンションは夜より昼の方が人が少ないので選んだ時間帯だったが、明るい中、屋外で裸になるのがこんなに不安だとは思わなかった。
俺の首から下は透明で、たとえ人が来たところで誰にも何も見えやしない。俺自身にさえ見えない。なのに恥ずかしいのだ。そして同時に、自分がものすごく弱くなったような気がした。葉っぱ一枚でもいいから身につけたいと思った。
そんなこんなでもたもたしていると、エレベーターの止まる音が聞こえた。間の悪いことに、同じ階の住人が帰ってきたようだ。
服を拾って着ている時間はなかった。どこかに隠れなくてはと焦り、玄関横のメーターボックスを開けて潜り込む。内部は狭く、入ったら扉を閉める余裕はなかった。
なんとか身を縮め息を殺して、住人が通り過ぎるのを待つ。
が、しばらく待ってみても住人はいっこうにこちらへ歩いてこなかった。それほど長い廊下ではないはずなのに。
おそるおそる顔をのぞかせると、隣のドアの前でナップザックを背負った男が一人うずくまっていた。具合でも悪いのかと思ったが、そうではない。鍵穴のあたりで何やら工具を使ってかちかちとやっているのだった。
まさか空き巣か?
確かめようとして、俺は思わず身を乗り出した。スチールの扉がきいっと音を立てて軋む。男がばっとこちらを向いた。
ひやややや、という情けない叫び声を上げたのは、男だったのか俺だったのか。
男は手に持っていた工具を取り落とし、まさにこけつまろびつという表現がぴったりな動きで廊下を逃げ去っていった。消火器に蹴つまずいて一度転び、派手な音を立てる。
あちこちの住戸からいっせいに人の気配がした。鍵をはずす音も聞こえる。
俺は慌てて山崎の部屋のドアを叩いた。
「開けろ、開けてくれ、早く!」
どういうわけかそのとき俺の頭を占めていたのは、素っ裸を見られたくないという、ただそれだけだった。
山崎は一通りの経緯を聞くと、腹を抱えて笑った。
「おまえ、そこまでやっといて自分がどんな状態か忘れてたって……」
俺は笑い転げる山崎を睨み返した。
「だって、人前でマッパになるなんて赤ん坊の時以来なんだぞ。めちゃくちゃ頼りないんだ。大勢人がいるようなところであんな格好になるなんて、見えてなくても尊厳破壊で死ぬ」
「そんなもんかな。でもしょっちゅう脱いでればいずれ慣れるんじゃないか?」
「簡単に言うな」
「しかし裸になれないとなると透明人間の価値はあまりなくなるぞ。そこは克服しないと何もできない。ただでさえ」
山崎は俺の前で宙を漂っている缶チューハイ(今度は俺が勝手に山崎のを呑んでいる)を指差した。
「物を持ったら即バレするからな。それじゃ万引きもできないだろ」
本当に悪いことばかり考えつく奴だ。
友人づきあいを見直すべきだろうかと考えているとインターホンが鳴った。山崎が出る。
「……はい、はい。いえ、じぶんは家の中にいたので見てなくて……」
などと妙に畏まった声で応答しているところを見ると、相手は警察らしい。
「なんだった?」
「空き巣、捕まったって」
「もう、か?」
「喚きながら道を走ってて職質されたらしい。顔を目撃してたら面通し?してほしいって言ってる。するか?」
「……いや……」
俺はかぶりを振った。俺も驚いたが、真っ昼間から生首がぷかぷか浮かんでいるのを見た空き巣氏はもっと怖い思いをしただろう。喚きながら逃げていたというのがいい証拠だ。空き巣は悪いことだが、これ以上怖がらせることもない。
「だよな。おまえ今、ホラーだもんな」
間違いじゃないがちょっと傷つく。が、山崎はにやっと笑って俺の肩を叩いた。
「犯罪を未然に防いだんだぞ。いいことしたじゃないか」
俺はなるほどとうなずいた。
どうやらすることが決まったようだ。
それから俺は、ちょくちょく夜に出かけるようになった。目的地は人通りの少ない路地や、公園や、駐車場なんかだ。そういったところにたむろして騒ぎ立てたりゴミを散らかしたりする連中を驚かせて回った。
俺の格好は、全裸の上に浴衣一枚だった。履き物はクロックスで、これなら足音はしないし脱ぎ着も瞬間だ。山崎は浴衣ではなくロングコートを提案してきたが、変態っぽいので却下した。
ターゲットを定めると着物を脱ぐ。見える距離まで近づいて暗がりに立つだけで、全員が全員、面白いように逃げ出した。
「おい見たか、今日のこれ」
山崎がスマホでSNSを見ている。検索しなくても生首の噂はトレンドの一位に上がっていた。
「すっかり有名人じゃないか。ちくしょう」
山崎が羨(うらや)ましそうに言う。俺はすっかり浮かれていた。裸になることへの抵抗はいつの間にかなくなっていた。生首騒動が話題になるたびに、俺自身がちやほやされているような気になった。素顔を晒(さら)しているのでいつか身バレするんじゃないかと、それだけがやや心配だったが、生首の目撃者は顔を覚えるどころではないらしかった。むしろ青白い顔に血まみれだったの、目玉が飛び出していたの、顔が融けていたのと、嘘ばっかりの目撃情報がどんどん付加されていくのだった。
新たな情報が加わるたびに、俺と山崎は酒を飲みながら笑い転げた。
だが、有頂天になって俺は大事なことを忘れていたのだ。
一頃大いに盛り上がっていたSNSでの反応だったが、二、三か月もするとめっきり下火になった。生首がいくらインパクトがあっても俺は一人しかいないしどこにでも出現できるわけじゃない。次から次へと出てくる新しい話題に流されて、忘れられ始めているようだった。
そろそろ新しいネタの投入が必要かもしれない。それで俺は、県境のトンネルに場所を移すことにした。昼間は路線バスの運行路で賑やかだが、夜はめっきり車が減る。以前にこのトンネルで事故に遭って死んだライダーが頭のない状態で夜な夜な走り回っているとかいう都市伝説もあった。いわゆる首なしライダーだ。
「首なしの向こうをはって生首が出るって、冗談きいてるだろ?」
「まあな」
山崎ですら、ずいぶんとしょっぱい反応だった。こいつも飽きてるのかな、と思ったが、ほかにできることを考えつかない。園田さんは──おあずけ。
寂しいその山道で、俺はたちの悪いドライバーを見つけて驚かすことにした。スピード違反や酒気帯びなんかだ。だが、下手に事故られても寝覚めが悪いので、道路脇にこっそり立ったせいか、通り過ぎる車は全然驚いてくれなかった。というか、めったに気がついてくれなかった。
その夜もそんな感じで、もう帰ろうかと考えていたときだった。
遠くから近づいてくる光点を見つけた。道のカーブに沿ってくねくねと揺れながら近づいてくる。光の形と、続いて聞こえてきたエンジン音から、バイクだと分かった。
まわりには誰もいない。ほかに走っている車もない。
特に危険な運転をしている様子もないし、やり過ごそうとしたその時、奇妙なことに気がついた。
ライダーのシルエットが変だ。体の丈が妙に低くてずんぐりしている。
そのわけに気がついたとき、俺は歯がかちかちと鳴り出すのを抑えられなかった。
「嘘だろ。まさか本当に……」
バイクはみるみる近づいて来、俺のいる前で停まる。ライダーはバイクを降りて俺の方へ歩いてきた。やっぱりだ。ライダーの肩の上には何もなかった。頭があるはずの場所には、背後のヘッドライトが見えていた。
首なしライダーだ! 本当にいたんだ。
呪われるのか祟られるのか。もうおしまいだと目を閉じた瞬間、
「やあ」
首なしライダーは、信じられないほど普通の、生身の声でそう言った。
「こんなところで会えるとは思わなかった。SNS見たよ。君、生首の人だろ」
頭がないはずなのにどこから声が出ているのか。おそるおそる目を開けてみる。
しっかり眺めてみると、首なしライダーは厳密には首〝なし〟ではなかった。肩の上二十センチくらいのところに、二つの目玉がきろきろと、まるで薄笑いでも浮かべているような光をたたえて浮かんでいた。
あっ、と俺は声を上げた。
「あんたも……」
「そう」
首なしライダー、もとい透明ライダーは、グローブをはずしてひらひらと振って見せた。もちろん、ライダースジャケットの袖から先には何もなかった。
「一年くらい前からだんだん消えだしてね。もうじき完全に透明になるだろうな」
「やっぱり、なるんですか」
「そうだと思うよ。君はいつから?」
「五か月くらい……」
「じゃあ、まだ少しはかかるね。おっと、こうしちゃいられない」
透明ライダーはそそくさとグローブをはめると、再びバイクにまたがった。
「時間がないんでもう行かせてもらうよ。ここを走れるのもあと少しだから」
ぶるん、とエンジンをふかす。
「君もたいして時間はないよ。SNSでバズるなんてやめて、やりたいことを──」
最後の方はエンジン音にかき消されて聞こえなかった。何かすごく大事なことを言われたような気がしたが、分からなかった。
あれから半年がたった。
透明ライダーの予言したとおり、このひと月あまりで俺の首から上は急に薄くなった。まだ目玉だけはうっすら消え残っているが、もう時間の問題な気がする。
もうじき、完全な透明人間になる。そうしたら映画に出てくる透明人間のように──園田さんとか──
できるわけがなかった。
良心の問題じゃない。俺は気づいていなかったのだ。人間の目は網膜というスクリーンに像を映すことで物を見ている。その網膜が透明になってしまったら、何も見えないのだ。誰からも見られない、誰のことも見ることができない。こんな寂しいことってあるか? のぞきなんて暢気なことを言ってる時じゃない。
と、いうわけで俺は今、猛烈にあのライダーを探している。どんなことでもいいから情報が欲しい。透明人間の俺の、たった一つの望みを叶えるために。
不透明になりたい。
〈了〉