虚無の淵を見下ろす断崖――八杉将司という存在――
宮野由梨香
八杉将司はこのようなことを言った。「ある一瞬を目指して書いている」「過去にただ一度だけあった、あの時に向けて書いている」「あの、何かが見えた、何かがわかった瞬間に迫りたくて、書いている」……そのような意味のことを、彼は私に言った。
言い回しまでは再現できない。とても、もどかしい。メモをとっておくべきだった。
日付や場所ははっきりしている。2013年2月28日、池袋でSFPWの編集に関する会合があった。その後、歩きながら話した。たぶん、私しか聞いていない。会合で彼のこれからの仕事に関することが話題になっていたから、その補足のように私は受け取った。しかし、異様に記憶に残る何かがあった。それが何なのかということを、今、考えている。
八杉将司の作品を読み返せば読み返すほどに感じるのは、独特の切迫感だ。印象批評的な表現で恐縮だが、皮膚に触れてくるヒリヒリするようなものがある。傑作『光を忘れた星で』にしろ、2023年4月に出版された『LOG-WORLD(ログワールド)』にしろ、その感触は奇妙なほど共通している。
内容も、ギリギリのところで虚無と対峙している作家の姿勢を伝えるものだ。しかし、文章の背後から立ち上がってくるものの方が格段に強い。彼の作品の魅力はここにあるのだろう。
ものごごろついた時からずっと、彼の魂は虚無の淵を見下ろす断崖にいたのではないだろうか。生存そのものを呑み込もうとする虚無。それと対峙することを常に強いられてきた。彼の作品は、状況に対する悲鳴であると同時に、自分を守るために必死になって作り上げた拠り所だったのだろう。
何かにつかまらないと虚無に落ちてしまうから、彼は書いた。だから作品世界は常に綿密に構築されている。脆弱な拠り所では支えにならない。
世界の実在性を信じられない。保証なんて、どこにもない。足元から、どんどん虚無が広がり、世界が崩れていく。恐怖に叫び、拠り所を見つけようとする。
大丈夫だ、世界は実在する。目に見えるのだから。
一度は自らを説得するが、「では、見えなかったらどうだ?」という疑問が湧き起こる。視覚が無かったら世界は存在しなくなるのか? いや、そんなことはない。盲者という存在があるではないか。
感覚によって認識されるものが世界だとは限るまい。それでは、世界などあってもなくても同じだということになる。四苦八苦して生きる意味が何もない。
呪われた問いのループが始まる。
感覚とは何なのだろうか? その感覚によって捕らえられた時間や空間とは何なのだろうか? その中で、我々が存在し、生きることの意味とは何なのだろうか?
彼が言った「一瞬」とは、こういった呪われた問いに対する答えがすべて見えた一瞬なのかもしれない。その一瞬を彼の魂は深く心に刻んだ。言葉を構築することで、その一瞬に迫ろうとした。
「ある一瞬を目指して書いている」
「過去にただ一度だけあった、あの時に向けて書いている」
「あの、何かが見えた、何かがわかった瞬間に迫りたくて、書いている」
そのような意味のことを、八杉将司は私に言った。
(文中の敬称は、省略させていただきました。)