「木――トルマリンの」大野典宏

連作:ミネラル・イメージ

「木――トルマリンの」大野典宏

 ヒトシの夢に何かと出てきていたのは真っ黒な木だった。荒野に立つ、真っ黒な木。孤立しながらも、存在が際立っている。
 自分はいつか、その木がある場所に立つ。そんな確信があった。

■彼女のこと
 いろいろと考えたすえ、彼女は大手精神科専門病院勤務の心理士という立場から、「子供支援センター」の職員になった。この組織は以前「子ども相談センター」と呼ばれていたのだが、今ではさらに広く問題を取り扱うようになった。そこで子供支援の専門資格を取り、それなりの経験を積むまでにいたった。
 この施設への転職を決意したのは、先だってこの国で起こった広範囲紛争によって、親や社会から子どもたちが取り残される状況がはっきりと可視化され、路上生活や児童買春での相談が急に増えてきたためだ。被害者たちは児童相談所に行くまでの事態にはなっていないものの、誰かの助けが必要な子どもたちが多い。一時的にシェルターとなる民間や公的な施設は全国に存在するのだが、児童心理の専門家、法律の専門家など、専門職が圧倒的に少ない。今では何もかもが足りていない状態なのだ。
 現在、この国の政策によって公営機関が極端に少なくなり、次々と民営化されている。そうなると、採算が合わないとされる事業は必然的に縮小される。自然と経済的な格差をはじめ、さまざまな分断が起こる。先日、放送されたドキュメンタリーは、国内において政治的観点、人種的観点、性別、年代などの分断が原因となって広範囲で紛争が立て続けに起こっていた際、そういった分断のきっかけになりうるという理由で公開が中止されていた作品だったと話題になった。
 作品中では、心の中の嫌な記憶をメノウに変えてしまったとの証言があった。そこで疑問に感じたのだ。前の職場で親から迫害された記憶を翡翠に変えてしまって納得している女性クライアントと面接したことがあった。まったく信じたくないことだが、症状の連鎖現象とでも言うのだろうか。
 今回の職場でも、同じような事例にでくわすなどとは思ってもいなかった。

■面接
 今日の面接はたいへん難しいだろう。実施にあたり、全ての資料には目を通していた。今回の件は、すぐに警察や司法には委ねられる種類のものでもないが、相手が置かれている生活や精神状態を把握し、時には他の専門家への相談が必要になるだろう。
 面接に使われる部屋は、前の病院で使っていた応接室のような広さもなく、小さな会議用机とパイプ椅子だけが置かれた殺風景な部屋だが、警察の取調室のような圧迫感を与えることがないよう壁紙を明るくし、壁には絵を飾っていた。だが、面接は当然録音・録画されている。危険を感じたときには即座に助けが入って来られるよう、机の下には非常ブザーが貼り付けられている。外部でモニターされている映像では、確認された時には遅いこともあるのだ。
 彼がこの施設に通い始めたのは約半年前のことだ。判明している問題の原因に関しては数々の調査が行われ、おおよその概要がわかった。今回の面接は、少年から事件に関する事の全てをまとめて聞き出すという詰めの作業にあたる。具体的には当事者による自主的な証言である。しかも、全体像が見えるものでなければならない。内容からして、これまで該当者の面接を行ってきた心理士ではないほうがいいので、彼女が担当することになった。
 扉がノックされた。時間だ。職員に案内されて彼が入ってきた。中学一年生の男子。おどおどした態度が気になった。彼女は全体の雰囲気を観察しながら黙って椅子に座るのを待っていた。実際、この部屋が狭いのは、過剰にリラックスさせないためでもあるし、椅子や机を持って暴れられないようにするためでもある。
 相手が着席し、職員が出ていった。挙動が落ち着かないので、気長に待つことにした。過度な緊張を与えないよう、見つめることはしない。聞き取りと情報を補うための質問だけにとどめるのが目的なので、なれ合うとか引きずられるなどということがあってはならない。
 数分後、沈黙が重たくならないうちに話を切り出した。
「ヒトシ君、こう呼んでもいいかな。なんでここにいるのかはわかっていると思う。少なくとも私はヒトシ君が不利にならないように話を聞くだけ。ここで嘘を話されると、関係している人たち全員が困るから、それは約束してくれるかな」
 相手はわずかにうなずいた。
「じゃあ、話に入ります。ヒトシ君、半年以上前のことで申し訳ないんだけど、あなたは重たくて硬い塊が入った布製の靴袋を複数の人相手に学校で振り回し、いくつかの器物を壊した。これってかなり危険な行為だよね。騒ぎになった後、その場から逃走して二日間ほど行方不明になった。そして学校の近くにある畑の肥料置き場で見つかった。これで合ってますか」
 再びわずかにうなずいた。
「今のところ、誰も告訴する気はないというから刑事事件にならないし、これだけだったら穏便に収まると思う。ただ、なぜ品行方正だったという話のヒトシ君がそんな行動をしたのか、きっかけがなんだったのか、ここがわかっていない。今回、まとめて一部始終を話してくれるつもりはあるかな」
 わずかに戸惑うのを彼女は見逃さなかった。
「少し話を変えましょうか。今回の件が衝動的なものではなくて、計画的なものだとされているのは知っているよね。その根拠は、ヒトシ君が退院後の初登校で事件を起こしたこと、しかもそこらに転がっている石を入れたんじゃなくて、母親が持っていた大きなトルマリンを入れていたから。なぜ暴れたのか、なぜトルマリンだったのか、それが知りたくて今日は来てもらったわけ」
 ここで十分以上が経過した。少し助け舟を出してみることにした。
「じゃあ、思い出すのもつらいと思うんだけど、まずは入院のことから話してもらえるかな」
「そこから話さなければいけないんですか」
「負担だとはわかるけど、本人の口から聞くのが大事なんだよね」
 考えあぐねているようだったが、五分ほどしたら、話を始めた。
「あの日の放課後のことです。連中から呼び出されました。もちろん、行かないという選択もありましたが、そんな事をしたら次の朝に連中は全員で『一緒に学校に行こ!』と迎えに来たでしょうね。念のためにトルマリンを入れた靴袋は持っていきました。そうしたら、体育館の用具室に入ったとたんに大勢で取り押さえられて固く巻いてあった体操用のマットに押し込まれていました。それも逆さまの状態でです。マットに無理やり押し込まれたのですから苦しいし、逆さまの状態だったので頭に血が降りてきて意識はボンヤリとしてくるし……。これで終わりなんだと思いました。苦しいし、悔しいし。そうしたら、連中は笑いながら用具室から出て行きました。後は知ったことじゃないとでも考えていたんでしょう」
 彼女は黙って聞き続けることにした。
「これで死んじゃうのかとも思いました。そうしたら、部活で残っていた生徒が体育用具室のマットから足が出ているのを発見したんです。残っていた先生が総出で助け出してくれたそうです。すでに意識はなかったし、呼吸すらも困難な状態だったと聞きました。そこから救急車で病院に運ばれました。その時、ボクが前から気になっていた黒い木の前に立っていたんじゃないかとも考えました。意味不明ですよね。でも、そう確信したんです。たぶん、あの木はこの時をボクに教えてくれていたんじゃないかとも考えています。あの完全な黒は、トルマリンの漆黒さだったのかとも……」
 ここで疑問を感じたので聞いてみることにした。
「ねぇ、今の話に出てきたトルマリンと黒い木って何なのかな。これがわからない」
「母がパワーストーンとかに興味があって、たくさん集めているんです。特にトルマリンはマイナスイオンを発生させるとか、アクセサリーにすると肩こりが治るとかいわれているらしくて。だからアクセサリーではなくて原石が家に何個もあったんです」
「ふーん、とくに意味はなかったわけね」
「そこらの堆積岩よりも大きさの割には重たかったからです。かさばらないけど重いし、母はたくさん持っていたので一個ぐらい持ち出しても気がつかないでしょうし。磨いた水晶球のような高価なものだと気が付かれるので」
「黒い木のほうも聞かせてくれるかな」
「あの……イメージで浮かんでくるんです。荒野に立っている真っ黒な木です。モノクロの曇った空、荒涼とした土地に立っている木なんです。漠然と、いつかそこに行くんだろうと思い込んでしまってるんです。これって妄想ですよね」
「私にはわからない。夢占いとか天啓とか、そんなものは信じていないから追及しても無意味なんだけど、いつ頃からそういう心象風景を持つようになったのかな」
「かなり前です。小学生の頃からです。たぶん、どこかで見た何かを勘違いしているだけだと思うんです。ただ、黒い木の風景だけが残っちゃっているんです。だから、あまり意味はないと思います」
 そこで少し沈黙があった。
「靴袋の中には……普段から石を入れていたんです……。ボクが袋を振り回したのは、精神的なショックと肉体的な衰弱で一週間入院して学校に再登校したときです。その時には何もなかったかのようにヘラヘラしている連中を見て、怒りと悔しさで自分を抑えられなくなっていました。その結果、石の入った靴袋を振り回しました。机や椅子には当たりましたが、誰にも当たらずに済みました。でも、騒ぎが大きくなったので逃げ出しました。これが事の全てです」
 ためらいながら、そして苦しみながらもなんとか絞り出したかのようだった。途切れ途切れながらも話を始めた。
「身を守らなきゃならないと思ったので……相手は大勢だし……体格も大きいし……前は剣道場に通っていたんですけど、引っ越してきたら習える場所がなくなったし……」
 そこで話を切った。
「剣道と何が関係するのかな」
「……箒でも棒でも何でも良いんですけど、どこにでもあるわけじゃないし、学校には剣道部がないから竹刀も持ち歩けないし……せっかく初段を取れるところまで行っていたのに……」
「本当に剣道が好きだったんだ。でも、竹刀と石が入った袋との間には距離があるんじゃないかな」
「物差しで小手を狙うのは簡単ですけど、物差しだと取り出すのが難しいし……」
 黙ってそのまま聞き続けることにした。
「それだけいつも狙われていたんです……気の休まる時がまるでなかったんです」
 やっと背景を知るきっかけができた。もちろん資料を読んで事前に知ってはいた。だが、本人による自主的な供述が重要なのだ。
「気が休まるって、なんのことなのかな」
「いつも誰かの目があったんです……飼っている犬が鎖も首輪もはずされて外に出ちゃった時、なぜかタイミング良く保健所に電話が入って連れて行かれそうになったりとか……」
「どうしてそんなことになったのか、何か心当たりはありますか」
 再び、数分間の沈黙があった。話しにくそうだ。でも、聞かなければならない。じっと待った。
「……たぶん……。先生は気がついていますか。ボクには訛りがないんです。標準語しか話せないんです……」
 きっと本質はそんなところだろう。この年代、自分と他人との違いにだけは特に敏感になる。都会の進学校から地方の公立中学に転校してきた。そんな違いだけで異物として捉えられてしまうのだ。理由もなく目立たない、際立たないことだけが重要な年頃なのだ。目立っていいのは半グレ集団か成績優秀な集団だけだ。そして成績優秀な集団のほうが嫉妬心という動機がある分だけまとまると危険なのだ。資料によると、彼はかなり優秀で、引っ越してきた途端に上位グループ以上の成績を取ってしまっていた。これでは「目立つな」と言われても無理だ。
「学校では品行方正で周りともうまくやっていたとの報告が来ているんだけど、それは全部間違いだったというわけなんだ」
「そう考えてもらっても間違いじゃないと思います。あのへんには有名な私塾があって、そこに通っている成績優秀な特権階級気取りの集団がいて……。でも、ボクは関係ないし、通う気もなかったので」
 なるほど、明らかに異分子だったわけだ。確かに、彼に非はない。だが、それこそが問題なのだ。大人の誰からも見えることのない場所で、見えないかたちで日々、常に異端審問が行われているのだ。
 彼の立場としては、ここで反抗しても回避しても同じ結果を招いたに違いない。それは彼自身もわかっていただろう。だが、他にどんな手段があったのだろう。反抗する、または回避するのどちらを選択しても、なされる行動が加速するのはわかっている。でも、そこに具体的な解決策が存在しない以上、今回の事件は必然であったのかもしれない。周囲にいた大人たちに認識されていなかった以上、加害者側の嗜虐性が増し、忍耐の限度に達するのは時間の問題だっただろう。
 相手の緊張がほどけてきたようだ。
「じゃあ、物差しではなくて、石を入れた袋のほうが便利だった理由はなんなのかな」
「物差しだと強すぎたんです。角で小手を打つのは簡単だったんですが、あまりにも鋭く入っちゃうので、指や手の甲を骨折させるとか、相手を激高させる危険性の方が高いので」
「それは賢い判断ですね。暴力に暴力で対抗しても誰の得にもならないからね」
「だから、巻かれることにしたんです。相手が遊びの感覚でやっている以上、その遊びに付き合ってやろうと……。でも、そんな事ってすぐに限界が来るんだとはわかっていました……」
「何をわかっていたのかな」
「肉体的・心理的な暴力を受けることをボク自身が許していて、遊びの一つとして受け入れているんだと勘違いさせてしまって……」
「そこで親や先生に相談しなかったのはなぜなのかな」
「……」
「わかった。今は聞かない。嘱託で来てもらっている法律の先生に話を聞いたけど、これって事件にできるんじゃないかって意見はもらっているよ」
「……石が入った袋を振り回したのって犯罪なんですか……」
「話はそっちじゃない。見えない世界で起きていた見えない暴力のほう」
「なんの話をしているんですか」
「いつかは話さなきゃいけないから言っておくけど、これって殺人未遂の可能性があるって」
「ええっと、どの話ですか。袋を振り回したことですか。高い鉄塔に登らされて、そこで立った話ですか」
「それは殺意の立証が極めて難しいって話だった」
「だったら、何の話ですか」
「他にも何かがあったのなら言ってみて」
「上半身裸にされたうえに壁に押しつけてボクを的にしてみんなが画鋲を投げていたとか……ボクの席に釘や針がたくさん刺さった紙人形が置かれていたとか……」
「確かにそれってずいぶん酷い話ではあるけど、暴行事件だと決めるのは私の権限じゃないから答えられない」
 彼はそこで深い溜め息をついた。
「結局は定義がどうとか、状況を総合的に判断するとか、そういう話に持ち込まれちゃうんですね……」
「そのへん、さすがに聡明だね。ここに初めて来た時に知能テストを受けてもらったけど、信じられない数値だったんだよね」
 そこまで話すと、次は彼の言語能力からすれば理解できるはずだと信じて切り出してみることにした。
「ところで、マルクスって思想家を知っているかな。マルクス・アウレリウスではなくて、カール・マルクスのほう」
「名前だけは……」
「えっと、ちょっと待ってね」
 彼女は資料を入れた携帯端末を取り出し、そこからかなり昔に読んだ本のデータを開いた。
「ちょっと読んでみるね。

 『人間が人間として存在し、人間と世界との関係が人間的な関係である、という前提に立てば、愛は愛としか交換できないし、信頼は信頼としか交換できない』(*1)

 この断片の意味を考えてみて。一般的に、与えるものと得るものは同種類で等価でないとつり合わないというわけ。そうでなきゃ不公平だよね。だから友情と暴力がつり合うわけはないし、命を奪うのであれば命を差し出さなければ釣り合わないなんて話にはならないよね。そんなの普通じゃないから。だから、交換とはいっても限界があるんだよね。でも現実的には人は大した理由もなく死んじゃうし、殺される。お金だけじゃなくて、心の貧しさでさえ死につながる。孤立や絶望は人の心を殺すし、逆に一瞬の楽しみで人を殺しちゃうことだってあるわけ。生きることと死ぬことは切り離せない裏表なんだしね。それはさておき、入院の後でヒトシ君が何を思ったのかって話をしてくれるかな。私がずっと聞きたいと思っていたのは、マットの話と退院した後の話なんだよ」
「……」
 一般に、最も恐怖を感じ、そして嫌だった記憶を蘇らせるのは困難を極める。心の中で必死に自分を守ろうとするためだ。本件の場合、解離性パーソナリティ障害のような傾向は見られないとの所見を医師から聞いているのだが、心理的に再侵入、つまりフラッシュバックや過覚醒をしないよう強い回避が行われている。
「ヒトシ君、人って信じたい事だけを信じようとして、勝手に自分の記憶を書き換えちゃうって話は知っていますか。この間、ネットで変わった創作を見つけたんだけど、その話をするね。それって親に迫害された結果、片目に変な物が見えるって悩んで、家出をしたあげくに目をくり抜いちゃうって話だった。おかしいよね。そんなことって起こるはずがないよね。でも、そうやって心の中で記憶を改ざんしちゃうことだって時と場合によってはありうる話なんだよね。でも、その場合には本人に本当の事を話すべきなのか、信じたい事を信じさせてあげるべきなのか、正解は私にもわからないし、誰にもわかんないよね。ヒトシ君だったらどちらが良いと思うかな」
 これはハッタリだ。そんな創作はないし、守秘義務の範囲ギリギリで自分の手持ちの札を明かしてみたのだ。
「現実離れしている話を信じるって、逆に難しいんじゃないかと……。でも、害のない何かを作って全てをそのせいにできるのであれば、それはそれで良いのかもしれません。実はボクにもそんな部分があるんです。でも、ボクにとっての黒い木が目をふさぐようなことはないと思うし。だから現実には何の影響もありません」
「やっぱり分析力が凄いね。実際、騒ぎを起こしてから半年以上も学校に行っていないのに、家で勉強して学校の別室で試験を受けて上位に入り続けているわけだし」
「あいつらと同じ空気を吸うだけでも嫌なんですけどね。でも、これはフェアにやらないと」
「そういう正義感は立派だと思うけどな」
「正義……ですか……。あんまりしっくり来ませんね」
「正義って言っても、アニメや映画に出てくるヒーローがやっているようなことじゃないよ。ジャスティスって、正義という意味の他にも公正とか公平って意味があるんだよね。ヒトシ君はあくまでも、公平な立場で試験を受けているよね。ちなみに、テストって試験という意味のほかにも試練って訳されることもあるって知ってたかな」
「それは知りませんでした」
「つまり、同じ条件で、同じ立場で推し量られているほうを選んでいるんだよ」
「それってどういう意味ですか」
「違う尺度で評価されることよりも、同じ尺度で測られる方を選んでいるってこと。つまり条件をフェアにしたいと自分から望んでいるんだって考えてみて。集団を前にして、一人で立ち向かおうとした君の勇気がすごいと私は考えているわけ。でも、その方法が間違っていたとも思っている」
「でも、この場合に正解はあるんですか」
「残念だけどないよ。ヒトシ君の置かれた環境ではフェアなんていう概念は通じなかったと思う。だから、命の危険にまでさらされて、我慢できなくなったという点は問題にならないとは思う。今回の場合、マットに押し込んだ側のほうが処罰されることになると思うよ。司法にもそれくらいの公正さは残っているはずだから」

■私的記録
 本人の告白による記録を入手した後、顧問の法律家によって加害者たちは即座に告発された。事件は公表され、全国で報道されることになった。
 そこで話題にされたのは、子供たちの見えない世界に存在する理不尽で幼稚なルール、そして暴力を娯楽化してしまう残忍さ、自分から遊びでマットに潜り込んだと証言する異様な態度、半ば気がついていながらも加害した側が優等生集団なので強く指導しなかった教師たちの無責任さだった。
 彼が面接中にたびたび言っていた「黒い木」という言葉だが、その答えは後に訪問した彼の自宅で見つかった。
 彼の父親は「レ・ミゼラブル」で知られる小説家ヴィクトル・ユゴーの大ファンで、コレクターでもあった。入手できる限りの訳本、フランス語の原書が揃っているばかりでなく、ユゴーが趣味で描いていたという絵画の画集まであった。
 そのユゴーが描いた絵の中でヒトシ君が幼い頃、ずっと見入っていた絵があるというので見せてもらった。その「3本の木のある風景」という題名のペン画を見て戦慄した。これだったんだ……。

 たしかに、彼が置かれていた立場は「ミゼラブル」でしかなかったのだが……。でも、全てがその一点で繋がったようにも感じた。
 ただ、なぜ扱っている案件の中にたびたび鉱物が出てくるのか、それはわからない。かつて読んだ詩の後に書かれたこんな一節を思い出した。

 「私の心が 石のようにしっかりしてくれているといい」(*2)

 壊れかけた、または壊れそうになった心を正常に保つために石にする……。そんなことがはたして……。

*1 カール・マルクス、「経済学・哲学草稿」、長谷川宏訳、光文社古典新訳文庫。

*2 ライナー・マリア・リルケ、【復刻版】片山敏彦の「リルケ詩集」、響林社文庫。

(了)

●参考文献
朝日新聞山形支局、「マット死事件 見えない“いじめ”の構図」、太郎次郎社、一九九四年十月三十日。

※本稿の完成にあたり、宮野由梨香さんに多大なるご協力をいただきました。この場で感謝を申し上げます。