一、ふきぬけの空
夏の朝、公園でのラジオ体操を終えて、タカシは家に帰るところだった。まだ七時前なので住宅街は静かだ。角の家ではサルスベリの木がピンクの花を咲かせている。生け垣の上にはクロアゲハが飛び、細長い空の向こうでは入道雲が育っていた。
今日はついてる。さっきはユキオに、新しいゲームを買ってもらったから朝ご飯を食べたらすぐ来いよと言われた。ちらりと宿題のことを思い出したけど、そんなのは明日でいい。夏休みはまだ、始まったばかりだ。
イヤッホー。
こぶしをつくって右腕を突き上げる。
空にパンチだ。青色の向こうへ突き抜けろ。
あれ?
頭の中に何かの考えがよぎったが、それが何なのか、よく分からなかった。分からないまま、その何かを頭から落とさないように、背筋を伸ばして、まっすぐ腕を振るロボット歩きで家までたどりつき、ドアを開けて、外より暗い玄関へ入ったところで思いついた。
そうだ、これはあれだ。こないだ、お父さんに教えてもらったんだった。
夏休み最初の土曜日、お父さんはリビングで片腕を枕にして、涅槃像(ねはんぞう)のように横たわっていた。その脇腹にまたがって、タカシが「どっか行こう。連れてってよう」と飛び跳ねると、お父さんはいきなり動き出してタカシを振り落とした。
「自由研究、何をやるかは決めたのか」
「そんなの、まだだよ」
「自由研究だけは休みの前半で、さっさと片付けといてくれよ。去年で懲りただろう」
そう言って、お父さんはタカシの本棚から子ども図鑑をひっぱり出した。
「セミの抜け殻調査はどうだ? それとも、星座の移り変わりを一ヶ月、追いかけてみるか。毎晩、天体観測なんて、タカシには絶対、無理だよなあ」
夏の大三角形と呼ばれる、はくちょう座、こと座、わし座が描かれたページをめくると、次のページには地表から宇宙への距離を説明する図があった。
「富士山の高さは三千七百七十六メートル、飛行機が飛んでいる高度は八千メートルから一万二千メートルくらい。成層圏は十キロから五十キロで、ここには雨雲もないらしい。その上は中間圏で、地表からは八十キロも離れてるな」
「その先は?」
「もうずうっと宇宙だ」
翌日の日曜日、お母さんが朝刊のチラシで、戦隊ヒーローの無料イベントをみつけてくれた。場所は住宅展示場、電車で二駅先だ。
「タカシはもう二年生だろ。そろそろ、戦隊ショーも卒業じゃないのか」
お父さんが言った。
「まあ、いいじゃない。ラストショー、最後の見納めってことで」
勝手に最後って決めつけないでよと思ったけれど、実際にショーが始まってみると、たしかに今までほど面白くなかった。周りは小さい子ばかりで、ヒーローたちも暑さに参っているのか動きが鈍くてダサい感じだ。おざなりに拍手して冴えない気分で立ち上がると、お父さんが「ほらな」と言った。「だから言ったんだ」
「決め技のビームはかっこよかったよ」
「そうかあ?」
喧嘩が始まりそうなところで、お母さんが「せっかくだから、モデルハウスも覗いていきましょ」と言い出した。「社宅住まいの転勤族が、家なんか見たってしょうがないだろ」と渋るお父さんを置いて、お母さんはずんずんアプローチを進んでいき、玄関の前で振り返って「早く」と急かした。
にこやかな営業マンにドアを開けてもらって、三人でなかに入った。
「うわ」と声が出たのは天井がすごく高かったからだ。
首が痛くなるくらい上のほうに、満月みたいに白くてまんまるなライトが三つぶらさがっていた。右側の壁には細長いガラスが嵌(は)め込まれていて、そこから外の光が差し込んでくるから、すごく明るい。左側には木製の手すりがついていた。手すりの奥には二階の部屋のドアが見える。
「素敵ねえ」
お母さんはうっとりしていた。
「吹き抜けかあ。光熱費がかかるだろうなあ」とお父さんは言った。
「ふきぬけ?」
「この家は二階建てだ。ふつうなら玄関にも一階の天井があるのに、いきなり二階が見えちゃってるだろ。こういうつくりのことを、吹き抜けっていうんだ」
そうだ、「ふきぬけ」だ。
つまり、空って「ふきぬけ」なんだ。
ビビビビビと体に電気が走って、タカシは玄関から外へ飛び出した。
向かいの家との間の道路、青い帯のような空の下に、まっすぐ立つ。
容赦ない陽光とアスファルトからの照り返しに耐えて、気をつけ、する。
天井みたいに見えたって、空の青さは見せかけなんだ。
頭の上、つむじのあるあたりの上、そこから上は、どこまで行ってもずうっと「ふきぬけ」だ。頭の上には空気が富士山の高さまで載っていて、だんだん薄くなって真空になったら、その先はずうっと宇宙だ。
タカシは五本の指をそろえて両手をあげた。
「ビーム光線、発射」
怪獣をやっつけられる強い光だ。
白い光は、空を越え、成層圏を抜け、中間圏を貫いて、宇宙の果てまで昇っていく。
「お父さん、お母さん、ちょっと見に来てよ」
玄関の床に手をついて叫んだけど「お父さんはお休みじゃないのよ。タカシも早くこっちへ来て、ご飯を食べてちょうだい」と言われて、タカシは仕方なく食卓に着いた。
「お母さん、すごいんだ。あのさ、空ってふきぬけなんだよ。知ってた?」
「へえ、そうなの。すごいわね」
「お父さん、ふきぬけって言ってたでしょ、地球があって、宇宙があってさ」
「帰ってきたら聞いてやるよ」
「きっとだよ。約束ね。大事なんだから」
お父さんはうなずいて、会社へ出かける。
タカシはもう喋らない。
別の話をしたら、お父さんが帰ってくるまでに、せっかくの発見を忘れてしまう。
黙ったまま、かりかりに焼いたベーコンをのせたトーストにかぶりつき、牛乳で流し込んだところで、ユキオんちに行くつもりだったことを思い出した。ぬぬわ
二、星明かりの森
森の窪地に火をおこす。周囲の闇を意識しながら、炎が大きくなるのを見守った。白い煙が木々の暗い枝が囲む空間へ昇っていく。高みの空は夕日の名残で明るいが、立ち上った煙の先には一番星が現れていた。今晩は月が昇るのが遅い。じきに、この窪地も闇に塗り込められるだろう。
「やあ、良い場所をみつけられましたな」
森の暗がりから大枝の下をくぐって、男が窪地に出てきた。
「一夜をご一緒させていただければ幸い」
抱えていた枯れ枝を脇に置いて、男は火のそばに座った。
顎(あご)ひげこそ白いが、体の動きはきびきびしている。わたしの父親の世代より、十ほどは若いだろう。腰の短刀、革長靴、身につけているものはすべて実用本位、森を渡るのに必要十分なものばかりだ。
どこといって不審な点はないのに、わたしが常になく気持ちを引き締めたのは、焚き火を宿した、その瞳が明るいせいだった。この森林地帯を一人で横切ろうとする熟練の旅人が、日没後に見知らぬ人間と出くわして、これほど人なつこい表情を見せることはめったにない。追い剥ぎも魔鬼も恐れずにいられるのは、よほど楽天家の若者か、命知らずの馬鹿者かの、どちらかだ。
「ご心配には及びません。怪しい者ではありませんからな」
そう言いながら、自分が何者か名乗ることをしない。代わりに背袋から燻製肉の塊を取り出して薄切りにして火で炙(あぶ)り、一切れをわたしによこした。
「お近づきのしるしに、どうです」
わたしは男が自分でも肉にかぶりつくのを確認してから、炙り肉に食らいついた。ここしばらく巡り合わせが悪く、干からびたパンしか口にしていなかったから、塩味のきいた肉のうまみが身にしみた。
わたしは革袋を差し出した。男は疑いもせず口をつけた。
「これはこれは。けっこうなお味ですな」
手の甲で髭についた酒をぬぐう。
「お礼に、人相見をして進ぜようか」
ますます男の正体が分からなくなる。男の風貌は実利実益を追求してきた者が培ったものだ。占いのように雲を掴むような術を生業をする者には見えない。
「なに、素人の趣味でしてな。たいして当たりませんから、警戒されるには及びません。眠りにつくまでの暇つぶしとお考えあれ。さてさて、お顔をよく見せていただいて」
やめろ、と怒鳴りつけたかったが、過剰反応で怪しまれても困るので耐えた。
この男はすでに薬酒を飲んだのだ。所詮は薬が効いてくるまでの時間つぶし。わたしの顔に、この男が何を見てとろうが、わたしが恐れることはない。
「そうですな。あなたは狩人だ。獲物を待ち受けて素早く狩る」
言い当てられた? いや、考えすぎだ。
動揺を表さないように努めながら「森を渡る者は皆、狩人でもあるだろう」と答えた。
「これは一本とられました。本職の狩人なら、弓矢をお持ちのはず。それとも、今どきは鉄砲でしょうか。しかし、あなたは長剣と短刀しかお持ちでない。すると、あなたは商人ですかな。急ぎの商談のために森に入られた」
たしかに、わたしはひととき商人だった。上流の奥方たちに不老水を売って大もうけした。詐欺師と罵(ののし)る者もいたが、なに、あの女たちは全員、承知のうえで欺されたのだ。わたしの若さを手に入れるために。
「ほう、当たらずとも遠からず、といったところですか。実はわたくしもこう見えて、商いをしております」
男は背袋から、表面に無数の穴が空いた石を取り出して、わたしに見せた。
「どのように汚れた水でも、こちらの石を入れれば、たちまち飲めるようになります。旅をする者なら持っておくべきですぞ。お一つ、いかがかな」
「それを、どうやって証明する?」
「はあ、証明してほしいですか。汚れた水があれば実証してみせますが」
「そのために、手持ちの水を汚すのは気が進まないな」
「わざわざ汚すには及びませぬよ。わたくしも今ここで、泥水や鹿の糞の入った水を飲みたくはございませんのでなあ」
男は笑った。屈託のない笑いだった。
この森は港街と内陸の諸都市の間に広がっている。無法者の巣であり、魔鬼が出没するとも言われているため、たいていの旅人はこの森林地帯を避ける。この森を横切るのは、よほど急いでいるか、貧乏人か、それとも関所を通ることのできない無法者、そうした訳ありの者だけだ。
男は枝をへし折って火にくべた。
木々の枝に縁取られた空はすっかり暗くなり、風で広がった煙の隙間に、輝き始めた星々が見えた。
「あの星々のことは、どれぐらい、ご存じですか」
「さあ、知らない」
食べられもしない星のことなど興味がないのが、ほとんどの人間だろう。
いや、そういえば一人いた。不老水の商売に巻き込んだ金持ちの御曹司は詩だの絵だのに夢中で、あるとき下手くそな自作の詩を読み上げたので聞いてやったが、その詩が星空をうたった詩だった。
「同じように夜を過ごした学者によれば、我らの暮らすこの地上も、ああした星の一つだそうです。はっはっ、信じられますかな。この広い大地が、どうしたら、あんな小さな光の粒になれますか。ですが、仮にその学者の話を信じるとするならば、あのたくさんの星もみな、こちらと同じく、広い土地を持つことになりますな。星のすべてに地面があり、そこに森があるのなら、その森の窪地で、我々に似た者が酒を飲み、肉をくらって、星を見上げながら語り合っていても、おかしくはないわけです」
森に入り込むような学者の話など信じられるか。昼間ならそう切り捨てただろうが、森の闇に囲まれながら炎に向かっていると、そうした与太話も信じられるような気がした。
にこにこと機嫌よく笑いながら、男はわたしをみつめていた。その男の顔を炎が照らし出す。
「さて、それで、何を占いましょうかな」
「もう占ってもらったと思っていたが」
「人相見とは職業をあてるものではありませんぞ。人相から読み解いたあなたの本質を、いま迷っていることの参照とするために提示する、それが本来の人相見というもの」
この男、薬の効きが遅い体質のようだ。時間稼ぎのための長話ができるのは、むしろ、こちらにとってありがたい。
何を占ってもらうか、わたしはしばらく考えた。逃がした時のため、手がかりは渡さないほうがいい。といって、まったくのつくり話では、この男には通用しないかもしれない。
「そろそろ、旅ばかりの今の暮らしから足を洗おうと思っている。港街か森外れの村か、どちらかに居着きたいんだが、どちらにすべきか迷うところだ」
「ほう? どちらでも暮らしが成り立つのですかな」
「港街には古い友人がいる。海をまたいで手広く商売をしているらしい。わたしが顔を出せば、何か手伝わせてもらえるだろう」
「それなら、明日にでも港街へ発ったらいいのでは?」
「それがそうもいかない」
生まれたのは小さな漁村だ。父親が漁で死に、母親の男と折り合いが悪くて家出して、近くの港街へ逃げた。大きな船が着くのを待ち構え、船客の荷物をひっつかんで宿へ案内した。乞われれば飲み屋にも女郎屋にも連れて行った。少しずつ金を貯め、衣服を替え、話し方と物腰を変えた。とんまな金持ちの御曹司に近づいて金を出させ、女どもを欺して、さらに金を儲けた
金持ちの御曹司に「友よ」と言われるのは、いい気分だった。時々は奴を仲間だと思うこともあった。いずれは奴の父親のように屋敷をかまえ、雨の降る夜は暖炉の前で過ごしたいと思っていた。
しかし、ある夜、呼ばれた女の家に行ってみると、女が殺されていた。手を血まみれにした御曹司に「おまえが悪い。おまえが殺したようなものだ。この僕に人が殺せるはずがない。そうとも、おまえが殺したんだ」とわめかれて森へ逃げた。
「なぜですかな」
一瞬、男に何を問われたのかが分からなかった。過去の記憶に入り込みすぎたせいだ。
わたしは男の顔を見返した。男は顎ひげだけでなく、眉も白く長かった。その眉の下には、子どものように輝く瞳があった。詐欺師のくせに、よくも、こんなに無邪気な顔ができるものだ。謎かけの答えを待つ子どものように辛抱強く、わたしの答えを待っている。
自分がついた嘘の筋道をたどり直して、なんとか話を続けることができた。
「港街に居着いてしまったら、村へ行く機会がなくなってしまうからさ。村には好きな女がいるんだ。真面目に畑仕事をするなら、一緒になってやると言っている」
村に女がいたのは本当だった。
行き倒れていたところを助けられ、求愛されて、ほだされた。港街で知り合った、白くまばゆい女たちの裸体とは根本的に違う、痩せこけて貧相な女だったが、このわたしにはこの女が似合いだと思った。
野宿続きの生活に疲れてもいた。毎晩、同じ屋根で寝られるのなら、毎日、畑を耕すだけの人生も悪くはないように思えた。だが、すぐには決心がつかなかった。森での生活に戻ってから思い直して、ふたたび村へ訪れた時には女が死んでいた。
高熱で寝込んだ後は、三日ともたなかったという。
「港街へ行けばいい。殺しをばらされるのを恐れる知り合いが良い仕事を世話してくれるだろう。村へ行くのもよいだろう。死んだ女の妹が待っている」
心のうちを見透かされた驚きのあまり、わたしがとりつくろうこともできずにいるうちに、顎ひげの男はたたみかけた。
「あの星空を見るがいい。あのたくさんの星のそれぞれに、おまえとわしがいるのなら、おまえが選ぶことのできる道もまた、無数にあると知れるだろう」
男が片腕をあげて指さした先を、わたしは見た。
輝いている。瞬いている。
もし、あの光の一粒でも地上にあったなら、女という女が自分の指に、あるいは自分の胸の谷間に飾りたがるだろう。世の権力者が血みどろの争奪戦を繰り広げるだろう。
だが、天に輝くのは一つではない。無数の光だ。
なんと、すさまじい贅沢の極み。
視界の限りに、王冠の中央を飾ってしかるべき宝玉の数々がぶちまけられている。
底知れぬ闇に横たわる天上の光の河よ。幾千万もの光の飛沫よ。
誰に見られんがため、おまえたちはそれほどに輝くのか。
これほど長く星空を見上げたのはいつぶりだろう。まだ子どもの頃、父が生きていて、母もわたしに優しく、毎日、浜辺を走り回って遊んでいた頃のことか。
父と母は朝夕に小さな神像へ手を合わせていたが、少し生意気になったわたしは、それを馬鹿げていると思っていた。
薄汚い木切れを拝んで何になる? 拝みたいなら、この星空を拝めばいい。
どこへでも行ける。何にでもなれる。この世のものはみな、あの星の下にあるのだから。
ずっと昔に忘れていた思いが、ふつふつと湧いてきた。
この気持ちを思い出させてくれた男には感謝すべきだろう。このまま薬が効かなかったら、見逃してやってもいいかもしれない。
それで、その後は? まさか、港街へ行ってみるか? それとも、村へ向かう気か? そんなことを自問しながら、視線を下ろした。
炎の向こうには化け物がいた。
ざんばら髪で、原型をとどめぬ布の残骸を巻き付けていた。破れた布から棒くいのように堅い骨が突き出ている。魔鬼だ。
これまで、わたしは魔鬼の存在を信じていなかった。森で長く暮らして一度も出くわしたことがない。わたしのような夜盗強盗に遭って生き延び、錯乱した誰かが言いふらした世迷い言だろうと思っていた。だが、今、わたしの目の前にいるのは、まさしく魔鬼と言うほかない化け物だった。何から何まで先ほどまでとは違っているのに、両眼だけがさっきと同じく、明るく輝いているのが不気味だ。
「やれやれ、ようやく食べごろだ。身も心もすっかり柔らかくなったぞ」
笑顔のまま、魔鬼は蛙のように跳ねた。
高く跳躍して炎を越え、わたしを突き倒して、わたしの胸に座りこむ。
「よかったな。死ぬ前に、わしに会えて本当によかったな。どうだ、先があると思えて嬉しかっただろう? その気持ち、無駄にはならんぞ。おまえはおいしく食べられて、わしのなかで生きるのだ」
首を突き出し、長い舌でわたしの顔を嘗めてきた。
左手でその舌を掴み、右手で殴りつけた。突き出した腹を蹴り上げる。
仰向けになった魔鬼は頭だけ起こして、にたにた笑っていた。長剣で腹を刺そうとしたが、右に転がってかわされた。剣を右にずらして、もう一度、突き通そうとしたところで、右手首に激痛が走った。
森のなかでは叫べない。魔鬼を前にして目を瞑(つむ)ることもできない。懸命に見開いた目の前を、炎よりも明るい白い光が幾筋も空へ昇っていくのが見えたような気がしたが、あまりに一瞬のことで、何が起きたのかは分からなかった。右手首を押さえながら、取り落とした剣を拾わなければと焦った。魔鬼が飛びかかってくる前に、早く。
しかし、いつまでたっても魔鬼は襲ってこなかった。横になったままでいる。
剣を左手で引きずりながら炎の反対側に回り込んで様子をうかがったが、やはり変化がない。とどめを刺すため短刀を握りしめて近寄り、首元へかがみ込んで、その骨っぽい胸に、穴が幾つも空いているのに気がついた。横一列に並んだ穴は、左に五つ、右に四つあった。わたしは自分の右手首を見た。やはり、同じような穴が一つ空いている。
手首を炎にかざしてみると、その小指の先で突いたような小さな穴を通して火の粉を見ることができた。しかも、あれほどの痛みがおさまっている。
わたしは魔鬼の死骸のそばで、呆然と立ち尽くした。
月はまだ昇ってこない。
底知れぬ闇に横たわる天上の光の河よ。幾千万もの光の飛沫よ。
みつめているのはわたしか、それとも、おまえたちなのか。
三、浴室にて
熱くもない、ぬるくもない。よい湯加減だ。
肩まで浸かると、あああと声が出る。ちょっとオヤジくさいな。
この一ヶ月、ずっと心を占めていた商談がようやく終わった。鼻唄でも歌いたい気分だが、曇りガラスの向こうは隣の社宅の壁だ。窓が少し開けてあるから、丸聞こえになるだろう。窓を閉めようとして、隣家との境の空に星をみつけた。
明るい。金星だろうか。
そういえば、死んだ親父は「勉強した後には星を見るようにしろ」と口癖のように言っていた。「目が悪くならないようにな、海軍では毎晩、星を見てたんだぞ」というんだが、親父が軍隊に行っていたはずがないし、いったい、いつの時代の、どこの国の海軍の話だろう。
「お父さんに、頭をよく洗ってもらいなさいよ」
妻の声に送り出されて、タカシが裸で飛び込んできた。
すぐ浴槽に入ってこようとするのを止めて、シャワーの下に頭を下げさせる。ぶるぶると頭を振ってお湯を撒き散らすのへ「やめろ」と怒鳴り、「目が痛い」と逃げ回るのを押さえつけて、手早くシャンプーをなすりつける。
ようやく浴槽へ入ってからも、タカシは手を組んで水鉄砲をつくり、湯を飛ばしてきた。
「おい、顔を狙うのはやめろ」
やめろと言えば言うほど、ゲラゲラ笑って繰り返す。
ああ、くそ、ゆっくり風呂も入れやしない。
「お父さん、数を数えてよ」
タカシは鼻をつまんで顔を湯につけた。
「一、二、三、四、五、」
数を数えてやっている間に、大事なことを思い出した。
「六、七、八、」
タカシは「くう、じゅう」と言いながら湯から顔を上げ、前髪を垂らし、大口を開け、両手で鉤爪をつくって襲ってきた。
脇腹をくすぐって逆襲し、笑いやむのを待ってから訊いてみた。
「それで、おまえ、朝の話は何だったんだ。大事だって言ってただろう」
「そんなこと言ったっけ? 知らない。忘れちゃった」
せっかく思い出してやったのに、子どもなんて、こんなもんだよな。
やれやれと思いながら、閉め忘れていた窓を閉め、風呂から上がった。